「竜ちゃん〜、大変、大変」
ただいまと帰って来た竜児を出迎えたのは泰子の騒々しい叫び声だった。
「何が大変なんだよ?大家が家賃を上げるとでも言ってきたのか」
「違う違う、これ見て」
そう言う泰子が竜児へ差し出したのは町内会の回覧板だった。
「なになに・・・マンション建設反対の署名のお願い・・・何だこれ?」
「マンションが出来るんだって・・・そこに」
泰子が指差すのは南側の窓だった。
「そこって・・・隣の空き地にか!」
「そうなの・・・8階建てだって〜」
初秋の柔らかな日差しが差し込む借家の二階にある高須家の居間が急に暗くなったように竜児は感じられた。
「許せん!そんなことになったら・・・ベランダは日陰、洗濯物どうすんだよ」
断固反対だと竜児は書名用紙に高須竜児と書きなぐった。
高須竜児 中2の秋のことだった。

違法建築でもない限り、工事の差し止めなんて出来るはずもなく、春先には高須家に日差しは届かなくなる。
「真っ暗だね、竜ちゃん」
「ああ、どうする?」
「引越し・・・ね」
住環境が劣悪になったことは否めず、引越しを考え始めた竜児と泰子。
「でも、ここのお家賃・・・」
「・・・だな」
泰子の台詞をみなまで言わせず竜児も相槌を打つ。
付近の相場に比べて格安な今の住居。
決して楽ではない高須家の家計。
それを考えると引越しには二の足を踏まざるを得ない。
「仕方ねえ・・・がまんするか」
忌々しげに竜児は隣に出来つつあるマンションをにらんだ。
「まったく・・・どんなブルジョアが住むんだよ」
ポストに入っていた新築マンションのチラシに書かれた販売価格は竜児と泰子にとって縁遠いものだった。





「ただいま」
「お帰り、竜ちゃん・・・お隣り、引っ越して来たみたいよ」
中三の冬・・・受験を年明けに控えた竜児に泰子が言う。
「なに?ついに引っ越してきやがったか」
暗殺を請け負った仕事人が任務遂行直前の如く、細い目をいっそう細くして竜児は隣の建物を凝視する。
別に引っ越して来た人間がマンションを建てたわけでは無いのだが、マンションのオーナーの顔も知らない竜児としては手近なところへ憤懣をぶつけるしかない。
「どんなやつだった?」
「それがね・・・引越し業者の人はいっぱい見たんだけど・・・住む人が誰なんだか」
首を傾げる泰子。
「あ、でもベランダから見てたら、センスの良さそうなお洋服のミドルが居て指図してたから・・・その人じゃないのかなあ」
自信なさげに泰子は言う。
面白くないと竜児は泰子の話を聞き流す。
高須家から太陽を奪ったまだ見ぬ隣人へ竜児は見えない敵愾心を燃やす。

その夜・・・竜児は窓越しに隣のマンションの北側の部屋に明かりが灯るのを初めて見た。
厚いカーテンの向こう・・・竜児は思った。
・・・なんか寂しげな明かりだな。
何故そんなことを思ったのか・・・竜児にはさっぱり分からなかった。


それから竜児が注意して見ていてもマンションの窓に掛かるカーテンが開かれているのを見ることは無かった。
・・・本当に人が住んでるのかよ?
不思議に思わないでもないが、夜になると明かりが漏れるので誰かが居ることは間違いが無い。

そんな竜児がある日、ベランダで洗濯をしていているとふと視線を感じた。
竜児が振り向く。
・・・誰も居ねえ?
・・・ん?
良く見るとマンションの窓にあるカーテンが揺れていた。
・・・誰かが見てた?

そんなことが何回か繰り返された数日後のこと。
竜児はフェイント攻撃を掛ける。
ジロジロ見やがって・・・どんなやつだよ?
洗濯機へ神経を集中していると見せかけて、いきなり竜児は振り向いたのだ。

窓のカーテンが激しく揺れ、人影が一瞬にして消える。
・・・女の子!!?

意外なものを見た思いがする竜児。
カーテン越しでわずかな時間しか見ていないが、あれは確かに髪の長い女の子だった。


その日の夕食の席で・・・。
「なあ、泰子・・・隣の家だけど・・・小学生の女の子が居るみたいだぞ」






「言ってくれるじゃない、洗濯フェチ」
小学生呼ばわりされた大河はこう言い返す。
「俺のどこが洗濯フェチなんだよ?」
「隣にどんな人が住んでるんだろうって、私も人並みに興味くらい持つわ・・・で、こっそり見てたら目付き悪いのが楽しそうに洗濯してるだもん、可笑しくて」
本当にクスクスと笑い出す大河。
「笑うな」
竜児は抗議の姿勢を見せる。

「だって、高校入ったら・・・あんた、居るんだもん・・・げっ、同じ学校とか思っちゃった」
「悪いかよ・・・あそこなら歩いて通えるからな」
通学定期不要だし、自転車も買わなくて済むしと竜児は利点を数え上げた。
「ヤンキーとか言って恐がられてる竜児が洗濯・・・くっくっ」
笑いを堪える大河。
自分だけが知ってるヤンキー高須の秘密、そう思ったらなんか楽しくなったと大河は打ち明ける。
「・・・だからかな、竜児にすんなり馴染めたの」
笑いを引っ込め、大河はそう言う。

「竜児のことは一年の時から知ってた・・・そのあんたとまさかこんな風になるなんて、思いもしなかったわ」
心底、意外だと言う調子で大河は竜児を見つめる。
「俺は・・・おまえのこと全然知らなかった・・・廊下でぶつかるまで」
「失礼よね・・・どうせみのりんしか見てなかったんでしょ?」
「・・・すまん」
「馬鹿正直なんだから・・・少しは誤魔化しなさいよ」
「そうか?」
取り繕うことを知らない竜児に大河は笑みを隠さない。
「でもね・・・キライじゃなかったよ。竜児のそう言うトコ」

「・・・そうかよ」
怒ったような声を出し、そっぽ向く竜児。

そんな竜児の照れ隠しに大河は顔に満開の笑みの花を浮かべ、満たされた想いを味わっていた。





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