◆side大河

「おはよぉ」
「おぅ」

大河は目を覚ますと、寝ぼけ眼のまま居間へと足を踏み入れ、ぷんと漂うおみそ汁の匂いに反応した。

「今朝は……大根ね」
「おぅ、よくわかったな」

竜児は昔と変わらぬECOと入ったエプロンをしたまま卓袱台にみそ汁とご飯を置いていく。
これまた変わらぬような朝の風景。
しかしこれらは主婦顔負けの家事スキルを持つ高須竜児によって栄養のバランスが取れるよう考えられたメニューだった。

「あんたも飽きないわねぇ、たまには私がやってもいいのに」

結婚して三ヶ月。
お互い仕事をする身である為、家事は分担が基本だが竜児は暇があれば大河の分もやってしまう。
だってそこに家事が残っているのだ、やらねば失礼ではないか。
そこに埃が落ちていれば拾い、ついでにカビチェックをして、料理の仕込みをする時間があれば料理しておかねば失礼ではないか。

「誰に失礼だってのよ」
「おぅ!?口に出ていたか?」
「顔に書いてんのよ」

大河はいつも通り「いただきます」をすると食事を始める。
高校生の時から殆ど変わらないこのやり取り。

「2DKって言っても二人で住むんだったら案外十分よね」

さらには借りているアパートの広さまで一緒だった。
竜児の母、泰子は「新婚生活の邪魔はしないでがんす〜♪」と和解した両親、竜児にとっての祖父母と住む旨を言いだし、竜児と大河も仕事の関係から元のアパートからは離れざるを得なかった。
それでも似たような場所はあるもので、ここにしようと決めた場所が“あのアパート”と中がそっくりだったのだ。

「そうだなぁ、泰子と二人の時もあんまり手狭感は無かったかなぁ……っと、もうこんな時間か」

竜児も思い出しながら時計を見、

「悪い、先行くぞ」
「ん、あんたもそんなに時間無いなら朝の洗濯は私に任せても良かったのに」
「いや、大河にあんまり負担かけたくねぇし」

そう言い残すと竜児は慌てて飛び出していく。
ぽつんと残される大河。
別に寂しいとかじゃない。
今までにも似たような事はあったし、一人分しか食事が卓袱台に乗っていないあたり竜児は先に食べたのだろう。
時刻は七時十五分。
自分の出勤時間は八時半までだが竜児は七時四十五分まで。
場合によっては早出で七時までとかの日もある。
お互い社会人になったのだからそこに文句を言うつもりも無い。
普段は一緒にいようとする時間も作ってくれるし、自分の為を思って無理に早く起こさず、寝かせておいてくれるのも悪いとは言わない。
だが、

「何で竜児は求めてこないのよ」

最近の大河の思いはその一言に尽きた。
本当に変わらないのだ。
高校生の時と態度、対応が。
これでは高校生の時の生活の延長のようなものだ。
別にそれ自体にも文句を言うつもりは無いが、

「わ、私達はふ、夫婦であるからにして、そ、その“ふふう”の営みと申しますか、その、ほら、“ふうう”らしい“性活”……じゃなかった、生活は無きにしもあらずなわけでいて……」

自分にいろいろ言い訳をしている内に携帯が鳴り出し、そろそろ着替えないとマズイ時間だと気付く。

「あ、ヤバッ!?」

慌ててご飯をかきこみ、きちんと「ごちそうさま」をしてから慌ただしく着替えて大河も家を出て行く。



***



「お疲れ様でーす」

仕事が終わり、大河は帰路についていた。
今日も忙しくはあったが、このまま行けば家には七時半位には着くだろう。
竜児もよっぽどの事が無い限り夜はそんなに遅くならない。
今日は竜児の夕飯当番だし、遅くなる旨のメールも無いことから既に夕飯の仕込みをしている可能性も考えられる。
そこまで竜児のことを思って、ふと大河は今朝考えていた事を思い出した。

「私、やっぱり“そういう魅力”は無いのかしらね」

竜児が自分を好いていてくれていることは伝わって来る。
しかし何故かそれは“好き”という枠の中にのみ収まっていて、いわゆる青年思考へとは発展していかない。
小学生の恋愛、と言われれば反論できないような、そんなストイックな関係が続いていた。
嫌というわけではないが、竜児も男だ。
我慢しているのではないか、もしくは自分にはそういった魅力が不足しているのではないか。
そんな疑心暗鬼に陥りそうになってしまう。
何せ学生時代、“哀れ乳”として蔑まれた経験があるのだ、虚勢でもスタイルに自信があるとは言えなかった。

「はぁ……馬鹿竜児」

疲れていた体が、さらに疲れたような錯覚を伴ってガックリと肩を落とす。
気付けば歩いているのは商店街。
もうあと5分ほどで家には着くだろう。
と、商店街の一角にあるランジェリーショップに急に目が行った。
最近は嗜好の凝った物も多く大河も女なだけに興味は深い。
このまま帰ればあと5分で家に着くが、寄り道して悪いわけでも無い。
少し迷い足をしていた大河だが、ついには足をランジェリーショップへと向け、帰宅を十分ほど遅らせた。



***



「ただいまー」
「おぅ、おかえり……ん?何か買ってきたのか?」
「うん」

予定より若干遅くなった大河は別に悪びれもせずよいしょと既に料理が乗っている卓袱台の前に座る。
別に小さいテーブルでも良かったのだが、慣れてしまった上に前の家のを使えるのに捨てるのはMOTTAINAIという事で、そのまま使用していた。

「おい、着替えてからにしろよ、制服汚れるぞ」
「あんたねぇ、私もいつまでも高校生じゃないんだから」
「そりゃそうだけど飯の時くらい仕事のことは忘れようぜ」

竜児のもっともな言い論に、う〜と少し大河は唸ったあと、「わかったわよ」と着替えに向かう。

「おーい大河ー?これ食べ物かー?何が入ってるんだー?冷蔵庫入れとくかー?」

大河は着の身着のまま部屋に戻った為、買ってきた袋をその場に起きっぱなしにしてきてしまっていた。

「なんだと思うー?」

戸を隔てた先で大河は特段気負いも無く、着替えながら謎かけのようにして返事をした。


「わからーん、開けてもいいのかー?」

綺麗好きで家事大好きの竜児のことだ。
その辺に置いておくことが許せず、食べ物ならきちんと冷蔵庫などに入れておきたいのだろう。

「別にいいけどーそれって私のー……」

ショーツだよ、という前に竜児の竜児らしくないドタバタという騒々しい音が聞こえた。

着替えを終え大河が居間に戻ると、竜児は正座して卓袱台に着き、大河が買ってきた袋は壁際、それも竜児から最も遠くなるような位置に置いてあった。

「あんた何してんの?」

大河は不思議そうにしながら袋を持ち上げる。

「い、いや何でも無い!!さぁさっさと飯を食っちまおうおぜ!!」
「?うん」

大河は不思議そうに頷きながら席について食事を始める。
袋にはテープで封がしてあった筈だが、その封が切れていた。
異変はその後、三日後に訪れる。



***


◆side竜児

大河が洗濯し、畳んで置いておいてくれた洗濯物。
大河もかなり家事が板につき、洗濯程度ではまごつかなかくなったので最近の竜児は安心、もとい油断していた。
部屋の入り口付近に置いてある洗濯物を竜児は自分のクローゼットに仕舞おうと洗濯物を手に取る。
白いシャツを仕舞い、トランクスを仕舞い、靴下を仕舞い、白いショーツを仕舞……、

「ん?」

竜児は目を擦り、何度も今自分が手に持っている物を凝視する。
柔らかいシルクの手触り。
それは男性用の物とは全く違う三角形を模していて。

「……こ、これは……っ!?」

それは洗われたとはいえまず間違いなく大河の……ショーツだった。
しかも見覚えがある。

「あの晩に買ってきてた奴じゃねぇか……!!」

竜児はあの日、どうせ食べ物か何かだろうと思いこんで袋を開けてしまい、そこに輝く真っ白の園を見てしまっていたのだ。

「や、やばい……いやこれは大河のミスなわけで俺に責任は……」

そう自分に言い聞かせながら手に持つ真っ白なショーツを見やると、喉がゴクリと鳴る。

これは大河が身につけた物であり、ある意味自分なんかよりも大河に近しいというか大河そのものというか……。
悩めば悩むほど混乱し、頭を抱え込み、頭にシルクがファサと乗ってしまい「ぎゃあ!!」と転げ回る。

「何やってんだよ俺……これじゃ変態だ」

今度は冷静にショーツを離してから頭を抱えるが、先程まで触っていた手が温もりを覚えているかのような錯覚を起こしまた自己嫌悪して部屋を転がり回る。

「お、落ち着け、いや落ち着こう、たかがパンツじゃないか」

たかがパンツ、されどパンツ。

「〜〜〜っ!!」

無茶で無謀で無理だった。
そもそも大河という嫁は無神経、無遠慮、無防備と無が三つ揃っている。
風呂上がりは胸元がはだけているし、裸足は色っぽいし、スカートは似合うしフリフリは似合うし何着せても似合うし!!
普段から一線を越えようとする内心を抑えるのに一体どれだけの労力を必要としているのかわかっているのだろうか。
男の安っぽいプライドだが、それでも欲情に身を任せてがっつくような真似はしたくないのだ。
だというのに……これだ。
竜児はその凶眼でもってギロリと純白の三角形を睨み、

「ねぇ竜児」
「うわぉう!?」

どうやったらそんな発音ができるのかというような奇声を上げてばっと背中にそれを隠す。

「ん?今何か隠さなかった?」
「べ、別に何も。それよりお前入ってくるならノックくらいしろといつも言ってるだろ」

急に部屋に入ってきた大河に、内心汗をだらだらと掻きながら竜児は平静を装った。

「ふぅん、まぁいいけど」
「いいやよくない」
「あーはいはいノックねノック。なんならやり直す?」
「いや、別にそこまでしなくてもいいが……」
「でしょ?細かいこと気にしすぎなのよ竜児は。で例のドラマ始まっちゃうわよ?一緒に見るんじゃなかったの?」

気付けば時間は結構経っていて、確かにもうすぐ二人で楽しみにしていた連続ドラマの放送時間だ。

「おぅ、すぐ行くよ」
「ん、お茶淹れとく」

大河はすぐに踵を返し居間へと向かい、再び竜児が一人になる。
咄嗟に背中に隠した白いショーツ。
皺が着いてしまったそれは竜児の掌でくしゃくしゃに丸まっている。
竜児はしばし逡巡し、自分のベッドの枕、その下にショーツを隠すと居間へと向かった。



***



時刻は既に夜中の二時。
真っ暗な部屋の中、アイロンを動かす黒い影が一つ。

「よし」

影……竜児はそう言うとうっすらとした布を手に取った。
それは先程のショーツ、ではなくただのあて布だ。

「シルクをアイロンかけるにはあて布をしねぇとな」

あて布の下には、例の純白ショーツ。
皺一つ無い真っ白なショーツに満足した竜児は早速行動を開始した。
スラリと静かに襖を開け、ゆっくりとばれぬように大河の部屋の前へ。
一度深呼吸すると、スーッと自身の部屋の襖を開ける時よりも慎重に襖を開ける。
すっと鼻に大河の香りが入ってきて、思わずドキリとしながら大河が寝ているであろうベッドに視線をやると、案の定大河はベッドで丸くなっている。
使っているベッドはかつてと違い天蓋付ではなく、竜児とお揃いで新たに買いそろえたものだ。
以前のアパートで使っていた物もまだ使えたが、それを居間のアパートに持って行く時の運送費を考えると新しく買った方が安上がりと言うことで、この際お揃いにした。
竜児は素早く周りを見渡し、クローゼットに近づいていく。
あとはこれを仕舞えば終わりである、そう思った時、その辺に散らばる……否、今日回収していった洗濯物群がクローゼットの前に仕舞わずに畳んだまま置かれている事に気付いた。
悩み所である。
これが明日使う、もしくは仕舞うと決めているものならここに一緒に置かなければならない。
しかしそうでないなら引き出しを開き、パンツの園を拝む必要がある。
……急に罪悪感が湧き出てきた。
いくら夫婦間と言えど相手の下着の引き出しを開けていいものか。
特に男から女のというのは……。

「う〜む」

散々竜児は悩み、決断した。



***



◆side大河

「……ふわぁ」

目が覚め、今日も一日が始まるんだと体を起こす。
竜児に起こしてもらうのは悪いからと自分から起きる努力をしてはいるが、週に一回くらいは起こして貰っているのが現状だ。
まぁ、起こして貰いたいという欲求もあるので、このくらいがベスト、とは思っている。
身を起こし、ぼやけた視界で昨日クローゼットの傍に置いておいた今日の着替えをみやる。

「……あれ?」

ぱっと目が覚めた。
何故か一番上にショーツがある。
これは昨日仕舞わなかっただろうか……いや、そう言えば仕舞っていない。

「仕舞い忘れかな、でもなんでこれが一番上に?」

手に持ってみて……違和感。

「何か、買い立てっていうか……アイロン、かしらこれ」

随分とピンッと綺麗になっている。
経験上、一度使用して洗濯したあとだと、少しは皺、というか使用感というものが残るものなのだが。

「えっと、もしかして竜児?」

考えられる可能性はそれぐらいしかない。
あの万年家事大好き夫のことだ、彼ならばショーツ一つにここまでぴっしりとしたアイロンがけをするに違いない。
普通はあんまりショーツってアイロンかけないけど。
まぁそれはおいておいて、問題は理由だ。

「なんで竜児が私のショーツ持ってたのかしら?」

そこでハッと昨晩のことを思い出す。
昨晩、竜児は何か背中に隠すような素振りを見せていた。
まさか……。

「夜な夜な私に見つからぬように私の下着をオカズにしてたってコト?」

わからないが、現状考えられる可能性が大河にはそれしか思い当たらない。
もしそうならば心境複雑である。
下着をオカズにしていたのならば自分にもそういった魅力がある、ということになる。
まぁ、竜児が自分よりも下着に興奮する、などと言い出す変態で無ければだが。

「それは無い……わよね?」

イマイチ夫の性癖に自信が持てないが、そこはまぁ竜児を信じるコトにした。
さて、そうなると竜児は我慢していることになる。

「こ、これは妻として、甲斐甲斐しく、いやいや慎ましく?ああもう何て言えば良いのよっ!?とにかく竜児のその気に気付いてあげなきゃダメってことよね、うん」

混乱気味な大河だが、やることはきちんと定まっていた。
そう思うとこれから竜児に会うのがとても勇気のいることのような気がした。



***


「お、おはよぉ」
「おぅ」

いつもと変わらぬ声で竜児は挨拶をし、いつもと変わらぬ様で朝食の用意をしている。
それでも今朝は結婚した次の日の朝くらいに緊張しながら大河は挨拶をした。

「きょ、今日もい、良い天気ね!!」
「はぁ?」

竜児は窓の外から空を見上げる。
かつてのアパートと違うことはお隣に日を遮る大きなマンションが無いことだ。
そこから見える空はどんより曇り空だった。

「今日は曇りだぞ?大丈夫か大河?」

あまりに普通で普通な反応。
大河は肩透かしを喰らった気分だった。

「さっき天気予報でも降水確率80%だったし傘忘れんなよ?」

ぱっぱっと手の水を切ると竜児はECOエプロンを外して玄関へと向かう。

「悪い、今朝も早いんだ。飯は用意しといたから、それじゃ行ってくる」
「あ、うん。いってらっしゃい」

バタン、と玄関の扉が閉じてポツーンと一人取り残される。
いつものことではあるが、今日は力みすぎていただけに一気に脱力した。
ペタン、とその場に座り込み、ボーッと竜児が出て行った玄関を見つめる。

「普通、だったわね……」

さっきまでの自分の緊張を返せと言いたくなるほど竜児は普通でいつも通りに感じた。
こうまで普通だと、自分の考えがただの勘違いや思いこみの類では無いかと考え直す。
竜児のことだからたまたま落ちていたショーツを見つけて親切にもアイロンがけをしておいたとか。
そんな親切は大きなお世話でもあるんだが。

「まぁ、昔はやっちゃんもいたんだし今更下着くらいでどうこうってのは無い、かも」

パタリ、と横に倒れ、グゥとお腹が鳴る。
こんな時でもお腹が空く自分に少々呆れながらよいしょと起きあがり、竜児が用意してくれた食事に手をつけ……、

「……ん?」

違和感に気付いた。

「薄い……」

味が若干薄いのだ。
こんなことは過去、高校時代に竜児が病気に気付かず無理していた時以来だと記憶している。
あの時ほど酷くは無いが、どうにも今一歩味が足りていない。

「……?体調でも悪いのかしら?」

今日、帰ってきてみたら注意深く竜児を観察してみようと大河は決めた。



***



「な、何だ?俺の顔に何かついてるか?」

晩、お互い帰ってきてから向かい合って食事している最中、大河は竜児の顔を注意深く見つめていた。
竜児は酷く熱心に見つめられる視線に羞恥と焦りの色が濃く現れていた。
大河は身を乗り出し、念のために竜児の額に額をコツンとぶつけてみる。

「お、おい!?危ないだろ!?」

卓袱台の上にはまだ食事が乗っており、その上に浮くようにしている大河はとても不安定で“危険”だった。

「今朝ね、あんたの作ったおみそ汁が少し薄かったのよ、それでアンタ体調壊してるんじゃないかと思って。ほら、高校の時にもあったじゃない」
「だったら口で言え口で!!お前は口よりも先に行動が多いぞ!!」
「はいはい、熱は無いみたいだからもういいわよ」

大河はぱっと指定位置に戻り、箸を持つと、竜児が真っ赤になっているのがわかった。

「?アンタやっぱ熱あるんじゃ?」
「いや無い!!全く無い!!っていうかお前それ俺のシャツ!!」
「あ?ああ、コレ?そういやお風呂上がりに着替え忘れたから借りてそのままだった」

大河は下はハーフパンツ、上は竜児のシャツだった。

「いいじゃない別に、減るもんじゃないし」
「お、お前という奴は……いや、いい。わかったから後でちゃんと着替えろよ」
「はいはい」

大河は竜児の言葉を話半分に聞き流して食事を続けた。



***



◆side竜児

カポーン。
湯気漂うお風呂場の中、文字通り竜児は風呂に入っていた。
バシャバシャと湯を顔にかけてしつこいぐらいに洗う。

「あの馬鹿……!!」

竜児の顔は依然真っ赤だった。
だが決してのぼせたわけでも風邪をこじらせているわけでも無い。
竜児は額に手の甲を当てて天井を見つめる。
先程この額には嫁の額が重なっていた。

「っ!!」

思い出してまた顔をバシャバシャする。
あの体勢は大河にとって不安定で危険であり、竜児にとっても不安定で“危険”だったのだ。


額に額を重ねられた竜児は必然と視界が限られるハメになった。
まず大河の顔。
シャープな顎を持つ彼女の顔を間近で見ていると、あまりの美しさに恥ずかしくなり、自然と視線をズラしてしまう。
上を見れば視線が合う。
であれば視線は下降せざるを得なく、必然的及び必要的に竜児は視線を若干落とした。
滑らかな白い首、そして肩。
これが失敗だと誰が思おう。
彼女が着ていたのはなんと自分のシャツ。
気付いていなかったわけでは無いが、それくらいでどうこう言う間柄では無い。
問題は彼女の体勢だった。卓袱台から身を乗り出し額を重ねている以上、竜児の視線が下降すればそれはもはや一点に収束される。
普段ならそこまで気にしないが、今回は彼女が竜児のシャツを着ているのがまずかった。
ぶかぶか。
この一言で彼の体験した桃源郷は誰しもが理解出来よう。
そう、大河には竜児のシャツは大きすぎたのだ。
サイズ的にも肩幅的にも。
必然、彼女の着ているシャツはニュートンが発見した万有引力の法則によって下へと引き寄せられ、ぶかぶかの余っている部分に空白が生まれる。
……幸い、彼女は小さいながらもBRASSIEREをしていた為、竜児は防波堤決壊寸前で踏みとどまれたわけだが、問題はそんなコトではない。

「無防備すぎなんだよ……!!」

竜児にとってそれは問題だった。
自分の我慢が利かなくなる、というのもあるが何よりも。

「もし、人前でそんな格好してたら……」

いくら大河と言えど分別はあると理解しているが、生来からの彼女のドジさ加減を竜児は痛感している。
今のようなヴェストアングルを誰か他の男にも見せやいないかと冷や冷や……ヤキモキする。
そう思って、意外と自分は大河に依存……独占欲が強いんだなぁと意外な自分の一面に軽く驚く。
取り越し苦労だとわかっていても、心配になってしまうあたり、それだけ大河は特別な存在なのだ。

「ふぅ……」

考えても仕方が無いことだと思い、竜児は浴槽から出ると脱衣所に向かいバスタオルで体を拭く。
さぁ着替えようとして、

「……あれ?」

自身の用意していたシャツが無い事に気付いた。

「あ!!」

そこで思い出す。
そう、大河は竜児のシャツを着ていたのだ。
食事の前に入ろうと準備したシャツだったが、急に大河が自分から入ると言いだし、大河が入った後すぐに食事にしていしまっていた。
その為、竜児は食事を終えた後に入浴となり、大河のヴェストアングルのせいであまり冷静では無かった為に着替えのシャツを新たに持ってくるのを忘れていたのだ。
オマケに代わりとばかりに洗濯籠の傍には大河のシャツが落ちている。

「あいつ……よく探せよ、あるじゃねぇか……!!」

大河はシャツを忘れたわけでは無かった。
ただ落としたコトに気付かず、忘れた物だと思いこんでたまたま目に付いた竜児のシャツを「とりあえずこれでいいや」と代用したのだ。
ここで困ったコトになる。
まさか自分も仕返しとばかりに大河のシャツを着るわけにもいかない。
サイズが違い過ぎる為だ。
いや、決してサイズが合えば着ていたとかそういうことは無い、多分。
かといって風呂上がりにシャツも着ないで出たら大河に何を言われるかわからない。
正直に忘れたと言ってしまえばそれで済むかもしれないが、食事の時、くどくどと忘れたコトへの説教をかましてしまった手前、言い出しずらい。
そんなコトを思っていると、

『竜児ー、私ちょっとアイス買ってくるからー』

大河がそう言って玄関から出て行く音が聞こえてきた。
助かったとばかりに脱衣所を飛び出し、竜児は自分の部屋でシャツを着る。
大河はすぐに帰って来ていて、今晩もいつも見ているバラエティーの番組を一緒に見ながら更けていった。



***



「……しまった」

気付いたのは夜遅く。
お互い見る番組も終わり眠くなって部屋に戻った後の事。
竜児は自分の部屋にある一枚の小さめのシャツに頭を悩ませていた。
それはつい、脱衣所から持ってきてしまっていた大河のシャツだった。
……どうしたものか。
悩み所である。
ショーツで無い分、いくらか普通に返し安いものではあるが、相手は大河である。
近年言われなくなったが、『エロ犬』呼ばわりされたら目も当てられない。
自分は大河が好きであって、その、欲求に身を任せたいわけではないという竜児の紳士としての安っぽいプライドが大河にだけは『エロ』呼ばわりされたくないと訴えていた。
とすれば方法は限られてくる。

「もう1回同じように返すか……」

昨日は上手くいったのだから今日も大丈夫だろう。
そんな何処にも根拠の無い自信が竜児を突き動かし、部屋に置いてあるアイロンへと手を伸ばした。



***



◆side大河

「また……?」

今朝目覚めて大河が着替えようとすると、今度はシャツが綺麗にアイロンがけしておいてあるではないか。
意味がわからない。
何故竜児は自分の下着を持っているのか。
何故夜な夜なアイロンがけまでしてから返すのか。
まさか本当に下着に興奮する危ない人なのか。
竜児に限ってそれは無いと思うが、こうも綺麗にされた下着を見ると疑いが完全に晴れない。
“使用”した故に誤魔化しとして綺麗にした。
そんな裏の裏の裏、結局裏を読んでしまう。

「……ちょっと調べてみようかしら」

この日から大河は実験を開始することにした。



***



◆side竜児

「またか……?」

大河より渡された乾いた洗濯物の中に、またもや大河のショーツが混ざっていた。
今回は特に皺を作ってもいないので、夜、ドギマギしながら掴んだショーツをコッソリとそのまま返すことにした。
次の日、

「おいおい」

またもや洗濯物の中には大河のショーツが入っている。
最近は高校時代に比べてドジは減ったと思っていたが勘違いだったのだろうか。
今回も特に皺を作ってもいないので、夜、ドギマギしながら掴んだショーツをコッソリとそのまま返すことにした。
次の日、

「嫌がらせか?わざとか?わざとなのか?」

またもや洗濯物の中には大河のショーツが入っている。
それも二枚。
一枚はちゃんと洗っているようだが、もう一枚は……、

「これ、まだ洗ってねぇんじゃねぇか……?」

そこらへんのにわか主婦ならばわからない衣類の洗濯の有無も、長年続けてきた家事スキルを持つ高須竜児の凶眼は誤魔化せない。
だがそこに気付いてから急に緊張。
自分が今手に持っているのは使用済未洗濯の大河のショーツ。
決して自分は変態では無いが、無性にドキドキしてしまうのも事実。

「や、だめだ。何考えてんだ俺は。せ、洗濯しなきゃ」

はじっこをツマむようにして竜児はショーツを掴み、竜児は部屋を出た。



***



◆side大河

初日はそのまま返ってきた。
二日目もそのまま返ってきた。
これはあからさまだったかと思い、少し勇気を出して決心し、今度は脱ぎたてのショーツを混ぜてみた。
夜、ここ最近こっそり竜児の動向をチェックしている大河は、今日も襖の隙間から竜児の部屋の襖を見つめている。
流石に中は覗いていない。
もし覗いてショーツに興奮している夫を見たらきっと立ち直れないからだ。
だが、ここで張ってればいずれは現行犯逮捕できるはずだと大河は張り込みを続ける。
警察でも探偵でも無い彼女だが、気分はシャーロック・●ームズだった。
もし今晩もそのまま返ってくれば彼は真人間。
同時に自分にそういった興味を持っていないことが照明されるが、変態趣味を知るよりは幾分良い。
いつでもベッドに戻って寝たふりが出来るよう、短距離走のスターティングのように腰を落として状況を見守る。
と、今夜も竜児が部屋から出て行き……洗濯機の方へと向かう。

「?」

不思議に思いつつもばれぬよう忍び足で後を付けると、洗濯機の前にで腕を組み悩む竜児の姿があった。
洗濯機の蓋は開けられておらず、蓋の上には大河のショーツ。

(洗う気……?もしかしてもう使用済みとか?それは無いか、静かだったし)

大河とて伊達に長く竜児と一緒にいるわけではない。
それぐらいの機微は読み取れた。
とすると……、

(未洗濯なのに気付いて洗濯しようと思ったけど、一つだけ洗うのは水道代やら電気代やらがMOTTAINAIと)

大河は正確に竜児の脳内をトレースし、やれやれここまでかと出て行こうとして、

ガッ!!

突然竜児がショーツを鷲づかみにするのを見た。

(!?)

大河が驚いてそのまま見ていると、竜児はお風呂場へと向かう。
竜児は風呂場にある洗面器にお湯を張ると、そのショーツを手洗いしだした。
眼はギラリと釣り上がり、口元は横に裂けるようにうっすらと開いて、見る人が見れば変態以外の何者でも無い。
大河は頭を抱えた。まさか手洗いするとは。
しかもそれはそれは楽しそう?に。
オカズにされるよりかはマシだが、トコトン自分は女の魅力が薄いんだと実感する。

「はぁ……」

つい、口に出してしまった溜息。

「!?」

それが竜児をビクッとさせ、大河の存在に気付かせた。



***



「た、大河?こ、これは……」

竜児は慌てていた。
何せ嫁とはいえショーツを手洗いしていたのだ。
言い逃れをするにも分が悪い。

「良い、何も言わなくてもわかってるから」

大河は諦めたかのようにその場から背を向け、

「お、おいちょっと待て!!」

竜児は何か勘違いされていると思い、必死に大河の腕を掴む。

「アンタは私よりも洗濯に興奮する、大丈夫、ちゃんとわかってる」
「い、いや全然わかってねぇよそれ!!」

大河の言葉になんだそりゃと竜児は言い返すが、

「じゃあアンタは私のショーツに……その……ム、ム、ムラムラ来てたの?」

言葉に詰まる。
ここでそれを認めてしまえば今までの苦労は水の泡。
何のために自制心を抑えてきたのかわかりゃしない。
かといって、自分が大河よりも家事を優先しているように言われるのも納得は出来ない。

「ほぅら、やっぱりそうじゃない。アンタは私より家事に魅力を感じるのよ」
「あ、いや違う、俺は……」

違う、と言いつつも決定的に反論も肯定も出来ない。
安っぽくても、譲れない思いが、それを許さない。

「お、俺はただ、大河を大事にしたくて……そういうのは抑えなきゃって思ってて、だからお前に魅力がないとかそういうのは……」
「……抑えなきゃ?」
「あ、いやそれは……」
「……今抑えなきゃって言った?」
「あ、だからその……」

痛い所を突っ込まれ、本心を見透かされそうになるが、それでも竜児は今一歩言葉にすることは出来ない。
そんな竜児に、

「……シたいの?」
「っ!?」

大河は艶めかしい声で振り向きながら尋ね、笑った。

「エロ犬」

笑われて、久しぶりにそう罵られて、けどさっきまでの嫌な空気は無くて。
一番言われたく無かった筈の言葉なのに、今はそう軽く言われたことが、竜児の心を軽くした。


この三ヶ月後、大河が懐妊している事に気付くのは、偶然……いや、きっと、



──────そういうふうに、なっている──────





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