竜児の腕から解き放たれた大河は両手で肩を抱き、寒そうな素振りを見せた。
春とはいえ、明け方近くともなれば気温は下がる。
火の気が無い竜児の部屋は少し冷え込んで来ていた。

「寒くないか?」
「ちょっとね」
「待ってろ、今何か上に着れる物、出してやるから」
羽織れそうな物を出そうと竜児が大河に背を向け衣装ケースを漁っていると、大河がもういいよと竜児に声を掛ける。
「よくねえだろ・・・っておまえ!」
振り向いた竜児が見れば、大河はさっきまで竜児が寝ていた寝床へ潜り込んでいた。
「へへ、ここ暖かい」
「へへ・・・じゃねえ、出ろ」
「やだよ。ここ暖かいもん。朝までずっとこうしていようかな」
そのまま目を閉じる大河。
「ねえ、竜児」
「何だよ?」
「もう少し広いのがいいね」
大河は竜児にもっと広いベッドを買いなさいよと言う。
「そしたら・・・一緒に・・・寝られるじゃない」
恥ずかしい台詞を言ったと言う自覚があるのか、大河の頬の辺りが赤みを帯びる。
「いつか、そんな日が来るのも悪くねえ・・・と俺も思う」

竜児の答えに大河はとてもニコニコ顔で嬉しそう。
「竜児の匂いがする」
そう言うと頭ごと掛け布団の中に潜り込んだ。


「あのね・・・竜児」
布団の中から大河の声がする。
「竜児は・・・してみたい?」
「何をだよ?」
「・・・だから・・・さっき以上のこと」
いきなりそんなことを聞かれて竜児は面食らう。
「そんな風になっちゃうなんて全然、想像付かない・・・でも、いつかはそうなるって思ってるから」
竜児が答えないまま、大河はひとり続ける。
「・・・いいよ。竜児がそういう気持ちになるなら・・・私・・・多分・・・拒まないから」
「・・・大河」
「ん、でもね・・・ちょっとだけ待って。・・・まだ、覚悟が決まってないから」
そんなことを言う大河に言い知れぬ愛おしさを感じてしまう竜児。
言葉を選びながら大河へ声を掛ける。
「正直言って・・・そんな思いが無いって言ったら嘘になる。・・・でも暴れる竜にはならないつもりだ・・・そしてそんな日が来たら・・・飛び越えようぜ、一緒にな」

・・・うん。

竜児の声が届いてから、少しの間を置いて大河は肯定の意を表した。


もぞもぞと竜児の布団から這い出して来た大河の顔は真っ赤だった。
思い切ったことを言った羞恥心と布団蒸しによる相乗効果のなせる業に竜児の頬が緩む。
「笑わないでよ」
「わりい、わりい」
むくれ掛ける大河だが、この瞬間はどんな顔をしても可愛いと竜児は思った。



「忘れ物だぞ」
そろそろ帰るねと言う大河に竜児は声を掛ける。
部屋の片隅に転がる大河の木刀。
「ああ、それ・・・竜児が預かってて」
大河はそれに一瞥をくれるとそんなことを言い出した。
「預かるって?」
「私にはもう必要ないから・・・」
この先、そんなものを振り回す機会は廻って来ないと大河は思ってる。
もし、そんなことがあるなら、それは竜児に何かあった時しかない。
「竜児だって・・・その、嫌でしょ・・・彼女が木刀振り回すなんて」
少しは大人しくならないと・・・と大河は決意表明をする。
「無理しなくて・・・いいんだぜ」
竜児としては大河が変なストレスを溜め込むことの方がよっぽど恐ろしい。
「ん、やっぱり置いてく」
ママに見つかったら大変だからと大河は別の理由を付け加えた。
「わかった。大事に預かる」
「お願い・・・なかなかいいサイズのなくて・・・やっと見つけたお気に入りだから、それ」
「おう」
ふたつ返事で請け負う竜児。

じゃあね、と帰ろうとする大河を竜児は呼び止める。
「何?」
「送るよ」
言外にもう少し一緒に居たいと思いを込めて竜児は言う。
「じゃあ、お願い」
気持ちが伝わったのか大河は素直に竜児の申し出を受けた。





静まり返った住宅街に響くふたつの足音。
手を繋ごうと言う竜児に大河はそっと手を差し出した。
「ひんやりするな・・・大河の手」
「竜児の手は暖かいよ」
お互いに指先を動かし、相手を確かめ合う。
その内、大河の手の平の感触に違和感を覚える竜児。
「ちょっと手が荒れてねえか?」
見せてみろと竜児は大河の手を目の前に持って来る。
淡いピンク色で健康そうな大河の小さな手。
それでも良く見ればその表面が少しささくれ立っているのが分かる。
「ちゃんと手入れしろよ・・・後でハンドクリーム塗ってやるから」
「・・・うん」
それは大河がちゃんと家事を手伝っている証だった。
だからそれ以上、竜児は何も言わない。
ただちょっとだけ前よりも大河の手を力を入れて握り締めた。

「ねえ、竜児・・・覚えてる?」
「何をだ?」
「バレンタインの日のこと・・・」
「ああ・・・覚えてるさ」
「あの時もこうやって・・・手を繋いで走ったよね」
互いの母親の声を背後に聞きながら、どちらからとも無く伸ばした手を結んで走り出したあの日。
「こうして、大河と手を繋いで歩いて行ける・・・夢じゃねえよな」
朝になったらこの大河は幻で、今までのことは夢だった・・・そんな悪い予感を竜児は考えてしまう。
大河が・・・行ってしまったままの世界が本物で、これは自分が見ている都合の良い夢なんかじゃないのかと・・・。
「馬鹿ね、竜児。夢なんかじゃない・・・私はここに居るもの」
何があってももう離れない・・・私はずっと竜児の側に居る。
改めて誓う様に大河ははっきり言う。
「竜児も・・・そうでしょ?」
「ああ、どんなことがあったって・・・大河、おまえを離したりしねえ」
心の底から迸る様に竜児は想いを込めて大河へ告げた。

大河は不意に立ち止まり、竜児を見上げる。
「どうしたんだよ?」
「なんかね・・・嬉しくて・・・胸がいっぱい」
じっと竜児を見つめる大河の表情がゆっくり変って行く。
ふわーと言う感じで大河の顔中に広がる柔らかな笑み。
そんな大河を見つめながらこの笑顔のためなら、何を失っても良いとさえ竜児は思った。



こっちが近道と言う大河に引っ張られて夜の公園に足を踏み入れる。
水銀灯の青白い光だけが支配する無人の空間。
公園の並木の向こうに見えて来る大河が両親と住んでいるマンション。
もうすぐ着くなと言う竜児に大河はもうちょっとだけと、近くのベンチに誘った。
「なんか、このまま帰っちゃうの・・・もったいなくて」
「抜け出したの、大丈夫かよ?」
「大丈夫・・・5時頃になんないと起きないから」
ママも弟もぐっすりと大河は付け加えた。
「なあ、ひと晩で何回、起きるんだ?」
ふと思いついて竜児は尋ねる。
「だいたい、4時間おきかな・・・」
「大変だな・・・赤ん坊の世話も」
「・・・ママと比べたら、全然平気」
そう言って大河は笑う。
実際、大河もそこまで大変な物だとは思っても見なかった。
仕事を持っている大河の母親は産休も満足に取らず働いているのだが、仕事人としての顔、家に戻ってから母親としての顔、そして妻の顔と八面六臂の動き様に大河は圧倒された。
昼間はベビーシッターに任せざるを得ないのだが、帰宅してからは全て自分の手で子供の世話をし、その合い間に家事をこなす。
大河はただただ圧倒されるだけだった。

「お母さんも歳ね。大河の時は平気だったけど」
夜中の授乳が続き、寝不足気味になった母親が漏らした弱音。
大河は私も手伝うと積極的に言い出した。
母親に代わって夜の授乳を受け持つようになった大河。
もともと弟の世話をすると言う条件が付いていた大橋高校の近所への引越し。
いくら実の娘でも育児経験ゼロの大河に母親は期待していた訳ではない。
つい捨てるような感じで別れてしまったことへ対する罪滅ぼしとでも言うべき気持ちが、大河の転校を食い止め、この引越しに繋がっていた。
もちろん、新しい家庭に入った大河が親愛の情を見せ、溶け込んだことの影響も大きい。
経済的に自立してると言っても母親としては再婚相手の意向を無視できないからだ。

つまるところ弟の世話云々は母親の単なる照れ隠しに過ぎないのだった。


「かわいいんだ、これが」
大河は嬉しそうに言う。
今でこそ、そう言える大河だが最初のうちはそうでもなかった。
安眠を妨害するうるさいだけのやっかいもの。
心の片隅にそんな意識があった。
それが変ったのはつい最近のこと。



「そうだ・・・竜児に謝らないといけないことがあるの」
思い出したみたいに大河が言い出す。
「何を謝るんだ?」
「あのね・・・いちばん最初は・・・竜児の予定だったんだけど・・・」
妙に言い辛そうに大河は切り出す。
「最初って?何がだ」
「ほら・・・降り積もった雪の上に最初に足跡を付けるってあるじゃない」
「ああ?・・・話が良く見えねえ」
首をひねる竜児に苛立った大河は身をもって行動する。
「あ〜もう・・・こういうこと!」
竜児の手を掴み、己が胸の上に誘導する。
服の上からとはいえ、非日常的な柔らかさを感じた竜児は弾かれた様に手を遠ざける。
「何するんだよ!」
「それはこっちの台詞でしょ」
開き直る様な大河の声に何か言い返し掛けた竜児だが、ここではっと気が付く。
「・・・最初じゃないって・・・まさか」
「そうよ、竜児が2番目」
大河のこの台詞に竜児の思考回路はショート寸前。
すさまじい形相で真相を究明しようとする。
「ど、どこのどいつだよ!」
そんなことしたのは誰だよと沸騰するやかんみたいに大河へ詰め寄る。
「知りたい?」
「あ、当たり前だ」
落ち着いた大河の様子に苛立ちながらも竜児は気が気ではない。
痴漢でもあったんじゃないだろうなとか、あれこれ不吉な想像が脳裏を駆け巡る。
だから、大河の答えを聞いた瞬間、派手に脱力した。

「弟よ」
「弟!・・・って大河のか?」
「そうよ・・・生後2ヶ月くらいかな・・・弟とは言え、異性に許してしまったの・・・ごめんね、竜児」
大河が言っている内容は深刻だが、口調はもう笑いを堪える寸前だった。
言い終えてすぐ大河はうぷぷと堪え切れなかった笑いを漏らす。

竜児はもう放心状態。
そんな竜児にお構いなく大河は続ける。
「抱き上げてあやしてたら・・・触られちゃったのよね・・・べたって」
種明かしを終えて大河は楽しそうだが、竜児はそれどころではなかった。
「竜児?大丈夫?」
「あ、あのな」
「でも、良かった・・・竜児が本気で心配してくれて」
笑みを引っ込め、真面目な顔で竜児を見る大河。
こんな風に言われてしまっては竜児としても怒りようがなかった。
「でも・・・注意してくれよ」
「何を?」
「大河のことだよ・・・十分、人目を惹くだけのルックスがあるんだよ、おまえには」
へっ?っと言う顔をしてみせる大河。
「ちょっとは自覚を持て、頼むから」
竜児の言い分に大河は小さな声で「うん」と答えた。



・・・変に気を許すなってことかな。
じゃあ、この先のことは言えないね。
大河が竜児に抱える秘密。
秘密と言うには大げさだが、あんまり話がしやすい内容でもない。
別に間違ったことをしたわけじゃないんだしと、大河は胸の中に仕舞う事にした。

単に竜児には弟に触られたとしか言わなかったが事実はそれ以上だった。

それは母親が仕事で帰って来れない晩の出来事。
例によって夜中に夜泣きを始める弟に大河の睡眠は破られる。
うるさいなと思いながらも、大河はミルクを作り、人肌に冷ます。
哺乳瓶に詰め替え、飲ませようとするがあまり飲もうとせず、泣き止まない弟に大河は焦る。

「ちょっと、どうしちゃったの」
一応母親からこういうサインは危険だからと教えられていたケースとは合致しないので、救急車とか言う騒ぎにならないのはいいのだが、原因が分からなかった。
あれこれするけど泣き止まない弟。
そのうち大河は自分の指先が触れたりすると泣き声が少し弱くなるのに気が付いた。
もしかして、とひらめいた大河は弟をベビーベットから抱き上げた。
その途端に泣き止む弟に大河は自分の判断が間違っていなかったことを覚る。

「・・・あんたも寂しいのね・・・ママが居なくて」
大河の気持ちが通じたのか笑う弟。
そうやってしばらくの間、大河は弟をあやしていたのだが、不意に伸びて来た弟の手にうろたえる。
「そ、そこは駄目・・・これ、お姉ちゃんの・・・ママのじゃないの」
言葉の通じない相手に理詰めで言っても通用しない。
せっかく泣き止んだ弟の様子が怪しくなる。
いくらかためらった末に、もう仕方ないと大河は決心すると行動に移った。


パジャマのボタンをいくつか外し、胸元を広げる。
母親が実際にやっていた時の様子を思い浮かべながら、弟を抱き上げ、そっと近づけた。

・・・うひゃ

それが大河の第一印象だった。
くすぐったいようなこそばゆさが消えると大河の中に小さな感動が生まれる。

・・・飲んでる・・・飲んでるよ。
・・・うわ〜。

もちろん、実際に出るわけも無く気分だけなのだが、温もりと言うスキンシップに満足したのか、弟は上機嫌。
手をバタバタさせ、回らぬ舌であうあうと声を発し、大河の愛着心を掻き立てる。

そのまま大河が哺乳瓶を含ませると食欲旺盛なところを見せ、きれいに飲み干した。

大河の腕の中ですやすや眠る弟。
今までにないくらい優しい視線を大河は落とす。

・・・いいなあ、こんな感じ。

母親体験をして大河は少しだけ自分が大人になった気がした。



「大河?」
「え、あ・・・竜児?」
「何、ぼーっとしてんだよ?」
「・・・赤ちゃん」
「赤ちゃん?」
「うん・・・早く欲しいなあって」
「そ、それは少し早すぎねえか・・・」
大河の思い掛けない言葉に竜児は顔が赤らむ。
「・・・だね」
大河は納得したようにうなづく。
「その前にいろいろあるもんね・・・って、竜児、顔赤い・・・エッチなこと考えたでしょ、今」
「そんなことしてねえ」
正直に言えと迫る大河に竜児は白を切り通す。

「それが当然だもんね・・・いいよ私、気にしない」
あっさり大河は追及の手を緩める。
「全然、そんなこと思ってもらえなかったら・・・かえって傷つくから」
そんなことを言いながら大河はふと昔、思ったことを思い出していた。
入浴前で裸になった時、自分の胸に手を触れ、いちばん最初にここに触る異性は誰なんだろうと想像したいつかのあの日。
それが竜児になると確定した、今。
これからその時をどんな想いで迎えるんだろうと大河の気持ちは飛躍する。


「ブランコ、乗ろう」
急に大河はベンチから立ち上がると公園の遊具へ駆け寄る。
いろいろ考えたら頭が煮えたぎってしまった大河は体を動かすことで沈静化しようとしたのだ。

ひとり乗りのブランコを勢い良く、こぎ始める大河。
徐々に大きくなる振り子運動。
「あはは、気持ちいい・・・竜児もやんなよ」
「お、おう」

並んでブランコを漕ぐ、竜児と大河。
夜の空気が頬に当り、心地良く冷やしてくれる。
大河はぎこちなくブランコに乗る竜児を見る。
「や〜い、へたっぴ」
「うるさい・・・だいたい小さすぎるんだよ」
あくまでも子供向けの遊具、竜児にはサイズが合わなかった。
「見てて」
そう言うと大河はひときわ高く、振り子運動を極める。
その振り子がいちばん高いところ来た瞬間、大河はブランコを飛び降りた。
空中を舞う大河。
あっと思い、竜児はその軌跡を目で追い掛ける。

「10点満点」
両足を揃えて着地のポーズを決め、大河は自己採点する。
「どう?」
「無茶すんなよ」
「小学校以来だから上手くいくかどうか不安だったけど、勘は鈍ってなかった」
「まったく、びっくりさせるぜ」
「あはは、もうしない」
そう言うと、大河は自分で自分の頭を小突いた。



「じゃね、竜児。また後で」
「おう、二度寝して寝坊するなよ」
「大丈夫・・・今夜はありがと・・・」
マンションのエントランスへ続く階段の途中で先を歩いていた大河が立ち止まる。
「それから、竜児・・・」
意味ありげな視線で竜児を呼ぶ大河。

「何だよ?」
階段下で大河を見送っていた竜児が階段へ足を掛け、大河へ近付く。
「・・・ん、ちょうどぴったりかな」
「何がだ?」
大河の居る位置から見て数段下に立っている竜児。
「ほら・・・目の前が竜児」
ちょうど大河と竜児の身長差が段差で解消され、同じ目線位置になる。

「一度してみたかったの・・・ここで」
・・・私、背伸びしなくていいんだよ。
ささやく大河の声が竜児の耳に触れる。

真夜中ならではの技だな。
そう考えながら、竜児はほんの気持ちだけ前のめりの姿勢を取る大河へ顔を寄せ、己が想いを込めてその小さな口元へ重ね合わせた。





「たいが〜、高須く〜ん。いるのか〜い」
昼休みも終わりに近付いた頃、屋上へ続く階段の下から櫛枝実乃梨の声が響く
「返事が無い?・・・いないのかな」
ひとり言を言いながら、階段を昇って来た実乃梨が見たものは・・・。
「ありゃ・・・まあ、何ていうか、仲良きことは美しきかな・・・なんちゃって」

座ったまま壁に寄り掛かって眠る竜児。
その竜児にもたれて眠る大河。
床の上、体を支えるようについたふたりの手。
その手はしっかりと結ばれたままで・・・








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