「あんたもまぁ、よくも毎日毎日飽きずに掃除に来るわね」

リビングの掃除をする竜児に大河が言葉をかける。声の調子にいつもの棘がない。南の窓からは柔らかい冬の光が入り込んでくるものの、暖房のかかってないリビングはひんやりしていて、竜児の息も白く曇る。

あるいは独り言なのかもしれないが、それでも竜児は掃除をしながら律儀に返事をする。

「毎日俺が掃除してるからきれいなんじゃないか。お前、あっという間に汚すだろう」

大河の姿は見えない。声は隣のベッドルームから。ベッドルームの扉はあけっぱなしで、近づくとエアコンの暖気が流れ出ているのがわかる。そんなことをするともったいないし、大河も寒いはずだ。でも、竜児は閉めろとは言わない。

「何よ、その言い方。駄犬のくせに。まるで私がいつも部屋を散らかしてるみたいじゃない」

大河からも竜児は見えていない。扉は二つの部屋を見通すにはあまりにも狭い。だから話をする二人の間には少しだけ距離があって、だけど今はこの距離感がちょうどいい。ガラステーブルの上の開きっぱなしのファッション雑誌を閉じ、黒い新聞立てに挿しておく。

「はいはい。駄犬ですみませんね。大河、雑誌、新聞立てに入れとくぞ」

駄犬呼ばわりされながら、竜児は口元に柔らかい微笑みを浮かべる。

ついさっき、大河はやって来た竜児のためにドアのカギを開けた後、すたすたと歩いてベッドルームに閉じこもってしまった。ただし扉は開けたまま。今頃大の字に寝そべって、ぼんやりと天井を眺めているはずだ。引きこもりにしては開放的。

「勝手にかたづけないでよ。読みかけなのに」

だいぶ元気になったな、と竜児は思う。

10日前の大河を取り巻く環境は最悪だった。ずっと恋していた北村祐作は全校生徒の前で狩野すみれに一世一代の大告白を行い、大河に北村の中の自分の位置をこれ以上ないほどはっきりと思い知らせてくれた。むろん北村に悪気は無いが、それとこれとは別である。
そしてその場で遠回しに北村を振った狩野すみれに対し、大河は木刀片手に殴り込みをかけたのだ。

誰がどう見ても一発退学という状況の中、狩野すみれの父親による温情が大河を救った。担任の恋ヶ窪と二人でかのう屋に出向いて行った謝罪が一応の決着であり、退学になると誰もが思っていた事件は二週間の停学で幕引きとなった。

その二週間も、もうすぐ終わる。

事件直後の大河は、これが竜児の知っている逢坂大河かと思うほどおとなしかった。沈んでいたのだと思う。文化祭で実の父親にこれでもかと言うほど叩きのめされ、生徒会長選では自分の無力と失恋の苦しみを徹底的に味あわされた逢坂大河。

殴り込みの後の大河は、ひょっとすると何もかもあきらめていたのかもしれないと思う。独身によれば、職員室でもかのう屋でもいつもの傲慢ぶりはすっかりなりを潜めていたと言うし、それは驚いたことに竜児に対しても同じだったのだ。
親に心を踏みにじられ、恋にも破れ、大河はタフすぎる人生に対して、あきらめかけていたのかもしれない。

停学になってからこっち、竜児は毎日掃除に来ている。大河が散らかすから、というのはもちろん言い訳で、本音は心配で一秒だって目を離していられないのだ。大河と来たら生活力皆無で、泣き虫で、目を離すとすぐに転んでけがをする、飯を抜いて貧血を起こす。
おまけにあっという間に部屋中をかびだらけにする。絶好調のときですら危なっかしい女なのだ。それが元気をなくしたとあっては、竜児が見捨てておけるはずもなかった。

その心配も、もうすぐ終わる。

始めの頃こそ、「腹減ったか」「買ってきてほしいものあるか」「プリント持ってきたぞ」「夕飯持ってきたぞ」「今日の朝飯はアジの開きだぞ」「弁当、ここに置いておくからな」と話しかける竜児にも、大河はうん、うん、と返すだけでろくすっぽ会話が成立しなかったのだ。
まともに話したのは「ご飯はうちで食べるから持ってきて。停学中だから」くらい。

そのコミュニケーション不全もゆっくりと快方に向かい、今週になってからは竜児の一言一言に「減ったわよ、悪かったわね」「プリン」「おいといて」「遅かったじゃない。飢え死にしたらどう責任とる気なのかしら」「たまには肉を持ってきなさいよ」「うん」と、
罵詈雑言混じりの返事が返るようになってきた。

大河らしくなってきた。

少しずつ元気になっていく大河に、竜児は喜びを隠せない。始めはベッドルームのドア越しの会話だった。今はそのドアも開いている。そのうちリビングのチェアに座ってあれこれ竜児に悪口を言うようになるのだろう。それでいいのだ。早くそうなれ、と心の中でエールを送る。

完膚無きまでに打ちのめされても、きっと大河は大河は立ち上がる。文化祭の時もそうだった。今回だってそうに決まっている。小さな虎は打ちのめされても、やがては自分の脚で立ち上がり、世界に向かって再び吠えるのだ。それでいい。そうじゃなきゃいけない。

どれだけ世界が大河につらく当たっても、大河はちゃんと立ち上がる。竜児はそれを知っている。きっと来週は何も無かったように竜児に当たり散らしながら、元気に欅並木の通学路を歩いていることだろう。えらそうに、つんとあごをあげてすました顔で。

その姿を想像するだけで、竜児は優しい微笑みを漏らしてしまう。

大河の停学も、もうすぐ終わる。そしてまた、新しい日々が始まる。

(おしまい)


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