目が覚めた。
爽やかな目覚めだ。外で小鳥が鳴いている。ここ数日の睡眠不足からたまっていた疲れも、今朝は珍しく軽い。よく眠れたのだろう。窓の外はすっかり明るくて
「おおぅっ!」
思わず飛び起きた。
「大河!起きろ!寝坊だ」
横でCの字型に丸まっている妻は、ネコの足跡柄のパジャマ姿でまだ夢のなか。だが、優しく起こしている暇はない。いつもより40分も遅くまで寝てしまった。
「起きろ!」
ひと揺すりしてベッドを飛び降り、トイレに向かう。ベッドの上からは、いかにも寝ぼけていますといった声がかけられた
「竜児ぃ、お腹すいた……ご飯まだぁ?」
「飯はお前の担当だ!」
朝起きて朝食の準備をするのは専業主婦である大河の役目だ。しかし、彼女が生まれついてのドジであることは婚約する前からわかっていたのだ。ドジであることには文句はない。しかし、ドジを踏んだら文句は言わせてもらう。
竜児がバタンとトイレのドアを閉めた頃にになって、ようやく大河はベッドの上に起き上がる。眠そうに目をこすって大きくあくび。ムニャムニャと何かを呟きながら半開きの目で右を見て、左を見る。そして時計をみて悲鳴をあげた。
そのままベッドから飛び出そうとして転げ落ち、「ふぎゃーっ!」と炎天下に放置された自動車のボンネットに放り出されたネコのような声を上げる。
そして、あわてて立ち上がってキッチンに走り、今度hあなにかを盛大に蹴っ飛ばした。
「おい走るな!朝飯はもういい!」
トイレから顔を出した竜児が一声叫ぶように言うと、バタンとトイレのドアを閉める。もう慌てて朝食の準備をしても遅い。到底朝食を取っている時間はないのだ。
高須竜児、初遅刻の危機である。
◇ ◇ ◇ ◇
「ね、竜児。忘れてる」
「なに!?」
玄関で振り向いた竜児の目はきつく吊りあがり、すでに人類のものではない。家から会社までの空間を真っ二つに切り裂き、歪曲空間通勤の準備完了。というわけではなく、頭の中で忘れ物をチェックしているのだ。
財布よし、小銭入れよし、ハンカチよし、定期よし、ネクタイはしている。かばんは持ってる。書類は昨夜用意して確認済み。はて、忘れてる?何を?天井を仰いで考える。わからない。
カミソリも裸足で逃げ出す視線を戻した先では、朝寝坊の責任を感じているのだろう。パジャマ姿の大河が言いにくそうに困ったような、訴えかけるような瞳を竜児に向けている。そして
「ね、竜児。忘れてる」
その困ったような顔のまま目を閉じて、つん、と顎をあげる。
このくそ忙しいときに!と瞳をカタカタ揺らして深く一息。思いなおせば竜児も朝っぱらからテンション上げすぎである。こんなことではろくな一日にはならない。狭い玄関で息を吐くと
「そうだな、すまねぇ。忘れてたぜ」
優しい笑みを浮かべて囁き、妻の小さな体に手を回してそっと引き寄せる。かがんでいつもの「いってきます」の挨拶。優しく抱き寄せられて背伸びをしながら、唇を重ねた大河も竜児の腕の中で力を抜き、
「ん」
と、鼻の奥で甘く声を漏らす。1秒、2秒とついばむように、互いを確かめるように、会話するように優しいキスは続く。
「ん……んん……んんん!」
12秒、13秒、いつもよりぐっと長く情熱的になった「いってきます」に大河がさらに声を漏らす。ようやく解放されてよろっと、横に一歩。ようやく立て直した態勢から見上げる顔は真っ赤。
「じゃ、いってきます」
「………………」
「なんだよ、『いってらっしゃい』って言ってくれよ」
うながされた大河は、顔を真っ赤にしたまま唇を可愛くとがらせ、うらみがましい目でかろうじて一言。
「朝からベロ入れちゃ嫌だよぅ」
(お し ま い)
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