なんで、ふたりはそんな風にしていたのか?
話は10分ほど前にさかのぼる。



柔らかくて、温かい・・・まるで抱き枕を抱えている様な感触を覚えながら、竜児は夢見心地の世界を漂っていた。
・・・何だろう?これ?
・・・ひどく、手触りが良い。
・・・温かくて、それでいて柔らかい。
・・・ん?
・・・何だ、この引っ掛かりは?
竜児がもぞもぞと手を動かすとやがて小さなパチンと言う音が響いた。


頑丈そうな竜児の胸に顔を埋め、最高級の枕にでも頭を乗せているかの様な心地良さを大河は味わっていた。
大河の後ろへ回された竜児の手が、大河の背中を撫でるようにゆっくり動く。
・・・何か、竜児の手・・・くすぐったい。
・・・ふふ、もっとこうしていたいな。
・・・ん?
・・・え?
・・・ちょ・・・ちょっと、竜児、そこは!

「ふにゃあ〜」
しっぽを踏まれた猫のみたいな声を上げた大河は竜児の胸を両手で突いて跳ね起きた。
そのまま勢い余って尻餅をついた姿勢であとずさる大河。
そして驚愕の表情を浮かべて竜児が起き上がるのを眺める。
「・・・痛え・・・何しやがる・・・」
さっき打ち付けた後頭部と、たった今、大河が突いた胸を押さえながら竜児は半覚醒のまま大河に向き合う。
その大河は竜児を前にして口を半開きにするものの「あうあう」いった調子で意味のある言葉が出て来ていない。
やがて軽度の脳震盪から抜け出した竜児は大河の様子がおかしい事にすぐ気がついた。
「大河?どうしたんだよ?」
問われた大河は両手で自分の肩を抱きかかえてまっすぐ竜児を見ていた。

「り、竜児こそ・・・どういうつもりよ?」
ようやく言語中枢を回復させた大河は言葉を発する。
「どういうつもりって・・・」
そう言い返し掛けて、竜児は自分がのびてしまう前に起きたハプニングを思い出す。
「あ、あれは大河が・・・」
柔らかな感触がわずかに竜児の手に残っている。
事故とはいえとんでもないことしてしまったと、今さらながら竜児は青くなる思いだった。
さぞかし怒っているんだろうなと改めて大河を見る竜児だが、どうもそうじゃないというのが見えて来る。
大河は訳の分からないことを言っていた。
「・・・その、竜児が・・・そういうつもりなら・・・応えるのはやぶさかじゃないわ・・・でも、心の準備とか・・・わかるでしょ?」
何のことやらさっぱりと竜児は思うのだが、そんな竜児の戸惑いを無視して大河は続ける。



「それに順番だって・・・まだ、あれも交わしてないのに・・・いきなりじゃ・・・私だって・・・嫌」
うつむいて顔を赤らめ、指先で畳をぐりぐりとほじり始める大河。
そんな大河にいつもと違った新鮮さを見出し、竜児はちょっとばかり見とれる想いがしたが、大河の話に割って入ることを忘れない。

「ちょ、ちょっと待て、大河」
「何?竜児」
「何のことだ?・・・話が見えてこねえ」
「わ、私にあんなことしといて・・・とぼけるつもり?」
「そりゃ、さっきのは悪かったけどよ」
わざとじゃないんだと竜児は弁解に努める。
「・・・あんた、覚えてないの?」
やれやれといった感じで大河は竜児がもうろうとしていた間のことを説明してやった。
「竜児はね・・・私をこうやって腕の中に・・・」
途切れ途切れな大河の話を聞き、竜児は驚くばかりだった。
・・・あの柔らかい感触は・・・うわ・・・大河だったのか。
無意識とはいえ身に覚えのある竜児は己のした所業に顔から火が出るような思いを味わう。
それでも次の大河の台詞を聞くまではかろうじて冷静でいられた。
「・・・で、あんたはこんなことをしてくれたの・・・」
そういい終えた大河は最後まで押さえていた肩の辺りから手を放した。
服の上からだったが竜児の目にもはっきりとそれは伝わった・・・大河の胸元で何かがずれたのを。
「大河、それって・・・」
「そうよ、あんたが・・・竜児が外したの!・・・ブラのホック」
言い終えた大河は真っ赤になってうつむく。
天地が引っ繰り返るほどの衝撃・・・と言うのは大げさだが竜児は頭上にたらいの一撃を受けた気がした。
そしてようやくさっき大河が言っていた意味不明な言葉が理解できた。
濡れ衣じゃないだけに竜児は返答に詰まる。


「謝んねえ・・・だけど、大河を驚かせたことは謝る」
「矛盾してるじゃない」
「意識してやったことじゃない・・・でも、そんなことしかねない下地はあったんだ」
そんなことを言いながら竜児はさっき風呂上りの大河の姿を見てときめいてしまった自分の心情を吐露する。
「どきっとしちまった・・・大河がこう・・・何ともいえないくらい・・・かわいらしくて」
語尾はごにょごにょとした竜児だったが大河にはしっかり伝わった。
「え?・・・嘘?」
「嘘じゃねえ・・・大河はかわいい、間違いない!」
思わず力強く言い切る竜児に大河は大きく目を見開く。
数秒間、まじまじと竜児の顔を見つめた大河は目線を下へ逸らすと「ありがと」とつぶいやいた。

「竜児が・・・そんなことする奴じゃないって・・・分かってるつもりだったんだけど、びっくりしちゃって」
大河は竜児の胸を思いっきり突いたことを詫びた。
「俺こそ・・・その・・・なんだ・・・半分無意識とはいえ、大河にあんなことしちまって」
心の底から謝る竜児に大河は笑みを返す。
「いいよ竜児、もう謝らなくて」
竜児の気持ち、伝わったからと大河は体を前のめりにして竜児に近付いた。
そんな大河へ竜児はひどく真面目な顔で言い出す。

「約束する」
「約束?」
「ああ、・・・いつか・・・もしもだけど・・・俺がそんな気になったとしても・・・大河の気持ちを無視したりしねえ」
真剣すぎる竜児に大河は少し嬉しくなる。
「竜児、あんた、先走りすぎ」
笑いながら大河は竜児の鼻先へ顔を近づける。
気持ちを打ち明けあった訳でもないのに、お互い妙な会話をしていると竜児も大河も思ったのだが、不思議とそれが嫌じゃなかった。
間近で見詰め合い、お互いの瞳を覗き込む竜児と大河。
大河の瞳は竜児を映し、竜児の瞳は大河を映す。
言葉以上の物を探して、しばらくの間ふたりはそうしていた。



「そうだ、竜児」
思い出したように大河は言う。
「何だ?」
「あっち向いてて」
自分の座っている位置とは反対方向を指す大河。
「いいけどよ、何でだ?」
「見たいの?竜児」
そう言われて大河の胸元を見た竜児は黙って後ろ向きになる。
「ちょっと待ってて・・・・・ん・・・あれ・・・あ、もう」
ホックが外れてずれたブラを正しい位置へ直そうと大河は服の裾から手を入れ、調整するも上手くいかず、悪戦苦闘する。
「もうちょっと・・・あ〜やだもう」
更に上手くいかないのか苛立つ大河。
後ろを向いたまま竜児は背後の様子が気になって仕方が無い。
あまりの大河の不器用さ加減に竜児はやってやるよと言いたくなるのを堪える。
・・・もっともそんなこと言ったら、命がいくつあっても足んねえだろうな。
そう思い、苦笑しながら竜児は大河が作業をやり終えるのをじっと待った。

その大河はちっと言う小さな舌打ちをするとがさごそと衣擦れの音を立て始める。
あきらかに上着を脱いでいる気配に竜児は息を呑む。
「・・・大河?」
「うるさい!こっち見たら殺すから」
小手先の修正では上手く行かないと悟った大河はどうやら最初から付け直す気になったらしい。
おいおいと竜児は事の成り行きに呆然とするばかり。
わずか1メートル後ろで脱衣中の大河。
パサとかガサとか布同士が発する音が嫌に耳に響くと竜児は思わざるを得ない。
・・・早くしてくれ。
竜児がそう念じていた時、借家の外階段が甲高い音を立て始める。

コンビニ寄って行くから先に戻っていてと銭湯の帰りに別れた泰子が戻って来たのに相違なかった。
「た、大河、早くしろ・・・泰子が帰って来ちまった」
別に不純なことをしているわけではないのだから、堂々としていればいいじゃないかと人は言うかもしれない。
だけど、ふたりきりの部屋の中で上半身半裸でいる大河の存在を丸く納得させる言い訳を考えるには時間が無さ過ぎる。
いくら泰子でもこのシュチエーションを見て誤解しないはずが無い。
大河も相当慌てているのが背後から伝わって来る。
「や、やだ・・・時間よ、止まれ!!」
パニックを起しかけたあげく、出来もしない魔法の発動を試みる大河に竜児は見切りをつけ、振り向いた。

「大河、わりい」
ひと声、掛けるいや否や、竜児は超高速な技を繰り出し、大河を着付けた。
目を見開いて、ただ呆然と竜児にされるがままの大河。
玄関ドアが開くのと竜児が大河へ最後の上着を着せ掛けるのがほぼ同時だった。

かくして、赤ら顔でうつむく竜児と大河が出来上がった・・・と言う次第である。



お休みの日は早く眠くなるとか言って泰子は既にふすまの向こうで寝息を立てており、居間はふたりきりだった。

とっさの事とは言え、とんでもないことをしちまったと竜児は頭を抱えたくなる。
後でよく考えれば、大河を自分の部屋に追いやってふすまを閉めればいいだけのことだったのだ。
自分もかなりうろたえていたと竜児は思う。

ちらりと竜児は大河を見やる。
ちゃぶ台で頬杖ついた姿勢でボリュームを落としたテレビを見ている大河だが、竜児の視線に気が付くとつと、目を逸らす。
少し怒っている様だが、いつもと違う大河の様子に竜児は困惑する。
大河が本気で怒っているならとっくに竜児の家を飛び出してマンションに戻っているだろう。
あの後で大河は竜児から少し離れた場所に腰を落ち着かせて、竜児から距離を取る姿勢を見せた。
会話もあまりせず、ときたまちらりと竜児を見る大河。
・・・もしかして、変に警戒されてんのか、俺。
竜児としてはそう考えるしかないのだが、どうも大河を見ているとそんな感じでもなさそうだった。

・・・考えてもしかたがねえか。

「なあ、大河」
「何?」
「さっきのこと、怒ってるなら・・・」
「さっきの?・・・ああ、あのことね・・・いいのよもう・・・私だってやっちゃんに変に思われたくないもん」
竜児のしたことは間違ってないと大河は言う。
「じゃあ、何があるんだよ?」
「何も無いわ」
「嘘、つけ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、どうして俺から離れるんだよ?」
竜児が大河へ近付くと、大河は少しだけ竜児から離れようとするのだ。
「バレてた?」
「ああ、バレバレだ」
仕方ないと言う顔で大河は話し始める。
「竜児が・・・頭打ってた時のことは言ったわよね」
「ああ・・・その・・・俺がおまえを・・・ナニしてたって」
抱き締めていたとは恥ずかしくて言葉に出来ない竜児。
「そうよ・・・で、変なハプニングあっていきなり終わって・・・それで・・・」
言い難そうに大河は続けた。
「・・・中途半端って言うの?・・・何だかもやもやしてて・・・変な気分なの」
泰子がいなかったら、そのまままた竜児の胸に飛び込んでしまいそうだったと大河は告白する。
「だから、竜児が近くにいると・・・つい・・・そんな気分になっちゃう」
だから、少し離れれていたと大河は理由を説明する。
そして、ここまで言ったんだから何とかしてよと大河はもはや遠慮会釈が無い。
「ど、どうすれば・・・いいんだよ?」
竜児はためらいながらも大河の要望を聞き出す。
「・・・して・・・ぎゅって」
ちらりと竜児を見た大河は横顔を見せたまま、淡い赤色絵の具をブラシでひと刷きしたみたいな頬を竜児へ向け、大河は求めた・・・竜児の抱擁を。


おずおずと言う感じで差し出された竜児の両手。
大河は自らゆっくり竜児へ近付き、腕の中へ吸い込まれる。
近付いて来る大河に覚悟を決め、竜児はしっかりと大河を受け止めた。
鼻に掛かったような声を少し上げ、大河は竜児の胸に収まる。
お互いの鼓動が聞こえてきそうな近距離で互いに温もりを確かめ合う。
「・・・暖かい」
心の底から搾り出すように大河は声を漏らした。


「もう、いいわ」
やがて、腕の中で大人しかった大河は顔を上げ、竜児に告げる。
「おう」
ゆっくり、大河の背後へ回した手を緩める竜児。

潤んだような大河の瞳が竜児を捉える。
「・・・ごめんね・・・変なこと頼んじゃって」
「俺は一向に構わねえけどよ」
「うん、こうしているとものすごく気持ちが落ち着いたの・・・何でかな?」
そうつぶやいた大河の肩がやけに小さく見えて、竜児は再び大河を抱き締めたい衝動に駆られた。

「竜児?」
「・・・いや・・・何でもねえ」
再度、大河を腕の中に入れたら・・・それだけで済ませる自信は竜児に無かった。
それでも隣の部屋の泰子の存在が竜児を止めていた。
そんな竜児の気持ちを見抜いたかの様に大河はするりと竜児の腕から身を抜け出すと「帰るね」とひとこと。
「・・・ああ、気を付けてな」


玄関先で靴を履き終えると大河は竜児を真正面から見る。
「ねえ、竜児」
「おう」
「約束・・・忘れないでよ」
「約束?」
「したでしょ」
「ああ、そうだったな」
大河の気持ちを無視しないと約束した竜児。
「・・・良かった」
「何が良かったんだよ?」
「別に・・・これからも安心して竜児の家で昼寝できるかなってこと」
大河は少し悪戯っぽく笑う。
「じゃね、竜児」
「おやすみ、大河」
「おやすみ、竜児」
何気なくした挨拶。
竜児は気づかされる。
・・・おはようって挨拶出来る奴はたくさんいる。
・・・でも、おやすみって挨拶できる奴は・・・



「どうしたの?竜児」
「いや・・・何でもない・・・そうだ、明日の弁当のおかず、何がいい?」
「お弁当?・・・そうね、サーロインステーキ、ミディアムレアで焼いたの」
「出来るか、そんなの」
「いいじゃない・・・竜児にたっぷり幸運を分けたんだから」
「いつのことだよ?」
「さっき・・・大河様からいっぱい」
茶目っ気を込めて大河は言う。
・・・しあわせの手乗りタイガー伝説。
それは文化祭の後で流れた噂ばなし・・・逢坂大河に触れた奴は皆、幸福を手に入れると言う伝説だった。
「あんだけ、私に触れたんだから・・・竜児は幸運いっぱい」
だからそのおすそ分けで明日のお弁当くらいは豪華にしろと言う。
「わかったよ」
竜児は手を上げて全面降伏。
「ステーキは無理でも、少しは豪華にしてやる」
「本当?」
うなづく竜児に明日が楽しみと言い残して大河はドアの外へ消える。

閉められたドアの向こう。
大河が立てる階段の足音が聞こえなくなるまで竜児は玄関に立ち尽くす。

・・・あの時も思ったけどさ。
・・・大河の幸福は誰が考えるんだよ。
・・・分けてばっかりじゃ・・・駄目だろ、大河。

・・・そうだ、こうすればいいじゃねえか。
・・・大河から幸せを分けてもらったら、三倍返しだ。

・・・名付けて「しあわせの逢坂タイガー伝説」
・・・うん、いいんじゃんねえか。


・・・でも、三倍返しってどんだけ悪徳なんだよ。

そこが大河らしいとひとり笑う竜児の声が玄関先で楽しげに響いていた。






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