【DV】
「あー、食べた食べた」
存分にその旺盛な食欲を満たし、畳の上で大の字になっている大河を横目で見やりながら、竜児は無言で――物音を立てて虎の機嫌を損なわないよう――注意深く皿を片付け、流しに持っていく。
触らぬように、刺激しないように――ささやかな平穏を求める竜児の切なる願いを、しかし踏みにじるように、この小さな暴君はキロリと奇妙な目つきで竜児を――竜児の尻を見つめた。
「あー。食後になにか軽い運動でもしたいかなー。したいなー」
「……………」
――カンッ!!
聞こえなかったフリをしようとしていた竜児の右頬を掠め、食卓塩の小瓶のフタが台所の壁にブチ当たった。
反射的に振り返って、竜児は既にガラス製の小瓶本体の投擲姿勢に入っている大河の姿に、愕然とする。
何をする、止めろ、塩を粗末にするな、ガラスの破片が飛び散ったら危険だし片づけが大変だろ――喉元まで出かかった言葉の奔流をギリギリ押し留め、竜児は弱々しく、か細く、声を絞り出す。
「ど、…どうした?」
「運動したいな、って言ったのよこの駄犬」
「そ、そうか。運動か。…そうだな、天気もいいし、公園まで散歩に行くか?そうだ久しぶりにバトミントンでもしようか?お前得意なんだろ?よ、よーし待ってろ、すぐにラケット準備するから…」
「五月蝿い」
右手の小瓶を弄びながら、ただ一言。
その一言で、竜児は萎縮し言葉を詰まらせてしまう。
「…白々しいのよ。これ以上、私を怒らせないで頂戴?」
「…………」
怒りはない。むしろ微笑を浮かべ、大河はちゃぶ台に小瓶を静かに置いた。
大河は怒ってなどいない。
怒りではない、別の感情に、滾っているだけだ。
「た、たいが…」
「あら?もしかして怯えてるの?おかしな竜児ねぇ…怖いものなんて何もないじゃない?」
そう。目の前にいるのは最愛の存在。大河にとっての竜児、竜児にとっての大河は、つまるところその一言で説明できる。
怖れることなど、あろうはずもない。そんなことはありえない。
本来ならば。
「ねえ竜児ぃ…」
そんな童女のような甘え声は耳に心地よく。
小柄で華奢な容姿はまるで穢れを知らぬ人形のような可愛らしさ。
だがペロリ、と僅かに唇を舐める仕草は、既に情欲というものを知った大人の色香が漂って。
その瞳に光るものは純粋無垢などとはかけ離れた、肉食獣が獲物に向けるソレ。
そして大河は、残忍なほどの愛情を込めて命じてくる。
「ズボンを下ろしなさいな、竜児」
「た、大河…」
「ああもちろん…パンツもね」
そんな要求を恥じらいも無く突きつけてくる恋人に、竜児はしかし、何も言えない。
――以前の大河は、ワガママで横暴だがそんなことを言ってくることはなかった。
そんなことが言えるような女の子ではなかった。
それが……どうしてこうなってしまったんだろう?
どこで俺たちは、間違ってしまったのだろう?
「あら?恥ずかしいの竜児?…フフ、じゃあ上は勘弁してあげる。脱ぐのは下だけよ、竜児」
慈悲の衣をまとった無慈悲な命令に、竜児は抗いたかった。
だが竜児の身体に無数に刻まれた暴虐の痕が、そんな反抗の気概などすっかり奪い取ってしまって久しい。
――ノロノロと、竜児は大河の「命令」に従う。従うしかないから。
「フン!なによその萎びた粗チンは!
まあいいわ、いつものようにすぐに大きくしてあげるから…感謝なさい!」
淫靡に妖しく笑いつつ、歩み寄る大河から視線を逸らしながら畳に座った竜児は、ともすれば零れそうになる涙を必死にこらえた。
そして震えながら、その固い足をゆっくりと開き――
***
「うぶふぉおおおおおおおおおおっっ!
ス、ストップ!ストップだあーみん!!は、鼻血どころか……ぐぶぉおおっ、な、なんじゃこりゃあああああああああ!!」
口からの吐血に、松田優作ばりに吼えている櫛枝の狂乱っぷりが心配ではあったが、それに対処してやれるだけの余裕も既に無かった。
精神力をゴリゴリと鑢で削られ、必死にこみ上げてくるニガすっぱいモノを堪えつつ、竜児はなんとか声を絞り出した。
「か、かわしま…お前…一体、なにをしたいんだよ…」
心くつろぐ昼休みタイムを極マニアックな桃色妄想空間に染め上げた大罪人は、向けられた弾劾にしれっと答えてきた。
「え?アンタ達の爛れた夫婦セイ活を亜美ちゃんなりに推測してみたんだけど…なんか問題ある?」
「問題ある?…じゃねーだろ!もう…どこからつっこめばいいのか…」
「まー、極端なデフォルメ補正入っているのは認めるけどー。でも当たらずとも遠からずなんじゃない?高須君、基本総受けだし」
「ふぉおおぅ…あーみん…このえろちーめ!おいちゃん大河に弄られる高須くんを想像するだけで…も、萌えるぜ!超萌えるぜよ!」
「いやあ…実は私も最初はほんの軽いジョークのつもりだったんだけど…なんかすっごくノリが良くって…。
高須君、プラス首輪!とかさ…」
「あーみん…そいつぁベタだ…ベタだが…。や、やべえ、鼻血の出しすぎで…奥の方が痛ぇ…」
「お前ら…人をネタにそんな方向で盛り上がらないでくれ…。
大河、お前も何か言ってやって…って大河―――!!?」
自分の席で撃沈し、机を鼻血で真赤に染めている大河を発見し、竜児は慌ててその小さな身体を抱き起こした。
「り…りゅうじぃ…」
「お、おう!大丈夫か大河!鼻血出しすぎて貧血か!?」
「竜児…わたし…そんなことしないよ…?竜児にそんなひどいこと、しないよ…?」
「わかってる!わかってるって!」
「えー?でももーちょっとソフトにエッチなこと要求はしてるよね?」
「大丈夫!大河は普段はすっげードSだけど、実は信じられないくらいダダ甘なドMだってことは、みのりんちゃんと理解してるからね!」
「…すまんがちょっと黙っててくれ川嶋、櫛枝…いま大事なトコだから」
あーはいはいと、不満そうではあるがジェスチャーのみで応じる二人に少し安堵しつつ、竜児はおそらく自分同様かなりの精神的ダメージを負っただろう大河に向き直る。
「竜児…実はわたし、涙目で足を広げる竜児を想像して、…ちょっと濡れ」
「スト――――ップ!!てかお前もこいつらと同類か―――!!」
「はっはー。やっぱ高須くんは受けだよね!」
「っていうかさー…弄り甲斐があるっていうか…亜美ちゃん、高須君のせいで新たな性癖に目覚めたのかも…」
「元から持ってるモノを人のせいにするなっ!お前は真性サドだよ!!
……うん?」
先ほどから、椅子に座ったままの大河を抱き寄せていた竜児は、自分の胸元を軽く掴んできた手に気づいて視線を落とす。
そして、自分の腕の中で俯いたまま、大河は呟くように問いかけてきた。
「竜児…竜児は、私が、その…そーゆーこと、ねだってくるの…それで嫌な思いすること、あったのかな?」
この子虎は、いつも。
自分が考えもつかないことばかり、口にする。
「……いまのばかちーの妄想話ってさ。まあ…当事者以外はエロジョークな笑い話で済む、って思う」
「うん…そうだな」
「でもさ…男女の立場を入替えれば、これって虐待の話だよね…DVってやつ?」
「…そうだな。ひどい話だよな」
「そう。ひどい話。男女を入替えなくたって、普通にひどい話だよ、これって。
……そう考えたら……私、でも私、程度の差はあってもさ…竜児は何かっていうと俺たちまだ学生だからって…
でも私は、そゆことして欲しくって…したくって…自分の気持ち、押付けて…
程度の差はあっても…その…ベクトルは同じで………竜児はイヤなのに…む、無理強いしてるんじゃって…それじゃあ私、竜児にひどいこと…してる…わたし………ひどい…?」
「――大河?」
名前を呼ばれ、ふえ?と子供っぽい仕草で、反射的に大河が顔を上げる。
そっと、さり気なくその頬に手を添えて。
逃がさないように。
竜児は、大河に優しく――しかし相手に自分の意図を気取らせる隙を与えず、…唇を重ねた。。
うおおおおおおおお、と数瞬の間を置いて、周囲の級友たちからどよめきが沸き立つ。
ぬぐわああああああ、というかわいくない方のメガネの、僻みな叫びも混じっていたような気がする。
視界の端で、櫛枝と川嶋がそろって『うわっちゃああ・やっちまったー』と目と口を丸くしているのが映った。
そして大河は。
「……………!!?」
周りから更に3テンポほど遅れて、ようやく自分の状況を理解したらしい。
とっさに首を捻ろうとするが…がっちり頬を掴んで、逃さない。
弱々しく、こちらの胸を押して身体を引き離そうとするけれど、もう片方の手はしっかり肩に回ってる。
真赤な顔で「なんで!?」と目で問いかけてくるけど…今は答えない。
答えないまま、更に大河にのしかかり、大河を蹂躙する。
その一方的な蛮行に、胸に置かれていた大河の手が、制服越しだというのにギリギリと、痛いほどに爪を立ててきた。
でも……大河は本当には嫌がっていない。
戸惑いはあるものの、自分の求めにちゃんと応じてくれている。
だから、まだ名残惜しいけれど。
「―――ぷはぁ」
「………ななななな、なによ、そのムードのカケラもない息継ぎは!?」
「いやだって…メ、メチャクチャ恥ずかしいし…」
「顔を真赤にしてそんなこと言うなら、さ、最初からするなぁぁぁぁ!っていうかなんなのよいきなり!意味わかんない!!」
「だって、したいって思ったから」
「理由になってない!なんなのよそれ!?」
「…理由にならないか?したくもないのにするよりは、ずっと自然だと思うが」
「そーいうこと言ってるんじゃない!なんなのよいきなり!こんな…こんな、いっぱい人目のあるとこで…!」
「……ごめん」
「あ、あやまるなあ!謝るくらいなら最初からこっ…こんなことするな!」
大河同様、羞恥で顔がまだ赤いものの、それでも大河よりは幾らか落ち着いて、竜児は応じる。
「大河が本当に嫌だったら、すぐ止めるつもりだった。…大河が嫌がるようなこと、無理強いしたくはないから」
「ッ!?」
「それは大河だって同じだろ?…まあ今のは、かなりギリギリだったと思うけど…」
そっと大河を開放し、竜児は困ったような顔で、亜美を見た。
「なあ。さっきの妄想話だけど」
「なによ?」
「えーと。ほら。大河は普段から物騒な言動が多いし、春田なんか…まあ自業自得だけど、大河を怒らせてしょっちゅう鉄拳制裁されてるからさ。
…直接的な暴力を除いても、臓腑を抉るような、ある意味もう才能のような罵詈雑言を浴びせて精神的にノックアウトさせることも多々ある、暴虐ヤクザな女だが」
ぴしっ。
「どうどう大河〜。ムカツクのは分るが全部事実だからー。高須くんは嘘はいってないよー」
「ひ、ひどいよみのりん……」
大河のことはとりあえず櫛枝が抑えてくれると期待して――後がいろいろ怖そうだが――竜児は言葉を継ぐ。
「そういや川嶋は大河にビンタ張られたよな。初めて会った時」
「まーねー。あの時はなにこのDQN!?とか思ったけど…」
「思ったけど?」
「だんだんタイガーのこと分っていくに連れて…そんな程度じゃ収まらない。リサイクルのしようも無い産業廃棄物女だってしみじみ実感したわ…」
「ころ―――――す!ヌッころ―――――す!!」
「大河……おとなしくしないと、舌いれちゃうぞ?」
「え、やだ、なにみのりん…!?」
背後の展開が気にはなったが、振り返るのもなんか怖くて逡巡してしまう竜児である。
が、亜美の方は苦笑しつつもスルーするつもりのようであり、つまり大したことにはなるまい、と信じて竜児は続けた。
「でもさ。大河って、売られた喧嘩は買う方だけど、自分から喧嘩を売ることはないだろ?…少なくとも自分の我意を通すために、暴力に訴えることはしない」
「……まあね」
反射的に否定しようとして、しかしいつも自分の方から大河にちょっかいかけている事実を否定できず、亜美はやや不満気に頷いた。
――去年の春。
俺と大河がつきあっているという噂が流れた時、それを否定するために大河はクラスで暴れ、親友の実乃梨すら、恫喝した。
それは自分が受けた誤解を解くためではなく、俺の片思いを応援するために。
狩野の兄貴に殴りこみをかけ、乱闘と流血の挙句に停学になってしまったこともあった。
でもそれは自分の失恋の痛みではなく、どうしようもなく心を傷つけられた「友人」のために。
人の気持ちを思いやり、誰かのために全力を尽くすことができて。
普段はワガママで横暴なくせに、自分が本当に望むものは、なかなか口に出せなくて。
とてもとても優しくて、でも不器用で、その気持ちを上手に伝えられない。
逢坂大河は、そんな女の子だ。
「――だから。全然本気じゃないし、シャレで言ってるのは十分に理解してる。
こんなこと、わざわざ言うまでもないし、きっと言わない方が良いんだろう。
でも、これはやっぱり譲れないから。
大河は、誰かを本当に傷つけるようなことは、絶対にしない。それが気に入らない相手でもだ。
だから、冗談でも、そんな風に大河を貶めるようなことは、言わないでほしい」
強い口調ではない。
流暢というわけでもなく、寧ろ所々では口篭りながら、それでも最後まで竜児は視線を外さず、真正面から言い終えた。
「…………そこで『俺が許さん』とか、せめて『言うな』で締め!ならまだカッコつくと思うんだけどねぇ……まあ高須君らしいっちゃ〜らしいけど」
だるそうにぼやきながら、亜美は器用に左右の眉をそれぞれ別角度に上げた顰め面をしてみせた。
「…でも確かにちょっと悪ノリが過ぎたかも、ね。
これからは気をつける。…ごめん」
そう言って、亜美は竜児と――後ろの大河も含めて、軽く頭を下げた。
「…あーみんも丸くなったよねぇ…おいちゃんは嬉しいよ…」
「同感だが…お前ら一体なにをやってるんだよ…」
チークダンスのような体勢で互いに互いの両手を握り、ギリギリと拮抗している実乃梨と大河の姿に、意味不明な疲労を感じる竜児である。
というか、その、大河の口元にむちゅ〜〜☆と迫るタコ唇は、性別・女として如何なものか櫛枝実乃梨嬢?
「竜児…」「おわっちゃああああああ!?」
素早く拮抗状態から抜け出して――背後でいきなりバランスを崩された櫛枝っぽい人影が派手に転倒していたようだったが一顧だにせず、大河は不安げで…でも何か期待しているような瞳で、見上げて。
「竜児…」
言いたいことは、いっぱいある。
伝えたい気持ちは、自分の内から溢れ出しそう。
でも、どうやったらそれを上手く伝えることができるのか、わからなくて。
「竜児…」
結局、いつもこんな風。言えなくて、伝えられなくて、わかってもらえない。
「…おう。まあ、あれだ。シャレだしな。
気にすることねえし。さらっと流しちまおう。つーか…ああいうネタはホント、勘弁してくれ」
でも多分、言わなくてもいい。伝えられなくても、わからなくても、そんなことしなくても、ちゃんと自分と同じ気持ち、コイツは持ってるから。
「竜児…さっきはアンタに良い様にされちゃったからさ…リベンジ、したいんだけど」
「すいません勘弁しろ。アレはちょっと調子こいちまったから。もう一回やったら俺は爆死する自信満々だぞ。死ぬから。死ぬって絶対」
「いっそキス殺してやろうかしらねぇ…」
「あやまるから!ゴメンナサイ!つーかキス殺しって容易に想像ついちまって…なんか、自己嫌悪」
「このエロ犬…どうしてくれようか」
「そおねぇ…とりあえず高須君?ちょっと指導室まで行こっか?」
「「え゛」」
突然の割り込みに振り返り――かけて、その前に竜児の肩にポン、と手が置かれた。
「仲良しなのはいいことだと思いますよぉ。うん。それは絶対」
「せ、せんせい…」「げ、独身」
ニコニコと――表面上は爽やかに、朗らかに、微笑む元・担任(三十路独身)
「でもねぇ。学校っていうのは、公の場なの。公衆良俗というものを踏まえて、マナーとモラルと常識は、常に頭に置いていて欲しいなあ、と先生は思います」
「あ、あの、先生…いつから、いらっしゃったんでしょうか…」
「割と前から。あれ?前の時間に忘れ物しちゃったかなーって確認に来たらね。あ、忘れ物はちゃんとあったから」
「え、えっとですね、その…反省はしてます…」「反省してまーす」
「反省なんて、言葉だけならいくらでもできるんですよぉ。知ってました?」
「先生!教育者としてその発言はちょっと…」
「黙れやキス魔?」
そこに優しい先生(30歳・独身)はいなかった。
ただ、吹きすさぶ風がよく似合う、戦鬼だけが笑っていた。何と戦う鬼なのかはともかく。
「ま、一時間くらいつきあえや、なあ?」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!?助けて大河!ってうわあ既にいない!!?」
「さらば竜児…また会う日まで!」
「高須君に較べて、実は割と薄情だよね、アンタ」
ずりずりと引き立てられていく婚約者を、亜美の影からハンカチで目頭を抑えつつ見送る大河であった。
そんな大河に亜美はジト目をくれるが、向けられた方はまるで気にしてはいない。
「それより何か静かだと思ったら…みのりーん、なんでそんなとこで寝てるの?」
「……いや気絶してんじゃね?実乃梨ちゃん」
――なんだかよくわからんが、今日の大橋高校の午後は、長いものになりそうであった。
ちなみにその後、普段のラブ度数の高さの割には押さえ気味だった竜虎のギシアン頻度が、やや上がった模様。
その事で「初孫の顔を見れる日は近い」と祝杯をあげた母親が二人ほど、いたという。
<了>
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