だめよ大河・・・あなたが竜児を疑ってどうするの?

10月某日。
暮れゆく空に一番星が輝き、街に明かりが灯りだす黄昏。
とある学生アパートの一室で、1人の少女が大いなる苦悩の嵐に晒されていた。

それにこんなこと・・・竜児を騙すことになるのよ?

心の中の善の部分が自分を諭す。
分かっている。そんなこと、言われなくても分かっているのだ。

だが。しかし。

「確かめなきゃ・・・」

―そう、フィアンセとして。

少女の悲壮な決意が伝わったのか。
遠く、犬の遠吠えが聞こえる。


逢坂大河と高須竜児。
2人が母校・大橋高校を卒業してから、1年半が経った秋の夜のことだった。

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事の始まりは、およそ5時間前に遡る。

「お、あーみん。しばらく見ないうちに一段と綺麗になったねぇ」
「・・・トイレ行ってきただけのうちに、あんたの中では何年経ったのよ・・・。
つーかやっと来たのかチビ虎。遅刻は罰金だよ」
「久しぶりねばかちー。しばらく見ないうちにちょっと太った?」
「太ってねえよ!ばっちり理想体型だよ!つーか一昨日も逢ったろ!?」

今大河と一緒に居る2人、櫛枝実乃梨と川嶋亜美は、高校時代からの親友だ。
2日前、偶然街で出会った大河と亜美が、
折角だからと3人で集まる機会を設けたのだった。

「ったくアンタらは・・・ホンット成長しないわね」
「おいばかちー。そのセリフ、わたしの体のどこを見て言った?」
「そうだぜあーみん。私のこのマッシヴ・ボディを見て、
成長してないとは言わせねぇ」

今や麗しの女子大生となった3人。

(約1名、入学直後に女子ソフト部に入部し、麗しさから遠く離れたガタイを手に入れた者もいる)
親友とはいえ、各自のスケジュールの都合もあって、
3人で集まったのは半年ぶりになる。
話は自然、ここには居ない4人目の親友にして、
ここに居るある1名の恋人の話に及ぶ。

「しかし、なんだね。高須君、今日来れなくて残念だったねぇ」
「うん・・・。どうしても外せない補講が入っちゃってるんだって」
「へー。結構真面目に大学生やってんだ。あのナリで」

高須竜児。大河の恋人、いや婚約者。
かつては金銭的な問題もあって大学への進学を考えていなかった彼も、
母親や祖父母の熱心な説得と資金的援助もあって進学を決意、
元から地道な努力が出来る人格と地頭の良さも相まって、
名門と呼ばれる大学に合格した。
大学2年生になった今も、高校生のときから続く2人の仲は順調だ。

「ま、違う大学に通ってんだから、予定が合わなくても仕方ないべな」

ただ、2人は違う大学に通っている。
母親の意向もあって、大河は女子大に通っているのだ。

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―今更結婚に反対はしません。ただし条件を1つ、聞いてもらうわ―
そう言って大河の母親が出してきた条件というのが、
自分の母校でもある女子大への進学だった。
当然大河は反抗した。4年間のキャンパスライフを恋人と過ごす、
ストロベリーな未来が崩れてしまうからだ。

一方で、母親の言うことに反対しきれない面もあった。
もともと理系の竜児と文系の大河が同じ大学に通おうとするなら、
どちらかがある程度ランクを落とす必要がある。
それでもお互いにお互いの邪魔にはなりたくない、と、
苦手な英語・数学に果敢にも挑んだ竜児と大河だったが、
竜児は長文読解相手に、大河は微分積分相手に連日敗戦を重ねていた。

2人の間でも、もしかしたら別々の大学に通うことになるかも、という未来は、
現実味を帯びつつあったのだ。

その日もインテグラル率いる微分積分軍の攻撃を受け、
壊滅状態に陥っていた大河にとって、
母親の出した条件は彼女を更に追い詰めるものだった。

しかし希望もあった。
母親の母校と竜児のもともとの進学希望の大学は、
かなり近くに位置していたのだ。
もし別々の大学になったとしても、かつて離れ離れになった距離よりも、
遥かに近くに居られる。なら―

悩みに悩んだ末、2人は、違う大学に進む決断をしたのだった。


だが、この2人においては、これでめでたしとなるわけが無かった。


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「どの道一緒に住んでんだし、アンタんとこ遊びに行けばいつでも逢えるしね」


そう、2人は今、同じアパートの同じ部屋で生活しているのだ。


母親の母校に入学する、という条件を飲んだ大河は、
今度は逆に母親に条件を突きつけた。

―わかった。遺憾だけど、お母さんの通ってた大学を受ける。
その代わり、わたし、竜児と一緒に暮らすから―

一度は駆け落ちまでした身、反対するなら再び家出も辞さない覚悟であったが、
母親は反対しなかった。
これには大河の方がズッこけた。

大河の母とて、なにも嫌がらせで"女子大に行け"などという
条件を出したわけではない。
むしろ、娘と娘の恋人のことを考えての条件だった。

自分の出身大学は、それなりに名のある女子大だ。
贔屓目にみても振る舞いに女の子らしさの欠ける大河にとっては、
いい花嫁修業場となるだろう。
また、もし将来大河が就職しようとしたときには、
その名はきっと武器になるに違いない。
それに女子大であれば、婚約者の居る娘に変なムシがつく心配も無い。

(きっと竜児君だって安心だわ)

大河の母は、娘の婚約者のことをしっかりと認めていた。
高2の駆け落ち騒動を経てしばらく後、大河に改めて紹介されたときには、
初めて正面から見るその眼光の鋭さに、思わず110番に手が伸びたものだが、
何度か会って話をする内、彼女は竜児という男のことをきっちり理解していた。
品行方正、貞操観念もしっかりしている。
話すほどに、大河のことを一番に考えてくれているのが分かった。
経済観念に至っては、しっかりしすぎて逆に心配になるほどだ。
何があなたをそこまでさせたの、と。
ぶっちゃけうちの娘にはもったいないくらいかも知れない。

当然、そんな思いを娘に話したことなど無い。今更照れくさくって話せない。
このときも、様々な思いを胸に押し隠し、ただ一言、娘に告げた、

―コッソリ同棲されるより、いっそ初めから分かってた方が、
もしものときにも動揺しないで済むもの―

少し遅れて母親の言う「もしものとき」の意味を理解した大河は、
真っ赤になって久々に暴れた。
同時に、自分たちの仲を本当に認めてくれている母親に感謝した。


漢らしさを発揮した母親とは対照的に、父親の方はすこぶる女々しかった。

「だめですッ!同棲なんて、お父さんは認めません!」

いや、最初はある意味男らしかったと言える。
世の父親が娘の口から「同棲」という単語を聞いたときに示すであろう反応を、
彼はそっくりそのまま再現した。

ようやく自分にも心を開いてくれるようになった愛娘。
血の繋がりは無くとも可愛い可愛い娘なのだ。

「嫁入り前の娘が!いくら婚約者とは言え男と同棲なんて!
絶・対・に認めませんからねッ!」

しかしこの娘には既に婚約者が居る。
"お前もいつか、嫁に行く日が来るんだろうなぁ・・・"などと、
感傷に浸る余地すらなかった。
ならば、自分の元から旅立つまでの残り少ない日々を、
共に過ごしたいと思わない父親が何処に居る?

「お父さんはなァ・・・お前が成人したら、
一緒にお酒を飲みたいと思っ・・てっ・・!」

この辺りから涙声が混じり始めた。
大河が成人式を迎えた暁には娘と一緒にお酒を飲む。
それが彼の近い将来の楽しみだった。
そのためのワイン(大河が生まれた年のものをわざわざ探してきた)が、
すでに彼の私室に秘蔵されていた。

「なのにっ・・・なんでっ、ウチを出てくなんてっ・・・言うんだよぉお〜〜〜!」

本格的に泣き出した義父。今更だが彼はシラフだ。
娘と母親はそれを醒めた眼で見ていた。
基本的にこの逢坂家では、父親の意見は無視される傾向が強かった。


通常なら大きな障害となるであろう相手方の母親は、
もはや説得さえ必要ないほど協力的だった。

―大河ちゃん、竜ちゃんと一緒に暮らせるんだ〜。
やっちゃん、大河ちゃんのごりょーしんが反対するかもって思ってたけど、
良かったね☆―

竜児の母、泰子に至っては、同棲に反対することはおろか、
認めた上で既に大河の心配をしていたのだった。
聞く人が聞けば、苦悩の上で子どもたちの幸せを祈っての決断、
なんと立派な母親か、と思うところかも知れないが、
この人の場合、恐らく特には悩まなかったに違いなかった。

薄々、いや多分にこうなることを予想していた大河は、
一応竜児の祖父母にもお伺いを立てた。
泰子には申し訳ない話だが、この2人に認めてもらえた方が、
安心感というか達成感がある。

彼らは言った。
―自分たちは一度娘に駆け落ちされた身、今更同棲に驚きも反対もしない。
ただ、ご両親に心配をかけるようなことだけはないように―

この2人が、自分の周りでは一番ちゃんとしている大人だ。
いつかはこんな夫婦になれたら、と思わずにはいられない大河であった。


かくして大河は無事、愛しい恋人との同棲生活を手に入れた―と思いきや、
思わぬところに、いや、ある意味では想像通りに、
最大最後の障壁が彼女の前に立ちはだかった。

通常なら大きな喜びを分かち合うはずの、同棲の相手だった。


「おっ、おまっ、同棲って!」
「なによ竜児!嬉しくないの!」
「いや嬉しくねえってことはないけど・・・
ただお前、同棲ってあの同棲だろ!?」
「一緒に暮らすってこと以外に、どんな同棲があるってのよ」
「そうだよ竜ちゃん!こういうときは、男の子がビシっとしないと!」
「泰子!お前は反対すべき立場だろ!」
「え〜なんで〜???」
「いや何でって・・・」

竜児は反対した。大河と一緒に暮らせるのは嬉しい。嬉しくないわけがない。
しかし婚約者同士とはいえ、お互い結婚前の身だ。
今までも同棲みたいなものだったが、泰子もインコちゃんもいたし、
大河も夜には自分の家に帰っていた。
しかし、いくらなんでも2人っきりでの生活は、マズイ。特に夜がマズイ。
そこまで自分が信用できない。

だが、すでに竜児を取り巻く状況は四面楚歌といえるものだった。
恋人はノリノリだ。
自分の母親もノリノリだ。
ここまではいい。この母親の頭のデキからしても、予想できない事態ではない。

しかし、なぜ大河の母親までノリノリなのだ?

同棲騒動の最中、竜児は援軍を呼ぶ通信兵の心持ちで、
大河の実家に連絡をとった。
冷静になってみれば、明らかにおかしい状況だ。
反対されて然るべき恋人の実家に、その反対を求めて連絡をとるなどとは。

返ってきたのは、本来ならば最も喜ばしいもので、
しかし今の竜児にとっては敗戦を決定付ける答えであった。

―大河のこと、よろしくね♪―
―大河のごどっ、よろじぐおねがいじまず・・・―

号泣していた大河の父親のことが気がかりだが、
恋人の両親にここまで言われて決心しないのは男ではない。
2人とも自分を信用して、愛娘を任せると言ってくれている。
この信頼、決して裏切るわけにはいかぬ。
婚約者でありながら同棲に最後まで反対するのが男の姿か?
というのは言わない約束だ。

2人で暮らせば家賃も半分、という超現実的な理由も手伝い
(というか結構大きなウェイトを占めていた)、
ついに竜児は大河との同棲に同意した。

大河にとっては結局、同棲相手、恋人の攻略に最も時間が掛かるという、
なんともアホらしく、そしてこの2人らしい波乱万丈であった。


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「大河と高須君、今年で・・・3年目?ん?4年目だっけ?」
「もうじき3年目だよ」
「ほっほう。ということは、何だね。
あの輝ける17歳から、もうじき3年が経つということだね・・・」
「ちょっと櫛枝。年齢の話やめてくんない」

そして、冒頭大河を悩ませていた問題の話題に差し掛かる。

「でもさ、アンタ心配になったりしない?」
「年のこと?」
「ちげーよバカ虎、流れ読めよ。高須君の話だよ」
「竜児?」
「そうだよ。いくら一緒に住んでるって言っても、別々の大学でしょ?
しかも相手は共学。それってどうなんよって話」
「どういう・・・意味?」
「イチから説明しないとダメか?
よーするに、高須君に変なムシがくっついてたりしないかなーってこと」
「!」
「さすがあーみん、いい着眼点。高須君、誰にでも優しいもんねぇ」
「見た目はアサシンだけどね。それに理系女子って地味に可愛い子多いし。
ま、当然亜美ちゃんには敵わないけど?」
「つか私、この"何とか系"っていうのが微妙に許せないんだけど。
じゃあ何?私は?マッチョ系女子?ゴリマッチョならぬ女子マッチョ?」

無論、亜美も実乃梨も本心では有り得ないことだと思っている。
竜児の大河一筋っぷりは2人とも認めているところだ。
だから、竜児への恋心をそっと隠し、2人の仲を応援してきたのだ。
ただ、まだ春が遠い身として、ちょっとからかってみたくなっただけだった。

だが、2人は忘れていた。
逢坂大河という娘は、基本唯我独尊を地でいくが、こと竜児のこととなると、
一瞬にしてか弱い乙女に変わってしまうということを。

「竜児に・・・変な、ムシ・・・別の女・・・?」
「大河?」
「竜児が・・・浮気・・・?」
「お、おいタイガー」

震える声、血の気の引く顔。徐々に潤みだす瞳に気付いたとき、
2人は同時にやっちまったことに気付いた。

「うわ、き・・・?」
「あーバカ泣くな!冗談だっつーの!」
「そ、そうだよ大河!高須君は大河一筋だって!」

慌てて全力でフォローに回る亜美と実乃梨。
何せ大河はただでさえ、黙っていれば人形のような可愛らしさ。
故にその泣き顔は破壊力抜群、世の男性方の目を引くことは受けあいだ。
さすがにこんな街中で注目の的になるのは、2人とも避けたい事態であった。

「だいたい高須君、理系なんだからさ、そもそも女っ気なんか無いって」
「そうそう、私んとこの大学でもさ、
理学部棟はいい感じにムサムサしたオーラが出てるし」
2人は全国の理系男子を敵に回す発言で、先ほどの失言を取り消そうとする。
大河も、目元を少し拭って、落ち着きを取り戻した。

「ったくアンタは。高須君のことになるとすーぐ泣くんだから」
「うっうるっさいばかちー、もともとあんたがあんなこと言うから!」
「そうだよあーみん。今のはあーみんが悪い!」
「おい櫛枝、なんでアンタも被害者顔だよ!」

言い合いながら3人連れ立って、街中へと歩き出す。


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時は進み。
今、竜児とともに暮らすアパートの部屋で、鏡を前に大河は悩んでいる。
あのあとは3人でショッピングに行った。
久しぶりに遊んだ親友たちとのひと時は、とても楽しいものだった。
だが、1人になった今、どうしても亜美のあの言葉が大河の脳裏に蘇る。

朝、今日は補講の後そのままゼミの飲み会があるから、と竜児は言った。
そのことが不安に拍車をかける。
ゼミの飲み会、ゼミの仲間。そこには女の子も居るのだろうか。

【もしかしてぇ、ほんとに浮気しちゃってるかもよぉ?】
頭の中で、悪魔が大河に囁きかける。
黒いセクシー衣装に身を包んだ川嶋亜美の姿だった。

{だめよ大河。あなたはフィアンセでしょう?信じるのよ}
同じく天使が大河に囁きかける。
こちらは白いドレスに身を包んだ自分の姿だった。

『さぁ両者一歩も譲らず、リング中央で睨みあっております!』
何故か実況が大河に叫ぶ。
スーツと蝶ネクタイを装備した、櫛枝実乃梨の姿だった。

【フィアンセだからこそ、確かめなきゃいけないんじゃないのぉ?】

悪魔の先制ブローに天使がよろける。
おのれ、いきなりいいパンチを。

{でも、理系は男ばっかりだって・・・}

天使が何とか反撃する。
ただ、その威力は若干心許ない。

【そりゃ男は多いだろうけど、女が1人も居ないわけないでしょぉ?】
【それに理系の女って、地味に可愛い率高いわよぉ?】

見事なワン・ツー。思わずたたらを踏む天使。
体勢を立て直す前に、更なる追撃が放たれる。

【みのりんも言ってたでしょぉ?竜児は誰にでも優しいって】

"女の子の理想は「優しい男」"
本屋で立ち読みした雑誌の文句が、タライのように天使の頭の上に落ちた。
くそ、審判。今のは反則じゃないのか。

{でも・・・でも、あなたがやろうとしている事は、竜児を騙す事になるのよ!}

ロープに腕を引っ掛けて、なんとか倒れずにいる天使。
最後の切り札、婚約者を騙せるのかと叫ぶ。

だが。

【そこまでするって、愛情の裏返しよぉ?】

とどめの一撃はクロスカウンターだった。
遂にマットに倒れ伏す天使。セクシーポーズを決める悪魔。
カウントは無用。両手を大きく交差させたのは、
いつの間に着替えたのか審判スタイルの実乃梨だった。


長い逡巡を経て、大河の決意は固まった。

決着のゴングの代わりか、遠く、犬の遠吠えが聞こえる。


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翌週。

竜児は正門から学部棟へと延びる道を歩いていた。
道の脇に立つ大きなイチョウの木から、黄色い葉が風に舞いつつ降ってくる。

すっかり秋も深まったな・・・。

その木を見上げ、秋の日差しに眼を細め変わりゆく季節に思いを馳せる竜児。
はたから見れば、枯れ葉を散らして邪魔くせぇ木だ、
いっそ燃やしてくれようか、という表情に見える。
人通りが少ないのが幸いだった。

でも、イチョウの葉っぱって雨が降ると滑るんだよな・・・
ホウキがあれば掃いておくのに。
ああ・・・落ち葉を集めて焼き芋もいいな。

そこまで考えて思うのは、同棲している恋人・大河のことだ。
イチョウの葉が風に舞う切ない秋の景色からではなく、
あくまで食べ物、焼き芋からの連想だった。
この休みは、ゼミの講師がやけに張り切って補講を開き、
そのまま飲み会が開催されてしまったせいで、
余り大河に構ってやることができなかった。
普段なら不機嫌そうな顔を見せるところだろうが、
どういうわけか竜児をねぎらう余裕すら見せた。

成長したのかな・・・。

それが大河の償いの気持ちからくる行動とは露知らず、
竜児は1人喜びを噛み締めていた。

「こんにちは」
言って、ゼミの教室の戸を開ける。
「よう高須。今日も怖いな」
仲間が声を掛けてくる。
「うるせぇよ」
答えながら、竜児はカバンを机に置いた。
このゼミの仲間たちも、最初の頃こそ竜児の凶眼に明白にビビッていたが、
同じ教室で学ぶようになって半年、今ではすっかり打ち解けて、
冗談交じりの挨拶を交わせるようになった。
やはり大学生ともなると、人を見た目だけで判断する者も減ってくる。
仲間に恵まれたことに、感謝している竜児だった。

「教授はまだ来てないんですか」
「うん。またメスシリンダーと愛を語り合ってるんじゃない?」
竜児の問いに答えたのは、3年生の女子だった。

このゼミの教授は大学でも指折りの変わり者だったが、
難しいテーマでも分かりやすく説明してくれると人気だった。
竜児も、初対面から自分を怖がる素振りも見せなかった
この教授のことを信頼していた。

講義開始時間から10分ほど遅れて、ようやく教授が姿を見せた。
「いやぁ、遅れてすまない。ちょっと来客があってね」
ちょっとくたびれた白衣、天然パーマ気味の髪、メガネに無精ひげ。
人が研究者という言葉から連想する研究者そのものの格好だ。


「さて・・と。今日のゼミを始める前に、ちょっと君らに紹介したい人が居る。
ウチの1年生でね、来年このゼミに入りたいって、見学に来てるんだ」

学生たちからそれぞれ反応が返る。ゼミの下見など珍しいものではない。
そうは言っても、特に現2年生にとっては、
ゼミで"初めての後輩"になる可能性が高いのだから、気にはなる。

教授が続ける。
「女の子だ」

反応が大きくなる。ゼミに女子が居ないわけではない。
だがやはり、理系にとっては貴重な女子成分だ。
女子は同性が増えることに喜び、男子は純粋に女の子が増えることに喜ぶ。

更に続ける。ちょっと小声で。
「かわいいぞ」

男子学生のターボチャージャーに火が入る。
この教授は中々どうしてセンスが有る、というのは、
ゼミの男子学生共通の認識だった。
ゼミの女子に可愛い子が多いのも、
密かに教授がピックアップしたのだという秘密の噂がある。
実際は人望なのだろうが、彼の奥さんが美人なのが噂の信憑性を増していた。

「入ってくれ」
教授が廊下に向かって声を掛けた。

「失礼します」
可愛らしい声と共に、注目の女子学生が教室に入ってくる。
前列の女子が口元を手で多い、
斜め前の男子が机の下でガッツポーズをかました。

それほどに可愛らしい女の子だった。
文句がつけように無いほど可憐な容貌、華奢な体。
栗色の長い髪は三つ編みにして肩から前に流し、先っぽには小さなリボン。
頭に白黒チェックのカチューシャをつけ、
潤んだ大きな瞳には、赤い太めのフレームのメガネをかけている。
クリーム色のカーディガンと茶色のチェックのスカート、黒のタイツ。
ご丁寧にカーディガンは大きめで、おなかの前で組んだ手は、
半分くらい隠れていた。

良い・・・と、溜息混じりに聞こえてきたのは、
隣の男子の心の底からの感想だった。

竜児とて例外ではなく、素直に可愛いと思った。
だが同時に、頭の中だけで呟く。

でも大河の勝ちだな、と。
まったくもって、親バカならぬ彼氏バカの思考だった。

「伊形 サキといいます。よろしくお願いします。」

彼女はペコリと頭を下げた。


客人を一番後ろの席に案内して、教授は講義を開始した。
だが竜児の見立てでは、まともに聞いているのは半分ぐらいといったところ。
残りの学生は彼女―伊形サキさんを意識して、ちょっと髪型をいじってみたり、
何とか後ろを振り向かずに彼女を見ようと限界まで眼球を動かしたり、
逆に普段より3倍くらい真面目な態度で講義を受けたりしている。


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どうにもいつもと違う講義風景の中、
最後列に座りながらもなお注目の的であるサキは。
にやけそうになる口元を、必死で押さえ込んでいた。

完璧・・・完璧だわ・・・

伊形サキは心の中で自画自賛していた。
この様子では、間違いなく誰一人として気付くまい。

自分が、この大学の学生ではないということに。

そして、第一目標であるあの男子学生―高須竜児も気付いてはいまい。

自分が、逢坂大河だということに。


これこそが、悩んだ末に大河が立案した作戦だった。
即ち、竜児の浮気疑惑を直接確認するために、変装して竜児の大学に乗り込む。
竜児は部活やサークルには入っていない。
となれば、最も浮気の可能性が高いのはゼミだ。
そこに、見学に来た後輩という仮面を被って潜り込む。

大学というのは、えてして非常に警備が甘い。
そもそも学生が多すぎて、誰が本当にこの大学の学生か、
見ただけで分かる者など存在しない。
学生っぽい格好をして平然としていれば、
例え正門の警備員の前を通っても疑われることはまず無い。
ましてや、もともとこの大学に知り合いの居ない大河にとって、
ひとたび大学内に潜入してしまえば、バレる可能性はほぼゼロに等しかった。
万一誰かに学生証の確認を求められても、忘れたの一言でどうとでもなる。

格好にも注意した。
普段は梳かしただけの髪の毛を、丁寧に編んで一本の三つ編みに。
服もいつものフワフワフリルのものではなく、理系女子っぽくシンプルに。
カーディガンは母親のお下がりだが、大河には少し大きい。
母は、中学のときに使ってたんだけどね、とか苦笑っていたので、
なんかムカついてタンスに叩き込んであった一品だ。
ついでに伊達メガネまでかけた。
鏡で自分を見たときは、化ければ化けるもんだと我ながら感心した。

そして名前。
さすがに逢坂大河と名乗るほどバカではなかった。

逢坂大河。AISAKA TAIGA。
このローマ字を入れ替えて、余ったAA
―それは忌々しくも、自分の胸のサイズを表す文字列だ―を投げ捨てる。
IGATA SAKI。伊形サキ。
ここから自分の本名を導くことは不可能だろう。

つくづく完璧な計画だと大河は思った。
事実、このゼミの教授も、「来年から始まるゼミの下見に来た」という大河
―いや、伊形サキの言葉をやすやすと信じた。
竜児の大学のシステムは、竜児本人から聞いて知っていた。
これで気が済むまで竜児の疑惑を調査できる。

ただその完璧さゆえに、大河は重要な事実に気付いていなかった。
「竜児の浮気」という大前提が、そもそも存在していないという事実に。

そうとは知らない大河は早速、教室を見渡した。
このゼミには、男子学生が12人、女子学生が4人いる。

―おのれ、ばかちー。何が男ばっかりだ。4分の1は女じゃないか。

男ばかりで浮気の心配なし、というのが理想の結果であった大河にとって、
これはしょっぱなからよろしくない。
男同士の浮気の可能性は?という声が脳の奥底に生まれたが、
意識として認識される前に彼女の守護霊が握りつぶした。

―そのくせ可愛い子が多いとかいう無駄な情報ばっかり正確とは。

心底役に立たない奴め。
本人が居ないことをいいことに、ボロクソに文句を言う大河。
実に遺憾な事態だが、確かに女の自分から見ても可愛いのが何人か居る。

教授にもらったゼミ生の顔写真付き名簿を見る。
女子4人のうち2人が3年、2人が2年。
本来4年生もこのゼミには居るのだが、卒業研究の追い込みもあって、
2,3年生とは時間割が別らしい。

とりあえず女子全員の後姿を確認する。
名簿を見る限り、大河の警戒リストに載るほどの顔立ちの女子は、
3年に1人、2年に1人。他の2人もクオリティは高い。
3年のリスト入り女子は指輪をしているのが見えた。
あいつはセーフか?いや、お互い浮気という可能性も。

いずれにせよ、講義中に調査するのは無理だろう。
小さく息を吐いて、大河は黒板に眼を送る。
バリバリ理系のゼミの講義は、文系の大河にはさっぱりだ。
これならまだ「ふっかつのじゅもん」の方が憶えられる。
早々に諦めると、自然と眼が行くのはやはり竜児の方だった。

なぜかそわそわしている男子の横で、姿勢正しく教授の話を聞く竜児。
正面から見れば相変わらず妖刀村雨といった目つきだろうが、
まっすぐに教授と向き合うその姿はカッコイイと思えた。

普段、あんなふうに講義を受けてるんだ・・・。
もしわたしも一緒の大学に通ってたら、もっと近くに座れたのに。
学食で一緒にごはんを食べたり、図書館で一緒に勉強したり。
でもそしたら、同棲は無理だったかしら?
そういえば、ここの学食って美味しいのかしら。
理系は男の子が多いから、結構量重視かも。
学食で思い出したけど、今日の晩ご飯なんだろ。
結局、残りの講義の時間中、大河は竜児を眺めて過ごした。


講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。
早速大河の周りに学生が集まる。
「伊形さん、って呼んでいい?俺の名前は―」
「伊形さん、1年生なんだよな?理学部の何科?」
「サキちゃんって、どの辺りに住んでるの〜?」

思わずどけぃ!と怒鳴りそうになって、
椅子に座ったままこちらを見る竜児に気付き、危ういところでそれをこらえた。
ダメだダメだ、今の自分は後輩の伊形サキ。
間違っても竜児に正体がバレてはいけないことを忘れるな。
もしバレて問い詰められたとき、理由を誤魔化し通せる自信は無い。

こういうとき、後輩ならどうするか。なりきるのだ。伊形サキに。
少し考えて、大河―いや、伊形サキは少し高めの声を出した。
「あ、あの。改めて自己紹介させてください。先輩方」

一生懸命なその様子に、一同の心が和む。

「初めまして。理学部物理学科1年の伊形サキといいます。
今日はゼミにお邪魔してしまってすみません」

物理学科は竜児の所属する学科だった。というか、そこ以外知らない。

先ほどからこちらを見つめる竜児が気になる。
声でバレたか?もっと高い声を出すべきだったか。

見つめ合う2人に気付いたのか、男子が声を掛けてくる。
「あー高須、お前睨んじゃダメだよ。俺たちはもう慣れてるからいいけど」
女子が重ねて声を掛ける。
「伊形さん驚いちゃった?ごめんねぇ。あの人見た目は怖いけど良い人だから」

「い、いや別に睨んでねえから!」
竜児は動揺しつつ返事をした。
嘘は言っていない。ただ見つめていただけだ。
何となく大河に似てるなぁと思って。
だがそれを口に出すことはできない。
ただでさえ、ことあるごとに彼女持ちの自分をからかう連中だ。
恋人に似てるから見てた。なんて言えば、
こいつらときたら、高須君たらハレンチ〜♪などと合唱しかねん。

そしてハタと気が付いた。伊形さんが不安そうな眼でこちらを見ている。
そうだ、最近めっきり忘れがちだったが、自分の目つきは凶器だった。
いかん、と思った。何とかこちらから声を掛けなければ。
そして誤解を解かなければなるまい。
これで彼女が怯えてゼミを変えるなどという事態になっては、
冗談抜きで男子たちに土下座させられる。

「え・・っと、物理学科2年の高須・・です。
っと、同じ学科なんだよな。何か・・おう、何か分からないこととかあったら、
遠慮なく聞いてくれていいから」
そこまで言って、ちょっと言い方がぶっきらぼうか?と考える。
何せ他人に気を配ることにかけては、1000人規模のこの大学でも、
彼の右に出るものはそうそう居ないだろう。

「いやホント、目つきはこんなんだけどさ、マジで睨んでたわけじゃねえから。
だから、その、なんだ。このゼミにようこそっていう気持ちをこめてだな・・・」

やばい、混乱してきた。元々女性と話すのが得意な方ではない。
ましてや後輩の女子と話すことなんて、高校のときでもほとんどなかった。

危険な眼をくるくるさせながら言葉を考える竜児を見て、サキが小さく笑った。

「ふふ、先輩。そんなに慌てないで下さい。ちょっと驚いちゃいましたけど、
先輩がいいひとっていうのは分かりますから」
「お、おう。そうか。ありがとう・・ん?ありがとう?」
「ふふ、ふふふ」

・・・まったく、いいかっこしようとしちゃって・・・。
どうやら竜児は、伊形サキの正体にまったく気付いていないらしい。
その安心も手伝って、大河はつい笑い出してしまっていた。

ゼミの学生たちは、この魔王と美少女の交流を生暖かい目で見ていた。
この娘はええ子やで・・・と、何故か関西弁の感想が聞こえる。

「ねえ、サキちゃん。時間があれば、みんなでカフェテリア行こうよ」

こうして伊形サキは、早くも竜児たちのゼミの人気者となったのだった。


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その日の夜。

「ただいま〜」
「おう大河。おかえり。今日は遅かったんだな」
「ちょっと友達とお喋りしてて」

伊形サキから逢坂大河に戻って、大河は部屋に帰ってきた。

「ごはんなぁに?」
「サンマと肉じゃが。もうすぐできる」
「じゃ、待ってる」

にこ、と笑って大河は奥に引っ込んだ。
竜児から見えないところまで行って、ガッツポーズを1つ打つ。
返す返すも今日の作戦行動は完璧だった。
どの道浮気調査は一度では終わらない。
ゼミに頻繁に顔を出せるようになるため、いかにして溶け込むかが
最大の問題であったが、今日1日でその問題は解決した。

あのあと、竜児のゼミのメンバーと大学内のカフェでしばらく話をして、
伊形サキは見事に彼らと仲良くなった。
竜児のゼミは週2回開講らしい。
これで次回以降また顔を出しても、全く問題はないだろう。
今日の伊形サキは完璧に近い良い後輩だった。
まったく自分にこれほどの演技力があったとは。

更に嬉しい誤算は、伊形サキが竜児と仲良くなれたことにあった。
カフェでいつものようにドジをやらかしかけた大河
―サキを、竜児が助けてくれたのだ。
竜児は内心、こんなとこまで大河に似てるんだなと思ったものだが、
そうこうあって帰る頃には竜児をちょっとからかえるぐらいになれていた。
これなら、浮気調査もより円滑に進められるだろう。

既に大河から罪悪感は無くなりつつあった。
ゼミの後輩・伊形サキに対して、竜児は大河の知らなかった顔を見せる。
(竜児的には他人なのだから当然だが)

そしてなにより、叶わぬ夢と諦めていた竜児とのキャンパスライフが
実現したことの喜びが大きかった。

浮かれる心を、しかし大河は戒めた。
いけないいけない、これはあくまで浮気調査なんだから。
今日のカフェでも、竜児は結構女子に人気があることが窺えた。
やはり次回もゼミに顔を出すべきだろう。
1人決意を固めたところで、竜児の声が掛かる。

「大河、できたぞ。手ェ洗ってからこいよ」
「分かってる!まったくあんたは母親かっての」

小さなちゃぶ台につく2人。
以前竜児の家で使っていたちゃぶ台より一回り小さいそれは、
大河がごはんはどうしてもちゃぶ台で食べたいと言って買ったものだ。
食べてすぐ寝っ転がれるのがいいの!と言うのが表向きの理由。
本音は、大河の食事の思い出には、いつも高須家のちゃぶ台があったから。
そして、テーブルと椅子よりも、ちゃぶ台の方がお互いの距離が近いから。

姿勢よくサンマをほぐしていた竜児が、そういえば、と話し出す。
ちなみにほぐしているサンマは大河の分だ。
「今日、ウチのゼミに見学の後輩が来たんだ」
「・・・ヘエ。ドンナ人?」
「?なんでそんなカタコトなんだお前。
いや、それが珍しく女の子でな。男連中が盛り上がってたよ」
「ふうん。その子・・・その子、可愛かった?」
テレビを見ながら問う大河。少し考えて竜児は、
「けっこう、な」
そして心で呟く。お前には負けるけど、と。

「ふうん」
答えた大河は実際心臓バクバクだった。可愛い。この男、可愛いと言ったか。
それは私だ。あんたが可愛いと言ったのはこの私。普段滅多に言わないくせに。

そこまで考えて、はた、と大河は気が付いた。
竜児が可愛いと言ったのは伊形サキ。だが竜児はサキは私だと気付いてない。
つまり、今の「可愛い」は・・・。

「あ、あんた・・・」
「?」
「その子と私、どっちが可愛いってのよ!!」
「ぶお!?米を口に入れたまま怒鳴るな!」
「うっさい!!答えなさい!!答えによっては・・・!!」
「待て、分かった!まずは落ち着け!」
虎と竜の夜は、こうして更けていく。


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「こんにちは」
言って、ゼミの教室の戸を開ける。
「あ、サキちゃん!今日も来てくれたんだね!」
3年の先輩が声を掛けてくる。
「すみません、またお邪魔します」
答えて、指定席の一番後ろへと歩いていくサキ。
彼女の死角で、ハイタッチを交わす男子が居た。
このゼミの女子は比較的クオリティが高いとは言え、伊形サキはまた別格だ。
早速、話に混ざろうと腰を浮かせる男子―
「うっす」
―のすぐ後ろに、鬼が立っていた。

「ぎょえ」
「おう、何変な声出してんだ」
普通に教室に入り、サキを見つけてちょっと目を大きくした竜児。
その表情は、凶気を宿した戦場の鬼と呼ぶにふさわしいものだった。

「こんにちは、高須先輩。また来ちゃいました」
「おう、いや、大歓迎だ」
サキと竜児が言葉を交わす。
ゼミ生には不可解極まりないことに、この鬼神と美少女は何故か仲が良かった。
正体を暴いてみれば同棲中の婚約者同士、仲が良いのは当然のことだったが、
そんな理由を知る由もないゼミ生たちは首を捻るばかりだ。

その脇に立つ女子が、お?と声を発した。
「あれ?なんか良いニオイする?」
「おう、昨日新作のクッキーを焼いてみたんだ。
また感想を聞きたいと思って持ってきた」
「ほんとに?やったあ!」
竜児は時折、自作のお菓子をゼミに持ってきては、
皆に配って感想を募っていた。

きっかけは、まだゼミの仲間にビビられていたころ、
皆と何とか仲良くなろうと持ってきたクッキーだった。
竜児的には悩みに悩んだ苦肉の策であったが、これが猛烈にウケた。
1人暮らしの大学生は、何故か料理の腕を自慢したがる傾向がある。
だが竜児が持ってきたものは、その辺の自称"料理上手"など裸足で逃げ出し、
下手すればお菓子屋も逃げ出すかも知れないレベルのクッキーだったのだ。
それを自作だという竜児。最初は皆半信半疑だったが、
原材料から作り方まで実際にやったとしか思えない竜児の説明と、
試しに、とリクエストされて翌日には持ってきた激旨のアップルパイで、
ゼミ生たちはこれは間違いなく自作なのだと理解した。
かくして竜児は、「料理が凄まじく上手い、凄まじい顔の優しい男子」として、
ゼミに馴染むことが出来たのだった。
後に、この称号には「凄まじく掃除にうるさい」の一文が加わって今に至る。

以降、恐怖心も消えたゼミ生にせがまれるままお菓子を作る竜児であったが、
これを試作として、よりレベルアップさせたものを大河に振舞うことが出来る、
というメリットに気が付いた。
基本的に大河は食事の感想を言わない。
「マズイ」と思ってはいないだろうと竜児も予想していたが、
それでも自分の料理を客観的に評価してくれる人間が欲しかったし、
より美味しいものを愛する人に食べさせてあげれるのは喜びでもあった。
ただ、その思考は通常女性のものであるということに、
竜児は気付いていなかった。

かくして、ゼミ生にとっては美味しいお菓子が食べれる、
竜児にとっては大河に食べさせる前の練習と感想が聞ける、とお互いの
利点が一致し、このゼミではお菓子の品評会が開かれるようになったのだ。

竜児がバッグから取り出したクッキーに群がるゼミ生たち。
ところが、この教室にそれを快く思わなかった人間が1人いた。
(な、な、何やってんのよ竜児・・・!
そういうのはわたしにいちばんに食べさせるもんでしょ・・・!)
伊形サキ―つまり大河である。

正直言って嫉妬であった。竜児の料理は、高校のころから自分専用だったから。
竜児が新しいレシピを憶えたときも、
大河にせがまれて初挑戦のお菓子を作ったときも、
いつも一番にそれを食べるのは大河だったし、
竜児もそれを嬉しそうに見てたのに。

実際に言ったことはなかったが、
竜児が自分好みの甘い卵焼きを初めて作ってくれたときも、
辛さ控えめに調整したカレーを初めて作ってくれたときも、
そもそも初めてチャーハンを作ってくれたときだって、
密かに大河は絶賛していた。
竜児から料理を教わり、簡単なものなら作れるようになってきた最近では、
竜児が作ってくれたご飯やお菓子から
技術や味付けを盗もうと頑張っていたのに。

それをこの男は・・・!

だが、続いてその怒りは危機感に変わった。
今回のクッキーの感想を、皆が竜児に告げている。
皆。女子もだ。
1人の女子が竜児に近づく。警戒リストに載るあの2年女子だ。
まずい、と大河は思った。
この高須竜児という男、普段料理の感想を言ってくれる人が傍に居ないため、
(大河は基本「あー、お腹一杯」が感想だし、
泰子は「さすが竜ちゃん、おいし〜い☆」しか言わない)
真剣に褒められると真剣に照れるという傾向がある。
そして例のリスト入り2年女子は、結構竜児を気に入っている節があった。
ここで自由にさせては、竜児の中で彼女の好感度が上がってしまう・・・!

大河は素早く行動した。
ゼミ生たちの後ろを風のように移動し、竜児の隣のポジションを確保。
すかさずクッキーを一枚食べ、例の女より先に竜児に感想を言う―
という計画であったが、クッキーを食べたところでフリーズした。

美味しい。
人間、あまりに美味しいものを口にすると、一瞬行動が停止するということを、
大河は身を以って知ることとなった。
しかも、竜児は新作と言うこのクッキー。これは自分の好きな味だ。
もしかして、わたしに食べさせるために練習を・・・?

大河は元来思い込みの激しいタイプであったが、
今回はその思い込みが珍しく現実とマッチしていた。
クッキーの美味しさと「わたしのために」という思い込みの一文が、
彼女から怒りも危機感も拭い去っていく。

「おう、伊形さん。どうだった?」

竜児が尋ねる。
未だ思い込みの中に居た大河は、喜びと感謝を混めて返事した。

「おいしいです・・・すごく。なんだかしあわせになっちゃいます・・・」

日向のように微笑むサキに、ゼミ生たちは皆心を射抜かれた。
男子も女子も漏れなくズギューン!という音を聞いていた。

数分後、幸せそうにもぐもぐするサキを囲んで
異常なほど穏やかな時間が流れる教室に、
教授が大変に申し訳なさそうな顔をして入ってきた。


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翌日。

大学から帰ってきた大河に、竜児がおやつを作ってくれた。
大河の想像通り、あのクッキーを焼いてくれたのだ。
ゼミ生からの感想を活かし、より美味しくなって振舞われたクッキー。
大河は珍しく、心からの感想を述べた。

「ありがと、竜児。すっごくおいしい」

おう、そうか、と嬉しそうに、サキには見せなかった笑顔を浮かべる竜児。
大河は久しく忘れていた罪悪感を思い出した。


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もう浮気調査も終わりにしよう。竜児はきっと、浮気なんかしていない。
そう思いつつも、それからも大河は伊形サキとして何回かゼミに顔を出した。
その度みんなで喫茶店でお喋りしたり、食事に行ったり。

はっきり言って今の大河にとっては、
竜児と過ごすキャンパスライフの方が重要なものになりつつあった。
ゼミに行く度、これで最後、これで最後と思うのだが、
この夢のような生活を中々終わることができなくて。

いっそバレてくれれば終わりにできるのに・・・。

大河がそんなことを考え始めた折、事件は起きた。

「告白された!?」
「声がでけえよ!」

いつものようにゼミの教室の戸を開けた大河の耳に届いたのは、
竜児とその友人のそんなやり取りだった。

「ちくしょう、なんで俺じゃなく高須に・・・」
「いや、それを俺に言われても・・・」

竜児が、告白された?
誰に?

「で、相手は?」
「同じ学科らしいけど、知らない人だ」

あんた・・・あんた、それで、どうするの?

「それで?どうするんだ?」
「いや、断るよ。俺にはもう」

詰めていた息をどっと吐く大河。
良かった。本当に良かった。やばい、ちょっと涙出てきた。

だが、彼らの話はそこで終わらない。

「そうか、高須にはもう彼女が居るんだったな。
つーかさ、俺、高須の彼女の話ってほとんど聞いたことないんだけど、
どんな人なわけ?」
「あ、私もそれ、聞きたいなー」

後ろから突然聞こえた声に、思わず体が浮き上がる。

「ひゃあ!?」
「わ!ごめんサキちゃん、驚かせちゃった?」
「い、いえ・・すみません、入り口ふさいじゃって」
「べっつにぃ〜。それより、サキちゃんも高須君の彼女の話、気になるよねえ?」
「え・・・」
「勘弁してくださいよ、先輩・・・」

困り果てた竜児の顔。だが、これはこの上ないチャンスだ。

普段竜児は滅多に好き、とか、可愛い、とか、愛してる、とか言ってくれない。
この男は、見た目とは裏腹に非常に純情かつ照れ屋なのだ。
浮気調査などとやってはきたが、
実際大河も心底竜児の愛を疑っているわけではなかった。
だが、それでも軽い疑いを抱いてしまうのは、言葉が少ないからだ。
いかに気持ちが自分に向いているとしても、時には言葉が欲しいのだ。
明確な、好意を表す言葉が。

「わたしも、高須先輩のコイビトさんのこと・・・聞いてみたいです」

だが、今なら聞ける。今の自分は逢坂大河ではない。ゼミの後輩、伊形サキだ。
全くの他人という立場から、竜児に聞いてみたいことがあった。

「ほら、サキちゃんもこう言ってるし。これも後輩の勉強のためだと思って」
「何の勉強ですか、何の」
ここぞとばかりに竜児は先輩に凶眼を向ける。
完全に凶悪犯の顔だが、すでに彼の本質を知っている先輩には通じない。

いっそ逃げるか。
チラ、と入り口の方を見た竜児の目に、教室の戸を閉めるサキの姿が映った。

だめだ、これは逃げ切れん。

せめてもの抵抗に、竜児は自分から語るのは嫌だ、と意思表示する。
「聞いてくれれば答えれますけど、自分から話すのは・・・」
「あー分かってる分かってる。高須君ってそういうタイプだもんね。
じゃあ・・・聞きたい人!挙手!」
バッと皆の手が挙がる。
「料理が凄まじく上手く、凄まじく掃除にうるさい、凄まじい顔の優しい男子」
高須竜児の恋人には、皆興味があるのだった。
「とりあえずさ、どんな人?」
先輩から指名された男子が聞く。
「どんなって・・・」
「やさしい、とか、かわいい、とか、料理がうまい、とかあるだろ」
「そうか、そうだな・・・うん、そりゃ・・・かわいい・・・かな。わがままだけど。
料理は・・・最近練習してて、まだまだだけど一生懸命だから」
教室内がヘンな空気になった。擬音で表すと、ニヨニヨ、といった感じだ。
「な、なんだよ!お前が聞いたんだろ!」
「いやぁ、そんな真面目に答えてくれるとは・・・ねぇ?」
質問した男子が楽しそうに言う。
竜児は普段結構落ち着いているから、慌てているのが面白い。

「ハイ次!」
「写真とか持ってないの〜?」
女子が聞く。
「おう、いや、あるけど・・・待て、見る気か?」
「まぁまぁ減るもんじゃないし。ほら、先輩命令」
「うぐっ・・・」
先輩が詰め寄る。
竜児は上下関係にしっかりしている。そこを逆手に取った強行手段だった。
心から渋々、といった感じで、竜児が携帯を渡す。
待ち受けにするのは恥かしすぎてできないが、
2人で撮った写真がフォルダに入っていた。
「どれどれ・・・うおっ!?何コレ!超かわいいじゃん!」

先輩が叫び、携帯を質問した女子に回す。
何コレって・・・と呟く竜児を尻目に、ゼミ生が携帯を覗き込む。
反応ははっきり分かれた。
女子。キャー!かわいいー!と興奮状態に陥っている。
女子はすぐに可愛いというが、これは最上級の可愛い、だ。
男子。特に声は上がらない。
だが各自、目が竜児と携帯を往復している。
皆の心は1つだった。高須、あとで泣かす。

あぁ・・・やっちまった。
竜児は赤くなる顔を隠して窓の外を見た。
大河がここに居なくてよかった。この空気には耐えられまい。
恐らく机をなぎ倒すか、自分をなぎ倒すかするだろう。
そして空の彼方に1人謝る。
大河・・・すまん。お前を晒し者にするようなマネを・・・。
今日はすき焼きにするから。許してくれ。


明るい興奮と静かな殺意に満ちる教室の中、
大河は気絶寸前のところで何とか意識を保っていた。
可愛い。この男、可愛いと言ったか。今回は間違いなく大河のことだ。
あの竜児が。滅多に可愛いなんて言ってくれない竜児が。可愛い、って。
しかも携帯に自分の写真を入れていたなんて。
わたしは携帯に入れるどころか待ち受けにしてあるけど、
竜児は絶対そんなことしてくれないと思ってた。

頭の中で喜びの宴が始まる。心臓は秒間3000回転だ。
だがまだ倒れるわけには行かない。
逢坂大河として、今は伊形サキとして、
何としても聞いておきたいことがあった。

そろり、と小さな手が挙がる。
「ハイ!お、サキちゃん!」
指名されたサキは、うつむいてもなお隠し切れない真っ赤な顔で、
小さく、しかし何故か決意が感じられる声で聞いた。
「たかす先輩は・・・その人のこと・・好き、ですか・・・?」
妙に静かになる教室。

な、なんてことを聞きやがる、この1年。
そんな目でサキを見つめる竜児。実際、全くその通りのことを思っていた。
だが、答えずに居ることは難しそうだった。
まず、先輩女子の目が痛い。生暖か〜い笑みでこちらを見ている。
同級女子の目も痛い。
楽しいネタ見つけた!という声が、目から聞こえてきそうなほどだ。
男子たちの目など、もはや直視できない。
おい・・・答えろよ・・・。てめえ、サキちゃんの質問に答えねえ気か・・・?
静かだが明らかな殺意。
バーゲンセールのとき、同じ品物を掴んだ主婦の目にそっくりだ。
普段は人の顔を犯罪者でも見るような目で見るくせに、
バーゲンのときだけは、敵兵に銃を向けた軍人のような目をする。

熱くなる顔、震える唇。
強く目を閉じ、もはやヤケのように答えた。
「ああ!好きだよ!」

竜児にとってはトラウマになりそうな歓声が沸き起こる教室から、
小さな影がそっと出て行った。


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中庭。
洋風の小さな木製ベンチと外灯、1本の小ぶりのイチョウの木が立つ、
それほど広くは無い空間。
休み時間になれば人が集まるこの場所も、
夕方に近い今の時間では人影も見えない。
そのイチョウの木の下に、1人の少女が立っていた。
三つ編みにした栗色の髪、秋を連想させる色合いの服。
柔らかなオレンジ色の陽光が、棟の間を通って注いでいる。
ざあ、と吹く風に、イチョウの木の葉が舞い上がる。
そのまま一枚の絵か写真に出来そうな、切なく美しい秋の風景―

「ッッしゃあッ!!」

―が、一瞬にして崩れた。
絵の主役とも言える少女が、
無死満塁のピンチを3連続三振で切り抜けた高校球児の如く、
雄たけびと共に熱いガッツポーズをキメたからだ。
「ッしゃあッ!うっしゃあッ!!」
そのまま2度、3度とガッツポーズをかます少女。
夏の甲子園のマウンドに変わる秋の中庭。
偶然か否か、部室棟の方から吹奏楽部の演奏する「タッチ」が聞こえていた。
もうお分かりかと思うが、件の少女は大河扮する伊形サキだ。

(「たかす先輩は・・・その人のこと・・好き、ですか・・・?」)
(「ああ!好きだよ!」)

「〜〜〜〜〜ッ!!」
思い出し、感極まって映画「プラトーン」のあのポーズをとる大河。
これこそが、大河がどうしても聞きたかった質問であり、
どうしても聞きたかった答えだった。
ひとしきり喜びを体現したあと、
近くのベンチに座って改めて記憶を呼び起こす。
かわいい。すき。
今日1日で、滅多に聞けない竜児の言葉を2つも聞いてしまった。
ICレコーダーを持っていなかったのが心の底から悔やまれるが、
頭の中の最重要フォルダに確実に保存する。

心地よい達成感と幸せに浸る大河。
「!」
思わず、目から涙がこぼれる。だがこれは、幸せの涙だ。

もう十分だった。なぜ自分は、竜児が浮気してるなんて思ったんだろう。
赤い顔で。ヤケみたいな声だったけど。心から好きだと言ってくれた人を。
もはや疑いの余地は無かった。
そもそも、あんな脂肪ばい〜ん女の言うことを真に受けたのが間違いだった。

もう十分。思い残すことはないわ。
涙を拭って、未練も何もなく大河はすっきりとそう思った。

伊形サキ、ありがと。あんたのおかげで竜児と一緒に大学で過ごせた。
あんたのおかげで竜児の気持ちが聞けた。
ありがと。そして、お疲れ。

この日、伊形サキは、その使命を全うしたのだった。


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「えっ!?伊形さん、転学!?」

3日後。今週2回目のゼミで、大河―サキはそう告げた。
竜児の浮気調査も終わり、完全無実の判決が大河の中で下された今、
名残惜しいが伊形サキとしてゼミに来るのも、終わりにしなくてはならない。
竜児を騙していたこともさることながら、
このゼミの人たちに見学だという嘘を吐き続けるのも辛かった。
皆、本当にいい人ばかりだから。

「はい。親の転勤で・・・。
両親は1人暮らしして大学に残ってもいいって言ってくれてますけど、
やっぱり心配だと思うので。わたし、1人娘だし」

男子たちが泣いている。冗談ではない漢の涙だ。

先輩が、眉尻を下げて悲しそうな声を出す。
「そうかー・・・残念だよホント。来年楽しみだったのに」
「本当にごめんなさい・・・なかなか言い出せなくて・・・」
「あーいや、サキちゃんを責めてるわけじゃないよ!」

皆が本当に残念がってくれているのを見て、大河は嬉しくなった。
存在からして嘘の自分を、こんなに惜しんでくれるなんて。
だからこそ、もうこれ以上、自分の勝手で嘘は吐けない。

「本当に、今までお世話になりました!ありがとうございました!」

サキはペコリと頭を下げた。

「よし!じゃあ今日は、ゼミが終わったら皆で飲みに行こ!
サキちゃんの送別会だ!」

おう!と皆から返事が帰る。
1人、この後学会に参加せねばならない教授が、廊下でハンカチを噛んでいた。


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「うぷ」
「お、おう、大丈夫か?」

夜11時。
サキは竜児に背負われて、夜の道を駅に向かっていた。

「み、皆さん、お酒強いんですね・・・」
「伊形さんの弱さも、よっぽどだと思うけどな」

あはは・・・と力なく笑うサキ。
ゼミ生総出で行われた送別会では、先輩たちが無双の酒豪振りを発揮し、
理系らしく酒の混合実験などが行われた。
最後まで笑顔が絶えない会ではあったが、
ウィスキーと日本酒の混合実験で出た被害者は、笑ってられない状態だった。
大河―サキはというと、お酒に強くないことを自覚し飲まずにいたのだが、
どうしても断れない最初の一杯と、後は立ち込める酒臭さで酔っ払ってしまい、
今は竜児に背負われているという状態だ。

「確認するけど、駅でいいんだな」
「はい・・・そこからタクシーで帰れますので・・・」

奇跡的に、大河はボロを出していなかった。
なんとか最後までサキを演じきろうという女優魂が、
彼女にギリギリの理性を残していた。

ふと竜児が時計を見る。
「たかすせんぱい・・・おいそぎですか?ほんとうすいません・・・」
「ああいや、そういうわけじゃないんだけどさ」

そこで大河は気が付いた。もしかして、わたしのことを気にしてるの?

「かのじょさんですかぁ?」
サキの質問に竜児が答えた。
「ああ、メシ、どうしてるかなと思って」
言ってから、やべえ!と竜児は思った。この言い方だと・・・。
「いっしょにすんでるんですか?」
竜児は何も答えられなかった。
これだけは、あの日の彼女追及騒動でも漏らさなかった事実だったのに。

「しんぱいいらないですよぅ。だれにもしゃべりませんから」
笑い混じりのサキの声に、ふう、と竜児は息を吐く。
これがゼミの連中にバレたら、全部話すまで家に帰してもらえないだろう。

「悪いな。頼むよ」

肩越しに聞こえる竜児の声。大きくて温かい背中が、
歩くに合わせてゆりかごのように揺れる。
それがとても心地よくて、大河は夢半分のまま話し出した。

「せんぱい・・・かのじょさんのこと、だいじにしないとだめですよ?」
「分かってるよ」
半分眠っているようなサキの声に、竜児は素直に答えた。
この調子だと、明日になったら全部忘れているだろう。
「このまえせんぱい、かのじょさんのこと、すきだーっていいましたねぇ」
「それもまとめて忘れちまえ」

「たまには、いってあげてくださいね?」
「え?」
思わずサキを振り返る。
彼女は竜児の肩に顔を埋めたまま喋り続けた。
「おんなのこは、たまにちゃんといってくれないと、
ふあんになっちゃうんですから」
「・・・」
そうなのか、と素直に竜児は思った。
何故かこの後輩の言うことは、大河本人の言葉のように感じる。
想うだけじゃ、不安なんだな。大河。

「ずっと、すきでいてくださいね・・・」
「おう」
それは自信がある。絶対の自信が。

「うわきとか、しちゃだめですよ・・・?」
「しねえよ。するわけねえ」
竜児は答えた。明日になればこの子も憶えていないだろう。
だから、心からの想いを、話してみることにした。

「俺は、ずっとあいつだけだから」

返事はない。さすがにクサすぎたか、と不安になって振り返れば、
どうやらサキは寝ているようだった。

「まったく、変わった後輩だよ・・・」

呟き、少し笑ってから、サキを背負い直して駅に向かう。


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サキをタクシーに乗せ、発車を見送ってから、竜児も1人家路についた。
自然と早足になってしまう。大河が腹を空かしてないか心配だった。
それ以前に、今日は遅くなるとも何とも言っていない。
もしかしたら、怒ってるかも。
電話だけでも入れようか、と携帯電話を取り出したとき、
狙ったかのように着信が入る。
大河からだ。

「もしもし?大河?」
「んぁ?竜児?」
「なんだ、お前、酔ってんのか」
「んー・・ちょっと大学で飲み会があってね、
電車無くなっちゃいそうだから、今日は友達のうちに泊まる〜」
「そっか。分かった。実は俺も今まで飲んでて、まだ家帰ってねえんだ」
「なによ〜だめいぬ〜ふぃあんせを車で迎えにくるぐらいしなさいよ〜」
「飲酒運転になるっつーの。とにかく、友達に迷惑かけんなよ」
「わかってる〜っつ〜の。あんたはわたしのははおやかー」
「はいはい、わるうございましたよ」

そこまで言って、竜児はふとサキの言葉を思い出す。

―たまには、いってあげてくださいね?―

今ならお互い酔ってるし、勢いということで誤魔化せるかも―

「大河、あのさ」
「ん?何よ」
「あのさ、その・・・」
「じれったいわね、なんなのよぅ」
「あ・・・あぃ・・・愛・・して「あ?友達のうち着いたから切るね。また電話する」

プツッ・・・っと電話が切れる。
竜児はしばらく、真っ赤な顔で電話を耳に当てたまま、口をパクパクしていた。
その顔を見た酔っ払いが、千年の酔いも一瞬で醒めたという表情で逃げていく。

ようやく携帯を耳から離し、夜空を見上げて声を漏らす。
「やっぱ難しいって・・・後輩・・・」


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タクシーの中、大河も大河で、電話を切った姿勢のまま固まっていた。

あ、あのバカ。最後に何を言おうとした?酔いも一瞬で醒めたわ。

「飲み会があったから友達の家に泊まる」というのは半分嘘で半分本当だ。
飲み会があったのは本当。友達の家に泊まるのも本当。
ただ半分の嘘は、飲み会があったから帰れない、のではなく、
とてもじゃないけど今、竜児の顔を見れないからだ。

竜児の背中に揺られながら、大河は最後まで起きていた。
だから、聞いていた。あのセリフも。

―俺は、ずっとあいつだけ―

思わず心臓が止まりかけ、返事も出来なかった自分を、
竜児は寝ていると勘違いしてくれたらしかった。
とにもかくにも、一旦落ち着かなければ竜児の顔など見られない。
今帰っては、竜児の顔を見た瞬間に押し倒してキスをして、
その後恥かしさの余り殴り飛ばすぐらいの暴走をする自信があった。
だから、今日は一旦気心知れた友達の家に避難し、
落ち着いてから明日帰ろうと思っていた。

それをあの男。まさかこんな追撃を仕掛けてくるとは。
「逃がさん・・・お前だけは・・・」で有名なボスを髣髴とさせる凄まじい追撃。
これは、今夜は眠れないかも知れない。
とりあえず、宿泊先の友人に電話し、謝っておこう、と大河は思った。
今日は一晩中付き合ってね、と。


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翌日。本当に一晩中友人相手にノロケ続け、
約束していた8時になると同時に家から蹴り出された大河は、
何とか落ち着きを取り戻して、ようやく自分のアパートに帰ってきた。

合鍵を使って部屋の戸を開く。

「ただいま〜」
「おう。やっと帰ってきたか。不良娘め」
「あんた、つくづく母親みたいね」
「言ってろ。待ってな、今味噌汁あっためてやるから」
竜児の顔を見ていると、昨日の事が思い出されて心拍数が上がったが、
ギリギリ何とか耐えられるレベルだった。
1日経ってもまだこれだ。やはり昨日は帰って来なくて良かった。

「昨日、あんた何の飲み会だったのよ?」
「ん?ああ、いつか話したろ、ゼミの見学に来てた後輩。
そいつが転学するからって、その送別会」
「ふうん。居なくなっちゃうのね」
「ああ。結構良い奴だっただけに、残念だよ」

そういえば、竜児の浮気疑惑は完全に晴れたが、
唯一確認していないことがあったのを、大河は思い出した。

「そういえばあんた・・・いつだったかその後輩とやらのことを、
可愛いって言ってたわよね・・・?」
「おう!?」
「あのときはなんだかんだで誤魔化されたけど・・・
今日こそ聞かせてもらおうじゃないの。
・・・わたしと、その子、ど っ ち が 可 愛 い の ?答えによっては・・・」
あの日と同じ質問を、竜児に向かって投げつける。

だが竜児は、コンロの火を止めて、息を吸うと大河をまっすぐ見て言った。

「大河だ」

ぼんっ!という爆発音が聞こえるほど、大河が一瞬で赤くなった。

「ば、ばっ、ばかいぬ!あんた朝っぱらから台所で何を言って!!」
「あっ、あれ!?たまに言わないとダメなんじゃなかったのか!?」
「なにを意味の分からないことを!あんたって奴は!あんたって奴は!!」
「待て、分かった!まずは落ち着け!」

こうして、騒がしくも楽しく幸せな一日がまた始まる。
2人がいつか求めた日々。2人、普通に、いっしょにいるだけで幸せな毎日が。

Fin



p.s. 
「そういえば、あんた、今度大学のゼミの友達っての?私に紹介しなさいよ」
「は?なんで?」
「いいからする!なんか仲良くなれそうな気がすんのよ!」
「どういう理屈だよ!」

Fin



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