ジェットコースターに乗ることに決めた二人は午後の太陽にあぶられながらその巨大な鉄の構造物目指して歩いていく。もう、ここに来たら腹を決めるだけだ。竜児も大河も何も言わない。

それでも、と竜児は一つ深呼吸。いちおうやるべきことはやっておかなければならない。実のところ、朝のやりとりでちょっとだけ引っかかっていたのだ。それを気づかなかったふりをして、あとで痛い目に遭うのは避けたい。

「なあ、大河」
「なによ」

ジェットコースターまで渋々ついてきた大河に竜児が切り出す。

「絶対笑わねぇから正直に答えてくれ」
「どんな理由であれあんたが私を笑うなんてことがあったら、それがあんたの人生最後の笑い声でしょうけどね。せいぜい私の機嫌を損ねないように言葉を選んで質問しなさいよ」

つば広の帽子をかぶったまま竜児を下からねめつけるように大河が答える。ちくしょう、もうこいつほったらかして帰っちまおうかなと竜児は考えるが、そんなことをすればその場で殺されるだろう。

「お前。ジェットコースター怖いか?」
「……」

しばし竜児と黙って目を合わせた後、大河が目をそらす。あちゃーと竜児は胸の奥で一言。作戦は失敗か。本当にジェットコースターが怖いなら、無理矢理乗せることなんてできない。そんなことをしたって、ますます遊園地が嫌いになるだけだ。
万事休す、と目を閉じる竜児に、しかし、大河がちいさな声で返事をする。

「よくわかんない」

目を開けてみると、大河は不安げな目を挙動不審に揺らしながら、一言一言言葉を選ぶように継いでいく。

「あのさ、『怖いかも』って気はするのよ。だって、ほら。みんなきゃーきゃーいってるじゃない」
「まぁ、そういう乗り物だからな」

竜児としては正念場なので、ここは話がつながるように相づちをうってやる。

「でもさ、キャーキャーいっているけどみんな楽しそうじゃない。だから、あれって本当は楽しいいのかもって思うのよ」
「ああ、なんとなくいいたいことはわかる。どうする。乗るの、嫌か?」

問いかける竜児に大河は見上げて黙って首を横に振る。嫌じゃない、と。

「ねぇ、竜児は怖くないの」
「おう、おれか?俺はわからねぇ。乗ったことねぇし」
「なんだ、竜児も乗ったこと無いの?遊園地に来たことあるくせに」
「ガキだったから怖かったんだよ」
「ふーん、じゃぁ、条件は一緒か」

なんの条件だかしらないが、とにかく大河はこれで納得したようだった。

手乗りタイガーが腹を決めたというのなら、あとは竜児風情がぐずぐず考えることではない。黙って乗るだけだだ。
乗って、大河が楽しめば、あるいはほかのアトラクションもなんとかなるかもしれない。大河がこれもつまらないというのなら、もう、遊園地はあきらめさせるしかない。本人が納得するかどうかはわからないが。

直射日光にあぶられながら15分ほど並んで、ようやく二人は先頭付近までたどり着いた。

「竜児、これ、次かしらね」
「おう、きわどいな。乗れるんじゃねぇか?」

首を横にのぞかせて大河が先頭からの距離を目測する。

これまでの列の進み方からすると、どうやら二人は次の回に乗ることになりそうだ。
もう何回も繰り返し聞いた悲鳴をまき散らしてジェットコースターはぐねぐねとうねったレールの上を轟音を立てながら失踪している。スピードがある割に同じところを何度も行き来している様は、なんとなく水族館の中の魚を思わせる。

そうしてようやく戻ってきたコースターは、これも何度も見た風景だが、ヒー!ハー!と妙な笑い声をたてる男女の一段をはき出して空車となった。

「それでは乗車します。前の方からゆっくり歩いてください。乗車は二人ずつです。帽子など飛びそうな手荷物は係員にお預けください」

促されて列が動きだす。竜児も大河もだまって前の人について行く。一番前では係の人が数を数えながら二人ずつ乗り場に進めていて、そして

「はい、それではここまでです。恐れ入りますが次の回で乗車願います」
「え?!」
「おう?!」

二人の前でチェーンをかけてしまった。声を上げた竜児の方をみたお姉さんの笑顔が凍り付き、竜児のハートに新しい傷を刻む。

「ねぇ、竜児。これって……」

大河はその先を言いたくないように竜児を見上げるが、ことここに至って目をそらしても意味はない。

「おう。先頭だな」

ある種の人には垂涎の的であるらしいジェットコースターの先頭は、どうやらジェットコースター初体験のでこぼこコンビに回ってきたようだ。


◇ ◇ ◇ ◇


「大河、本当に大丈夫か?今なら後ろの人と変わってもらえるぞ」
「は、ははは。変な竜児。大丈夫に決まってるじゃない」

緊張のあまり妙に乾いた口調になる大河に、竜児はため息をつく。一周回ってきて乗客をはき出したコースターは今は空車。係の人に大河の帽子をあずけた二人は木の床を踏みしめて1両目に向かう。

「はいそれでは一人ずつご乗車ください。乗車したらガチャリと音がするまでバーを下げてください」

係の人に促されて、たぶんレディーファースト。大河を先に乗り込ませる。心もち狭そうな席に腰をかけると大河が頭上のバーに悪戦苦闘気味。

「ほれ」

上から引き下げてやって、クッションのついたバーが大河の体をしっかりホールドしているのを横目で確認する。係の人にあらかじめ言われたとおり、束ねた髪は前に回してバーと体の間に挟んでおく。
実のところ大河の身長について少々不安があったのだが、手乗りサイズとはいえ遊園地は子供向けなのだから乗れないってことはないらしい。何の問題もなかった。竜児も自分のバーを下げる。もう逃げ場も何もない。さあどうにでもなりやがれと腹をくくる。

それでも、発車ベルが鳴り終わり、ゴトリとコースターが動き出すと「おう」と、思わず口にしてしまう。まだ動き出したばかりなのに、すでに挙動不審だ。

「動き出したね」
「おう、そうだな」

見ればわかることをわざわざ口にする大河も、かなり緊張しているのだろう。突っ込みを入れる気にもならないままに、コースターはカタカタと音を立てながら斜面を登り始める。

「うわぁ」

と、大河が声を漏らした理由も竜児にはわかった。コースターが上を向くにつれ、前方に見えていた景色が沈み、目の前には青空に向かって伸びるレールしか見えなくなる。そして、そのレールの先は唐突に消えているのだ。

「あそこが一番上なのかな」
「そうだな、あそこまで上って、それから下るんだろう」

緊張しているのは二人だけではない、後ろの席から聞こえる声もひそひ声が多い。別に大きな声を出すと笑われるとか、雪崩が起きるわけでもないのだが、ついつい声を潜めさせるものがあるのだろう。
横を向くと遊園地の向こうの町並みが一望できて、突然どれほど高いところまで連れてこられたか、嫌というほど理解してしまう。

「竜児っ!レール!」

バーをつかんだまま大河が大声を出す。そりゃ声も出したくなるだろうと竜児も納得。目の前に伸びていたレールは頂点付近でふっと完全に視界から姿を消す。もう目の前には青空しか見えない。
ああ、頂上かと思ううちに傾斜はみるみるかわって今度は失われていた地平線がせり上がってきた。

「ちょ、ちょ、ちょ、これ…」

このときの大河の顔を携帯のカメラで撮っておけば、さぞかしあとで大笑いできたろう。しかし、竜児の方もいっぱいいっぱい。目の前で急激に姿を変える世界のありさまに、目を見開いて大地を引き裂くような顔でバーを握るしかない。
先頭車両に座っている二人はゆっくりと下に向きをかえ、こんどは人や、売店や、アトラクションや、道路や、車や、遠くのビルディングといった雑多なものを抱く大地が視界を覆い尽くす。コースターの先に伸びるレールは嫌な形でうねっていて、ものすごく不安をあおる。

やがて重心部分が頂点を超えたのだろう。それまでゆっくりと動いていたコースターは嫌々ながらという風に速度を上げ始め、そして瞬く間に猛スピードで坂を駆け下りだした。

「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
「おぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」

恥も何もありゃしない。二人とも内臓が持ち上りそうな急降下に大声を上げる。というか、声でも上げていなければ力の抜けたハラワタがそのまま宙に漂い出しそうなのだ。二人どころかコースター1編成は丸々悲鳴をまき散らす移動装置に変身済みである。
そして、急速に近づいてきた地面の先ではレールが嫌な形に歪んでおり、心臓をねじ曲げるような恐怖を与えてくる。

「ひぃっ!」
「おおぅ!」

歯を食いしばる間もあらばこそ。二人を乗せた車体は唐突に右に傾き、急コーナーを走り抜け、そして上昇に転じる。

「あー、びっくりした」
「おう、すげぇな」
「え、ちょっと、いやーーーー!りゅううううううううじいいいいいいいいいい!」
「うおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

二つ目の山は一つ目の山より低い。牽引されてゆっくり上った一つ目の山と異なり、瞬く間にコースターは山頂にたどり着くと、存分に速度を乗せたまま乱暴に向きを下に変え、一気に坂を駆け下りる。覚悟を決める間も減ったくれもない。
平常心をなぶりつくすような速度で急降下したコースターは、今度はコルク抜きのようならせんを描いて乗客たちを翻弄する。大河も竜児も訳のわからない大声をだすだけだ。

二回転してコルク抜きから出てきたコースターはようやく速度を落とすと、クールダウンをするように小さな畝を二つ超え、そしてようやく乗り場が見えてきた。

「ひゃひゃ、あは、あはあああ、あは。竜児、これ、これ、すごいすごいすごい!」
「おう、すげえ、あははははっ!」

意味不明にテンションが高いのは二人だけではない。コースターは絶叫マシンの名に恥じない働きで乗客全員をハイ・テンションな笑いにたたき込み、そして静かに乗り場に帰ってきた。


◇ ◇ ◇ ◇


ジェットコースターを降りても二人の興奮は冷めない。コースターを降り、大河の帽子を受け取り、乗り場から外に出ても二人はひーひー言っていた。

「うふふふ………竜児、だめ。参ったわ!なにこれ、おもしろすぎ!」
「いやー、俺も頭がおかしくなるかと思ったぜ。ジェットコースターってすげぇな」
「もうびっくりよ、あの一番最初の山のところなんて、どうなるかとおもっちゃったけど」

と、大河が小さな手を伸ばして一番高い山の部分を指さすのを竜児もおいかける。最初はそれほど高くないと思っていたのだが、今考えるととんでもないところから落ちて行ったものである。

「おう、あのへんはもうどきどきしっぱなしだったな」
「そうそう。でさ、落ちるときにぐわーってなって、あとはもう叫びっぱなしよ」
「俺、はらわたが浮きそうな感じだったぜ」
「私も!」

妙な高揚感を引きずりながら、ひとしきりおしゃべりもおわり、さて、と二人とも黙り込む。

「じゃ、次行ってみるか?」
「うん、いいけど」

大河はさっきまで仏頂面だったのを思い出しているのか、すこし照れくさそうに笑う。じゃぁ、あれにするか、と竜児が指さしたのは、さきほど乗らずに引き返したメリーゴーラウンドである。


◇ ◇ ◇ ◇


それほど長い歴史のある遊園地だとは思えないのだが、このメリーゴーラウンドだけは、とても古いもののように思える。あるいは古く見えるような作りなのかもしれない。

ジェットコースターやカバの船といったアトラクションの周りには鉄柵がめぐらせてあったが、このメリーゴーラウンドだけは木の柵だし、それどころか、柱も屋根も全部木のようだ。
そうして禿げた上に何度も塗りなおした跡のあるペンキが不思議な暖かさと親しみやすさを演出していた。

「じゃ、おれは見てるから大河乗ってこいよ」
「なによ、竜児は乗らないの?」
「そういうものらしいぜ、ほれ」

と、竜児が指したさきではメリーゴーラウンドの外から親や若い男が馬に乗っている子供や若い女たちに手を振っている。振られたほうも手を振り返す。

「そっか、じゃぁ乗ってくる。これ持ってて」

そう言って帽子を竜児に渡すと、大河はそれほど長くない列までトコトコと歩いて行った。竜児のほうは、あとはすることもない。入園からこっち、ようやく一人きりになれてほっと一息つきながら、メリーゴーラウンドを囲む柵まで歩く。

カランコカランコと妙に時間を忘れさせるような音楽とともに、木の馬が上下しながら目の前を通り過ぎていく。夢のような景色と言えば、そんな風にも思える。

やがて速度を落とした木馬はゆっくりと停止し、大河達の順番が回ってきた。木馬はそれなりの高さがあるため、小学生の子供らたちには係員が手を貸している。うっかり大河に手を貸そうとした女性は、かわいそうにひと睨みされて尻もちをついていた。
大河と言えば、目の前の木馬を見上げて、「とりゃっ」と気合一閃。飛び上がってステップに足をかけると、勢いに任せて木馬にしっかりとしがみつく。無事、騎乗完了。

途中、ウマに襲いかかる雌のトラが見えた気がするが、またがってみると、木馬の上の小柄な大河は文句なしに可愛い。乗り方が正しいかどうか確認するようにきょろきょろしていたが、納得したのか、今度は周りを見回す。そして竜児を見つけると照れたように笑った。

竜児も手をあげて凶悪な笑みを返す。めんちを切っているのではない。微笑んでいるのだ。

全く大河としたら、傲岸不遜、わがまま放題、泣き虫の上、人の言うことを聞かないとんだじゃじゃ馬とくる。そのくせに、こんな夢のような風景に嫌というほど似合っているのだ。
動き出したメリーゴーラウンドの馬の上でゆっくりと揺られる様は、絵本の中のお姫様のようだ。束ねた髪やデニムのパンツのせいでいつものふわふわコットンほどお姫様お姫様していないが、むしろあの格好で来ていたら絵になりすぎて浮いたかもしれない。
いや、そんなことはないか、と竜児は思いなおす。きっとよく似合うだろう。

そして唐突に思い出すのはさっき自分が言った一言。こうしてメリーゴーラウンドに揺られている大河をみていると、まるでこの遊園地は本当に大河のために作られたかの様だ。

一周してきた大河が竜児を見つけて笑いながら手を振る。竜児も手を振りながら携帯のカメラで写真を撮る。あとで泰子にでも見せてやるつもりなのだ。周りではビデオカメラを回している人もいたりして、やはりこれは女の子向けのアトラクションの花形なんだと竜児も納得する。
きっとみんなが我が子、我が恋人こそお姫様と思っているに違いない。

鈍感な北村だって、メリーゴーラウンドで笑う大河を見れば、いくらなんでも心が動くだろう。


◇ ◇ ◇ ◇


ジェットコースターで好感触をつかみ、メリーゴーラウンドで確信を得た後、二人は余勢をかって午前中に大河が仏頂面でやりすごしたコーヒーカップやら空飛ぶ象を片っ端から乗りなおしたのだった。
結果は大成功。「お前、なんであんな顔していたんだ」と改めて竜児が突っ込んでも余裕で笑顔で返せるくらい、大河は子供だましの数々を楽しんだ。

当然、午前中に乗らなかったアトラクションや、一部絶叫マシン(ジェットコースターには2号機がある)でも、二人はにこにこしっぱなしだった。本来遊園地はそういうところだとは言うものの、絵にかいたような大成功に竜児も大河も笑いが止まらない。

「こりゃ、お前のアイデアは大当たりだな。北村とのデート、絶対成功するぞ」
「そう思う?北村君、楽しんでくれるかな?」

つば広の帽子の下から顔をのぞかせて、大河が竜児を見上げる。頬が染まっているように見えたのは、あながち見間違いでもないだろう。想い人との楽しいひと時を想像して胸を高鳴らせているに違いない。

「ああ、俺が保障する。あいつは絶対喜ぶ。こんなに楽しいところだとは思わなかったぜ。こんなに面白いってわかってりゃ、お前が言うとおり泰子を連れてくれば良かったな」

マザコンぶりを臆面もなく発揮する竜児に大河も

「そうよねぇ、やっちゃん絶対喜ぶわよ」

と、手放しで同調する。

「やっちゃんジェットコースター乗るかな?」
「乗るんじゃねぇか?あれで結構怖いもの知らずだぞ」
「『こわ〜い』とか言いそうなのにね」
「言うくせに乗るんだよ」
「うふふ。乗ったらきっと楽しんでくれるわよね」
「ああ、楽しむさ。お前ですら悲鳴あげて喜んでたんだから」
「なによ。悲鳴って。自分だって叫んでたくせに」
「おう、叫んだ叫んだ。否定しねぇよ」

嫌らしい顔で笑いながら竜児が認める。遊園地をくるぶしまで浸かる血だまりに変えようと考えているのではない。思い出して楽しくて仕方ないのだ。

「まったく、誰が考えたんだよこんな機械。腹の底から声だしちまう」
「そうよねぇ」
「お前なんか、でっけぇ声で俺の名前叫んでたもんな」
「なによ、私竜児の名前なんか叫ばなかったわよ」

ん?

思い出し笑いが、ふと固まる。大河を見降ろすと、帽子のつばの下から笑顔をのぞかせて、 竜児とはこれまた違う「?」という表情。その笑顔につられるように竜児も笑顔を取り戻す。

「なんだよ、お前覚えないのか?でっけぇ声で叫んでたろ」
「やだ、竜児何言ってんのよ」

あれ?と大河を見降ろす。こんどは竜児のことなんか眼中にないのか、さらりと流して「次はあれに乗ろう」などと小さな手で指さしている。

ま、いいか。別に重要事じゃねぇし。と、今のやり取りを意識の端から追いやろうとして、竜児の歩みが止まる。電撃的に頭の中に浮かんだ情景に、遊園地気分など一瞬で消し飛んでいた。かき氷でも放り込まれたように背中が冷たくなる。
空気の熱さとか周りの喧騒とか、軽い疲労感も全部わからなくなって、でも、それもほんのわずかの間。いやいやまてまてと竜児は思いなおす。あいつはプライドの無駄に高い女だ。きっとすっとぼけているのだ。心配なんかしなくたっていい。

下手に刺激したらまたへそを曲げるだけだ。今日だって、仏頂面の大河の気分を盛り上げるのにどれほど手を焼いたことか。これをまたおじゃんにするなんてとんでもない。毎度毎度消火に手を焼いているのだ。何も自分から放火して回る必要なんかないじゃないか。

「ねぇちょっと竜児ぃ、なにしてるのよ。早く歩きなさいよ。」

竜児が立ち止まっている間に先に行っていた大河が気づき、振り返って声をあげる。帽子のつばをつかんだ姿は本当に無垢な少女のように見える。見えるだけじゃない。乱暴な奴だが、こいつは正真正銘傷つきやすい少女だなのだ。
きっと今はこの作戦がうまくいくことを露とも疑っていないのだろう。北村とのデートの日を楽しみにしているのだろう。

だめだ。

竜児は唇を引き結び、さっき思い浮かべた情景を再度かみしめるように記憶の中でなぞる。黙って帰るなんてできるわけがない。確かめなきゃいけない、と一歩踏み出す。大河はわがままで傲慢でどうしようもない暴力女だが、今ではもう、高須家の確かな一員なのだ。
こいつが超特大のドジを踏むかもしれないと知って、そのうえで知らぬ顔を決め込むなど、最早竜児にはできっこなかった。わめかれようが、睨まれようが、蹴っ飛ばされようが、確かめるしかない。

「なぁ、大河。さっきのことだけど。お前本当に俺の名前を叫んだこと覚えていないのか?」
「なによ、本当にしつこいわね。あんたの名前なんて叫んでないって言ってるでしょう」
「照れ隠しなら必要ねぇ。笑わねぇから」
「あんた、いい加減にしなさいよ」

穏やかだった大河の顔は、今ではこわばり、それどころが容貌が一変している。唇の端は醜くまくれ上がり、せっかくの遊園地気分を台無しにした駄犬の首の骨をこの場でへし折ってやろうという強い意思がありありと見える。
それでも、竜児は止めるわけにはいかない。

「なぐりたけりゃ殴れ。でもな、大河。殴るのはジェットコースターに乗りなおしてからだ」

大河をその場においてすたすたと歩き出す。

「勝手に逃げるんじゃない!だいたいジェットコースターに乗りなおすって何よ!」
「お前が俺の名前を叫ぶかどうか、もう一度確かめる」
「だからあんたの名前なんか」
「大河!」

わめき散らす大河にびびって押されないように、腹に力を入れ、より大きな声で竜児が叫ぶ。目は血走って、ちょっとしたどころではない悪人面だが、そんなことには構っていられない。ギラリと光る眼で大河を強く見つめ、言い聞かせるようにゆっくりと話す。

「お前はジェットコースターで、二回とも俺の名前を叫んでいた。それが俺が横にいるからだってのなら何の問題もねぇ。忘れてても構わねぇ。
だけど、そうじゃなくて俺の名前を呼んだのをいちいち覚えておけないくらい癖になっているのが原因なら、これは見過ごせねぇ。本番じゃジェットコースターはパスしないといけねぇ」
「どうしてよ」

答えによっては殺すとでもいいかねない視線で大河が声を放つ。

「お前、北村の横で俺の名前を呼ぶつもりか」

その一言で、大河が凍りついたように動きを止めた。


◇ ◇ ◇ ◇


デートの最中に想い人の横で他の男の名前を叫ぶ。

いくらなんでも大河にそんなドジを踏ませるわけにはいかなかった。だからといって、最初からあきらめてしまうには、ジェットコースターはあまりにも魅力的過ぎる。
ジェットコースターがどれほどのインパクトをメンバーの雰囲気に与えるかは、今日の大河の喜びようをみればわかる。だから、今、ここで問題にならないうちに事をはっきりさせておかなければならない。

すっかり無口になった大河といっしょにジェットコースターの列に並びながら、竜児は真一文字に唇を引き結び、前の人の背中に穴をあける勢いで目をぎらつかせている。紐を通して吊るしてやろうと考えているのではない。
真剣なのだ。大河は二度「やっぱり乗りたくない」とぐずったが、説得して無理やり承知させたのだった。これは遊園地デートの肝になる重要な事態なのだと。これはしくじれない。

竜児たちの列の順番が来る。

「ほら、帽子預けるぞ」

ずっと大河の顔を隠していた帽子をとってやる。大河は下を向いたままで、どんな表情なのかは分からないが、とにかく竜児と一緒に歩きだす。乗り場の床の木は足音に合わせてごとごとと音を立てる。
考えてみれば床を木で作るなんて贅沢な作りなのだろうが、いまの竜児にそれを味わう余裕はない。絶叫マシンの定番にわくわくする人々の顔も、竜児の顔に目をやってそむける係員も、いい感じにさびた鉄柵も今の竜児の目には入らない。
目に入るのは目の前の手乗りサイズの女子高生だけだ。

大河を促してコースターに乗せ、バーを下ろしてやって竜児も自分のバーを下ろす。さすがに前回と異なり最前列ではない。ついさっきまでならそれを悔むくらいジェットコースターを好きになっていた。しかし、今はそれどころではない。
引き下ろしたバーですら、嫌な感じに拘束を受けているように思える。

「いいか大河。これからお前の横に座っているのは北村だと思え」
「へっ?」

固い表情で黙っていた大河が竜児を見上げる。

「横に乗っているのが俺だから俺の名前を呼んだってのなら、それでいいんだ。だから横に北村がいると思え。俺はまぁ、叫び声くらいはあげるけどしゃべらないから。お前は横にいる奴は北村だと考えてろ。それで北村の名前が出てくるなら、安心していいだろう」
「ちょっと、私そんな」

大河はなにか言い返そうとしたようだった。ちょっとあわてたような表情。だが、ゴトリとコースターが動き出して、「ひぃっ」と逼迫した小さな悲鳴に変わる。

「もう引き返せねぇんだよ。いいか。俺は黙ってる。お前の横にいるのは北村だ」

ちらりと横を見ると、大河は緊張に目を見開いて、目の前のバーを握りしめていた。カタカタと乾いた音を立てて牽引されながらコースターが坂を登り始める。地平線が視界から消えていき、やがて目の前のレールも消える。
世界は青空と目の前の人の後ろ頭だけ。そして再び地平線が浮かび上がり、そのまま大地が視界を覆い尽くす。

二人を乗せたジェットコースターが猛然と坂を下り始める。

はらわたが浮かんで飛んでいきそうな感覚に、竜児が目を眇める。


◇ ◇ ◇ ◇


大河は、コースターが止まるまで歯を食いしばったまま、とうとう一言も声を漏らさなかった。


◇ ◇ ◇ ◇


「なんでちゃんと声ださないんだよ!意味ねぇじゃないか。お前わかってんのか?北村とデートするためにわざわざ」
「うるさーーーーーーーーーーーーいっ!」

大声を上げる大河に、竜児が言葉を呑む。

ジェットコースターを降りても大河は一言も口をきかなかった。よろめく体を支えてやろうとする竜児の手を振り払い、引っさらうように帽子をとり返してかぶり、ジェットコースター乗り場を離れて、ようやく交わした会話がこれだった。

帽子のつばで顔は見えない。大河はこぶしを握り締め、小さな体を震わせてすこしうつむいている。怒っているのなら下から射殺すような視線で竜児を見上げるところだ。大河は竜児がそんなふうに睨まれるのを嫌がっているのを知っている。
でも、大河は下を向いて体を震わせているだけ。まるで何かを我慢しているみたいに。

涙を我慢しているみたいに。

楽しげな音楽と声があふれる遊園地で、二人とも置き忘れられたように向き合って立っていた。大河は足元の地面を見ているよう。竜児はそんな大河の白い帽子を見ている。

「…私は…私はねぇ。そんな女じゃないのよ。…あんたの隣に座って、北村君の名前を呼ぶような女じゃないのよっ!馬鹿にしないでよ…」

何を言ってやがるんだこの馬鹿、と竜児は独りごちる。とうとう健忘症までわずらいやがったか。お前はいつも俺の横で北村北村って言ってるじゃないか。

それでも、大河の搾り出すような声のあとではそんなことはつぶやきようも無かった。二人の横をジェットコースターが駆け抜ける。轟音と歓声があたりの音楽をかき消す。

手に負えない女だ、と竜児は思う。馬鹿でドジでわがままで勝手で乱暴で人の話を聞かないくせに、どうしようもないほど繊細な顔をなんの前触れもなく見せてくる。もうすこし小出しに見せてくれれば竜児だって気の遣いようがあるのに。

だいたいどうしてここでそんな言葉が出てくるのか竜児にはわからない。そもそも、今日は大河と北村のデートの下見に来ているのであり、発案者は大河であり、竜児は命ぜられるままについてきたに過ぎない。そんな女じゃないって、じゃぁ、どんな女なのか教えてほしい。
そもそも、大河が繊細だとして……まぁ、実のところ意外に繊細な奴だということは知っているのだが……いま、ここは泣くような場面だろうか。殴り込みをかけてきた日からちっとも変わっていない。何もかもがでたらめ。何もかもがちぐはぐ。何もかもが突拍子もない。
それでも、

「そうか。すまねぇ。気が利かなかったな」

不思議なくらい自然に詫びの言葉が出た。不思議なくらい、怒る気になれなかった。

勝手なのは大河なのに。でたらめなのは大河なのに。とは思う。でも、目の前で小さな体を震わせている女の子を見ていると、理屈なんかどうでもよくなってしまう。

「…っ!」

何も言わずに大河は顔を背ける。帽子に隠れて顔は見えない。ただ、強い日差しの下、涙がきらきらと光りながら飛び散ったのが見えただけ。どうやら詫びは受け入れてもらえたらしい。受け入れないなら罵倒が飛んで来たはず。大河は涙くらいで罵倒を飲み込むタマじゃない。

「なぁ、大河。アイスクリーム食べないか?おごるぞ」

なるべく明るく声をかける。

「食べ物で釣ろうっての?どこまで子ども扱いする気なのよ」

精一杯の憎々しげな声。涙声混じりで。

「そう言うと悪く聞こえるが、どうだ?詫びの印を受け取るくらいの器の大きさを見せてくれてもいいんじゃないか?ほら、そこで売ってるし」

竜児が指さしたほうには、オレンジと白のストライプの屋根のアイスクリーム・スタンドがあって、同じ色をあしらったシャツを着たお姉さんがアイスクリームを売っている。スタンドの方を見た大河が手の甲で目の辺りをこすろうとする。さっと横からハンカチを渡す。
無言で受け取ってぬぐいながら

「なによ。ダブルじゃないと許さないんだから!」

きっと睨んできた顔を見て竜児はひと安心。そして睨まれて安堵している自分に可笑しくなる。

「よし、決まりだな」
「……」
「うれしくないのか?お、トリプルもあるぞ」
「え?!」

歩きながら、思わず大河が期待に満ちた驚きの声を小さく上げるのを竜児は聞き逃さない。泣いたカラスがもう笑った。はっと気づいて大河がぷいっと横を向く。

「なによ。文句あるの?」
「怒るな怒るな。トリプルにするか?」
「あんたがどうしてもっていうなら、やぶさかじゃないわね」
「じゃぁトリプルで決まりだ。ほら、いっぱいあるぞ。好きなの選べ」

スタンドの中にはバニラ、チョコチップ、バナナ、抹茶、オレンジ、レモン、アップル、グレープ、シナモン、トロピカル、ナッツなど色とりどりのクリームが並んでいる。どれが着色料が少なそうか考えている自分に気づいて、竜児は思わず苦笑。

隣の大河はさっきまでの泣き虫はどこへやら、ガラスに張り付いて、たった三つしか選べないフレーバーの選定中。それを見ながら竜児はちょっとだけ大河の体の小ささが癪に障る。
帽子が邪魔だ。これでもう少し大河に背があれば、どんな顔をしてクリームを見ているのか分かるのに。きっと宝石のように光らせているだろう瞳を見ることが出来るだろうに。

たっぷり1分考えて

「じゃぁチョコとオレンジとバニラ」

決めたフレーバーをお姉さんがスプーンですくい取る。

出来上がったアイスクリームを受け取るために、背伸びして手を伸ばした大河の横顔が帽子の影から覗く。目を丸くして本当にうれしそうな笑顔を浮かべている。いけない、いけない。だまされるな、と竜児は苦笑い。
例によって例のごとく、いつのまにか大河のペースに引き込まれている。笑顔に騙されてかけている。お前はこいつの本性を知っているはずだ。忘れるな、殴打と罵倒の日々。

そのくせ、

「じゃ、同じのをもう一つください」

などと言って大河をあきれさせているのは、どういうわけかうきうきしている心に正直なだけだったり。


◇ ◇ ◇ ◇


二人並んでベンチに腰掛けアイスクリームを食べている間、竜児は如何に自分が役に立たない駄犬であるかを延々と聞かされていた。
苦笑いしている竜児に大河は、気が利かない、自主性に欠ける、デリカシーが無い、乙女心が分かってない、ムードを解しない、生意気である、などなど、反省すべき点を丁寧に指摘してくださった。

「じゃぁ、あれ乗って最後にするか」

延々聞かされた自分の短所に苦笑しながら、竜児が話を変える。目の前には大きな観覧車。

「なによ、いきなり話を変えて。ごまかす気?」
「ごまかしゃしねぇよ。あとで反省しますって。それよりさ、もうそろそろ時間だろ。あらかたお前が乗りたそうなものは乗ったしさ。あれ乗って帰ろうぜ」

絶叫マシンには乗りのこしがあるものの、ジェットコースターの結果が結果なので無視していい。とすると、残っているものの中でめぼしいものというと観覧車くらいである。

「そうね。そろそろ時間よね」

大河が出かけに手間取ったうえにジェットコースターを初め2度乗ったアトラクションがあるせいで、かなり予定より押している。青空と雲の作る陰影は昼よりいくらか濃さをましてきて、やがては赤く染まるだろう。

「よし、じゃぁ決まりだ」

そういって立ち上がる竜児につられるように大河も立ち上がる。観覧車の列は大したことはない。


◇ ◇ ◇ ◇


列が短かったせいか、観覧車のゴンドラには二人だけで乗せてくれた。4人乗りのゴンドラなので割と広々としているかと思いきや、思いの他窮屈だ。膝がつくほどではないとはいえ、閉所であるせいか目の前の大河の顔が急に意識されて、竜児は思わず外を見やる。
大河の方は、何か見たものがあるわけでもなさそうだが、ずいぶん傾いた夏の太陽に逆光でてらされる街を見ている。

「なぁ、大河。そっち日が当たってまぶしいんじゃないか?」
「そうね。ちょっとまぶしいかも」
「こっち来いよ、ちょっとは日陰だぞ」

そういって横の席を叩く竜児に

「うん、そうする」

大河は意外なくらい素直に返事をして立ち上がる。大河の動きに連れてふわりと漂うコロンの香りが、不意にゴンドラの狭さを強調する。なんとなく気まづくなって顔をそらし、外の風景に目をやる。

「ねぇ」
「おう、なんだ?」

声を掛けられて振り向いた竜児だが、大河は反対側の窓を見ていた。竜児に見えるのは、いつものつむじをかくす白いつば広の帽子だけ。

「私、やっぱり北村くんとはうまくいかないのかな」

唐突な一言だった。

漏らした言葉は思いのほか乾いた声で、湿り気の無い分、その言葉が軽くないことを竜児に思い知らせる。今日の大河はアップダウンが激しい。朝から泣きそうな顔をするかと思うと、喧嘩腰で遊園地に乗り込むわ、ジェットコースターで泣くわと忙しい事この上ない。
それにしても、今日の泣き虫には、それぞれ理由らしきものがあった。でも、今大河を覆っている諦めのような雰囲気は、ずいぶん唐突な気がする。

「どうしたんだ、急に。さっきのこと、引きずってんのか」
「ううん、別にさっきのことがどうのってわけじゃない。あんなのなんでもない。でも、なんだろう。……急にでもないんだけど。北村くんがものすごく遠く感じちゃって」

だめなのかな、と窓の外に広がる街を見ながらつぶやく。ゴンドラはゆっくりと昇っていき、それに連れて眼下の街も広がる。

「『遠い』って、手が届かないってことか?」
「だって、私こんなに頑張っても振り向いてくれないし。北村くん、私が好きなこと知ってるのに」

少しずつ、悲しげな色に染まっていく大河の声が竜児の胸を締め付けて、思わずため息をつく。そう、北村は大河の気持ちを知っている。春先に告白して断られているものの、大河が北村に好意を持ち続けていることは、北村だってはっきりわかっているはずだ。
それに竜児は知らないことになっているが、そもそもの始まりは北村が大河に告白したことに端を発するのだ。そう考えれば、確かに北村はかたくなだ。一度は告白した女にこれほど距離を置くというのは、やはり大河に振り向く気が無いのかもしれない。

「ダメだと思うか」
「……私の事、見てくれない……」

つぶやくような大河の声に、ふと実乃梨の顔を思い描く。夏の旅行を期に、実乃梨は竜児のことを少し違う目で見てくれるようになったのではないかという淡い期待がある。一方で、その先に幾分の不安はあって、竜児なりに実は自分の方が大河より目標が遠い気がしていた

「なぁ、大河。お前北村と付き合いたいんだろ」
「……うん」

消え入りそうな返事。

「それはつまり、北村がお前の事を好きになって欲しいってことだよな」
「……そうね。でも、そんなこと、ありえない気がしてきた」

もはやはっきりした泣き声になった大河の帽子に、言葉を返す。

「俺は、お前の恋が実らずに終わるなんて思ってない。むしろ、可能性はまだ高いって思っている」
「どうして?」

振り向いて見上げる大河の目は縁が真っ赤に染まっていて、お得意の皮肉も嫌味も軽口も返ってこない。それはもう、手乗りタイガーなんかではなくて、行き先の見えない片想いにおびえる少女そのもので、ただ、純粋に竜児の言葉を聞きたがっている。
まるで、今ここで竜児が大丈夫と言わないとこの恋は終わるとでも言うように。春に知り合ってからこっち、誰も知らない大河のこんな顔を竜児は何度か目にしている。

「好きになってもらうってのは、自分のいいところを知ってもらわなきゃいけないってことだ。だったら、お前は大丈夫だ。お前にはいいところがあって、北村はまだそれに気づいていないだけだ。
あいつはいいやつだけど、やっぱり他の連中と同じで、お前の事を詳しく知ってるわけじゃない。お前がどんな女か知っていけば、だんだん好きになるさ」
「私、いいとこなんかないじゃない」

うつむく大河は涙声。竜児には、また帽子しか見えなくなる。

「お前にはいいところがちゃんとある。俺は知っている」
「……嘘」

気休めなんか言わないでよね、と声の調子で竜児を突き放す。それでも竜児は言葉を継ぐ。だって竜児は知っている。大河にはみんなが知らない良いところがある。

「お前は……だれよりも優しい奴だ。自分の事をそんな風に思ってないことは知ってる。だけど、お前はこうと決めたら自分より相手のことを大事にする奴だ。そうして1人で傷ついても、文句一つ言わない」

大河は鼻をすすって顔を上げ、それでも泣き顔を見られたくないのか窓の外に顔を向ける。

「そんなこと……」
「……お前はどう思っているか知らねぇけど、俺はそれがどれだけすばらしいことか知ってる。お前は4月に知り合った頃、俺の事を『優しい奴だ』って言ったよな。だけど、お前が教室で暴れたのは、みんなの俺に対する誤解を解くためだった。
それでお前への誤解が一層深まるのはわかってたのに、お前は躊躇しなかった。それにプールで俺が溺れたときもそうだ。そもそもお前自身が泳げないくせに、迷うことなく俺を助けに来てくれた。俺はお前がそんな奴だって知ってる。
北村もそういうお前の良さがわかる奴だ。だから、お前のそんなところを知れば、きっとあいつはお前を新鮮な目で見直すことになる。お前にはチャンスがある。まだあきらめるのは早いって」

体温がそれとわかるほど上がっていた。きっと自分は今真っ赤な顔をしているだろうと竜児は思う。これではまるで、自分が大河を口説いているみたいじゃないか。思いのほかドキドキする状況に我知らず、挙動不審に視線を泳がせる。
こんなに体が熱くなったのは、夏の旅行で櫛枝実乃梨と二人っきりで話して以来か。上昇する体温をもてあましている竜児に、しばらくして大河がつぶやくように声をかけた。

「『お前には』って……あんた……まるで自分にはチャンスがないみたいな言い方じゃない」

突然ど真ん中をえぐられて今度は体温が下がる番だった。冷え冷えとした気持ちに心を支配され、竜児が目をそらす。大河と目が合わないように窓の外の大して面白くない街並みを見る。ゴンドラはちょうど頂点付近で、横の窓を太いアームが横切っている。
正面を向けばガラスの向こうに広い平野が広がっているが、自分の目を見られたくなくて、竜児はゴンドラのアームを見ている。

「……おう、俺にはもう……チャンスがねぇ気がする」
「何いってんのよ」

さっきまで涙声だったくせに、大河はそんなことを忘れたようにいきなり心配そうな声。

「何いってるもへったくれもねぇ。さっき言ったとおりだ。お前にはまだ北村が知らないいいところがある。でも、俺にはねぇ。櫛枝は、俺のいいところは全部知ってる。これ以上、あいつを驚かすようなカードが俺にはねぇ」

本心だった。

竜児には、もう切り札が無い。『俺はツラが悪いけど実はこんななんだぜ』と実乃梨を驚かせるものが、もう手元に残っていなかった。竜児は見た目と全然違う男子だ。
それはまさしく出会ったころに大河が指摘したことで、竜児はこんな顔をしてるのにやさしい奴で、こんな顔をしているのにお料理が上手で、こんな顔をしているのに真面目な奴だ。だが、実乃梨はそういったことをもう全部知っている。

今、ようやくそれなりに親しくなれて、自分を知ってもらうことができた。そして、だからこそ竜児は呆然とする。もう、彼女に見せる自分が無い。あとは実乃梨の判定を待つだけ。そして、その実乃梨はどう見たって竜児に恋心を抱いてくれているようには思えない。

乾いた気持で外をみながら、我知らず笑いが込み上げてきた。

「なにがおかしいのよ」
「だってお前、もともとあいつは俺のツラなんか気にしちゃいなかった。みんながビビッて声をかけたかったのに、あいつだけは初めからおれにわけ隔てなく接してくれた。だから俺はあいつを好きになったんだ。
いまさらあいつの知らない俺を探してどうしようってんだろうな、俺」

あらためて、自分が抱いている恋心の身の程知らず加減に苦い思いがこみ上げる。誰にでもわけ隔てなく笑顔を向け、部活に汗を流し、何をしたいのか空いた時間にひたすらバイトを重ねる、どこから見ても完璧な少女である実乃梨。それに比べて己はどうだ。
単なる料理好きのおひとよしときたもんだ。

初めっから無理だったのかもしれない。

情けない顔を大河に向けたのは、別に慰めてほしかったからじゃない。特に何も期待していたわけじゃない。そこまで落ち込んでいるわけじゃなかったし、大河にすがらなきゃいけない理由もない。だからといって、

「いててててて!あにひやあんあ!」

まさかいきなり頬をつねられるとは思わなかった。

「暴れるんじゃない!この駄目犬!」

小さな手のどこにそんな力を隠しているのか、万力のような苛烈さで竜児の頬をつねりあげながら、大河は目を眇めて怒りの形相で説教をしてくださる。

「あんたはみのりんのことをお化け屋敷のお客さんかなにかと勘違いしてるわけ?はぁ?もう、みのりんを驚かすカードがない?驚かして女心を射止められると思っているなら、びっくり箱でも持ってきなさいよ、この馬鹿ハゲ能無しダチョウ犬!」

頬をつかんだ手でぐいと振り回されて、竜児の体がゴンドラの椅子に叩きつけられる。まったく何を食ったらこんな馬鹿力がわいてくるのかと胸の中で独りごちて、自分が作ってやっている飯だと思い当たる。これが本当の自業自得か。

「いってーな。何するんだこの暴力女!」
「うるさい!あんたみたいな馬鹿は、馬鹿なことを言うたびにお仕置きをしないとちゃんと覚えないでしょ!」

頬を押さえながら抗議をするが取り合ってくれない。これはこれで落ち込んだ竜児を励ましてくれている優しさなのか、あるいは単にむかついたから竜児を痛めつけているのか。まったくわからない。おそらく8割方後者だろう。

「あんたは最近自分の立場を忘れてるみたいだから、もう一度はっきりさせておくわ。あんたは私の犬。犬なんだから、主人の言うことだけを聞きなさい!あんたの仕事は私に仕えることなの。私と北村君の中を取り持つことなの。私の幸せがあんたの喜び。
あんたの喜怒哀楽はすべて私のために取っておきなさい。いいこと?許可なく勝手に落ち込んでるんじゃないわよ!それから『みのりんに見せるものがない』なんてことで悩む暇があったら、どうすれば私が喜ぶか考えなさい!いいわね!」

でたらめにも程がある。現代日本で許される発言とも思えない。どうやら10割後者だったらしいと竜児が頬をさすっているうちに、ゴンドラは下へと着いた。


◇ ◇ ◇ ◇


「あーあ、せっかく最後はいい感じに観覧車でしめるはずだったのが、竜児のおかげで台無しだわ」

台無しになるような話題を振ったのはお前だよ。

と、言えるはずのない言葉を呑みこんで竜児がぎろりと目の前の白いつば広帽子を睨みつける。ちくしょう、隠しやがって。帽子さえなければつむじをビームで焼き切ってやるのに。と、ちょっと思っているのだ。

感情の起伏の激しかった一日の世話を散々竜児にさせた挙句、大河は「竜児のせいで気分が台無しだ」などとお気楽に言い放っている。もう、いい。どうでもいい、と竜児は天を仰ぐ。とにかく最後に乗ろうと決めた観覧車に乗ったのだ。
あとは帰るだけだ。そうすればこの我がまま坊主からも解放される。明日も明後日も竜児が面倒を見なければならないことに変わりはないが、それはそれ、この面倒極まりない一日がとにかく終わるというのはめでたい。

しかし、大橋高校の手乗りタイガーがヤンキー高須ごときのささやかな願いを汲んでくれるはずもなかった。面と向かって言っても人の言うことを聞かない女だ。口に出さない願いなど、聞いてくれるはずがない。

「竜児、口直しにあれに乗って最後にしましょう」

そう言って大河の小さな手が指さす方向法を竜児も見る。指さした先には一本のまっすぐな棒が立っていた。ただの棒ではない。パンフレットによればこの遊園地最大の売り物にして最凶最悪の絶叫マシン、その名も「スカイスクレーパー」。

高さ100mの棒である。


◇ ◇ ◇ ◇


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