「母さん、ご飯もうすぐできるよ」

卵焼きを並べた皿をちゃぶ台に置きながら、母親に声をかける。それほど早起きじゃないのだけどれど、冬の朝は日が出るのも遅い。まだ、外は暗い。台所の弱々しい蛍光灯がついているだけの家の中も暗くて寒い。吐く息は白く、水は切れるほど冷たい。
もう少ししたら空も明るくなって、そうしたら南側の窓から朝の柔らかい光がこの小さな借家を満たすだろう。スリッパを脱いで歩く畳も、すこしだけ暖かくなるだろう。

「母さん!早く起きてよ」

味噌汁を並べ、ご飯をよそった茶碗をちゃぶ台においても、まだ母親は起きてこない。台所で急須と湯呑をお盆に載せながら、少年は白いため息をつく。

父親のいないこの家では、母親…高須泰子…が働いて家計を稼いでいる。物心ついたときから、外で働きながら自分の世話をしている母親をみていた少年…高須竜児…は、小学校中学年のころには、すでに台所に立つようになっていた。
泰子はそんなことはしなくてもいいと言ったが、子供から見ても泰子は働きすぎだったし、なにしろ体を壊したこともあった。だから、せめて朝の準備だけでも、と始めたのだった。
始めのころはぎこちなかった家事の腕前だが、2年ほどだった今では、すこしは手際も良くなっている。

「母さん、起きてよ、母さんてば。あーもう。泰子!起きろ!」

ふすまを開けて酒と化粧品の匂いが充満する母親の部屋に入り、寝ている泰子を揺さぶる。

「んーん、竜ちゃぁん、もうちょっと寝かせてぇ」

うつぶせに枕を抱えて丸まっている泰子を見ながら、竜児はため息をつく。帰りの遅い、というか毎日の仕事が朝帰りである泰子は、寝るのも朝4時とか5時だ。だから朝ご飯抜きでゆっくり寝ればいいと思うのだが、本人は『朝ご飯は一緒に食べる』と言い張ってきかない。
本人が起こしてくれと言っているから無理に起こしているのだ。しかし、決して寝起きのよくない泰子の姿を見て、竜児は毎朝のように起こすのをためらっている。

「じゃぁ、冷蔵庫に入れとくから暖めて食べてよ」
「だめぇ。一緒に食べる」
「どうするんだよぉ。早く決めてよ遅刻しちゃうよ」
「竜ちゃん起こしてぇ。一人じゃ起きられない」

蒲団の上でぐずる泰子の手を引っ張って無理やり起こす。女として一番美しい盛りのはずの体を覆うのは、ディスカウント・ショップで買った980円激安ジャージ。並みの男なら触れるのをためらうようなしどけない姿も、実の息子には何の効力もない。
座り込んだまま再び夢の中に落ちてしまいそうな母親の柔らかい体をゆすって立たせ、あくびをしている後ろから牛を追い立てるように洗面所まで押して歩いて顔を洗わせる。
皮膚が切れるように冷たい水に声を上げ、ようやく目が覚めた泰子をせかして今度は食卓に着かせると、やっと朝ご飯を食べられる。

だいたい毎朝こんな感じだ。

「いただきます」
「いただきマンモス!わー、今日もおいしそうにできたねぇ。竜ちゃんはどんどんお料理が上手になるねぇ」
「うん、毎日やってるからね」

そう、今日だけではなく毎朝ご飯は竜児が作っている。いつも通りの朝だ。だからいつもどおりの返事だったはずなのだが、何かがいつもと違ったらしい。目の前の泰子は小首をかしげて竜児の顔を見ている。

「おやぁ、元気ないなあ。どうしたのかな、友達と喧嘩した?」
「元気だし喧嘩なんかしないよ」

していないどころか、したことももない。痛くもない腹を探られたようで、竜児はちょっとぶっきらぼうに答えて見せる。

竜児は小学校に入るころには、自分の気持ちを殺して人に接するすべを覚えていた。そうしないと、友達から仲良くしてもらえないことを、身をもって学んでいた。竜児は、誰よりもよい子でなければ友達になってもらえない。母親しかいなくて、しかもその母親は水商売だから。

「じゃぁ、早起きがいやになっちゃったかな。ごめんねぇ。いつもご飯作ってもらって。明日からやっちゃんがつくってあげるからね」
「ちがうよ、そんなんじゃないって」

本当にそんなんじゃない。むしろ朝起きて、早親に朝ご飯を用意することは、小学5年生の竜児自身にとって必要なことになっていた。だって、ご飯を作っている間は、自分はこの家にいてもいいのだと信じることができる。

物心ついて一度も、竜児は父親の顔を見たことがない。母親からは一枚写真を見せてもらっただけで、その写真には母親と、テレビなら出た瞬間に犯人とわかる顔をした男の人が笑って写っていた。
父親についてその他に知っていることは、ぜんぶ母親の泰子から聞いたことだった。今では、ひょっとすると生まれたときには父親はいなかったんじゃないかと思っている。

ずっと泰子と二人っきりだった竜児は、大きくなるにつれて、託児所の大人たちの会話から、学校の友達の会話から、テレビから、すこしずつ外のことを知るようになった。この世には田舎というところがあって、そこには、おじいちゃん、おばあちゃんとよばれる大人がいること、
彼らは子供にやさしいこと、お年玉をもらえること、おもちゃを買ってくれること。泰子の仕事は水商売と言われていて、テレビではあまりかっこよくない役であること、友達のお母さんはみんな水商売が嫌いであること。
友達のお母さんは、みんな泰子より10歳も年上であること。

知ってしまったこの世界のことは、小学生である竜児にはあまりにも重かった。たぶん、同じような境遇の子供はたくさんいるのだろう。母親が一人で育てている子供なんてたくさんいるに違いない。自分だけがつらい目にあっているわけじゃない。
そう思った。だからといって、そのことを忘れてしまうには、あまりにも竜児は気まじめな子供だった。

泰子はたった16歳で自分を産み、一人で育てきたらしい。それは竜児にとって恐るべきことだった。なにしろ、この気が遠くなるような広い世界でたった一人、頼れるのは泰子だけなのだ。泰子以外に、お父さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、誰も、
竜児を育ててくれそうな大人なんか知らなかった。そしてもし、泰子が「もう、やめた。こんな子はいらない」と一度でも思っていたら、きっとそこで竜児の人生は終わっていたのだった。

泰子のことは大好きだ。だが、大好きである以上に、必要だった。泰子が今日竜児の前から消えたら、竜児も明日にはこの世界から消えるのかもしれなかった。ずっと前から『お母さんが死んじゃったらどうしよう』という漠然とした恐怖に震えていた竜児にとって、
『もし、泰子に嫌われたら』という想像は、二つ目の生死に関わる恐怖になった。

だから、竜児は家でもよい子であろうとした。小学生なりの真剣さで泰子を助け、『竜ちゃんなんかいらない』と言われないように頑張った。そんなことは考えすぎで、ひょっとすると学校の友達と同じように毎日遊んでいても大丈夫かもしれないとも思ったが、
そう考えても時たま沸き起こる不安は消えなかった。

だから、料理をすることなんて全然苦じゃない。料理をしていれば、竜児はいらない子にならずに済む。『竜ちゃんなんかいらない』と言われずにすむ。

それに本当のところ、ちょっとおもしろいなとも思っていたのだ。初めは見よう見まねだった料理も、やがて献立を自分で考え、食材を買うようになると、こんどは泰子の収入と突き合わせて値段のことまで考えるようになった。工夫すると、
少ないお金でもそこそこのご飯を作ることができた。楽しいと思った。そのうち晩ご飯も作ろうと思っている。

そういうわけで、竜児は一所懸命泰子を助け、いい子であり続けている。しかし、それでも不安はなくならなかった。漠然とした不安が時折思い出したように竜児を悩ませた。やがて大きくなったら、こんな不安にも勝てる強い大人になれるのだろうか、とそんなことを考える。

とはいえ、今日はそんな不安は一度も感じていない。不安といっても、時折心の隅に浮かぶだけなのだ。だから泰子が感じ取った何かは純粋にカンチガイなのだが、それでも正確に竜児の気持ちの真ん中を貫いていた。

泰子の問いかけに「全然なんともないよ」と振り払えなかったのは、それが理由だ。

「じゃぁ、竜ちゃんはどうしちゃったのかな。テストの成績わるかった?」
「昨日見せたじゃない。100点だったでしょ」

竜児はいい子でなければならないから、勉強だってしている。

「そっかぁ、竜ちゃん偉いっ!じゃぁ、いたずらして先生におこられちゃったか?」
「いたずらなんかしないよ」

いたずらなんかしたこともない。先生や泰子の言いつけを守らない子はいけない子だ。

「うーん、なんだろう。ああ、わかったぁ」

そういうと、優しい顔に泰子は満面の笑みを浮かべる。

「竜ちゃん、ガールフレンドほしいんでしょう」
「ええ?」

なんじゃそりゃ、と母親の斜め上具合に箸と茶碗を持ったまま脱力する。そんなものは別にほしくない。学校でも、男子と女子は別々のグループだ。男子と女子が並んで歩くのはかっこ悪いことだとみんな思っている。

「ガールフレンドなんかほしくないよ」
「ええぇ?どうしてぇ?ガールフレンドいいのにぃ」
「いいのにぃって、母さんガールフレンド持ったことないくせに」
「だってやっちゃんは女の子だったんだもん」

何が嬉しいのか偉そうに笑うと、泰子はにこにこしながら味噌汁を啜る。一口すすって、勝手に話を進める

「竜ちゃんは優しいからきっとかわいらしいガールフレンドができるよ」
「優しいのと可愛いのは関係ないよ」
「関係あるの!優しくておとなしい竜ちゃんには、元気でかわいいガールフレンドができるんだよ。でねぇ、竜ちゃんがぁ、その子を守ってあげるんだよ」
「元気なのに守ってあげるの?」

母親のばかばかしい妄想話を話半分に聞きながら食べていた竜児が箸を止める。

「そうだよぉ。男の子はぁ、女の子を守ってあげるの。女の子はみぃんなそんな男の子を待ってるんだよぉ」

父親に守ってもらえなかった母親は、にっこりと笑って竜児に噛んで含むように言う。

唐突に頭に浮かんだのは、真っ白なもやを背景に、大きくなった自分が小さな女の子を抱きしめている姿だった。ぼんやりとしたその想像の姿は、少しだけ竜児の気持ちを軽くした。自分が守ってあげるのを待っている女の子。自分を必要とする女の子。
そんな子があらわれたら、自分はここに居てもいいのか、などと悩まなくてもいいかもしれない。少なくとも一人、『あなたが必要』と言ってくれれば、竜児はこの世にいてもいい人間になれるはずだ。

「そんな女の子、いるのかなぁ」

ぽつり、とつぶやいた言葉を、泰子が拾う。

「いるんだよぉ。もうその子はこの世に生れていて、竜ちゃんと出会う日を待っていてるんだよぉ」

本当にそんなの女の子がいるのかどうか、まだ11歳の竜児にはよくわからない。

それでも、もしそんな子が現れたら、自分は強い大人になれるような気がした。
その子のために優しい気持ちになれるような気がした。
そんな女の子がいると考えるだけで、優しい日々が近づいてくる気がした。

二人が静かに暮らす部屋の南の窓から光が奪われ、そしてひどく騒々しいけれどまばゆい別の光が与えられるのは、ずっと先のこと。

まだ竜児も泰子も知らない先のこと。

(おしまい)



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