故人曰く、後悔先に立たず。

「き、北村くんっ……!!」

怪しくギラつく、鋭い眼光。学友のみならず初対面の人に一様に畏敬と驚愕を持って受け入れられているその三白眼。
高須竜児は、正に今その言葉を噛み締めている。

普段誰も近づかない、およそ用事が見当たらない校舎裏に歩いて行く友人『北村祐作』が気になり、声をかけようと近づいた。
それだけだったのに。

人気の無い校舎裏。恐らく呼び出したのは友人の向かいに立つ、声からすると女の子。
このシチュエーションはいわゆるそういうアレである事は容易に察しが付く。

バッ、と考えるより早く、校舎の陰に身を潜め、見つからないよう恐る恐る覗き込む。
相手の顔は木の影になりよく見えない。よく見えないが―――あの身長。見覚えが、ある。

(あ、あ、逢坂…?う、ウソだろ…?あの「手乗りタイガー」が北村に!??)

予想だにしなかった展開…いやいや待て、と竜児は思い起こす。
新学期にクラスメイトになってまだ3日だが、竜児はクラスでは殆ど北村と行動を共にしていた。
2・3度話をした時の逢坂の表情・態度。あの不自然な(というか奇矯な)行動や言動。

(やたらと俺に噛み付いて来たのは、北村への照れ隠し…だったのか?)

竜児はようやく合点がいった気がした。

(だとしたら…なんちゅう不器用なヤツ。)

結果、北村にも無愛想に接してしまって。
ドジだな、と知り合って僅かな『逢坂大河』の事を思い返した。


「わた、私、北村君が…あの、そのっ、北村君を……ええと!」



いけない。ここに居てはいけない。これは―――人として、立ち聞きして良い話ではない。
竜児は気付かれないように気を配りながら、校舎裏を後にした。

翌日、逢坂の席は空席だった。

腰辺りまで伸びる栗色の長い髪。ガラス細工のような大きな瞳とそれを和らげるような長い睫毛。華奢ですらりとした四肢。
「人形のような」という形容が当てはまるこの小柄な少女――逢坂大河――はしかし、その可憐な容姿とは不釣合いにつまらなそうに、その大きな瞳を閉じ薔薇色の透き通るような口元を歪ませて、細く滑らかなその手に握られた箸の動きを止めた。

「はぁ…。」

溜め息。我ながら鬱陶しい。煩わしい。私の目の前でそんな事したら、そいつを蹴り殺してやりたくなる。

そう思いながらも無意識に口をつくが故に溜息なのではあるが。
しかし、そう大河が思うのも無理からぬ所。このキッチンはそうさせるに十分の惨状だ。もう片付ける気にもならない。

「っぶしゅん!」

食べかけの弁当をゴミ箱に、飲みかけのペットボトルをシンクの中に放り込む。
そこはもう殆ど入り込む余地も無いほど皿やどんぶりやグラス、弁当の容器などが詰め込まれ異臭を放ち、至る所が黒ずみ汚れ、もはやシステムキッチンはシステムキッチンの役割を果たしていない。
高校生で一人暮らしの身の上としては『超』が付くほどの高級マンションにおよそ不釣合いなその有様に、思わず顔が歪む。
いっそ全部纏めて捨ててやろうか、とも思うがそれも面倒で。

結局、今日もそのまま放置。


(…何が『DX幕の内』よ。全然美味しくないじゃない…。)

駅前のお弁当屋が潰れたのは痛かった、と大河は心の中で呟いた。
コンビニのカップラーメンも弁当もパンも、いいかげんに飽きてきてしまった。
どれだけお腹が減っても食欲がわかない。やる気もわかない。何にもする気がしない。

親友の櫛枝実乃梨が勤める近くのファミレスにでも行こうか、と思い時計に目をやると、夜9時を回ったところ。
生憎と既に上がってしまっている時間だった。結局行く気も削がれてしまい、お腹は決して満足してはいないが、断念する。
プリンでも一緒に買っておけば良かった、と思ってみてももう一度コンビニに向かう気にもなれず、大河はさっさと寝てしまおうという結論に達する。

(…シャワー、浴びてこよ…。)



シャワーで汗を流し、バスタオルで髪を乾かしながら部屋に向かうと、妙に肌寒い風が湯上りの頬を撫でた。

「窓…開けっ放しだった。」

せっかくのセキュリティーシステムもこれでは意味がない。頭をガシガシとタオルでこすりながら窓に近づいていく。
丁度目の前のオンボロアパートの、申し訳程度に作られたベランダに人影が覗いた。

わずかに高いこちらの窓から見下ろすその姿は一見して青年男性のそれながら、まるで主婦のように洗濯機の前で手際よく動いている。


――――ふ、と。
大河の視線に気が付いたのか、その人影がこちらを見上げ、視線が重なる。

「「あ。」」

加えて第一声も重なった。


そこには、異様なほど鋭利に研ぎ澄まされた怪しくギラつく三白眼―――――。

「げっ…。」
「げっ、て何よ?」

まるで地の底から唸る様な抑圧の無い低い声と、猛獣のような目つきで竜児を見下ろす大河。
何となく後ろ暗さもあって、逢坂の圧力は竜児を萎縮させるには十分だったが、たたらを踏みそうになるのをこらえ辛うじて平静を装った。

今日学校を休んでいたが、やはりというか、どこか悪いという感じではない。
実乃梨曰く「遅刻はあっても休むのは珍しい」との事で、竜児なりに心配はしていたのだ。恐らくは――上手くいかなかったのだろう、と。

だからと言って北村に「どうだった」などと問いただすなんて事が出来るはずも無く、結局そのまま一日が過ぎてしまった。
北村は特別態度には表さなかった。どことなく元気が無いように見えるのも、自分がそういう目で見ているからだろう、と竜児は思うことにした。

「まさかアンタが隣に住んでたなんてね………。」
「ああ、偶然ってのは恐ろしい。まさか我が家の日照不足の根源が逢坂の家だったなんてな。」
「知るか。アンタまさかストーカーじゃないでしょうね………ああヤだ。」

胸元を隠すか弱さを思わせる仕草とは対照的に、その表情には攻撃性がありあり。
まさしく「手乗りタイガー」。誰がつけたか、見事にその名は体を現していた。

「ああ、そうですか……。」

がっくりとうな垂れつつ、相変わらずの攻撃性に逆に少しホッとしてもいた。
ならいいか、と半ば自身の不名誉の件は諦めて肩を落としながら部屋に戻ろうとして居間の窓を開けると、夕飯のカレーの香ばしい匂いが漂ってくる。


グギュルグルルルルゥゥゥ〜。

「「……………。」」


始業式の日のデジャヴを感じていた。


―――2日前。始業式のため午前だけで終了し、放課後。

(進路調査票、か…。)

春休み明け、新学期早々提出が義務付けられていたその紙に、竜児は未だ筆を走らす事が出来ずにいた。
この学校は基本的には進学校で、就職する人間は皆無である。そういう環境が出来ていないのだ。
大学・短大・浪人・進路未定等々あっても、就職斡旋は基本行っていない。だからこそ、竜児は悩んでいた。

(やっぱり、せめてバイトでもした方がいいか。しかし泰子は反対するしな…。)

考えると足取りも重くなるが、取りあえずは帰路につく為に、鞄を取りに教室に戻る。丁度曲がり角で北村と鉢合わせる。向かう先は同じく教室らしい。

「おう、高須。どうしたんだ?職員室に用事だったのか?」
「北村か。いや、進路相談…ってとこだな。」
「ん?なんだ高須。進路で悩んでいるのか?」


ガララ。
グギュルグルルルルゥゥゥ〜。

教室の扉を開ける音と、「その」音は正確に重なった。
一瞬、何の音か分からなかった竜児たちだが、教室のほぼ中央、机に突っ伏す大河を見てその発信源を理解する。

「「……」」

沈黙。教室には部活動に勤しむ生徒達の掛け声だけが響いていた。それを破ったのは、逢坂だった。

ぐわっ!!!!と身を起こし、真っ赤な顔をして竜児の方に物凄い視線を送っている。その圧迫感、威圧感はまさしく殺気。
気の弱いやつなら目を背ける事間違いない。そう、竜児のような。そして、同時に悟るのだ。

こいつは、本物だ―――と。

だが、そう悟りながらもう一つの、大河の送っている「あんたは何も聞いてなかった」―――という暗黙の了解を促す魂の叫び?は悟る事が出来ていなかった。
大河の発する威圧に冷静さを欠いていたのかもしれない。
とは言っても、目があってしまった以上素知らぬふりをして行く事も憚られ、やむなく

「よ、よう。……腹、減ってるのか?」

よりにもよって、恐らく本人が最も触れて欲しくないであろう部分に触れてしまった。
その事を竜児が後悔するのは、顔を伏したままツカツカと歩み寄ってくる大河の小さく華奢な肩が小刻みに震えていたのに気付いたのと同時だった。

「わ・す・れ・ろ・この鈍感馬鹿がぁーーーーーー!!!!!!」

その小さな拳から放たれた一撃は、鮮やかに竜児のみぞおちにクリーンヒットしていた。

「お、お前……いきなり…………無茶苦茶…。俺が何を…した………。」
「うるさい。」

がくっ、と膝をつきそうになるのを、辛うじて教室の廊下側の窓枠に捕まって堪える。

「た、高須…大丈夫か?」
「へ?え?あ…き、北村……くん?」

竜児の影になって北村に気付いていなかったのだろう。あたふたとしながら困った様子を見せていたが。

「〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!」

そのまま『手乗りタイガー』は反対側、後ろの扉から出て行ってしまった。
その背中をあっけにとられながら、竜児はただ見送るしかなかった。


「平気か、高須。はっはは、災難だったな。」
「何てヤツだ…全く。」
「まあ女子としてはあの場面はいささか恥ずかしかろう!許してやれ。」
「あれが『女子』の行動かよ…。」

北村はあくまでさわやかに受け流しながら、机に置いた鞄を取る。

「それじゃあ高須。俺はこれから生徒会に顔を出してくる。それから部活だ。」
「ああ、頑張れよ。」

一人教室に取り残された竜児。
痛むみぞおちをさすりながら、しかしどうする事も出来ずに、仕方なく竜児は自らの席の脇に掛けられた鞄を掴んで、そして

「あ。」

自分より4席前。先ほどまで逢坂大河が座っていた席の鞄に気が付く。恐らく彼女も動転していたのだろう。鞄を忘れて行ったようだ。
本来、ほっておけばいい。
大事なものが入っているのならまた取りに戻ってくるだろうし、だいたい逢坂の携帯も知らなければ住所も知らないからもって言ってやることも連絡してやる事も出来ない。
何より余計な事をすればまた何を言われるか(されるか)分かったものではない。

いや、もとより―――

「知った事かよ…。」


多少罪悪感が無いわけではないが、そこまで心配する義理もない。見なかったことにして、竜児は帰ろうとした。
はたと、窓が開いていることに気付き、竜児はその窓に近づいていく。

「全く、窓が開いているって事はちゃんとそこまで気を配って掃除をしてないってことだぞ…。」

余計な手を出すのも憚られるが、自分の掃除当番の時は…と、固い誓いを心に決め、竜児の目は怪しくぎらつく。まるで悪巧みでもするかのように。
と、窓を閉める瞬間に、何とはなく校庭を見下ろすと、ソフトボール部が練習をするバックネットの裏、櫛枝実乃梨と話し込む逢坂「タイガー」の姿を見つけてしまう。
そう、見つけてしまったのだ。

「はぁ…今日という一日は何てついてないんだ。」

竜児は、2つの鞄を片手に担いで、足早に校庭を目指す。元来が人がいいのだ。その目とは対照的に。

「大河もどうだい!?ソフトボールはいいぞぉっ!」
「…絶対ヤだ…。」
「うーん、残念。大河の足なら、きっといいトップバッターになるのになぁ。」
「キャプテ〜〜ン!!打順打順っ!!」
「あいよぉ〜〜!そんじゃ大河、あたしはいくよ。」
「えぇー、もういっちゃうの?」
「ごめんよぉ大河。グラウンドが、白球が、俺を呼んでるのさ……!」

取り残された逢坂は、しばらく走り去る実乃梨の後姿を追っていたが、やがてそれにも飽きたのか踵を返した。
そして、帰路に着こうとしたその瞬間―――

「おい、逢坂。」

呼ばれて思わず振り返ると、そこにはショッキングなスプラッタ・・・もとい、竜児がいた。

ドシッ!

とりあえず、無言の蹴り。

「脅かすんじゃないわよ。」
「…………だから、俺が何をした…………」
「アンタが突然人様に声を掛けるだけで法に触れるのよ。」

なんて酷いヤツだ、俺だって傷つくんだぞとかやっぱりほっておくんだったとかぶつぶつ言っている竜児を一瞥すると、無視するように逢坂はそのまま歩を進めようとする。

「お、おいちょっと待てって!」
「いい加減懲りるって事を知らない訳?アンタ―――」

もう一発くれてやろうか、と振り返ると同時に胸元に向かって竜児から何かを投げつけられ、反射的にキャッチする。
逢坂はキャッチしてから、それが自分の鞄である事に気がつく。

「お前、普通鞄忘れてくか?」
「…………わざわざ、持って来たの、アンタ?何?中とか見てないでしょうね?はっ、鞄フェチ?それともまさか、ストーカーじゃ…………そう言えば、なんか妙にアタシの周りうろちょろと…………うえ、コワっ!」
「あーあーあー、こんな事だろうと思ったよ。とにかく、渡したからな?はーぁ、全く」

今日は何て1日だ、何ていいながら竜児は逢坂の脇を通り過ぎ

「今日は3時からのタイムセールに間に合うなぁ…泰子の昼飯は作っておいたし、どっかで時間潰して…………。」

そのまま歩き去っていく。逢坂はその背中が見えなくなるまで鋭く今にも噛み付きそうな視線を送っていた。

―――元に戻って、夜。

グギュルグルルルルゥゥゥ〜。

「「……………。」」

昼間の再現だった。が、今度は手が届かない位置、殴られる心配は無いという安堵感もあったのだろう。

「…お前、腹減ってるのか?」
「……。」

竜児は同じ言葉を繰り返していた。
確かに一撃は無かった。しかし、獰猛な獣のような逢坂の目つきは竜児をたじろがせるのには十分だった。

「か、カレーまだ残ってるけど、良かったら食うか?」
「……。」

飯を食う気になれないのもわかるけど、とは言えない。
やぶへびだったか、と後悔した。

「い、いや無理にとは言わねぇけど…。」
「……。」

無言。僅かにうつむいた逢坂の顔からは、その表情はうかがい知れない。

「…ち…。」
「えっ?」

一瞬舌打ちをされたのかとびびってしまった竜児だが、どうも違うようだ。
うつむきながらぼそぼそと喋る逢坂の顔は、ほんのりと紅く染まっているようだった。

「甘口しか…………食べれないし」
「え、あ、お…おぅ。甘口がいいのか?だったら、甘くしてやろうか…?」
「…」

でも、逢坂からの返事はなく。

黙って、窓を閉めた。ついでに鍵を閉める音がして、カーテンが閉まる。完全拒絶体制だ。
竜児は、しばらく見送っていたが、やがてポリポリと頭を掻きながら部屋に戻っていった。

こんな時でも、お腹が減る。
それが頭に来る。
あの北村君の友達が隣の家だった。あんな目付きのクセに妙に人に気を使う。おまけにちょっとカレーに釣られそうになった。
それも頭に来る。
何も無いこの部屋。電気を消して布団に潜り込み、無理やり寝てしまおうとしても、時計の針の音さえ気になる。
それも頭に来る。


何のことは無い。ただの、八つ当たりだ。
でも。
でも。
でも。

「ありがとう、逢坂。」

北村君は、ありがとうって言ってくれた。

「おかげで、俺も勇気をもらえた気がする。」
「俺も、頑張ってみるよ。精一杯。全くどうやっても、届かない相手だと思ってたけど。」
「今でも、思っているけど。それでも、残された一年、頑張ってみる。」

言ってることは半分も理解していなかったけど。

「ありがとう、逢坂。」

北村君は、最後まで「ありがとう」と言ってくれた。「ごめん」とは言わなかった。

だから、良かった。良かった。良かった。よかった。よ、かった。…
だから

一人でも、平気。これからも、ずっと。一人。


夜風に当たったせいか、それともアレ以来始めて他人と会話したせいか。
真っ白だった頭が急速に現実を受け入れていく。

「ッ…ぅ…ッ!!…………ぁ…!」

布団の中で、噛み締める用に、声を殺して。
全て力ずくで押さえ込もうとするようにして。それでも。

一度あふれ出した泪は、痛みは、孤独は、止め処なく押し寄せた。



静かだった。



どれ位たったのか。いつの間にか、枯れ果てた様に涙は乾いていた。
流した分だけ、喉が貼り付きそうなほどに渇いていた。

時計に目をやると、まだほんの30分程度しかたっていなかったが、大河にはまるで何十時間にも感じられていた。
長い、果てしなく長い、夜。
これから先、ずっと、こんな夜を過ごしていくのだろうか?
そう思うと、胸の奥からかきむしられるような衝動にかられ、大河はその思考を振り払うように起き上がった。
空腹のせいもあるのだろう、ひどく体が重い。鉛を体中に巻き付けているようだ。

冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、喉の渇きを潤し、空腹も幾分か紛らわせた。

「…ブシュッ!」

キッチンを横切ると、シンクから漂う例の臭いのせいか、アレルギー反応的にくしゃみが出る。



ピンポーン、ピンポーン。

突然インターホンがなる。普段誰も寄り付かないこの部屋に、こんな時に、しかもこんな時間にいったい誰が何のようなのか?
腹立たしさと気だるさで無視を決め込むつもりだったが、二度・三度と鳴らされるうちに次第にイライラが募ってくる。


モニターを覗くと、そこにはあらゆる凶兆を内封したかのような三白眼の男が立っていて。
なんだか妙に挙動不審に辺りを見回したり、必要以上にカメラに顔を近づけたりしている。
大河は苛立ちを隠さない。

「アンタ、本当にいったい何のつもり?」
「おぉ…ああ、えっと、あの…逢坂さん…のお宅、ですか?というか、逢坂か?」

イラッ。

「だから、何の用だって言ってんのよ!!何キョドってんの?マジでストーカー、あんた?」
「いやー、オートロックのマンションなんて初めてでな…おお、すげぇ。なんだよこれ?一つの階に一部屋??ありえねー!!」
「…もういい、さっさと消えろ。今度鳴らしたりしたら…」

殺す。まさにその言葉を叩き込んで切ってやろうと思った瞬間に、先手を打って竜児にさえぎられた。

「あぁ、あのさ。カレー、良かったら食えよ。ちゃんとリクエスト通り甘口にしてあるぞ?ここ置いとくから。」

言って、受付の所に置いてみせる。肝心のその受付はカメラで追いきれていないのだが、竜児が知る由もない。

「…は?何言って…」
「今すぐ食わないんならレンジしてから食えよ。ラップしてあるからな。ああ、いらないんならそのまま置いておいてくれりゃいい。明日の朝回収しとくからよ。腹減ってると寝れねえぞ?それじゃあな、おやすみ。」
「ちょ、ちょっと!人の話を…」

言うだけ言って、竜児はとっとと帰ってしまう。ほんのわずかの間にすっかり防衛本能が働くようになったのか、噛みつかれる前に退散を決め込んだ。

「………なんなの、いったい…。」

インターホンの前で呆然としていた大河だったが、しばらくして我に返る。ほっておけばいいとは思ったが、『カレー』という言葉に誘発されて

ぐぎゅるぅぅぅぅぅっ。

胃袋が蠢動した。

「…………。」

眉をひそめ、赤く腫れぼったい目尻をゆがめ、唇をすくませて。嫌そうな顔、を地でいっていた。
空腹と不愉快さを天秤にかけ、既に竜児が去ったカメラを凝視する。
さんざん逡巡をしたが、天秤の針は空腹に傾いた。大河は部屋を出て受付まで降りてくる。

はたしてそこには竜児の用意したカレーがあった。
目の前にして更にためらい、動物のようにラップの上から臭いをかいだりしてみる。
その香ばしい匂いはよけいに空腹をあおる。

悩みに悩んだが、結局持ち帰ることにした。


カレーには、丁寧にスプーンとそれを包む紙ナプキンまで添えられていた。
お皿にかけられたラップをはがすと、まだ湯気がほのかに昇り立っていてた。
一口、口に運ぶ。

「…おいしい…。」

二口、三口。大河の手の動きが止まる事はなく。
お皿が空になるのに、時間はかからなかった。




「はぁー、まだ夜は冷えるなぁ…。」

「お隣さん」から戻って、全部甘口にしてしまったカレーの残りをカレーうどんにしてやろうか、などと考えながら。
明日の朝食と弁当の準備をテキパキと済まし、風呂に入るために部屋に向かう。

その時だった。居間の方から、世にも奇妙奇天烈な高須家第3の家族、インコちゃんが断末魔のような悲鳴とも奇声ともとれる鳴き声をあげる。

「どどど、どろぉ〜、ど、どろぉ〜、どろ、どろぉ〜んじょ!」

どうしたんだボヤッキー。などとふざけている場合ではないようだ。
竜児はあわてて居間に駆けつけようとして。

「な、何よこの気色の悪い生き物っ!?黙りなさいっ!!丸焼きにするわよっ!!」

聞き覚えのある声。つい今しがた聞いたような…。
いや、でも待て。玄関のドアが開いた気配は…とそこまで考えて、ベランダ・窓・手乗りタイガー…何となく、繋がったような気がした。

「どろぉ〜ぼ、どろぉ〜ぼ…ぼ、ぼ、ぼ、ぼんくら!」
「ようしわかった、それがアンタの辞世の句ってわけね…。」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て逢坂ぁ〜〜〜!!!!!!!!!」

この目の前の、黙って静かにしていれば物語に出てくるお姫様かフランス人形のような少女は、はたして正気だろうか?
むしろ正気ではない事を祈りたい。
正気で人様の家に、それも始めて訪れるのに、窓伝いにベランダから来るヤツがいたら、それはもう俺にとっては宇宙人だ。UMAだ。

しかも何だ、テーブルを挟んで対面して座って、何か知らんが俺のほうが気を使ってる風なこの感じは。
ここは俺んちだよな?しかもメシまで食わせてやった相手だよな?窓から侵入して来た相手に「どろぼう」と叫んだのはインコちゃんにしては珍しく真っ当な意見?だ。
俺はむしろ憤慨していい、はずだ。
はずなのに。

―――以上、竜児の独白。

「人のこと泥棒呼ばわりとは、随分しつけの行き届いたペットね?」
「…勝手に窓から入ってくるヤツの事を泥棒扱いするインコちゃんはむしろ褒められるべきだと思う…。」
「何か言った?」
「い、いや、別に…。」
「全く…ペットは飼い主に似るって言うけど、ホントね。方向性は違うけど危ない目つきなんかそっくりだわ。」
「…。」

はなはだ理不尽を感じつつ、何となく正座までしながら逢坂の高圧的で、かつネチネチとした罵倒に、しかし竜児は返す言葉すら言えずにいた。
このままではたまらない。

「そ、それよりも何の用だよ?」

というか、何の用でも玄関から来てくれ!という心の叫びを、竜児は辛うじて飲み込んだ。言えばまた言い負かされるに決まっているのだ。
口下手な自分を呪いつつ、逢坂の方に目をやる。
逢坂はカラのお皿を右手に持って、スプーンを口にくわえて「じっ…」と竜児を凝視していた。何かを言いたそうに。

「…ひょっとして、足りなかったのか??」
「…。」

答えないが、どうやら図星のようだ。
だったら頼むから最初から素直にそう言ってくれ、という言葉も、竜児は飲み込んだ。
言いたい事は色々あったが、今は。ご飯を食べたいと言うのならそれでいいか、と思った。

「ちょっと待ってろ。冷凍したご飯があるから。カレーも暖め直してやるから。」
「…。」

今度は、こくっ、と頷いた。
それがなんだか、竜児は少しだけ嬉しい気分になる。

空になった皿を受け取り、竜児が台所に向かった正にその時だった。
玄関を勢いよく開ける音が部屋に響く。


「竜ちゃ〜ん、たっだいまぁ〜〜☆あ〜〜、いいにおいがするぅ〜!カレーのにおい〜!やっちゃんも食べるぅ♪」

何故こんな早い時間に??
竜児の疑問を置き去りに、事態は彼の望まない方向に望まない方向にと進んでいた。
あまり他人に見せたくなかった母、泰子のご登場である。

「おぅ…は、早かったなやけに。」

玄関にいる泰子には角度的に大河が見えていない。辛うじて平静を装いつつ、竜児は内心色々な意味でドキドキしていた。

「それがねぇ〜、今日はぁ、オーナーのお誕生日で貸し切りパーティーだったのぉ〜。でもオーナーがいっちばん最初にツブれちゃってぇ…解散ッ!なのですぅ〜♪」
「そ、そうか。」

ぽいぽいっ、と靴を文字通り脱ぎ捨てながら、居間に転がり込もうとする泰子。
泰子と逢坂の両方を交互に見ながら、どうしようかと必死に考えを巡らすが、そんなに簡単に名案が生まれるはずもなく。

あえなくタイムアップ。

「ふぇ?」
「…。」

ほぼ全開になっている居間の入り口の障子にもたれかかるようにして立っている泰子。その真正面に逢坂。
このハイテンションぽやぽや自称永遠の23歳を竜児的にはなるべく衆目に晒す事は避けたかったのだが、今はそれよりもこの逢坂大河をいったいどうやって紹介すべきか?それが喫緊の課題だった。

「おぉう…あぁ、えーとだな泰子。そちらはその…お隣さん、そう!お隣さんだ!」
「何これ?アンタのお姉さん?」

竜児が我ながらなかなかの切り出しだと自画自賛しかけた言葉をあっさりスルーして、逢坂が単刀直入に切り出す。
確かに竜児は名前で呼んでいるし、見た目も多少化粧は濃いが、若々しく見える。姉と間違っても無理はない。

「ああ、いや、逢坂。姉じゃなくてだな…何っておかしいだろ?」

竜児の言葉など意に介さない逢坂だったが、律儀にそれに答える。
しかし上には上がいる。あらゆる会話を全て吹っ飛ばし、無人の野を行くが如くは永遠の23歳であった。

「いやぁ〜ん、可愛い〜☆」
「むぎゅっ!?」

普段の動きからは想像も出来ないほどの俊敏な動きで、逢坂にタックルをかましてそのまま思いっきり抱擁する泰子。
さすがの手乗りタイガーも「これ」に危害を加えるような真似も出来ずなすがままにされている。

「うっわぁ〜、お肌スベスベぇ〜♪髪サラサラ〜♪うらやましぃ〜!」
「えぅ…く、苦しい…乳がっ!乳がっ!乳で窒息する!」
「ち、乳を連呼するなっ!」

何となく竜児が恥ずかしくなってしまった。

「ち、ちちち、ち、ちちちちち、ちぃ〜ぱっぱ!」
「インコちゃんはもう寝なさい。頼むからこれ以上話をややこしくしないでください…。」
「とぅいまてぇん(すいません)…」

冷蔵庫から泰子専用のスポーツドリンクを取り出してグラスに注ぎ、出してやる。

「早かっただけあって、今日はまだまともだな…。ほら。」
「ありがとぉ竜ちゃーん☆…んく、んく、ぷはぁー!」

あまりにも邪気のない笑顔でそれを飲み干す泰子。
それにしても帰って来るなり何か食べたいと言えるあたり、やはり今日はそれほど痛飲していないらしい。
とはいえ、軽いものの方がいいだろうと考えて。

「ちょっと待ってろよ。今そうめん茹でるから。カレーうどんならぬカレーそうめんだ。」
「えっ、ズルい!私もソレ食べたい!」

反応したのは逢坂だった。

「お前はカレーライスじゃないのかよっ!?お前の分でご飯がなくなるからそうめんにするんじゃねえか。」
「だってそうめんも食べたいもん。私もカレーそうめん!」
「わぁ〜、大河ちゃんもお揃い♪皆で一緒の方がいいよねぇ♪」

泰子はさも当然と事も無げに言う。あまり細かい所に気を配るタイプの人間ではないのだ。
おおらか、なのではなく本当に気が回らないだけだが…。

「ほらみなさい。やっちゃんもこう言ってるわ。」

そんな感じだから、「初対面の人の親をやっちゃん呼ばわりかよ!」と言う竜児の至極真っ当な意見がまるで少数派意見に聞こえてしまうのだ。
もっとも自身も母親を泰子呼ばわりなのだ、いささか説得力には欠けるが。

「皆って、俺は別にいらねえぞ。…あと、お前も泰子も簡単に馴染みすぎなんだよ!」
「小さい事をうじうじと…はっ、小姑が。」
「…何なんだ、この扱い。可哀そうすぎるだろ、俺。」
「竜ちゃ〜ん、ドリンクおかわりぃ☆」
「はいはい…。」

その根底にあるのは「NOと言えない典型的日本人・高須竜児」。
なんだかんだ言っても結局ドリンクも注いでやるし、そうめんも二人前どころか逢坂仕様に少々多めに二.五人前作ってやるのである。


カレーを温めながらそうめんを茹でつつ、ちらりと居間の方を覗き見する。
泰子が一方的に話し、それに逢坂が答える。そんな感じだが、不思議と二人は楽しそうに見えた。

特に逢坂が。

それを見て、思わず口元が綻ぶ自分に、竜児は気付いていなかった。

「ああ、逢坂!カレーが服に飛ぶっ!この前掛けつけろって!」
「えぇ…ヤだ、ダサい。」
「カレーは染み抜きが最も難しいんだぞ!付いたらとれねぇぞ!」
「いいわよ、新しいの買うから。」
「ひぃぃ〜!!な、何て事をっっ!!!!も、も、も、も、MOTTAINAI!!」
「…アンタ、本気で小姑みたいよ…。ならやっちゃんにつけてあげなさいよ。」
「いいんだよ、泰子が着てるのは俺の中学時代のジャージだから染みの一つ二つできても。」
「ジャージっていいよねぇ。学生時代思い出して♪やっちゃん今度制服着てみようかなっ☆」
「頼むから勘弁してくれ…。」


そんな感じで、高須家のいつも通り「ではない」夜がふけていく。
食べ終わった後は(結局逢坂は一.五人前食べきった)、竜児がてきぱきと片付けて、ようやく一仕事終わったと息をついていた。

「おい、逢坂。あんまり遅くなるとアレだし、そろそろ…。」
「竜ちゃん、し〜〜〜♪」

居間に向かって声をかけると、泰子そう言って人差し指を唇に当てて見せた後、逢坂を指差してみせる。
思わず息を潜めて、足音を殺して逢坂を覗き込むと、まるで天使のような健やかな表情で眠りこけていた。

「…。」
「んふふぅ〜〜。可愛い寝顔ぉ〜♪ぷにぷに〜。」
「んっ…。」

泰子が人差し指でちょいちょい、とほっぺたをつつくとほんの僅かに顔をゆすって見せるが、起きる気配はない。

「しかしこのままって訳にもな…起こすぞ?」
「ええぇ〜?このまま寝かせといてあげよぉ、竜ちゃん。お家の人には電話で一言言っておけばいいしぃ。」
「…いや、どうも親今いないみたいだし。」

先ほどインターフォンをならした時にも、逢坂が直接出た。彼女の性格からして、親がいるのに率先して出る、というのはいささか考えづらかった。

「なら尚更だよぉ。夜中に一人ぼっちはさみしぃよぉ〜。」
「!」

泰子の言葉に、竜児は思わずはっとする。

一人ぼっちはさみしい。
ひょっとして、そうだったのだろうか?一人でいたくなかったのだろうか。この、逢坂が…。
食べたりなかったとか、そういう事ではなくて。

「……」
「竜ちゃ〜ん?」
「…毛布とってくる。そのままじゃ風邪ひいちまうだろ?」

それを聞いて、泰子はにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「えへへぇ〜☆」
「な、何だよ……?」
「竜ちゃんはぁ〜、やっちゃんの自慢の竜ちゃんなのでぇ〜す♪」
「…ワケわかんねぇ…。」

高須竜児の朝は早い。
まだ日も昇らない位の早朝に起き上がり、朝食&昼食の支度をして、ごみの日には朝出すごみを纏めて玄関に置き、晴れの日には洗濯をして、雨の日には除湿剤を新しいものに代える。

そんな竜児の気配に気が付いたのか、単に目が覚めただけなのか、逢坂がのそりと起き上がり寝ぼけ眼をこする。

「………」
「よぉ、ようやく起きたか?」
「………アンタ、ヒトん家で何してるの…?」
「ここは俺の家だ。」
「…はっ、まさか私が寝てるのをいい事に無理やり連れ込んで…!」
「はいはい、いい加減目を覚ませ。そして帰れ。」

竜児はあきれながらも、ベランダに置かれた逢坂の靴を玄関に持ってきて、綺麗に揃えてやる。

「シャワーでも浴びて目ぇ覚ましてこいよ。どの道制服に着替えないといけないだろ?送ってってやるから。」
「…いい。一人で帰れる。」
「いいから、行くぞ。」

まだふらふらしている逢坂を引っ張るように、竜児は玄関に連れて行く。
何も紳士的に家まで送って行こうとしている訳ではなかった。もう朝だし、すぐ隣だし、そんな心配はしていない。

ただ、どうしても言っておきたい事が、あった。
こんなふうに関わらなければ、それは知らないふりをしていても良かった。でも。

この逢坂は本当にわがままで自己中心的で唯我独尊で、だけど…だけど、もしかして。

『なら尚更だよぉ。夜中に一人ぼっちはさみしぃよぉ〜。』

泰子の言葉がなければ、気付かなかった。思いもしなかった。
今、逢坂がほんの少しでも、自分を頼ってくれているのだとしたら。


だとしたら。
「あの」事を、知らないふりをしているのは…心苦しかった。

「すまん、実は見ちまったんだ」

そう軽く切り出せば案外蹴りの一発も喰らって冗談のように終わらす事も出来るかも知れない。
でも、そうは出来ない。そんな風に、竜児は出来ていない。あんな事を、笑って冗談になんか、出来ない。

そう思うと、足取りが果てしなく重くなる。黙ってればいいのではないか、と。自分の中の自分が囁きかける。
玄関を出て、階段を下りて、道に出たところで。

「…ちょっと、いつまでついてくる気よ。部屋まで上がりこむ気?」
「あぁ、いや。」

そう言われるとこれ以上足を踏み出せない。
一歩、二歩、逢坂は竜児のもとから離れていく。そこで、一度歩みを止め。振り返った。

「…あのさ。…その…………カレー、おいしかった。」

不機嫌そうに目を背けて。それはまるで怒っているような素振りで。

逢坂の、精一杯の、言葉。何て不器用な。
そんな、そんな人間にウソなんてつけない。…竜児も、同じくらい―――不器用なのだ。

「―――すまん。」

それが、竜児の口から出た言葉だった。
当然、逢坂には何の事なのかわからない。

「??」
「俺。……見、ちまったんだ。」

下を向いて、歯を食いしばるようにして、搾り出すように言葉を紡いでいる竜児は気付かない。
逢坂の両肩がビクッ、と震えた事を。

「北村が校舎裏に歩いていって、そんで声かけようと思って近づいたら、そこにお前が…居た。」
「…聞いてた、の?」

逢坂がどんな顔をしているのか?それを確認する事は、下を向いたままの竜児にはできなかった。

「いや…慌ててその場は後にした。けど。あのシチュエーションで、次の日逢坂が学校休んで……だから、その、だいたいの事」
「もういい。」

怒っているだろうか。泣いているのだろうか。それとも。
竜児は、覚悟を決めて顔を上げる。その正面に逢坂を捕らえる。そこには、竜児の予想したあらゆる表情はなかった。

人形のよう。そんな風に逢坂の事を思った。でも、今の逢坂こそ正に「人形のよう」だった。
薔薇色の唇がほんの僅か、呼吸をする程の小さな動きで上下する。

















「ありがとう。『同情』してくれて。」


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