「大変、お待たせして申し訳ありません。前の組が長引いてまして・・・恐れ入りますが、今しばらくこちらでお待ち下さい」
恐縮の態を取る係員に誘導されて、控え室とも言うべき小部屋へ竜児と大河は案内される。
肉厚のふかふかクッションが付いた椅子にふたりが腰を下ろすと、係員は深々と頭を下げ退出した。
後に竜児と大河だけが部屋に残される。

「予定通りに行かないもんだな」
「いんじゃない・・・ここまで来たら急ぐ必要なんて全く無いんだから」
「でも、みんなを待たせちまうぞ」
「気にしない、気にしない。どうせ、噂話とかに花が咲いてるわよ」
「そうかもな」
竜児は相槌を打った。
「30分くらい・・・だっけ?遅れてる時間」
「なんかそんなこと言ってたな・・・でもその分だけ・・・大河のその姿を独り占めできる」
大河へ視線を這わせる竜児。
「ふふん・・・良かったね竜児」
「ああ、布団のシーツじゃねえ・・・本物のベール・・・きれいだぜ、大河」
「竜児のおじいちゃんの家だったね、あれは」
「俺も大河も高校生で・・・」
「・・・駆け落ち」
大河の声に合わせてふたりとも笑い出す。

「若いって・・・すごいよね」
「おいおい、十分俺たちまだ若いぞ」
「でも、もうあんな無茶出来ないよね」
「・・・確かにな・・・でも、そのおかげでこうして今日を迎えられた・・・大河と一緒に」
優しげ目つきで大河を見る竜児。
「・・・うん」
少しうつむいてはにかむような表情をする大河。
純白のドレスもあいまっていつも以上に大河を可愛らしく見せる。

遠くから伝わって来るざわめき。
前の組が滞りなく進んでいる証拠だった。
後、数十分後に大河も竜児もそのざわめきの住人となる。

お互いに生涯を共に過ごすと言う誓いをみんなの前で立てる儀式まで、もう少し。
高校生から育んで来たものの形が結実しようとしていた。

「・・・長かったね」
感慨深そうに大河が言う。
「いろいろ・・・あったな」
竜児も少し遠い目をする。

「廊下でぶつかって・・・あんたの家に殴り込んで・・・気が付いたらすっかり居候で・・・そしていつのまにか好きになってた」
「わがままで、横暴で、犬扱い・・・でも、そんなおまえが放って置けなくて・・・」

「ねえ、竜児?」
「おう」
「一度、聞いて見たかったんだけど・・・いつから私のこと、好きだったの?」
「ぶっ・・・おま、今日みたいな日に聞くことかよ」
「いいじゃない。ね、教えて」
「・・・はっきり意識したのは修学旅行の後だった」

・・・修学旅行。
その単語が大河の心の記憶を呼び覚ます・・・そう、あれは・・・。





「どうしたって・・・竜児のことが・・・・・・好きなんだもん」



照明の落ちた室内でパイプベッドに横たわった大河は白い天井を見つめていた。
額に巻かれた包帯と時々襲って来る軽い頭痛が半日前の出来事が嘘じゃないことを教えてくれる。
あれは・・・北村君?
何度、記憶をたどってもそれが誰だったのか、大河は確たる証明が出来ないまま、堂々巡りを繰り返す。
誰かに背負われていたのはぼんやりと思い出せるのだが、それが誰だったのか分からないのは頭の痛み以上に苦痛だと感じる大河。
そんな大河は自分の心の内側へ続く扉を開けてしまっていた。
その向こうに見たものを見なかったとにしようとした毎日。
それなのに、ほんの少しの気の緩みから、大河はそれを口の端に乗せてしまったのだ。
実際、それすらぼんやりとした記憶で本当に自分はそんなことをしゃべってしまったのかどうかすら判然としない。
夢か幻かもしれない・・・でも、そうじゃなかったら・・・。
そして、その相手が竜児だったら・・・。
そう思った瞬間、大河の体に戦慄が走る。
もし、そうだったとしら自分はどんな顔をして竜児に会えばいいのか分からない。
みのりんと竜児を結び付けるって誓ったことが台無しになることを大河は恐れた。
あれが、北村君だったら・・・と、願望に過ぎないって分かっていながらも、大河はそう願わずにはいられなかった。


それにしても、とんだ修学旅行になったと静まり返った病室で大河はつぶやく。
ふと思い出し、大河はそっと起き上がると枕元の携帯電話のフリップを開き、リダイヤルする。
呼び出し音の後に聴こえるのは無機質な合成音声。
・・・お掛けになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない・・・
大河は電話を切り、あのくそじじいと罵る。
電話にも出ない、掛け直しても来ない、何やってんだ、あいつ・・・と日頃気にもしなかった相手のことが気に掛かる。
ベッドサイドに置かれたパイプ椅子、ほんの数時間前まで大河の担任である恋ヶ窪ゆりこと独身が座っていた椅子だった。
崖下から救助された大河は救急車でスキー場からこの麓にある病院へ搬送され、独身が付き添って来たのだ。





「先生が泣いたなんて言うのは内緒よ」
大河が何ともないと分かり、ベッドサイドへ来るなり、ほろりとしてしまった今日の独身。
くどいように念を押す独身に大河は言わないわよと面倒くさそうに答える。
「でも、困ったわ、逢坂さん」
一瞬、安心した表情を見せた独身だったが、すぐに困った顔を見せる。
「どうしたのよ?」
「お家の人と連絡が付かないの」
大河が学校へ届け出ていた緊急連絡先は当然のことながら父親の家だった。
「さっきから掛けているんだけど、繋がらなくて」
「いいわよ、大したこと無かったんでしょ?」
このままホテルに戻ってみんなと一緒に帰るという大河に独身はそうはいかないと言う。
「どうしてよ?」
ぶすっとする大河に独身は大人の事情と言うやつを説明する。
「怪我した逢坂さんをそのままって言うわけにはいかないの」
「ふん。いろいろ面倒なのね」
馬鹿らしいと大河は思ったが、それで独身が困らないのならばと大河は携帯電話を手にする。
「どうせ、出掛けてるんでしょ」
メモリーから「くそじじい」を選び、大河は発信ボタンを押す。
「あれ?・・・繋がらないや」
すぐにでも父親が電話に出ると思っていた大河はあてが外れ、首を傾げる。
少ししたら掛け直してみましょうと言う独身の言葉にいったんは頷いた大河だが、夕食を食べ終えても連絡が付かないに及んで大河は切れかける。
「何してんのよ、あのじじい!」
舌打ちと共に親を罵る大河を戒めながら独身は困惑度を高める。
「困ったわ・・・先生も帰れないし、逢坂さんも帰れない」
保護者の了解がなければ病院側としてもこのままお帰り下さいと言えない、と診察にしに来た医者にまで言われ、進退に窮してしまう。
「ふう・・・しょうがない」
大河は諦めたようにため息を衝くと切り出した。
「要は私の親に連絡が付けばいいんでしょ?」
うんうんと独身は頷いてから、でも電話も通じないのにどうやってと疑問を呈す。
「ママに連絡する」
大河にそう言われておぼろげながら独身は大河の家庭事情を思い出した。
「親権・・・とか言うの?無いけど、実の親に代わりは無いでしょ?」
「ええ、大丈夫よ」
内心駄目とか言われないかと期待していた大河だが、独身に太鼓判を押されてしまい、引くに引けなくなり携帯電話に手を伸ばす。
「言っとくけど、番号変えてなかったら・・・だからね」
ぶつぶつ言いながらも大河は久しく押していなかった母親の携帯電話の番号をメモリーから探し出した。
呼び出し音が鳴ったことで番号は昔のまま変わらないことが知れ、大河を安心させる。
そしてなかなか出ないであろうと思っていた相手が3コールで出たことに大河は驚く。


「大河?・・・大河なんでしょ?」
スピーカー越しに大河が聴く、久しぶりの母親の声。
もしもしも名乗りも無しにいきなり大河を呼ぶ。
相変わらず、自分勝手だと大河は思わざるを得ない。
「ちょうど良かったわ。あなたに電話をしようと思っていたところだったの」
用事なんて無いのにと思いながら大河は母親との会話を進めて行く。
「今、何処に居るの?大河」
あのマンションかと聞かれて、大河はかいつまんで今の状況を説明した。
「怪我って?大河・・・大丈夫なの?」
母親の声の響きが少し変わった様に思えるのは気のせいだろうかと大河は思いながら、詳しいことは担任に聞いてと携帯電話を独身へ押し付けた。
「ママよ」
「もしもし・・・はい。私、大橋高校で大河さんの担任をしております恋ヶ窪と申します・・・はあ、いえ・・・本当に申し訳・・・あ、そうですね・・・・・・」
独身と母親の会話を横目で聴きながら大河はホテルへ戻ったらどうしようと考えていた。
竜児とみのりんの仲を修学旅行で進展させる計画は失敗だし・・・次の手を打たないと・・・。





「逢坂さん。お母様」
大河の思索はそこで断ち切られた。
見れば独身が携帯電話を大河へ返して来ていた。
「もしもし」
面白くもなさそうに大河は電話に出る。
「大河、今、担任の先生にもお話したけど、お母さん、そっちへ大河を迎えに行くから」
「・・・冗談、来なくていいわよ」
そして今夜、ひと晩病院へ泊まれと言い、それから迎えに行くという思い掛けない母親の言葉に大河は少し慌てた。
「とにかく、明日のお昼頃にそっちへ行くから、いいわね」
大河に否応の返事を与える間もなく電話は切れた。
妙な雲行きになったと憮然とする大河と対照的に独身は晴れやかだ。
「良かったわね、逢坂さん。お母様が迎えに来て下さるみたいで」
「どこがいいもんですか」
濃度を間違えて作ったリンゴ酢入りのジュースを飲んだみたいな顔で大河は吐き捨てる。
また明日の朝、来るからと言い残してホテルへ帰ろうとする独身に大河は声を掛ける。
「ゆっくり来ていいわよ」
どうせ早くにはこっちへ着けないからと大河が言う。
「お母様、どちらから見えられるの?」
この独身の問いに大河はぼそりと答える。
「・・・福岡よ」



東京行きの新幹線あさま号は速度を落としながらビルが林立する街並みを終点へ向かって走る続ける。
そろそろ着くと言う母親の言葉に促されて大河は降りる支度を始めた。
と言っても今朝、宿泊先のホテルから独身が持って来てくれたスポーツバッグひとつを網棚から降ろすだけだったが。

一番機で飛んで来たと言う大河の母親が病院へ現れたのは大河の予想より早く12時少し前だった。
1年以上会っていなかった母親との再会だったが、これと言って大河に感慨はない。
それでも、わざわざ来てくれてご苦労様ねと憎まれ口を叩きつつも、久しぶりに会った母親への最低限の親愛の情は示して見せた大河。
相変わらずね、あなた・・・と大河の素っ気無さに慣れっこになっている母親はそれを軽くかわす。
そして付き添っていた独身に謝意を示し、後はご心配なくと大河の庇護責任を引き継いだのだった。





「う〜ん」
病院の外へ出て大河が真っ先にやったのは背伸びだった。
「あんなとこ居たら息が詰まっちゃう」
「もう痛まないの?」
「・・・ちょっとだけ」
母親にそう聞かれて、少し声を落として大河は言う。
修学旅行に同行していた養護教諭が大河が担ぎ込まれた救急病院へ提出した保健カードに鎮痛剤アレルギーと記載があったため、十分な鎮痛処置を大河は受けさせて貰えなかった。
おかげで昨夜は良く眠れていないし、今も頭の中で盆踊りの太鼓がエンドレスで鳴っているがごとき不快な気分が続いている。
「ねえ、大河」
「何?」
「お母さん、心配だわ。まだ、あなたの気分がすぐれないって言うのが・・・」
「大丈夫でしょ、一応検査したんだし」
「でも、ちゃんと信頼出来る病院で、診てもらわないと」
「・・・ママがそう言うなら」
大河にしては珍しく素直に意見に従ったのは早くこの不快な症状を取りたいと言う気持ちがあったからだ。
「そう、ならもう少しだけ辛抱してね」
そう言うと母親は携帯電話を取り出し、何処かへ電話を掛け始める。
その間、大河はブラブラと歩道の石をいくつか蹴っ飛ばしていた。
「さ、行きましょう」
電話を終えた母親が大河を促す。
「行くって?何処へ?」
「福岡に決まってるでしょ。お母さんが懇意にしている病院があって、そこに大河を頼んだの」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
意外な母親の言葉に大河はうろたえる。
「わざわざ、そんなとこまで行かなくても」
東京にもいくらだって病院あるでしょという大河に福岡の病院しか知らないと大河の発言を封じる母親。
いったん、母親の言葉に同意してしまった大河の反論は弱く、しぶしぶといった形で大河は最終的に母親に折れた。


東京駅から慌しく羽田空港へ向かい、すっかり暗くなる頃に大河は母親が良く知っているという病院へ着いた。
検査入院と言うことで個室へ案内された大河は適切な投薬もあってか、夜半にはすっかり気分が良くなり、空腹すら感じるようになっていた。
気分が良くなると忘れ掛けていた昨日からの出来事が嫌でも思い出される。
独身から今朝聞き出した話によると大河を直接助けたのは竜児、北村君、みのりんだと言う。
崖から落ちた瞬間の事は良く覚えていないけど、本能的に「あ、やばい」って感じたのは記憶している。
強い衝撃を感じて・・・それから先のことはぼんやりとしか感じられない。
次にはっきりした記憶は救急車の中だったし・・・。
その間の出来事が現実だったのか夢だったのか・・・分からない。
でも、夢だとしてもはっきり言えるのは誰かに背負われて、その耳に向かってささやいたことだ。
・・・竜児が好きだと・・・。
あれは北村君だよね?
それを確認するには当事者に直接問い質すしかなかった。





一日余りの検査入院の結果、脳波、レントゲンとも異常無しと太鼓判を押された大河はやって来た母親に気が済んだでしょと言い、帰京する旨を告げた。
「・・・そのことなんだけど・・・大河・・・」
母親の歯切れが悪い。
「問題ないって分かったんだから、もういいでしょ。それともまだ何かあるの?」
「福岡の家まで来て欲しいの」
遠慮がちに切り出す母親の声に大河はヒステリックに言い返す。
「何で!私が!あんたの家に行かなきゃいけないの!!」
「聞いて、大河」
「聞きたくない!!!」
もう帰る、聞きたくないと繰り返す大河に母親はゆっくりと話し始める。
「逢坂のことよ」
このひと言で大河の燃え盛る炎が小さくなった。
「パパが・・・どうかしたの?」
あれから何回も電話したけどとうとう繋がらなかった電話。
音信不通の事実が急に重みを帯びて大河の目前に突きつけられる。
言葉を選ぶ様に母親が告げる内容に大河は目の前が暗くなった。
「・・・嘘!・・・嘘でしょ、ねえ」
「嘘じゃないわ。大河が私に電話をくれた日に分かったことなの・・・逢坂がいろいろ問題を抱えていたのは知っていたけど、そこまで深刻になってるなんて知らなかった」
弱弱しく首を振る母親。
「もっと早く分かっていたら、大河をこんな形で悲しませずに済んだかもしれないわ」

大河の父親、逢坂陸郎が経営していた投資会社は多額の負債を抱え、破綻していた。
顧客から預かった資産を運用し、順調に規模を拡大して来たが、急激な市場の変動に対応しきれず赤字経営に転落。
「逢坂は無理をしたのよ」
一か八かの大勝負を金融市場で仕掛け、失敗したと言う。
「お金を預けていた人たちから、お金を返す様に訴えられて、裁判にも負けたわ」
残ったのは多額の借金だと母親は大河に説明する。
そして、逢坂陸郎自身も経営する会社が破綻する直前、行方を晦ませてしまったとも言う。
「パパはどうしちゃったの?」
「分からないわ。どこに逃げたのか・・・」
呆然とする大河を母親は元気付ける。
「でも、安心して頂戴。大河には何の関係もない事だから・・・これからはお母さんと暮らすのよ」
親権の変更や、大河に火の粉が降りかからないように手続きはこれからだけど間違いなくやるからと言う母親。
「・・・学校とかどうするの?・・・そんなの勝手よ・・・私、嫌だからね」
あのマンションに住み続けると半泣きになって主張する大河に母親は冷酷な事実を告げる。
「・・・できないわ」
「どうして!!!」
「逢坂も馬鹿だわ・・・なんで大河の名義にしておかなかったのかしら」
あのマンションは逢坂陸郎の投資会社の法人名義になっていたと母親は言う。
「金融機関の抵当に入ってるの・・・簡単に言うと借金の担保ね・・・分かるでしょ、お金を借りる代わりに何かあったら差し出す事になってるの」
「・・・じゃあ」
大河は目を見開く。
「そうよ・・・あのマンションにはもう住めないの・・・あの家はもう・・・大河のものじゃないわ」
最終宣告を突きつけられて、大河はさっきまで寝ていたベッドへ力なく座り込んだ。



茫然自失する大河に追い討ちを掛ける出来事がさらに待っていた。
屠所に引かれる牛みたいな有様で母親の家に連れて来られた大河はそこで何年振りかで母親の再婚相手に対面した。
父親と母親が離婚で争っていた当時、大河自身はどっちと暮らしたいのかと選択を迫られて母親の再婚予定相手と会っているのだ。
あの時、パパを捨てて新しい恋人を作ったママを許せなくて、そしてその相手を認める事は出来なくて・・・大河は父親の手を握ったのだった。
・・・パパの方がお芝居が上手だっただけだけどね、結局。
ママと離婚して間もなくだったっけ・・・夕が来たのは・・・。
いさかいばかりだった継母・・・。
離婚調停時にはもうパパにも居たのよ、夕が・・・知らなかったのは私だけ。
自分は余りにも子供過ぎたと大河は思う。
でももしも、あの時・・・パパの手を取らないでママの手を取っていたら・・・。
どうなっていただろうと大河は時々、考える事がある。
みのりんに出会わなくて・・・北村君にも会わなくて・・・・・・そして、竜児を知る事も無かった。

「や、よく来たね。何年ぶりかな?」
笑みを浮かべる相手に能面のまま応対する大河。
「ほら、挨拶しなさい」
母親に促されて大河もひと言。
「どうも」
およそ挨拶とは程遠い返答をする。
あちゃあと言う顔で母親は大河の後頭部に手を沿え、無理やりお辞儀をさせる。
「大河」
たしなめる母親にそのパートーナーはまあまあと言ったくだけた感じで大河に接する。
「急には無理だよね。でも、今日からここが大河くんのお家になるんだから、固くならなくてもいいよ・・・昨日、急いで部屋も準備したから、2階の、あんまり広くないかもしれないけど気に入ってもらえると嬉しいな」
よくしゃべる奴だなと見ていた大河だが、次のひと言で平静さをかなぐり捨てた。
「いや、でも良かった・・・お姉ちゃんが出来て」
「お姉ちゃん?」
「え?まだ、言ってないのかい?」
反芻する大河に相手は驚き、母親のお腹を見つめる。
振り向いた大河にお腹をかばうようにして立つ母親。
刺すような目線を母親のお腹へ向け、すべてを理解した大河は息を吐き出す。
「・・・はっ、そう言うこと・・・私なんかいらないじゃない・・・そいつの子供だけで十分でしょ!」
そんな子供知らないと、話すうちに激昂してくる大河。
「一緒に暮らすなんて真っ平!・・・生活費だけ送ってよ・・・アパートでもなんでも借りて独りで暮らすから・・・独りで何でもやっていけるわ・・・そう決めたんだから!!!!」
大河の最後の叫びと乾いた音が重なる。
「・・・大河」
悲しみの色を湛えた母親は震える右手を左手で押さえながら言葉を選ぶように大河へ語り掛ける。
「・・・言っていい事と悪いことがあるわ・・・確かに・・・お母さん・・・大河にとっていい母親じゃなかったも知れない・・・」
大河が認める認めないに係わらず、お腹の子は大河の弟か妹なのは否定できない事実だと母親は告げ、こうも付け加えた。
「大河がお母さんのことを責めるのはあまんじて聞くわ・・・でも、この子の事は悪く言わないで」
左の頬を赤くした大河はその場に泣き崩れるしかなかった。





お通夜のような食卓で砂を噛むような夕食を終え、大河は自分用にあてがわれた部屋に引き上げた。
とんだ愁嘆場を演じたものだと大河は軽く自己嫌悪を覚える。
それでも後先を考えないで飛び出さなかっただけマシかと大河は自分を慰めた。
こんな見知らぬ土地じゃ・・・行く宛てなんてないし・・・。
ベッドに寝転がって大河は部屋を見回した。
乙女チックな毛布カバーの絵柄・・・パステル調の窓に掛かるカーテン・・・シックな基調の机に洋服タンス。
統一感の無いインテリアがいかにも急ごしらえと言う感じを見せている。
・・・もう、小学生じゃないんだよ、ママ。
着替え用にベッドに置かれたパジャマの子供っぽさに大河は少しだけ笑みを取り戻す。
フリーサイズのややブカブカなパジャマに袖を通し、ベッドの縁に腰を下ろすと大河は携帯電話を手にする。
時刻表のように一定間隔で残る着信履歴。
竜児の名前がいくつも並ぶ。
疲れきった大河の神経は竜児をひどく求めていた。
・・・竜児。
思わずリダイヤルしてしまう大河。
しかし、そんな大河の思いを打ち砕くように携帯電話は電池切れの警告音を発し、沈黙する。
・・・充電器、置いてきちゃった。
大河の手から携帯電話が滑り落ちる。

このドジと目を閉じた大河のまぶたに浮かぶ竜児の顔。
笑いながらも心配そうに大河を見守る竜児の温かな視線。
おかわりと大河が差し出す空の茶碗に山盛りにしてご飯をよそって返す竜児。
食べ過ぎんじゃねえぞ、そう言って笑った竜児の笑顔。
次から次へと浮かんでは消えて行く。

みのりんと・・・上手く行くようにって頑張ったのに・・・もう駄目かな。
閉じた大河の瞳から乾いたばかりの頬へ向かってひとしずく流れ落ちた想いがシーツに小さな染みを作った。






取り乱した大河の様子に不安を覚えたのか、次の日も、そして次の日も母親は大河の側を離れないようにしていた。
そんな訳で否応も無く大河は母親が居なくなってからの数年間を問わず語りに話してしまった。
「独り暮らしを始めたとは聞いていたけど・・・そんな事情だったなんて・・・お母さん、少しも知らなかった」
駄目な母親だわと自分を責める。
「逢坂も逢坂だわ」
前夫を非難する母親を大河はやめてと止める。
「どうしてかばうの?あなたを置いて逃げたのよ」
それを言うなら私を置いてあんたも逃げたじゃない、ここへと・・・言い掛けて大河は台詞を飲み込む。
「パパは・・・パパだわ」
キッとする大河の表情に母親は追及の手を弱める。
「そうね・・・あれでもあなたの実の父親ですものね」
そんな大河は母親への非難のトーンを少し下げていた。
別段、許したとかそう言うことは無いが、数日間、一緒に暮らしてみて以前と違っている点がいろいろ見えて来たせいからだ。
毎食をキッチンで作る母親を大河は初めて見る思いだった。
お手伝いさん任せの家事ばかりで、パパと一緒だった時はそんなの数えるほどしかなかったのに・・・。
母親が作る料理は決しておいしいとか言うレベルじゃないけれど、手抜きが無いのは大河にも分かった。
そして、更なる驚きは母親の再婚相手が家事を手伝っている点だった。
仕事だってあるだろうに早く帰宅してはキッチンで一緒に母親と楽しげにやっている様子を垣間見て大河は小さなショックを覚えた。
・・・パパと居た時・・・あんな楽しそうなママ・・・見たこと無い・・・。
大河は何もせず、ただ食卓で出て来る料理を待っているだけの自分がひどくみじめに感じてしまった。

「どう?お母さんの料理?」
「竜児の方がずっと上手」
にべもなく切り捨てる大河だが、初日と違って残さず食べることでそれなりの意思表示はしていた。
「竜児・・・くんだっけ?」
娘の口から何度も飛び出す異性の名前に母親は女親として大河の心の動きが見えて来ていた。
「お隣に住んでるクラスメートね」
「そうよ」
最初、大河から話を聞いた時、母親は驚愕したものだ。
お隣の家庭に入り浸って食事の面倒まで見てもらっていたなんて、誰が聞いても驚くだろう。
よくよく話を聞いて高須家やその竜児くんとやらに悪意や邪な物がないと分かり、母親は安堵したのだが、すぐ大河の心の機微に気づいてしまった。
・・・大河と別れたのは中学へ入る前だったわね・・・もうそんなことを感じる歳になったの。
17にしてはスリムすぎる体型に、つい子ども扱いしてしまっていた母親だが、改めて娘の歳を思った。

「・・・好きなの?大河・・・その子のことが?」
ストレートな問い掛けに示した大河の反応は特筆すべき物だったと母親は思う


「り・・・竜児は・・・そ、そ、そんなんじゃ・・・」
この家に来て以来、ブスっとして憎まれ口を叩いてばかりだった大河は今まで見せたことない感情を露に見せる。
口では否定しても、態度でありありと示してしまっていた。
こういうところは分かり易い子ね・・・と母親は嬉しくなってしまう。
「でもね、大河・・・かわいそうだけど・・・諦めなさい」
福岡と東京・・・引き離されてしまえば、どうにもならなくなる。
「・・・うん」
ぽつんと悟ったような大河のうなづき。
竜児はみのりんと結ばれる・・・だから・・・私の想いは叶わない・・・大河が想い描く未来。
だから、母親からそう聞かれて大河はうなづいたのだ。
激しく反発されると思っていた母親は拍子抜けする思いを感じた。
・・・もしかして?
思った疑問を母親は口にする。
「その子に振られたの?大河」
大河は小さく首を振った。
・・・違うよ、ママ・・・言う前から終わってるんだから・・・これは・・・・・・。





もう、竜児の側で暮らせないと言う現実を受け入れた時、奇妙なことに大河は少し安堵感を覚えてしまった。
みのりんと仲良くする竜児を見て、心が痛まないはずがない。
何事もないみたいにふたりに接するなんてとても出来ないと大河は思う。
だから、ふたりから離れられるのなら、少なくともそんな思いは味合わずに済むはずだった。
もっとも、それをはるかに上回る辛い目を感じることになるのは避けようがないのだが・・・。

それでも、竜児とみのりんのことをきちんと決着を付けずにこのまま終わるのはごめんだと大河は考える。
2月いっぱいはあのマンションに住んでいられそうだと知った大河はある決意を密かに固めた。
それは大橋の町に戻り、残されたわずかな時間を使って竜児とみのりんを結び付けようと言う計画。
・・・そして上手く行ったら・・・さよならしよう、竜児とみのりんから・・・。

そのための布石として、大河が遠まわしに母親へ求めた帰京の願いは即座に却下された。
このまま、学校も編入学の手続きを進めると言う母親に向かって、何を言っても無駄だと悟った大河は自力で帰京することを思い描く。
「・・・何度、数えても三千円」
大河は財布の中をのぞき込み、ため息をもらす。
父親が定期的に振り込んでいた生活費は既に全額が引き出されてしまっており、キャッシュカードは単なるプラスチックのカードに成り果てていた。
・・・帰れないね、これじゃ。






「大河さ、あの時、どうやって帰って来たんだよ?」
「知りたい?」
「ああ、金もねえのにどうやって俺のところまで戻って来れたんだ?」
「愛よ・・・私の竜児を想う心が天に届いたの」
「で、白いひげの爺さんか何かが空から降りて来て願いを叶えてくれた・・・と」
「うん」
「そんなわけねえだろ。嬉しそうに嘘を付くな」
「夢が無いわね、竜児」
「俺は真実が知りたい」
「んとね・・・さすがに飛行機は無賃乗車出来なかった」
「・・・無賃って、おまえ」
「ちゃんと後で払ったわよ。新幹線代」
最低区間の切符の乗って、東京駅の改札口を飛び越えた大河。
「だって、仕方ないでしょ。お弁当とか食べなきゃいけないし」
頭を抱える竜児に大河は言い放つ。
東京へ向かって新幹線が動き始めた時、大河は言い知れぬ躍動感を感じたのを思い出す。
「また、竜児に会えるって思ったら、なんかわくわくしてきたんだ、あの時」
その時の気分が蘇ったみたいに大河は目を細めた。






見慣れた竜児の家とマンションが見えて来ると大河は駆け出した。
一秒でも早く、竜児の顔を見たかったのだ。
階段下で大河は乱れた息を整え、逸る鼓動を鎮めようと深呼吸をした。

ドアの前に立ち、「帰って来たよ、竜児」と家の中の竜児へ声を掛け、大河はドアノブを回す。
・・・開かない、鍵掛かってる?
もう・・・と思った瞬間、大河はドアを激しく殴打していた。
数秒の後、ドアの向こうから現れた竜児。
・・・竜児。
そう声を掛けようとした大河は何も言えなくなる。
胸がいっぱいでとかそんな理由からではない。
いきなり竜児が大河のマフラーを掴んで引き寄せたからだ。
惑乱したように竜児は大河を揺さぶる。
会ったら、何を言おう・・・どんな顔を見せよう・・・あれこれ考えながらやって来た大河の想いは木っ端微塵になった。

・・・バカ、竜児。

大河は思いっきり竜児の頬を張る。
・・・やっぱりこうなっちゃうんだ、私。
竜児を罵りながら、大河は心の中で吐息をもらす。

「電話も出ないで、何してたんだよ?」
・・・知ってたよ、何回も掛けてくれたこと・・・ごめんね、竜児。
「電池、切れてるわ」
とっくに知っている事をさも今気が付いたかのように大河は携帯を取り出して言う。
あきれたような顔をした竜児が訳の分からないことを言うのを聞き流し、大河は帰って来なかった理由を説明する。
「うんとママに甘えちゃった。お買い物とかいろいろ行って・・・」
さも楽しかったと振舞う大河。
事実と真逆なのだが、大河は真実を竜児に告げる気は無かった。

非常事態だから3秒ルールを適用すると言って大河は竜児の家に上がり込む。
もう、竜児の家には行かないと決めていたのに、その禁を破る大河。
なぜなら大河は家の鍵を持っていなかった。
竜児へは無くしたと言ったが、本当は母親に取り上げられたのだ。
止む終えず、ベランダ経由で自宅への帰還を試みるしか家に入る方法が大河にはなかった。
「・・・とりあえず、おやすみ」
着地に失敗して打った額を押さえながら、大河は窓を閉める。
閉まったカーテンの向こう。
大河は小さな笑みを浮かべ、つかの間の幸せ感をかみ締める。
・・・良かった、聞かれてなかった。
これで、なにもかも上手く行く・・・そう信じた大河。


しかし、今まで通りの生活が戻って来たかに見えたのは嵐の前の静けさに過ぎないと、大河が思い知らされたのはそれからまもなくのことだった。







突然、迫られた選択。
逢坂大河は高須竜児が好き Yes/No
出題者 櫛枝実乃梨
回答者 逢坂大河

問題自体を無かったことにしようとした大河の目論みはあっという間に潰えた。

なおも回答を求められ、震える手でNoをクリックしようとした大河の手は実乃梨によって止められる。
大河はその時になってようやく自分がとった行動が最善のものではないと気づかされた。
親友のみのりんのため・・・それが自分の心を誤魔化す大儀名分だった。
実乃梨の言葉によって崩れ落ちる防波堤。
大河の前に開ける広大な大海原。
後はもう飛び込むだけ・・・正直になれと大河の本心は告げていた。

その大河はカーソルをYesの上に置いたまま、クリックすることなく回答者席を泣きながら飛び出した。
残された竜児は実乃梨に促されると、ためらうことなく大河の代わりにマウスをクリックした・・・Yesと。


竜児は居なくなられて初めて大河の重みを実感したのだ。
雪山での突然の告白。
そして母親の下から帰らない大河。
どれだけ自分の中で「逢坂大河」と言う存在が不可欠なものになっていたのかと竜児は気づかされた。
・・・俺は大河が好きなのか?
そうなのだと竜児は自覚せざる得ない。
櫛枝実乃梨への想いが事実上、相手の拒絶にあって実らないという現実と大河がこのまま帰って来ないかも知れないという現実。
そのどっちが竜児の心を揺さぶったと言えば後者だった。
・・・大河が居なくなる?
そんな世界、竜児には耐えられそうになかった。
戻って来た大河の姿に竜児はどれだけ安堵したか知れない。

だから、俺は大河を追い掛ける・・・そう、竜児は決心した。




「ふうん・・・あん時、泣いてたもんね、竜児」
自分の視界に中に納まる大河の姿を久しぶりに再認識した竜児は感情を制御しかねて、じわりと来てしまったのだ。
昔を思い出しニヤニヤする大河に竜児は覚えがないと白を切る。
「あ、あれはあくび・・・だ」
「いいのよ、そういうことにして置いてあげるから」
ニンマリ顔を崩さない大河。
「・・・まあ、大河が戻って来てくれて嬉しかったってのは間違いねえけどよ」
仕方なしに竜児は一部分だけ大河に同意した。


「・・・それから、すぐだったね。ママが迎えに来ちゃって」
「ああ、泰子まで来たよな」
アルバイトの帰り道、ふたりとも自分の母親と修羅場を演じ、手を取り合ってその場を逃げ出したのだ。

「橋の下から、竜児がそう言ってくれた時、心臓が止まりそうなくらい嬉しかった」
「・・・今、思えば・・・よく言ったよな、俺」
・・・嫁に来い、だもんな。







ジェットコースターにずっと乗り続けてたみたい。
この二日間を例えるならそんな感じだと大河は思う。
ドキドキしたり、叫び出したくなったり、目を瞑りたくなったりと息を継ぐ余裕さえ見失っていた。
そしてジェットコースターが静かに止まり、大河は閉じていた瞳をゆっくり開く。
そして、バラバラだったピースが全てはまるようして再生されて行く家族の姿を大河の瞳はつぶさに目撃する。

たどり着いた泰子の実家。
廊下の片隅で小声で話す竜児と泰子をふすまの陰からそっと見つめ、何もかもが落ち着いた今、大河はゆっくり考える。
今度は・・・私の番だよね・・・竜児・・・。

夜空にきらめくたくさんの星たち。
とても大きな数字でしか表せない距離が横たわってる。
決して、届かないと大河は思っていた。
月までは行けても、あの星までは行けない。
叶うことと叶わないことがあるって思い込んでいた。

「竜児」
「何だよ、眠れないのか?」
「ううん・・・このまま眠っちゃうのがもったいなくて」
「遠足の前の晩か?」
「うん、なんかそんな気分」
照明を消した二階の一室で大河と竜児は横になっていた。

最初、部屋に入った時、冗談のように並んで敷かれた布団に顔を見合わせた竜児と大河。
もうひと部屋、用意してもらうと言い出す竜児に、大河はいいよこのままでと竜児を止めたのだった。

時折、階下から泰子の楽しそうな笑い声が聞こえる。
「やっちゃん・・・楽しそう」
「・・・ああ」
「良かったね・・・何もかも上手く行って」
「これからが大変だけどな」

ついさっき、大河と竜児は将来を誓い合っていた。
雪の降る寒い川の中からプロポーズした竜児。
それに応える様に橋から飛び降りた大河。
大河はシーツのベールを被り、生涯を共に過ごすと決めた竜児との約束を再確認するように何度も口付けを交し合った。

「駆け落ちなんて上手く行かないって、思ってたってさっきも言ったよね」
「おう」
「・・・それって、ずっと星が遠いって思い込んでいただけなのかも知れない・・・本当はこんなに近かったのに」
そう言うと大河は隣同士に並んだ布団の中から手を伸ばし、竜児の手を握る。
「ほら、こんなに」
「ああ、そうだな」
竜児もその想いを実感する。
二年生の新学期、教室の前でアクシデントからぶつかった名も知らない女の子・・・大河との距離は果てしなく遠かったはずだ。
それが気が付けばこんな近くに居る。
この大河の手を離したくないと竜児は痛切に願った。

「遠いって思ってたのは私だけ・・・ううん、自分から遠くしちゃったのかもしれない・・・きっと、今ならまだ届くよね?」
「大河?」
大河の言う意味が分からず竜児は晴天に湧く雲の様な気分を味わう。
「・・・届かせて、みせるから・・・竜児」
そこで大河は言葉を切り、付け加える・・・ごめんねと。

竜児がその言葉の意味に気が付くのは翌日のことだった。






借家の2階へ続く階段が大河を誘っていた。
竜児も泰子も高須家で夕食を取れと勧めて来る。
大河の気持ちは少しだけ揺らいだ。
竜児の伸ばす温かな手を掴んで、階段を駆け上がりたかった。
でも、そんなことをすればもう引き返せなくなると大河はありったけの精神力を動員して誘惑を退けた。

「・・・着替えて来る」
かろうじて、それだけ言い竜児の前から離れようとする大河。
何か感じるところがあったのか、竜児が引き止める素振りを見せた。
「おま・・・家にはお袋さんが・・・」
この竜児の台詞に大河は大丈夫だよと言う様な表情を作り、竜児を見つめる。
見つめ返す竜児の表情がゆっくりと和らいだものに変り、ポツリと竜児がつぶやく。
「なるべく・・・早く来いよな」
「・・・うん」
竜児をもう一度見つめ、大河は踵を返し、マンションへ向かう。
エントランスへ続く階段で一度、後ろを振り向く大河。
竜児はじっと元の場所で大河を見つめ続けている。
・・・ごめんね、竜児。
最後の想いを断ち切ると大河はエントランスへと身を躍らせた。

降りて来るエレベータの階数表示を見つめながら、数字が滲んで見えるのは何でだろうと大河は思った。


大河を出迎えたのは無人の空間だった。
携帯電話にたくさんのメッセージを残して大河の母親は帰ってしまっていた。
少し拍子抜けした大河だが、留守電に込められた母親のメッセージはしっかりと受け止める。
・・・まだ、ママの娘でいられるんだよね、私?
・・・帰っていいんだよね?
・・・素直な気持ちで・・・伝えよう。

呼び出し音がこんなに長いと感じたのは初めてだったかもしれない。
実際はほんの数秒でしかないのに、大河にはひどくそれが長く感じられた。
最初に聞こえたのが留守番電話の合成音声でなかったことに大河は何かに感謝したい気持ちでいっぱいだった。
「・・・大河?」
おずおずと言った調子の声で問い掛ける母親の声。
「・・・大河なんでしょ?」
そうであって欲しいと言う切実な願いが感じられる母親の口調に大河はすぐに声が出せなかった。
それでも、やっとの思いで声帯から空気を出すことに成功する。
「・・・おかあ・・・さん」
声に出してみて、ひどく自分の声が震えていると大河には感じられた。
「ごめんなさい」
即座に出た言葉は謝罪だった。
どれだけ自分は心配を掛けたんだろうと大河は思う。
電話の向こうで母親が安堵する様が伝わって来るのが大河には感じられた。
「良かった・・・あのまま、あなたがいなくなっちゃったら・・・お母さん、どうすれば・・・」
「心配させて・・・ごめんなさい」
「いいのよ、大河が無事なら・・・それで」
「・・・帰っていいんだよね?私・・・ママの娘だよね、まだ・・・」
「あ、当たり前でしょ・・・どんなことがあっても大河・・・あなたは私の娘よ・・・」
「・・・うん」
すぐ戻ってらっしゃい・・・それともお母さん迎えに行こうか?そんな提案を大河は辞退し、自力で今日中に戻ることを約束して大河は電話を切った。






残された時間は僅かしかない。
もしも、竜児が様子を見に来たら、抜け出せなくなる。
・・・多分、分かってくれると思う。
黙って行ってしまう事へのやるせなさをそんな言葉で誤魔化す大河。
竜児の家に行き、夕食を食べて・・・食べ終えて・・・ちゃぶ台の前で正座して・・・うつむきながら、一大決心を切り出す自分の姿を想像し、大河は頭を振った。
本当だったらそうしたかった。
でも、そんなことをしたら・・・駄目になる。
竜児の顔を見たら、離れられなくなるのは分かり切っていた。
もう少し自分が強ければ、笑って竜児の前から旅立てたのに・・・。
・・・ごめんね、竜児。
壁越しに竜児の家に向き合って、深く大河は頭を下げた。



竜児へ認めた書置きをテーブルの上に残し、荷物で膨らんだバッグが並ぶ玄関先へ向かう大河はふと立ち止まった。
最後にもう一度、家中を見て歩きたくなったのだ。
ゆっくりした歩みで寝室へ入ると、ゆりかごのように大河の眠りを見守った天蓋付きのベッドへ大河は腰を下ろし、シーツをポフポフと叩く。
もうここで朝を迎えること無いんだと思うと、ここで過ごした2年間が大河の脳裏を駆け抜ける。


「大河」
「どうしたの?急に」
待ってたよと中学の正門脇に止めた車の中から顔を出したのは大河の父親、逢坂陸郎だった。
「いいから、さあ乗った、乗った」
目を白黒する大河にお構いなく、父親は車を走らせ、止まったのがここだった。

突然迎えに来た父親に、促されるまま乗り込んだ車で連れてこられたマンション。
「何?ここ?」
戸惑う大河に父親が宣言する。
「何って?大河のお家だよ。どうだい?インテリアとかけっこう凝ってるだろう」
僕が全て仕切って選んだと自慢するように言う父親に大河は訳が分からないと言う顔をする。
「ん、ほら、この間、大河が言ったじゃないか・・・家を出たいって」
義理の母親との確執から大河は確かに父親にそう伝えていた。
でも、それは・・・。
大河の気持ちなど気に掛けることもなく、父親は今後のことを手短に説明する。
「生活用品は一通り揃ってる。一流ブランドで揃えてあるから大河も気に入ると思うな。それから毎月の生活費はこのカードで・・・」
大河は呆然と父親の声を聞いていた。
「今の家にある荷物は明日、引越し業者を頼んでいるから、後で届けさせる」
大河が我に返ったのは父親が行ってしまった後のことだった。

「・・・パパの・・・馬鹿」
大河の口から漏れた小さなつぶやき。
それは誰にも聞こえず、広い家の中に消えて行った。

ショックの余り着替えることも忘れ、大河は寝室で見つけたこのベッドに倒れ込んで泣いた。
母親にも見捨てられ、今、父親にも見捨てられたんだと言う現実が大河の心を引き裂いた。
・・・家をひとりで出たかったんじゃない・・・パパと一緒に出たかったんだ。
伝わらなかった大河の思い。

今、思い返すとあんな精神状態で良く高校の入学試験に受かったもんだと大河は不思議に思う。
自棄になって落ちちゃっても良かったのに・・・出来なかった。
義理の母親が浮かべる嘲笑が、それを思い留まらせたといっても良かった。






ベッドの片隅に脱ぎ散らかしたブラウスとスカートが大河の視界に映る。
竜児と会わせてくれた学校の制服だった。
・・・そっか、もう着る事はないんだね・・・これ。
・・・最後くらい、きちんとしてあげよう。
大河はそれを手にすると丁寧にたたみ始めた。


制服をたたみ終えて立ち上がった大河の視線が一点で止まる。
何の変哲もない北向きの窓。
ふいに大河の内側から湧き上がる衝動。
ガラスを開け放ち、大声で「竜児」と叫び出したいと痛切に大河は感じた。

あの時、電話で呼びつけた。
それも、朝早く。
なのに竜児は来た。
隣り合った窓越しに、大河を見つけ、驚いた顔を見せながら・・・。

今だって・・・電話をすれば・・・きっと・・・。


大河はぎゅっとこぶしを強く握り締め、悪魔のささやきから逃れるように寝室を飛び出した。

これ以上、ここ居るのは耐えられない。
家の中を一巡することを諦めた大河は一目散に玄関へ駆け出した。


きっと帰って来るから。
待ってて。

路地の角から振り返り、竜児の家を一瞥すると大河は駅に向かって歩き出す。
慣れ親しんだ大橋の町を後にするため・・・。




「当機は間もなく離陸致します。シートベルトを再度、ご確認下さい」
アナウンスを聞き流しながら、大河は窓の外を見つめる。
人気の無い送迎デッキが虚しく、空港ターミナルの明かりに照らされていた。
動き出した飛行機の中から大河は視線を送る。
・・・ドラマだったらこんな時、追い掛けて来た誰かさんがデッキで手を振ってくれるんだけど。
・・・来るわけ無いか。
大河は残像を焼き付け目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶ光景・・・息を切らせて竜児が走って来る・・・フェンスを乗り越え・・・手を振り・・・何か叫んでる・・・何だろう?

離陸の衝撃が大河の想いを断ち切った。

閉じた大河の目から線を描いてこぼれる小さな水滴。
それが乾くまで、大河は目を開けなかった。






「・・・ごめんなさい」
手荷物を受け取った大河は出口で待っていた母親に開口一番、頭を下げた。
「ばかね、あなた」
しんみりとした口調で話しかける母親。
「あなたのお母さんだもの・・・驚かないわ、あれくらい」
留守番電話で取り乱したことは棚に上げ、平静さを装う母親に自分と同じ物を見つけ、大河は嬉しくなる。
やっぱり・・・私・・・ママの娘なんだ。
そう実感できて、大河は初めて笑うことが出来た。

「すごい格好ね」
言われて大河は少し顔を赤らめる。
両肩からたすきの様に提げたかばんと手提げのバッグ抱え、家出娘丸出しとも言うべきスタイルの大河。
「・・・だって、ママの家のパジャマ・・・子供っぽいんだもん」
だからお気に入りを持って来たと大河は言う。
「あら?好きだったでしょ、猫の絵柄?」
「好きだけど・・・もう小学生じゃない・・・から」
口を尖らす大河に母親は微笑む。
「じゃあ、今度、買いに行きましょう、一緒に」
大河が見せた甘えとも言うべき仕草に、雪解けの音を確かに聞いたと母親は感じた。


「車を待たせているから」
そう母親に言われ、ターミナルの外に止まっていた黒っぽい車へ大河は促されるまま乗り込んだ。

「やあ、おかえり」
一瞬、え?と言う顔をする大河。
てっきりハイヤーでも手配しているのかと思っていたのだ。
運転席にいたのは母親の再婚相手だった。
「東京旅行は楽しかったかい? 大河」
何気なくこう呼ばれて、大河は自然に声を返していた。
「た、ただいま・・・そ、その・・・飛び出して・・・」
「ストップ・・・大河はちょっと旅行に行ってただけ・・・だから余計なことは言わなくていいよ」
微笑まれて、大河はうつむく。
自分は歓迎されているんだと言う思いが大河の中に広がってゆく。
次に顔を上げた瞬間、大河は言い放つ。

「うん、とっても・・・お父さん」
言いよどむことも無く、はっきりそう告げた。
目の前で父親と呼ばれた人の相好が崩れる。
まだ、目の前の人が父親だって実感は湧かないが、大河にとって既に赤の他人ではなくなっていた。






上辺だけ取り繕ってもうまく行かないのは目に見えている。
変に気を遣うより、自然体で行こうと考える父親。
それで駄目なら・・・また考えるさ・・・ま、しかしいろいろあるだろうな、この先。
結局のところ、根が楽天家の父親はなるようになるさと腹をくくった。


「そう呼んでくれるだ・・・正直、おじさんとか呼ばれたら泣きたくなるところだったよ」
本気とも冗談ともつかない口調で言う父親に大河は小さく笑った。
「じゃあ、こんどそう呼んであげるわ」
「いや、それだけは勘弁して欲しいよ」
本気で嫌がる様子に大河の笑みが深まる。

「楽しそうね」
大河の荷物をトランクに入れてから車内に入った母親は和やかそうな空気に胸をなでおろす。
「聞いてくれよ、大河がさ、僕のことをおじさんて呼ぶって」
子供みたいに母親に訴える父親に大河はあっけに取られる。
「・・・大河」
やや非難の視線を向ける母親に大河はそんなことないと弁解する。
「ちゃんと呼んだもん・・・そ、その・・・おと・・・おとう・・・」
さっきはスラスラ言えたのに両親からじっと見つめられた大河は言葉が出ない。
それでも、うつむき加減に小声で父親の人称代名詞を声に出す。
「もっと大きな声で呼んでくれると、嬉しさ倍増なんだけど・・・ありがとう、そう呼んでくれて」
今日から大河は正真正銘、僕の娘だよ・・・ようこそ我が家へと手を差し出す父親。
その手に触れた時、大河は自分がこの家の家族として認められたのを感じ取った。

そんな感動の余韻をぶち壊す「ぐぅ〜」と言う音。
顔を見合わせる両親の前で大河は赤くなる。
大河のお腹の音だった。

「だ、だって仕方ないじゃない・・・夕食、食べてないんだから」
竜児の祖父の家で食べたお昼ご飯から大河は何も食べていなかったのだ。
張り詰めていた大河の神経が安らいだ途端、鳴り出した空腹のサイン。

嫌いな物はあるかいと聞かれた大河は首を振る。
それじゃ決まりだと言い、まだやってるかなとつぶやきながら車を発進させる父親。
大河は何気なくリヤウィンドウ越しに後ろへ視線を向け、不安そうな表情を見せ遠ざかる空港の明かりを見る。
まばたきを数回した大河はすぐに視線を前に戻した。
傲岸不遜とも言うべきいつもの大河の表情がバックミラーに一瞬、映る。

たくさんの想いを乗せたまま、車は夜の福岡の街へ溶け込んで行った。



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