夏休みも大詰め。

気がつけば、蝉の鳴き声はひと月前と変わっている。つい最近まで熱くて仕方がなかった風も、ようやく人間いびりの手をゆるめたように思える。それでも夏は夏。やはり暑い。
南側に高級マンションが建っているため直射日光にあぶられる事はないとはいえ、エコ思想への積極的な協力のため昼間はエアコンを切っているこのぼろ借家の二階の家では、なかなかにつらい日々が続いている。

その2DK。昼食後のけだるいひととき。

「竜児、やっちゃんの休みって、夏休み中はもう無いんだよね」

畳の上に転がったワンピースが声を出す。薄い赤のチェックの愛らしいワンピースは、スカートから生やした細い足をさっきからぱたぱたと振っている。袖から出た腕は目にまぶしい白、その腕の先についた小さな両の手のひらは、まるで人形のように整った顔を支えている。

逢坂大河、というのがそのワンピースの中身の名前だ。夏だというのに淡色の長い髪をまとめもせず自分の体の上にふわりと広げているのは、そういうコーディネーションがいたくお気に入りだからだろう。気に入るはずである。似合うのである。
身長145センチ(自称)という、高校2年生とは思えない小柄な体と、歩く人皆振り返る儚げな美貌、白い肌、長い髪。まるで精緻な作りの人形に命を吹き込んだような少女。それが大河なのだ。

8月のいまでこそ涼しげなワンピースを来ているが、春先には布地を重ねてふっくらと形作られたワンピースにオーバースカートを重ね着し、その前を開けてボリューム感を強調していた。その姿はまさにお人形さん。
夏になって、もこもこファッションを着なくなったとはいえ、美貌が消えて無くなるわけでもない。むしろ薄着に浮かび上がる華奢な体の線が一層作り物めいた印象を引き立て、彼女の周りだけひんやりとした清らかな空気が漂っているような雰囲気すら感じさせる。
それこそ、これが大河でなければそのままガラスケースに飾りたいくらいだ。

そう、これだけの美貌と、モデルがたじろぐような清楚感あふれる体型を持っているにもかかわらず、大河を知るものならガラスケースに飾るなんて発想は逆立ちしたって出て来やしない。だって逢坂大河である。
ケースに入れて3秒もたたずにぶち破って出て来るに決まっている。そしてケースに入れた奴を血祭りに上げる。そういう光景は実にくっきりと想像出来る。

乱暴なのである、逢坂大河は。いや、乱暴というと、少し表現が正確でないかもしれない。傲岸不遜、傍若無人、わがまま大王、口より先に手が出る、手を出さないなら相手が膝を折るような罵詈雑言を浴びせる、そんなこんなを全部足して5で割らない、それが逢坂大河である。
そしてその5で割らない苛烈さと小柄な体を端的にいい表す言葉として、彼女が学ぶ大橋高校では「手乗りタイガー」なる称号が非公式に贈られている。

そんな手乗りタイガーに声をかけられて

「おう、あるぞ。バーベキュー・パーティーお前も行くんだろ?」

こたえたのは高須竜児。

親思いでやさしく、学校の成績もいい。スナックで働いている母親を支えるために鍛えた家事の腕はカリスマ主婦クラス。
現在行方不明の父親(みかけはチンピラ。たぶん中身もチンピラ)から受け継いだ、狂気をはらんだ三白眼とつり上がったまなじりが誤解を呼ぶものの、色眼鏡抜きに見れば、竜児はいわゆるよい子である。

母ひとり子ひとりで慎ましく2DKで暮らしていたこの男の下に、何の因果かこの春転がり込んできたのが逢坂大河だった。
目つき以外はどこに出しても恥ずかしくない(しかし学校ではヤンキーと思われている)竜児が、なぜ暴虐の女王である(しかし見た目だけは美少女の)手乗りタイガーと仲良くしているのか。
そもそも、あらゆる交際申し込みを紙くずのようにぞんざいに扱い、あまたの男子生徒の心に消えぬ疵を残した手乗りタイガーは、なぜ竜児と仲良くしているのか。二人は恋人同士なのか、あるいは共闘して学校をしめようともくろんでいるのか。
それは、大橋高校七不思議の一つと生徒の間でささやかれている。

「そっか。そうだったね。休みあと一回あるけど予定は埋まってるか。しょうがない。あんたと二人で行くしかないね」
「行くってどこに」

何とはなしに聞いただけなのに、ぎろりと横目で大河に睨まれて竜児がひるむ。

一部ではヤンキー高須などと言われているものの、竜児は至極まっとうな高校2年生である。手乗りタイガーと共闘して学校をしめる気も、手乗りタイガーとつきあっているつもりもない。ただ、何というか大河は高須家にとってデイタイムの居候なのである。
親と折り合いが悪く、豪華な高級マンションでひとり暮らしをしていた大河と、母子二人で貧乏アパートに住んでいた竜児が出会ったのは偶然だった。
偶然だったが、極端に生活能力に欠ける大河と、極端に家事が好きで困っている奴を放っておけない竜児のペアには、これ以上ないほどに「腐れ縁」という言葉がぴったりだった。

いつの間にか大河は高須家で朝晩を食べ、学校では竜児が作ったお弁当を食べ、休みの日にはお昼まで高須家で食べるようになっていたのだ。元々細かいことを気にせず、というか、気にすることが出来ない竜児の母、泰子は大河を初めから笑顔で迎え入れた。
そしておそらくは家庭の暖かさに飢えていたせいだろう、大河も泰子の好意を無駄にすることなく、というか無神経にずかずかと高須家のプライベートに進入して、家族のような顔で食卓につくようになったのだ。

絵に描いたような美談。しかし、ただひとり、この疑似家族関係で割を食っている人間がいる。竜児である。

「まったく、竜児の駄犬ぶりはどこまで突き進むのかしら。本当に勘の悪い犬だこと」

ほとほと嫌気がさした、と言わんばかりの表情の大河は、相変わらず畳の上に寝そべって頬杖をついたまま。そんなだらしない姿で嫌みを言ってすら、ワンピース姿の大河は美しいのだから、この世には神も仏もあったものではない。

「勘もへったくれもあるか!初めから筋道たてて話せよ」

皿をふきながら毒つく竜児に大河がこれ見よがしのため息をつく。

「ほんとにもう。いいわ、説明してあげるからちゃんと聞いてなさい。『やっちゃんが行けないなら、二人で行く』ってことは、元々私が3人で行くって考えてたって事。やっちゃんが休みの日に行きたいってことは、それなりに時間がかかるって事。
3人で休みの日に時間のかかる所に行くなら、あんたの大好きな生活臭漂うスーパーマーケットじゃなくて、どこか楽しげな所だってわかりそうなものでしょ?」
「お、おう」
「だったら『遊園地にでも行くのか』くらい言えそうなものじゃない。それを『行くってどこに』ですって。ああ、もう、なんてことかしら。
どうしたら、その何でも人に頼るだらしない性格は直るの?せっかく二本足で歩いていても頭を使わないんじゃ、ダチョウと同じね。あんたに犬なんてもったいないわ。ダチョウよ。ダチョウ犬」
「犬かダチョウかはっきりしろよ!」
「大きな声出さないで。近所迷惑でしょ」

ふん、と鼻をならしてパタンと仰向けにひっくり返ると、大河はお気に入りの座布団を引き寄せて枕にした。

悔しいっ!

偉そうに寝っ転がっている大河をよそに、竜児は悔しさに身をよじる。目の前の古いキッチン・シンクを穴を開けんばかりににらみつけ、すれ違うもの皆目をそらす凶眼を眇める。なにが頭を使えだ。何が人に頼るだ。
日頃自分がどれだけ大河のために頭を使っていると思っているのだ。どれだけ大河が自分に頼っていると思っているのだ。

家事能力のない大河の部屋を片付けているのは誰だ。俺だ。掃除してやっているのは誰だ。俺だ。バランスよく栄養豊かな食事を作ってやっているのも、弁当を作ってやっているのも全部俺だ。おまけに朝起こすのも俺だ!ああ、なのにダチョウ犬扱い。

く・や・し・い・!

悔しさに唇を噛み、肩を振るわせる。だが、さらにさらに悔しいことがある。口げんかで竜児が大河に勝ったことなど一度もないのだ。だから言い返すことも出来ない。そもそも竜児は口げんかに向いていない。
口げんかとはどれだけ理不尽な言葉を短時間でぶつけられるかで勝敗が決まる、暴力の一形態である。理路整然とした話しなど必要ない。むしろ邪魔だ。
生活環境どころか頭の中まできちんと整理された竜児と、生活環境どころか頭の中までごみごみしている大河では、初めからランクが違いすぎる。いきなりゴミを投げつけてくるような反則女に、歩く「キチントさん」である竜児が対抗できるはずがない。

398 名前:遊園地作戦 ◇fDszcniTtk[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 09:52:33 ID:gHrJxuY00
不条理な大河の言動にあらがえぬ自分にため息をついて、竜児は会話を続ける。

「で、遊園地がどうしたんだ?」
「偵察よ」
「偵察?」
「そ。駄犬が役に立たないおかげで、遺憾にも私と北村君の仲は夏休みの旅行の間も全然進展してないわ。だけど、これからは猛チャージをかけるつもり。はっきり言えば、なんとか、デ、デートに誘うつもり。
そのためにも、あらかじめデートにぴったりな遊園地を偵察しておくのよ。ついでと言っちゃいけないんだけど、日頃よくしてくれてるやっちゃんにも一緒に来てもらえば、お礼代わりに一緒に楽しめて一石二鳥と考えてたのよ。
どう?感心した?私はあんたと違って台所の隅の埃ばかり追っかけている訳じゃないの。大局的、長期的視点でものを考えているの。少しは見習いなさい。駄目犬」

駄目犬…

駄目犬だと?勝手わがまま暴虐きわまりないメス虎の気持ちが読めない位で駄目犬呼ばわりとは。なんてこと、知らない間に世間はそこまで厳しくなっていたのか。竜児は悔しさを通り越して、そのまま自分の体から肉が腐り落ちていくような絶望感に身を震わせる。
きっと自分など絶望にまみれて白骨化し、カタカタとアゴの骨を鳴らすだけの標本になる運命なのだろうと、唇を噛む。
そうなっても、大河は白骨化した自分に言うに違いない。「駄目犬」と。やるせなさに絶命しそうな気持ちでキッチンを離れる。大河の横にあぐらをかいてすわり、見下ろしながら

「だったらお前ひとりで行けばいいじゃないか。駄目犬とは違う大河さんは、さぞかし自分ひとりで何でも出来るんだろうからな」

皮肉たっぷりに言ってやったのだが、それも結局、こてんぱんにのして貰うための準備体操くらいにしかならない。

「あらあら、自分の無能さを棚に上げて皮肉?そんなことに回す知恵があるのなら、少しは私の溢れるような優しい心が何を考えているか考えてみればいいのに。あんたは本当に物わかりが悪いから説明してあげるけど、北村君との、デ、デートにはみのりんも呼ぶのよ」

その一言にそれまで憮然としていた竜児が狂おしく目を眇めて、仰向けに寝っ転がっている大河をにらみつけた。このまま眠らせて香港に売り飛ばしてしまおう、と思っているのではない。驚いているのだ。

「櫛枝?北村とのデートなんだろ?」
「まだわからないの?北村君と…その…デートするったって、私と北村君はつきあってる訳じゃないのよ。恥ずかしくてデートに行きましょうなんて言えないじゃない。だから、みのりんとあんたも呼んで4人で遊ぼうって言うのよ。そして私は北村君とくっついて歩く。
あんたはみのりんとくっついて歩く。そうしたら、自然じゃない。ほんとにもう。少しは考えてよね」

まぶたを重そうに話す大河の言葉に、竜児は雷に打たれでもしたようにショックを受ける。何だって?遊園地で櫛枝実乃梨と一緒に過ごす?

「それって、ダブルデートじゃねぇか」
「…だから、そう言ってるでしょう…」

半分目が閉じかかっている大河は本当に面倒くさそうだ。
だが、竜児はそれどころではない。えらいことになったとそわそわしている。4人で遊園地。ダブルデート。なんということだ。ドジっ子タイガーと思えない計画性。しかも、この計画はほとんど完璧に聞こえるじゃないか。

一年生の時からの片想いの相手である櫛枝実乃梨は、竜児にとって直視するのもはばかられる程まぶしい女神だ。ひまわりのような笑顔、鼻にかかったような甘い声、ぴょんぴょんと跳ねるように動く元気な姿、小麦色に焼けた肌。

ほとんどの人が最初は竜児の親譲りの凶悪な目つきを敬遠するのに、実乃梨は初対面の時から屈託のない笑顔で接してくれた。ろくすっぽ話もしていないときから、竜児の名前を覚えていてくれた。今年からは同じクラスになれた。
初めの頃は二言三言言葉を交わすだけで、どうき、息切れ、眩暈、赤面、挙動不審、日本語でオK、ありとあらゆるパニックを経験させて貰ったが、最近では何とか普通の会話を交わせるようになっている。
それどころか、なんとこの夏休みには一緒のグループで海に旅行にまで行ったのだ。

それもこれも、大河と重ねていった地道な共同作業の成果だ。実乃梨は大河の親友なのだ。そもそも、竜児が大河の親友である櫛枝実乃梨を、大河が竜児の親友である北村祐作を好きだということが、竜児と大河の奇妙な関係の基盤となっているのだ。

「だったら…」

ちゃんと遊園地のこと調べなきゃな、と言おうとして、竜児は口をつぐんだ。いつの間にか大河は座布団を枕に寝てしまっている。いつもはわがまま放題のくせに、こうやって寝てしまうと、大河は本当にあどけない顔をする。
ふと、憎らしくなって、うっすらと汗をかいている柔らかそうなほっぺたをつねってやろうかと思うが、そんなことは絶対しないだろう自分がおかしくて苦笑。結局、どれだけぼろかすに言われようとも、竜児は大河を憎めない。
それは多分、竜児の心の作りが人に意地悪できないようになっているからだろう。

まだ暑いとは言え、夏休みも大詰め。半月前のうだるような暑さとは違い、風にほんの少し秋の気配が混ざっている。腹を冷やさぬよう大河にタオルケットを掛けてやると、竜児も畳の上にごろんと横たわり、天井を見つめる。
櫛枝実乃梨と行く遊園地。思い浮かべる楽しげな光景を、午後の眠気が柔らかく包んでいく。


◇ ◇ ◇ ◇


夏休み明けの最初の日曜日。

朝食を終えた大河が「じゃ、あとで」と席を立ったところで、珍しく午前中に起きてきた泰子が声をかけた。

「あれぇ?大河ちゃん、もう帰っちゃうの?」

もう帰っちゃうのではない。そんなことより、帰ってきてそのまま布団に倒れ込んだらしい泰子は髪が爆発して、ドリフの爆発コントのようになっている。こっちのほうが重大事。

「うん、今日はお出かけするから今から準備なの」

デイタイムの居候である大河は、休みの日には特に用がない限り高須家でゴロゴロしているのが普通である。朝飯が終わってもゴロゴロ。昼飯前もゴロゴロ。昼飯後もゴロゴロ。畳の上で昼寝して夕飯前もゴロゴロ。夕食後もゴロゴロ。
デイタイム居候のくせに深夜までゴロゴロしている事もある。

年頃の女子が同じ年頃の男子の家に深夜まで二人っきりで過ごすなど、ふしだらにも程がある。が、ふしだら以前に大河は壊滅的にだらしないので一人で居れば水が上から下に流れていくように部屋を散らかしてしまうし、おなかをすかして貧血で倒れてしまう。
だったら、いっそ高須家に留め置いていた方がいいのかもしれない。なにしろ散らかった大河の部屋を片付けるのも、貧血で倒れた大河の面倒をみるのも竜児の仕事になるに決まっている。そう思ったのは事実だが、実行に移してみてここまでひどくなるとは竜児も思わなかった。

泰子も泰子で、二人っきりで年頃の男女が深夜まで居ることに何の疑いも感じていない。保護者にあるまじき事である。

とにかく、夜寝るときとお風呂以外は高須家でゴロゴロしている居候が、食事も済んだし帰る等と言っているので泰子としては驚いているのだが、

「はへぇ〜?どこ行くの?」
「どこ行くのって、昨日言ったろう。遊園地だよ」

しまりのない母親の言葉に業を煮やしたように長男が厳しい視線を送る。

泰子は言ったことをすぐに忘れるのか、覚えたことを思い出す気がないのか知らないが、ポロポロとご飯粒を落とすようにものを忘れる。そのたびにイライラしてしかるのも竜児の仕事だ。だが街の不良共が目をそらす三白眼も母親には効果ナッシング。
日頃の言動から鑑みるに、一人息子からきつい目で睨まれるほど、喜んでいる節がある。

「あ、そっかぁ!二人はデートするんだよね☆やっちゃん忘れてた。てへっ」
「てへっじゃねぇ。それからデートでもねぇ。みんなで遊びにいく下見だって言っただろ!」

母子漫才は終わる様子がないと見たか、大河は困った顔で笑うと話を切り上げて泰子に手を振り、高須家を後にした。二人っきりになった茶の間で、ちゃぶ台の前に座りながら泰子がおおらかな微笑を浮かべる。

「竜ちゃんはぁ、幸せだね。大河ちゃんみたいな彼女が出来てぇ」
「だからあいつは彼女じゃないってんだろ」

プラスチックのポットから麦茶を注ぎながら竜児がいらついた声を出す。ぶっきらぼうなしゃべり口はいつものこと。大黒柱とはいえ、家ではかなり頼りない泰子を支えるため、竜児は幼いときから早く泰子を支えなければと思って育った。
そのせいか、母親に対する口調には、幾分保護者めいた音色が混じる事が多い。だが、そんな竜児の声もどこ吹く風、泰子はにこにこと笑いながらいつも通りとんでもないことをさらりと言ってくれる。

「早く彼女にしちゃえばいいのにぃ」

大河を彼女に…想像して竜児は鳥肌を立てる。

確かに、大河はとんでもない美少女だ。ゴールデンウィーク開けに転校してきた川嶋亜美が何しろプロのモデルなので、学校一の美少女の栄冠が大河の上に輝くかどうかは際どいところだ。だが、ひいき目無しに見ても大河の美しさは際立っている。
目、鼻、口、輪郭といったパーツの作り、それぞれの配置、まったく持って文句のつけようがない。見せびらかすのが目的なら、さぞすばらしい彼女だろう。

だが、なにしろ奴は『手乗りタイガー』だ。傲岸不遜のわがまま大王。気に入らなければ殴る、蹴る。おまけに北村祐作と櫛枝実乃梨と高須家の茶の間以外の世の中のありとあらゆる事が気にいらないらしい偏狭さ。あんな奴を恋人にするだなんて想像できない。
きっと早死にするだろう。死因がストレス性胃潰瘍になるか内臓破裂になるかは神のみぞ知る、だ。それに泰子には言っていないが竜児の意中の人は櫛枝実乃梨だ。
いつも明るく、誰にも分け隔て無くひまわりのような笑顔を振りまく実乃梨と、人皆道を譲る手乗りタイガーを比べるなど、竜児には思いも寄らないことだ。

そりゃ、大河を意識したことがないといったら嘘になる。ただ、それは恋愛感情とは違う。なんというか、大河は放っておけない奴なのだ。乱暴なくせに、傲岸なくせに、わがままなくせに、大河は誰よりも優しくて繊細な心を持っていた。人知れず一人で泣いていた。
毎日のようにドジをかまし、いつもこけては柔らかい膝小僧をすりむいていた。

すりむいたと知ってしまえば、竜児は手当をせずにはいられない。服を汚したと知ってしまえば、竜児はしみぬきせずにはいられない。お腹をすかせていると知ってしまえば、竜児は料理を作ってやらずにはいられない。

一人で泣いていると知ってしまえば、竜児は横に居てやらずにはいられない。

それだけのことだ。竜児は大河と馴れ合っている。駄犬などと言われても取り合わずにかいがいしく世話を焼いている。だが、それは恋愛感情ではない。その証拠に、夜中、勉強の最中に前触れも無く竜児の脳裏に浮かんで苦しめるのは、大河の顔ではなく実乃梨の顔なのだ。

「いいから飲め。ぬるくなるぞ」
「竜ちゃん照れてる。かわいい!」
「もういいから。昨日も言ったけど、なるべく夕飯前には帰る。ただ、遅くなるかもしれないから夕飯は作って冷蔵庫の中に入れてある。もし遅れるようなら電話するからレンジで温めて食えよ」
「はーい。やっちゃん一人でご飯食べられるからぁ、二人でゆっくりしてきてね」

あくまで竜児と大河をくっつけたいらしい。もう一度寝るねぇ、と部屋に引っ込む泰子を見ながら、竜児はため息をつく。


◇ ◇ ◇ ◇


「お前、何なんだよその格好」

時間通りにマンションのエントランスに現れた大河を見て、竜児がため息をつく。まだ朝だというのに、ため息は本日2回目である。ペースが早すぎる。

「何って、何よ」

なんか文句があるの?聞いてやろうじゃない、拳で。と、言った表情で大河がにらみつける。現れた大河はミントグリーンのさわやかなワンピース。色つきのリップが、薔薇の花びらのような唇を美しく強調する。まるで絵画から切り出したよう。
要するに、夏の旅行とおなじ格好だった。

気持ちはわかる。北村とのデートの予行演習なのだ。本番を思って胸ときめくものがあったのだろう。しかし。

「おい、今から行くのは遊園地だぞ。映画館じゃないんだ。雨ざらしの椅子に座ったりするんだよ。そんなきれいな格好で行ってどうする。汚れるかもしれないぞ。だいたいそんなひらひらスカートでジェットコースターとかに乗るつもりなのか?」

たたみかけるように話す竜児の前で、大河の口がピーナツのような形にみるみる開く。何て器用な表情。なんて情けない表情。

「どうしよう」
「どうしようじゃねぇ、着替えろ。まぁ、本番と同じ格好にしてきた点だけは誉めてやる。問題を洗い出すための下見だからな。ぶっつけ本番だったら遅刻だったろう。ほら、そんな情けない顔するな。あらかじめわかって良かったじゃないか」

半泣きになった大河に泣く暇を与えないよう、エレベーターに追い立てて押し込む。やっぱりこいつはだめだ。ドジすぎて、とても一人にしておけない。だいたい泣くような事じゃないだろうに。

パニック状態で新しい服を考えられない大河を説得して、デニムのパンツと濃い緑のTシャツで手を打たせる。

「こんな格好で北村君とデートなんかやだ」

と、だだをこねるがそもそも今日は北村は居ない。それ以前に「こんな格好」でそれなりに格好がつく大河がつくづくねたましい。竜児と来たら、いくら工夫してもさわやか少年にはなれないのに。

「デートの時の格好は帰ってきてから考えてれば間に合うだろう。ほら、すわれ。髪を編んでやるから」
「どうして編むのよ」
「風で乱れるだろう。遊園地の機械に巻き込まれたらどうすんんだよ。大惨事だぞ」
「なによ、わかってるなら先に言いなさいよ」
「さっき思いついたんだよ。行ってみるまでわかんねぇけど、手は打っとくもんだ」
「昨日の晩言ってくれたらちゃんと準備出来たのに。使えない駄犬なんだから」

駄犬なしでは遊園地にたどり着くことすらできそうもないご主人様の髪を編みながら、聞こえないようにこの朝3回目のため息をつく。本当にこのドジを北村に押しつけたまま、実乃梨と遊園地を楽しむなんて事が可能なのだろうか。


◇ ◇ ◇ ◇


行楽日和の良い天気。電車を乗り継いでようやく到着した遊園地の入り口で足を開いて踏ん張ると、つんと顎を上げて、むやみにえらそうに大河が薄い胸を反り返らせた。

「ふん、これが遊園地ね」

いったいどういうつもりで来ているのだろう。と、竜児は首をかしげる。北村とのデートの下見のはずだが、どう考えてもこれから遊園地と一戦交えるような鼻息の荒さを感じる。というか、いまのセリフには少々引っかかるものがある。

「お前、ひょっとして遊園地初めてなのか?」

こっちのほうに驚く。大河は竜児を睨みあげて、一言。

「悪かったわね。あんたはどうなのよ」

別に悪くはない。

いい悪いの話をすれば、大河と親の折り合いが悪いことは知っているし、折り合いが悪い程度の事で大金押しつけて娘ひとりを放り出す悪い親のことも、少しだけだが知っている。
それにしても、あれだけの高級マンション、それもワンフロア貸し切りタイプをあてがえるほど金があるのだ。子どもの頃に遊園地くらい連れて行って貰っていると竜児は勝手に思っていた。

「俺は、あるな。子どもの頃に泰子が無理して連れてってくれたことがある」
「……そう」

大河は気勢を削がれたような相づちを打つ。

疲れた顔の泰子が無理して微笑みながら小さな竜児の手を引いて遊園地の乗り物をまわっている姿でも想像したのだろうか。だとしたら、その想像はかなりあたっている。
スーパーお母さんを自称していた泰子は竜児の喜ぶことなら、どんなに自分が疲れていようと何でもしようとした。それこそ、体を壊してでも。当時わからなくて、今わかるようになったことは沢山ある。
あの疲れた微笑みの記憶一つあれば、竜児は胸を張ってマザコンを自称していいと思っている。

なんにせよ、こんなところで不幸自慢をする必要など無いし、竜児は自分より大河の人生のほうがいろいろと重そうだと薄々思っている。せっかくの遊園地だ。それも快晴。下見とはいえ、お互い縁の薄いところなのだから存分に楽しめばいい。
竜児は気分を入れ変えるように大股で歩き出す。

「よし、切符買うぞ!」
「なにそれ。入場券って言いなさいよ」
「かっこつけんな」
「あんたがダサ過ぎるのよ。ちょっと、待ちなさいよ!」
「早くしろ、置いてくぞー!」
「ちょっと!」

緑のTシャツにちょっとだけアンバランスな、白のつば広の帽子を手で押さえて大河が竜児のもとに駆け寄る。日焼けするからと無理に持ってこさせたものだ。ただでさえ海で焼けているのだ。
この上重ね焼けしてしまうと、デート本番時には腕白小僧のように真っ黒になりかねない。

中身は腕白小僧なんだから、外見くらいは繕っておくべきだろう。


◇ ◇ ◇ ◇


「ねぇ竜児、どれから乗ろう」
「ちょっと待て、あそこに地図がある」

いきなり乗り物に着手しようとする大河をなだめて、看板に描かれた園内の地図を指さす。大河と来たら、まったく何の計画性もない。目についたものを順番に片付けるつもりなのだろうか。遊園地を計画的にこなしていくのも変と言えば変だが、そもそも今日は下見だ。
無計画に当たっていくわけにはいかないではないか。それに何でもきちんとしておかないと気が済まない竜児としては、あらかじめどんなアトラクションがあるかを把握し、楽しむに当たってもっともよいアプローチは何かを事前に知っておきたいのだ。

地図によると、園内はおおよそ4つの区分からなる。ジェットコースターなどの絶叫マシン、コーヒーカップのようなおとなしいマシン、射的のようなゲームコーナー、それからショッピングコーナーやらレストランやらがごちゃごちゃと集まった区画。

「全部まわるのは無理ね」
「おう。ショッピングは無視していいだろう。北村は行けば楽しみそうだけど、遊園地に引っ張ってきてまでウィンドウショッピングにいく必要はねぇよ。レストランだけで十分だ」
「そうよね。ショッピングセンターなら地元にもあるものね」

地元のショッピングセンターはそれほど華やかでもないが、そもそも遊園地にまできてショッピング自体無理して行かなければならないものでもない。最後の最後に楽しかった一日の思い出の品を一つ買えばいいのだ。やっぱりショッピングコーナーは除外でいいだろう。
ウィンドーショッピングは、大河と北村が仲良くなったら勝手に二人で行けばいい。

そうすると残りは三つだが。

「とりあえず、あれから片付けるか」

と、竜児が指さしたのは定番のジェットコースター。青空を背景に優美な曲線を描く巨大構造物の上には、頂点まで上り詰めた列車が見える。レールに沿って緩やかに体をたわめたコースターは、ちょうど下へと向きを変えるところ。
大きなクレッシェントで盛り上がる悲鳴を轟音とともにまき散らしながらコースターは曲線をなぞって疾走していく。これぞ遊園地。おあつらえ向きというか、わざとそうしているのだろうが椅子も2列。カップルが到着そうそう遊園地気分を盛り上げるには最適だろう。

しかしそんな竜児の計画も大河には通じない。右から左に駄犬の提案を聞き流したご主人様は、まったく明後日の方を指さして

「あれにしよう」

特に感心もなげにつぶやいた。

「おう、そうするか」

提案を無視されることなど、既に慣れっこだ。痛み一つ感じずに息をするようにスルーできるようになった。これも大河によるトレーニングのおかげだ。4月以来与えられた言われなき罵倒、侮辱、名誉毀損の数は、数えなくとも数百を超える。
今では軽い侮辱くらいなら何の傷も残さずにスルーできる。竜児は将来大河以外の人間にどんな屈辱を与えられても平気の平左で乗り越えていけるだろう。

それはともかく大河の小さな手が指さす先にはコーヒーカップがあった。超特大のそれでコーヒーを飲んだら、確実に胃を壊すこと請け合い。しかし、実乃梨と竜児がアベックで乗るにはちょうどいい大きさだ。


◇ ◇ ◇ ◇


男である竜児の視点で言えば、コーヒーカップというのは決して楽しそうな乗り物ではない。これに乗ってクルクルと回る事に何の愉快があるのか、冷静に考えれば考えるほど不安になる。とはいえ、もちろんそれは相手相手次第だ。たとえば、能登と二人で乗ったとしよう。
いやいや待てと竜児は思う。想像するだけで面白くなさそうだ。もちろん相手が男だからというのが大きい。しかしそれだけではない。たとえば春田。なんだかあいつはコーヒーカップの上でアハハハハと意味もなく楽しげに笑っていられそうに思える。
それはそれで楽しそうなのだ。

とはいえ、やはり一緒に乗って楽しそうなのは、なんと言っても櫛枝実乃梨だろう。普段からニコニコと微笑みを絶やさない天使のような実乃梨の事だ。
こんなたわいもない乗り物にだってさえ、「高須君、これって何が楽しいんだい!」と、満面の笑みで笑いながら一緒の時間を過ごしてくれることだろう。やっぱりコーヒーカップは相手が重要なように思える。

じゃあ、相手として大河はどうなのだ?

と、思い至ったのは丁度二人の順番が回ってきた頃で、即座にその答えはもたらされた。

「なぁ、大河。何か不満でもあるのか?」

楽しげなアコーディオン音楽がスピーカーから流れる晴れた空の下、大河はにこりともせずに仏頂面でコーヒーカップに座っていた。正面に座った竜児としては居心地の悪いことこの上ない。おまけに動いているコーヒーカップからでは言い訳をして逃げるわけにも行かない。

「なによ。あんたまた私の気持ちを勘ぐって怒らせようってわけ?どんだけマゾなのよ」
「いや、そうじゃなくてよ」

わずかに目を眇めて殺気を放つ大河に、冷や汗を流しながら話を継ぐ。遊園地って楽しいところだよな、と思わず自問する。なんだか夏の終わりなのにこのカップの上だけ寒々しいのだが。

「お前、遊園地にデートの下見に来てるんだぞ。その仏頂面ぶら下げて北村とこれに乗るつもりか?」

想像して、思わず笑いそうになるのを必死でこらえた。笑ったら確実に殺されるだろう。それにしても、大河の暴虐に日頃から耐えている竜児ならともかく、北村にこの重苦しくも寒々しいコーヒーカップが耐えられるかどうか。

「別に北村君と乗るときに不機嫌になる気はないわよ。ないけど…」

と、大河はそこで言葉を探すような表情。ふと、その顔を見て竜児は思い当たった。そうか。そういうことか。相手が自分じゃ気分が乗らないわけだ。そういうことなら、仕方が無いと思う。
日頃散々優しくしてやっているはずの自分と居て楽しくないなど、少々腹が立たないわけでもない。とはいえ、ついさっきまでその竜児本人が「乗るなら櫛枝と」と考えていたのだ。
大河が「乗るなら北村君と」と考えていたとしても、竜児にそれを責める筋合いはない。そもそも、これは大河と北村のデートの下調べなのだし。

しかしながら、大河は

「ねえ竜児、これって何が面白いのかしら」

と、予想も付かないことを言ってのけた。いや、それはまさに竜児が抱いた疑問ではあったが、よもや大河の口から発せられるとは思いもしなかったのだ。

「何が面白いって……ええ?」

聞かれても竜児は困る。こういう乗り物は女の子向けのはずだ。それに大河が乗りたいと言ったのだ。大河は雑で乱暴だが、決して男っぽいわけじゃない。その証拠にファッション雑誌ばかり読んでいるし、おしゃれにも関心がある。
関心どころかこだわりと言っていい。選ぶのはまるでお人形のような服ばかりで、それはつまり自分の容姿に一番似合うのが何か考えているしわかっていると言うことだ。
そう、パンチ力、キック力、言葉の暴力いずれも竜児の数倍という大橋高校の女王虎は、紛れもない少女なのだ。

その女の子に「コーヒーカップって何が楽しいの?」と聞かれても、こちらが困る。
想像の中で実乃梨も同じ事を聞いていたが、そもそも実乃梨は少々変な子だし、そこが実乃梨のかわいらしいところだ。向き合う他人を常に真っ正面から食い殺そうとしている手乗りタイガーにそんなことを聞かれても、何のかわいげもない。

「いや、その……」

険しい目を一層険しくして考えているうちに、コーヒーカップは止まってしまった。竜児の思考も止まったままである。


◇ ◇ ◇ ◇


◇ ◇ ◇ ◇


続く女の子向けのファンシーなアトラクションでも大河の浮かない顔は変わらなかった。空飛ぶゾウに乗って宙をふわふわ漂うアトラクションも、カバに乗ってぷかぷかと水路を進んでいくアトラクションでも、大河の表情は緩まなかった。

表情が変わってしまったのは竜児のほうである。一体何なんだよと般若の表情で愚痴の一つも言いたくなる。当たり前である。
デートの下見に行くからついて来いと言われてついてきたのは良いとしても、残暑の強い日差しにあぶられながら何を好き好んで、仏頂面の手乗りタイガーと歩かなければならないのか。
あまり気の利かない設計のこの遊園地は植え込みが少なく、強い日差しに気温は上がるばかり。周りの人も汗だくで、気温に引きずられるように竜児の脱力指数も青天井だ。

いや、脱力だけではない。実のところ、結構フラストレーションがたまっている。どうしてお前はそんな顔してるんだと言ってやりたくて仕方ないのだ。

手乗りタイガーである大河に表情の話をするなど自殺行為だ。水泳の授業のころ、いらいら状態の大河の気持ちを読もうとしたために竜児はとてつもない精神的苦痛を何日も負うことになった。放っときゃいいのだ。
こんな勝手な奴の気持ちなど読めるはずもないし、推し量ってやる必要もない。
そりゃ、竜児はいつも大河と一緒にいるうちに同じ釜の飯を食った仲間のような気持ちを抱くに至っているが、じゃぁ大河がそれに応えてくれるかというと、その答えは幾分、いや随分微妙だ。

大河はどうやら竜児のことを仲間としてちゃんと認めてくれている。竜児は確かにそう思っている。しかしながら、じゃぁそれがいつも表に出てくるかというと、その確率は非常に低いのだ。
ひねくれているのか、どうなのか、大河の竜児に対する態度は常に横柄だ。だからこの女との間に重要なのは距離感であり、その距離感を正しく保つ努力を竜児は常に心がけている。下手に手を突っ込めば手を食いちぎられる。

竜児は1日24時間、大河という歩く地雷が装備している見えないスイッチを踏みぬかないよう、気をつけて生きていかなければならない。

「ねぇ竜児、つぎはあれに乗りましょう」

そういって大河が指さした先には古びたメリーゴーラウンドがあった。だがしかし、竜児はすでにそんな気分ではない。このまま不機嫌タイガーと歩くなんて冗談じゃない。殴られるのは嫌だが我慢も限界になってきた。

「乗るのは構わねえけど、お前一体どういうつもりなんだ?さっきからニコリともしないじゃねぇか」
「はぁ、あんた何言ってるの?私に愛想笑い振り巻けとでもいうの?」
「言ってろ。そもそも遊園地に行くと言い出したのはお前だぞ」

重苦しい雰囲気に負けてとうとう竜児が核心を突く。

大河に「お前不機嫌そうだな」などと言うべきではないのだが、それでも竜児は状況に負けてしまった。もう我慢できない。

「私がどんな顔して生きていこうと勝手でしょう。それともなに?あんたは私が一番嫌いなことがまだ覚えられないの?あれだけ私の心を勝手に解釈するのは止めろって言ったでしょ。それとも…ちょっと、何してんのよ」

唸り声をあげ始めた大河に腰が引けつつも、竜児は黙って携帯を取り出すと問答無用でパシャリと一枚写真をとる。とっさにどう反応していいのか戸惑っている大河に、写った顔を見せてやる。

目を眇め、唇の端を醜くゆがめている肉食獣の写真がそこにあった。

「な、何よ。勝手に写真なんかとったりして」
「これがお前の顔だ。お前は北村とのデートの下見に来て、こんな顔をしている。大河。悪いことはいわねぇ。面白くないなら帰ろう」
「面白くないなんていってないじゃない」
「いや、言ったね。はっきり言った。お前が遊園地を楽しんでいるなら俺も付き合ってやる。でも全然楽しんでないじゃないか。こんな調子じゃ勇気をだして北村を誘ってきても、お前があいつに見せられるのはこのツラだ」

日陰にいるものの、風は結構熱い。湿度が低いからいいようなものの、重苦しい雰囲気で向き合ったまま立っているのは苦痛以外の何物でもなかった。
大河のほうは竜児に噛みつきたくてたまらない風情だが、突き付けられた自分の顔に文句も言えず、せっかくのバラの蕾のような唇を真一文字に引き結んで何か言葉を探している。そしてようやく言葉を見つけたようだったのだが、

「でも私は…」

切りだしたところで、どぎゅるるるるる、と盛大に腹を鳴らす。出物腫れ物ところ構わずと言うが、こいつは腹の音だな。そう思いつつ竜児は天を仰ぐ。大きくため息をついて再びつば広帽子の大河を見降ろす。
大河はというと、不機嫌そうな表情のまま、顔を赤らめて背けている。まぁ、いいか。

「なによ」
「飯食おうぜ。考えるのはそれからでいいだろう」

そう言ってくるりと向きを変えるとレストランに向かって歩き出す。勝手に仕切らないでよ、と言いつつも、大河も駆け寄って黙って横を歩く。


◇ ◇ ◇ ◇


「つまらないってわけじゃないのよ」

カツカレーのカツをスプーンの先で本当につまらなさそうにぶつ切りにしながら、大河がぼそりとつぶやく。
飯の食い方に関して一家言ある竜児としては、「そんなまずそうな面してご飯を食べるんじゃない」、と小言の一つも言うべきシーンだが、残念ながら本当においしくないのだから竜児としても怒る気があまりしない。

カレーとトンカツの魅惑のコンビネーションを前に、大河はサンプル・ケースの前で散々悩みぬいた。辛口だったらどうしようと考えていたのだ。
「ここは遊園地だから子供客が多い。カレーが辛口なんてことはあり得ねぇ」と竜児に太鼓判を押してもらってようやく注文するまで実に10分。
別段こだわりのない竜児も付き合って同じカツカレーを頼んだが、出されたモノのを口にして、二人とも、もともと浮かない顔が一層暗くなってしまった。
まぁ、日ごろから竜児手製のスペシャルスパイス・カレーだの、柔らかジューシー・トンカツなんぞを食べて舌が肥えてしまったこともあるのだが、それにしても(これで1180円は詐欺だろう)と竜児も思わざるを得ない。
肉は薄いくせに妙に固くて衣もべちゃべちゃ。カレーだって全然煮込みが足りない。

そういうわけで二人ともぼそぼそと消化の悪そうな食事を続けていたのだった。先の大河の発言は、食べ始めて10分ほどたってからのことである。
竜児はまだ半分ほど残っているが、大河はあらかたカレーライスをかたづけ、残ったカツも1/3ほどだ。

「じゃぁ、どうしてあんな浮かない顔するんだよ」

と、竜児。最初は北村ではなく竜児が相手だからだろうと思っていたが、大河の言葉を信じるならば、どうやらそうではないらしい。
聞かれた大河はしばらくスプーンの先でカツをつついていたが、どうつついても走り出さないと納得したのか、仕方なさそうに、質問に質問で返す。

「竜児はさ、あれ、面白いって思う?」
「あれって、コーヒーカップとか、空飛ぶ象か?」
「うん」

結局その質問が来たか。と、思う。別に隠すことじゃない、ため息交じりに竜児はさっき考えたことをそのまま口にする。

「正直言って、すげえ楽しいとはおもわねぇ。まぁ、俺だけじゃねぇだろう。男はみんなそう感じると思うぜ。北村も」
「そっか」

と、大河は妙にしおらしい。ほんとに気落ちしているのかもしれない。

「北村君、誘ってもつまんないって思うかな」

422 名前:遊園地作戦 ◆fDszcniTtk [sage] 投稿日:2010/09/02(木) 08:00:35 ID:PXqRYyl90
意気消沈する大河に、竜児は言おうか言うまいかと逡巡する。お前次第なのだ、と。遊園地なんぞ、所詮は女子供のための場所なのだ。絶叫マシンを除けば、男が喜んでくるような場所ではない。
では、なぜ世の男連中が来るかというと、結局のところ、一緒に来る女の子の笑顔を見るのが楽しいからだ。そのくらい、竜児にだってわかる。
想像の中の櫛枝実乃梨は実に楽しそうに笑っていた。その笑顔さえあれば、女子供のための遊園地だろうがなんだろうが、竜児にとっては楽園に等しい。

だから、お前も笑え。竜児はそう思う。思うのだが、それを言ったところで解決するかどうか。解決しなければ単にこの猛獣の機嫌を損ねるだけかもしれない。しばらく迷った挙句、結局竜児は

「お前次第だろ」

口にしてしまった。こんな意気消沈した大河を前に言うべきことを言わないでおくなど、所詮竜児には無理なのだ。竜児は根っからのお人好しであり、落ち込んでいる大河を前に手を差し伸べないなんてことは、できるはずもなかった。

「私次第って?」

弱々しく見上げる大河に、なるべくゆっくりと噛んで含むように言ってやる。

「お前が仏頂面していれば、北村だってつまらないし、お前が笑えばあいつだって楽しいさ」
「そんな……」

とってつけたようなセリフ、とでも言おうとしたのだろうか。しかし、竜児はさえぎる。

「聞けよ。俺も男だからわかるけどさ、目の前で女の子が楽しそうに笑っていて、それで楽しくならない男なんていないって。好きかどうかなんて関係ない。特に北村は明るい奴だ。
周りが楽しそうにしていればあいつだってハッピーな気分になるにきまってる」
「そうかな」
「絶対そうだ。あいつはそういう奴だ」

俺もそうだ、とは言わないが、竜児だって目の前の大河が楽しそうにしていれば、自分も楽しくなるのだ。いつもそうなのだ。櫛枝実乃梨という歴とした想い人がいても、目の前の大河が笑えば竜児もうれしかった。他の奴も同じに決まっている。
大河を恐れている能登や春田だって、大河が目の前で楽しそうに笑えば、きっと楽しくなるに違いない。

黙っているところをみると、どうやら大河は不承不承竜児の言葉を信じることにしたようだった。だが、それでも表情は晴れない。当たり前だ。結局「どうしてお前は楽しめないんだ」という、最初の問いに戻ってしまったのだから。


◇ ◇ ◇ ◇


平らげた皿をテーブルに残して、二人はレストランの外で食休みをすることにした。幸い木陰に手ごろなベンチがあいており、大河を留守番にして竜児は自動販売機で飲み物を買う。竜児はブラックの缶コーヒー、大河にはヨーグルトドリンク。

「ほら」

差し出してやると、大河は素直に受け取って上目遣い。ちいさく「ありがと」とつぶやく。

「あのさ」
「おう」

しばらく黙って各々の飲み物を飲んだ後、大河がようやく口を開く。

「なんだか、自分でも変だと思うんだけどさ」
「……」
「こんな子供だましに乗せられてたまるかって、思っちゃってるみたい」

えええええぇぇぇぇぇぇ?!そりゃお門違いだろう逢坂大河!!とんでもない告白に竜児は盛大にため息をつく。

「なんだよそりゃ」
「やっぱり変かな。変だよね」
「変だ。つーか、ほんっっっと、なんなんだよ。お前が遊園地に行きたいって言ったんだぞ」

木陰だというのに竜児は頭がくらくらしてくる。熱中症ではない。途方に暮れているのだ。

「そうなんだけど……」

その憎たらしいつむじに地獄の底まで食い込むくらい突っ込んでやろうかという気分だし実際そういう顔なのだが、うつむいてつぶやく大河に竜児も突っ込んでいる場合ではないと言葉を呑む。全く面倒な奴だ。
どこの世界に「こんな子供だまし」なんて思う子供がいるのだ。確かに大河は17歳だが、体のサイズも精神年齢も正真正銘子供だ。疑う奴がいるなら連れてこい、俺が保証する。そんな気分だ。

「あのな、遊園地って、子供だましなんだよ。そういう風に作ってあるんだよ。それにまんまとのっかってだまされるためにみんな大金払って入場してるんじゃないのかよ」
「でも竜児だってつまんないんでしょ」
「だから男は別だって。ここは女の子とか子供が楽しめるように作られてるんだよ。いいか、お前が主役なんだ。お前が楽しむようにって何もかもあつらえてあるんだよ」
「そう……だよね。たぶん。でもさ、なんだか作った人の思惑にまんまと載せられるって、癪じゃない?」

知るかっ、このあほ!と叫んで後ろ頭を思いっきりどつけたらどれほどすっきりするだろうか。このひねくれ小僧のねじれ曲がった根性を何とかしない限り、どう考えてもこの遊園地作戦は失敗だ。大河にしては名案などと喜んだ自分の愚かしさが恨めしい。

どうやら意識的にか無意識にか、「喜んだら負け」だと構えてしまっている大河を前に竜児は目をすがめる。こうなったらぐるぐる巻きにして観覧車のてっぺんから放り出してやろうという顔だが、そうではない。最後の手段を考えているのだ。

「まぁ、何となくわかったぜ。つまり、お前は決して遊園地が嫌いなわけじゃねぇけど、楽しんだら負けだと思ってるんだ」
「別に負けだとは思ってないけど……うん、そうかもね」

相変わらずローテンションの大河を前に、遊園地に似つかわしくない三白眼をぎらりと光らせて竜児が決意を固くする。

「よし。わかった。もうこうなったらあれしかない」
「あれって…」

立ち上がった竜児がビームでも発しそうな目をすがめて見る方向を大河も見、そして口をつぐむ。その方向には最初に竜児が提案してあっさりと却下された絶叫マシンが青空を背景に巨大な体をくねらさせている。

「…ジェットコースター?」
「ショック療法だ」
「どうするのよ」
「ようするに、おまえは自分でも認めているように生半可なアトラクションで楽しんじゃいけないんじゃないかって思ってる。だから、ジェットコースターでがつんとやろうってわけさ」
「そんなのでうまくいくの?」
「ああ、心配するな」

半信半疑の大河に竜児は自信満々に答える。

だが、面の皮一枚内側では竜児だってこんなとってつけたようなショック療法が絶対うまくいくだなんて思っていない。だって、へそを曲げているのは大河なのだ。こいつのへそ曲がりは骨身にしみている。
ジェットコースターに乗ったくらいで「わーい!」と機嫌を直して遊園地を楽しんでくれるなら、これから毎週だって連れてきてもいい。


◇ ◇ ◇ ◇


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