【ア・ゴ☆】
「竜児、お手」
「…お前はいきなり何を言っているんだ」
日曜日の昼下がり。
昼食後、天気も良いのにそのままポケ〜ッとテレビなど眺めていた竜虎の二人だったが、子虎のいきなりで脈絡のない言動に、相方はいつものように途方にくれた。
自堕落ではあるが、それなりに平穏な時間を竜児としてはまったり楽しんではいたのだが。
「なんというか…もう少し、わかりやすくなりませんか俺の人生?」
「そゆこと私に言われても困るんだけど」
目下のところ、竜児の最大の悩みの種であり諸悪の根源であり、彼の人生そのものである最愛の嫁はアメリカンに肩を竦めた。
「とにかくほら。お手」
「だからなんで!理由を十字以内で説明しろ!」
「あんた犬だから」
ア・ン・タ・イ・ヌ・ダ・カ・ラ。
うわー、余裕もって8文字で説明しやがった。
なんかもー色々と途方にくれる竜児の前で、不機嫌に眉をしかめた暴君が右手を突き出してくる。
「お手」
「……」
「お手!」
「…………」
「お手!!!」
「……………………ワン」
決して納得はしていない。してはいないが、しかしこれ以上の抵抗は無意味と悟り、竜児はため息まじりに自分の右手を大河の掌に乗せる。
「おかわり」
「わう」
「アゴ」
「……………はあ?」
今度こそ完全に意味不明な要求に、思わず素に戻ってしまう竜児に大河は。
「アゴ」
「なんだよそれ…?」
「アゴ!」
「いや、だからさ…アゴってなんだよ?」
「アゴはアゴよ。ほら、ア・ゴ!」
「そんなさも当然そうに言われてもだな…」
「ア・ゴ!ア〜〜〜ゴ〜〜〜〜〜〜〜〜!!アゴったらアゴ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「………………………………………………わぅ」
観念して――多分これでいいのだろう、と竜児は大河の小さな手に軽く、アゴを乗せた。
「……プ。プクククク…。あ、あんたって…ククク…ほ、ほんとにやっちゃうんだ…あははははははははは!」
「強要してきたのはお前だろ!指差して笑うな!くそ、なんかすげー屈辱的!」
「あははははは!だってだって、アンタどこまで犬根性が染み付いてんのよ!
アンタ絶対前世は犬!そして来世も犬!未来永劫犬!!きっと現世で人間に生れついたのが何かの間違いなのね絶対!
もうこの犬チックめ!私を笑い殺す気か!!」
大河は左手で口元を覆い、何とか笑いを収めようと努力はしているが、ウププ、クククと小さな笑いをなかなか堪えることができずにいる。
そして右手は――
「どうだ?どうだこの犬め?気持ちいいか?うん?」
「……まあ、敢えて言うなら……ちょっとだけ気持ちいいというか…くすぐったいというか…」
大河の白くて細い指先で、アゴの下をさわさわと撫でられるのは、……未知の感覚であり。
決して不快ではなかった。
不快ではないけれど。
大河は、やや上目遣いで竜児を見て。
「竜児…?」
「うん?」
「……だっこ」
「おう」
両腕を大きく開くと、大河は素直に首にしがみついてきた。
そんな大河を抱き寄せながら、竜児は自分の胡坐の上に横座りさせる。
そしてやさしく髪を撫でながら。
「…どうかしたのか?なんか、やなことでもあったか?」
「えへへ…ちがうよ。むしろ逆。毎日が楽しくて楽しくて、幸せいっぱい」
「ならいいじゃねぇか」
「うん。それは…そうなんだけどね」
なんて言ったらいいのかなー、という顔をしている大河を静かに竜児は見つめる。
少し前の、自分の気持ちを押し殺していた頃とは別人のように明るい顔。
もう少し前の、互いに自分の本当の気持ちに気づいていなかった頃とはまた別の、微笑み顔。
大河はとてもいい顔で笑うようになった。笑えるようになったと思う。
でも、まだ。
「あのさ…笑わないでね?あきれないでね?」
「笑わねえよ。あきれるかどうかはわかんねぇが」
「なによそれ!?そこはどっちも否定するところでしょ!」
「だけどお前、時々すげぇくだらねぇことで悩んだり落ち込んだりだし」
「ああん…?」
「すごむな。こわいから。暴力反対。っていうか何気に首を絞めるな。死ぬから」
「ったく…この駄犬」
むー、と膨れ顔になる大河だが、顔を寄せてもっと近くから覗き込むと、やや気恥ずかしげな照れ笑い…未満といった表情になる。
そんなコロコロと表情を変える大河が微笑ましくて、可愛いと思うのだ。
「…こういうのを、貧乏性っていうのかなあって。竜児のMOTTAINAIは貧乏性っていうか素で貧乏っていうか」
「……エコと貧乏を一緒にするな。で?」
「これでいいのかな、って」
「……なにが?」
自分の胸に顔を埋めた大河の瞳を見ることはできない。
きっと、今の顔を見られたくないんだろう、と思う。
そんな気持ちなのだろう、と思う。
「こんなに簡単に、欲しいものが手に入って、いいのかなって」
「…………」
「だって、ちょっと前まで、ほんのちょっと前まで、私が本当に欲しいものは、すぐ傍にあるのに私の手は届かなかったから。
欲しいものは手に入らない。
そのジンクスは壊したんだから、気持ち、報われちゃったから、これからは違うんだ、変えていくんだって、そう思うしそうしていくんだけど。
――でもね。まだちょっと、思っちゃうんだよね。
私、本当にいいの?って。
こうやって、竜児に触れて、抱っこしてもらって、いいの?って。
私のバカみたいな気まぐれに、竜児つきあってくれて、…楽しいんだけど、でも本当にいいの?って」
――なんて言えばいいんだろう。
この、自分の幸福に慣れていない女の子に。
なんなんだよ、と思う。
安っぽい憐みなど彼女を侮辱するだけだと分かってはいるけど、でもシアワセに慣れてないって、
なんて酷い話なんだろうと思う。
そして、どう言ったら、俺がお前からどれだけの幸せをもらっているのか、伝えられるんだろう。
この気持ちを伝えるには、どうやったら大河に分かってもらえるんだろう。
もどかしくて。
もどかしい。
「大河」
「…なに?」
「あご」
「………は?」
「俺にもやらせろ。あ・ご」
「何ソレ。全然わかんない」
「お返し。対価交換。フィフティフィフティ。だからあご」
「…………なんなのよ、もう」
ややむくれ顔で、自分の肩から目の前に移動してきた竜児の左手を大河は睨みつけたが、ふっと息をついた。
そして割とあっさり、先程の竜児のように大河はアゴを乗せてきた。
「うわ。やわらけぇ…すげぇ…」
「うややややややややややややややや…こそばキモくすぐっちゃい〜〜〜」
アゴの下なんて、他人のそれに触れることなどまずあり得ない場所。
初めて触れる、大河のその場所は、びっくりするほど柔らかくて、少しひんやりしていて、赤子のように――という表現そのまま。産まれたばかりの大河の弟のように、柔らかで心地よい肌触りだった。
「はぅひゃほふひほふひゃわわわわわわわわわわゎ…う、産毛がサワサワでこそくちゅぐったいよぉ…」
「あ、これ産毛か!なんだろなこの微妙な感じ、って思ってたんだ」
「ひゃうぅ〜〜〜…」
眉をハの字にして、唇をプルプルさせて微妙な感覚に耐えている大河の顔は、ちょっとクスっとくる珍妙さと愛嬌があって。
ちょっとアホっぽい面でも、それなりに可愛いこいつは本当に…愛らしくて。
「大河…お前、ホント可愛いな」
「ふぇ?」
「……やべ。ちょっと、抑えきかないかも」
「え?…………ええ?」
顔を寄せる。
アゴを擽るのはやめて、その代わりに頬を指でなで上げた。
そのまま、大河の左眉にかかっていた前髪を、そっと払う。
その間、大河は少し固くなったまま、しかし片時もこちらから視線を外そうとせず、じっと俺を見つめて。
夜空にか細く瞬く、星のような光を浮かべて。
「大河。……俺は、大河が好きだ。…どうしようもなく、す、好きだ」
「竜児…」
こんな当たり前のことを口にすることすら、まだ恥ずかしい。つい、動揺して声が震える。
大河も大河で、「好き」といわれた途端、分かりやすく一瞬で真っ赤な顔になる。
きっと、自分も同じくらい顔を真っ赤にしているんだろうけど。
「…あのさ。き、きす、していいか…?」
「……いちいち確認とるな。というか尋ねるな。なによそれ」
「じゃ、じゃあいいんだな?」
「だから、きくなって。…そんなこと言われたら、ムード台無しじゃない。
ていうか、なによ、い、いきなり発情しちゃってこのエロ犬…?」
言葉を遮って、軽く一度。二度。三度。
四度目は逆に大河の方から唇を合わせてきた。
そのまま互いに、互いを、強く求めあう。
それなのに、やっぱり、まだ、慣れない。
大河はとてつもなく凶悪で最上の、甘美極まる毒だ。
貪っても、貪っても、飢えは満たされるどころかますます苦しくなる。
足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。
足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。全然足りない。
もっと欲しい。もっとヨコセ。全部ヨコセ。もっと。もっと。
もっと!もっと!もっと―――――
「………ッ!!」
脳が灼熱する。焼き切れる。自分が消え失せる――。
その畏れが辛うじて理性を繋ぎとめ、大河を際限なく求める欲望をなんとか堰き止めてくれた。
互いにハァハァという荒い呼吸をあげる。その唇と唇の間で、唾液の細い糸がつう、と流れた。
「りゅうじ…」
自分同様、満たされない飢えに不満の声を大河が上げる。
しかし大河はすぐにそれを引っ込め、軽く目を瞑った。
そして抱き寄せられたまま、そっと祈るように、胸の前で両手の指を組む。
そのまま、無言の時間が流れていく。
「竜児…?」
昔、980円で買った壁時計の秒針が三回ほど回った頃、大河が不審と不満が入り混じった唸りを上げる。
「お、おう」
「わ、わたし……覚悟、完了してるからね…」
「?…そ、そうか」
「っていうか…言わせないでよそんなこと…ムードぶち壊しなんだから…」
「そうか…すまねぇ」
今一つ大河の意図が不明であったが、彼女がやや機嫌を損ねているのは明白なので、素直に謝罪する。
だがしかし、一体どうしたものか?と竜児が思案する間に、時計の秒針は更に一回転。
「リュ・ウ・ジ?」
リュとウとジの間に、『一体チミはナニをしているのかねメ〜〜〜ン?』という隠し様もない致死量の苛立ちが混入されている。
なんだかよく分からんが、とにかくこのままでは非常にまずい事態になるのは確実だった。
「大河…」
「なに!」
「覚悟って…お前、それ一体なにが?」
「………竜児………このチキン野郎……こ、この期に及んで今更バックレようってワケ!?」
「いや、だから…意味がわからんというか…」
「たっ、たしかにまだ正式につきあいだして二ヶ月…いや、離れてた時期を除けば一ヶ月くらいだけど…
ちょちょちょちょっとつつつ次のステップに入るには早すぎるような気もしないでもないわ!
でもでもでもキ、キスは済ませたわけだし…つきあって一月でそういうのも今時はフツーっていうか…
だ、だいたい私たちはフォ、フェ、フィアンセなわけだし!
竜児、嫁に来いって言ったし!
高須のおじいちゃんとおばあちゃんにも私のこと、俺の嫁だって言ってくれたし!
もももも、もう、むしろ、自然というか!当然というか!だよね!?というか遅い?
そ、そうよ私たちはふ、ふ、ふうふ!夫婦よね!高須夫妻よね!婚姻届はまだ出してないけど!私は高須夫人なのよね!?
おおう…高須夫人…。表札にも高須の下に竜児と大河が並んで彫られるのね?
「大河…おい大河…」
「…長かった…長かったよここまでくるのに…ついに私たちは本当の意味で夫婦になるのね…
あ、でも避妊はちゃんとしないと…もしかして、ゴム、ないとか…
ど、どうしよう…こんなことならママが「嗜みだから」って自分の分けてくれた時、素直に貰っておけば…
…………。
で、でもね、竜児、あの、あのね、私…
最悪、なくても…というか、初めての時は、むしろ、無い方がいいかなとか…」
「大河……大河……!」
なんだかこう、耳から変な汁が出ているような気分で、竜児は腕の中の『夢見る乙女』を見下ろした。
「大河…」
「あ?なに竜児?」
「その…さっきからお前が何を言わんとしているか、また何を期待しているか、多分理解はしたと思うんだが」
「うん。それで?」
「……あの、非常に遺憾なのですが…俺としては、一応、これで終了してるんだけど…。
ていうか!俺らまだ高校生だし!
この一線だけはまだ、絶対に!越えるわけにはいかねえっていうか…」
「なんだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!?」
バタ――――――――――――――ン!!!
一瞬で、天地が逆転した。
自分は座って、膝の上に大河を乗せていた筈なのに、衝撃と共に気づけばマウントを取られ、自分の上に圧し掛かった猛虎が今にもボッコボコにしてやんよ!とばかりに兇悪に、拳を固く、固く握り締めているこの状況。
あれ?もしかして自分ライフ、ゼロになる風前の灯火?
「な、なによ!きょ、今日こそは私を手篭めにして猥褻で繁殖な行為に及んで大人の階段を登らせてくれると信じてたのに!
裏切ったの?裏切ったのね竜児!?この裏切り者!!!裏切ってる!それと〜〜〜、もの〜〜〜〜〜〜!!!」
「どこぞの変態執事かお前は!!?即興で変な節までつけやがって!!」
「うらぎりもの〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「意味ワカラン!!そりゃ確かにこう、じゃれてて盛り上がっちまったよ!お前が可愛くて可愛すぎてイチャ―ってしたくて!
キスしたくて、キスしたよ!
でもそれだけだよ!いつもそうだろ!!?いつもっつってもまだ2,3回しかないけど!!」
「うそ!だってさっきは私のアゴをいやらしく撫で回しながらハァハァしちゃって、『大河…お前は本当に可愛いな…やっべ俺様もう辛抱たまらんウホッ!』って下衆な欲情まるだしに発情してたじゃない!!」
「とりあえずウホッ!は無えよ!!っていうか…ま、まあ大筋ではウソではないかもしれねぇけど…
あ!そうか!お前…俺は『ちょっと抑えきかないかも』みたいなことは言ったけど…拡大解釈しすぎだよソレ!!」
「はあああああああああああああああああ!?アンタ今更そんなこと言いますか!!?
あんなにステキな声で『好き』って言ってくれで、あんなに激しくキスしてくれて、求めてくれて、
もうこんなにされちゃったら私…竜児が望むなら、わたしの全部、竜児にあげる!って思い定めちゃうわよ!」
「あう………そ、その気持ちはすげえ嬉しい…嬉しすぎるけど…」
「なのに……なのに……この、うらぎりものぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「ご、ごめん!悪かった!俺はそこまでする気は無かったんだけど、確かにそう取れるような思わせぶりなこと言っちまったかもしれねえ!!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!
バカ!タコ!ハゲ!ハゲ!ハゲ!グズ犬のエロ犬のバカ犬があ!!!」
人の上に乗っかって、胸板をダダっ子パンチでポカポカしてくる大河。
猛り狂っているが、しかしうっすら涙ぐんでいて、それだけで罪悪感が胸いっぱいに込み上げてくる。
それと同じくらいに、擬音は『ポカポカ』なのに実際に身体へ来るダメージは『ドスドス』という感じで、鎖骨と肋骨が悲鳴を上げている。
……まあ、殴られるのは仕方ない、と悲壮な覚悟は決めつつも、竜児は言うべきことは言っておこうと腹を括る。
「大河!」
「ひゃう!?」
仰向けになったまま、胸の上で暴れる大河の腕をつかみ、そのまま強引にもう一度、抱き寄せる。
「今はしない。俺はお前を抱かない。絶対抱かない!」
「な…」
「今は!だ!大河は俺の嫁!それもまた、絶対だ!
俺と大河は結婚する!そして夫婦になる!そしたらお前の言うとおり、表札には高須姓の下に、竜児と大河って名前を並べて彫る!
そういうふうに、できてるんだよ、俺たちは!
でも、そこまで行くのにはまだ時間かかるから…だからまだ、なんだ。
そのことについては何度も話したし、お前だって了解してるだろ?」
そう。
何度も二人で話して、決めたことだ。
俺たちはまだ高校生で、ガキで、まだまだ独り立ちはできない半人前。
そんな俺たちが望むものは、自分たちだけのシアワセではなくて、自分たちと、自分たちの周りの大事な家族や友人、みんなが幸せになれる未来。
そこに到るまでの道程は、まだ長く遠い。そして決して平坦ではない。
わかってる。ちゃんとわかってる。
「なあ…大河。さっきの話だけど」
「さっきっていつのさっき?何時何分何秒?」
「すねるなよ。確かにいろいろあってすっかり流れちまってたが…お前が貧乏性じゃないかって話」
「…?…ああ、そういえばそんな話してたっけ」
「さっきは言いそびれてたんだけどさ…結論からいうと、――貧乏性だなそれ」
「よーし竜児、歯ぁ喰いしばれ」
「けなしてるわけじゃねーよ。俺もその気持ちはわからなくもないから。
俺たちが出会って…一年間。色んな事が、あったよな」
「まあね。…去年の今頃って…何してたっけ。私が北村君に告白はした後だっけ?」
「GW前で…川嶋と知り合う、もうちょっと前くらいだな。
……一年だよ。ほんと、まだたったの一年なのに…本当に、色んな事がありすぎた」
「それを認めるのはやぶさかではないけど…確かに、あったよね。たくさん。
一年前の今頃は、私たち、…今だから言えるけど、もう好きだったよね、心の底では」
「…自覚はしてなかったけどな、お互い。でも、何か、単なるトモダチとか、そんなんじゃないものは、あったよな。
でも、まだあの頃は全然気づいてなくて。…そもそも、お互い、好きな相手がいたわけだし」
「うん…」
「なあ、大河。この一年、色々あった。ありすぎるくらい、あった。俗な言い方だけど、楽しい事や辛い事、出会いと別れを繰り返して。
滅茶苦茶、中身の濃い一年だった。
あっさり簡単に済むようなことなんて、ほとんど無かったよな。ややこしくて、難解で、うまくいかないことばかりだった」
「うん…」
「だからさあ。こんなこと自分で言うと悲しくなってくるんだけど…俺ら、苦労することに慣れちまってるんだよなぁ。
俺たちの精神的支柱の一本は、絶対『苦労性』で出来てると思うぞ」
「うわ…否定できないのが口惜しいわ…」
人の胸の上で頬杖をついて、大河はうげーと顔を顰めた。
「――だから簡単に物事が進むと、逆に落ち着かない…慣れていないんだな。
なにかしっぺ返しがあるんじゃないか――そんな不安を感じてしまうんだと思う。
それが俺たちの貧乏性とか、苦労性の正体だな」
これは単なる言い換えにすぎない。
シアワセに慣れていないのではなく、苦労することに慣れているのだと。
大した意味のあることではない。
それでも――それでも。
幸薄い、というよりも苦労が絶えないという方が、まだマシだと思いたい。
そう思わないと…色々なものを、恨んでしまいそうで。
薄幸の少女を見捨て続けた、全てに際限の無い怒りを抱いてしまわないように。
「でもさ。俺たちは――これから始まるんだ。まだ始まったばかりなんだ。
後ろを振り返るのは、いつだってできる。だから、今はまず前をみて進んでいくことを考えておこう。
だからさ。だから――ゆっくり慣れていけばいいんじゃないか?って俺は思う」
そう。大河はゆっくり、幸せになってくれればいい。
今までの分まで、じっくりと幸福になってくれればいい。
その横に俺がいて、泰子や大河の家族がいて、櫛枝や北村や川嶋や、みんながいてくれたらもっといい。
幸せになって、何が悪い。
幸せを望んで、何が悪いというのか。
欲しいものを欲しいと、幸せになりたいと、素直に望んで欲しい。
大河にはそうなって欲しい。
大河は一年前よりも、本当に幸せに笑えるようになったのだから。
それが俺にとって一番の幸福だから。
「――竜児が幸福じゃないと、私は幸せにはなれないよ?」
唐突に、ぽつりと大河が呟いてきた。
子供っぽい、何か悪戯を考えてるような目つきで。
「苦労性っていったら、竜児の方がよっぽど苦労性なんだから。アンタ細かいしね。
いっつもアンタが傍で辛気臭い顔してたら、幸運だって寄り付かなくなるんだから」
「…なんか酷いこと言われてるような気がするんだが、具体的にどこが酷いか指摘し辛いぞ…」
「そういうところが苦労性なのよね。禿げるわよアンタ。――でも」
期せずして、二人の視線が合った。
そして、言う。
「私が竜児を幸せにしてあげる…絶対に」
「俺は大河の傍にいるから…独りになんて、させないからな」
だからずっと一緒にいて。
二人でずっと生きていくんだ。
竜児の上で、大河がニヤリと笑った。
ニヤリはねぇだろ、と思いつつもそれが妙に相応しくも思えて、竜児は苦笑する。
苦笑したまま――竜児はそっと、大河の背中に手を回す。
「重くない?」
「軽いよ、お前は。全然大丈夫」
「うん――」
こんな風に、穏やかな幸せが、ずっと続けばいい。
これからも、自分たちは、二人で一緒にいるから。
――そしてそのまま、二つの影が一つになった。
<了>
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