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「あっつぅ…」

 それもその筈だ、プールでの騒動の後は期末テストで、ろくな弁解も出来ぬまま、あっという間に夏休み。
 昼間の屋外はどこもかしこも、一様に暑い。
 夏休みを迎えて一週間。逢坂大河は珍しく一人で、片手には幾つかの調味料が入った高須家のエコバッグをぶら下げている。

 顛末はシンプルだ。今日の高須竜児は意気揚々と自宅の掃除に取り組み始め、
 その手伝いを拒否した大河は、竜児にお使いを命じられていた。
 とは言えまあ、お使いなんてあっという間で、竜児の掃除は徹底的ですぐには終わるわけもない。
 夕方まではそこら辺ぶらぶらして来いという竜児の勧めもあって、大河はあまり馴染みのない昼間の街を散策していた。

「やっぱり駅ビル行こうかな。別に商店街に用なんてないんだし…」

 ぶつくさと誰にでもなく呟く。
 今日の竜児は元から掃除をすることを決め込んでいて、ろくすっぽ相手にしちゃくれないし、
 みのりんは部活とバイトで夏休みに入ってから一度も顔を合わせていないし、北村君なんて、持っての外だ。

 要するに暇なのだ。

 さっさと自分の部屋で夕飯まで寝ることも考えたけど、起きれなそうだからやめた。
 かと言ってあてもなくふらふらしてても、時間はゆるゆるとしか進まず、こんなことなら掃除の手伝いでもすればよかったかと考えはじめた時。

「タイガーじゃん。何やってんの?」

 げえ。という呻きがでた。
 ばかちーこと、川嶋亜美。当然だけど私服で、完璧といって差し支えのない容貌で周囲の目を惹いていた。

「買い物よ!買い物!」
「エコバッグ?あんた、料理とかできんの?」

 私は高須竜児お手製のエコバッグを眼前へ突き出す。
 ばかちーは見慣れない袋に怪訝な表情を浮かべている。
 こいつ実はアホなんじゃないか。いや、きっとアホなんだ、違いない。

「私じゃなくて、竜児がやるのよ」
「ああ、あんたら家すぐそこだっけ。何、あんた今日お呼ばれでもしてんの?」
「お呼ばれも何も、私の夕食は竜児の家で食べてるけど?」
「・・毎日?あんた達、なんなの?」

 なんなの?

 愚問だ。主人と、犬。ついこの間断言してやったばかりだって言うのに、この馬鹿チワワはもう忘れ去ったしまったらしい。
 竜児といい亜美といい、犬の脳みそを持って生まれた連中は、ちょっぴりかわいそうだ。
 などと考えていると、ばかちーこと川島亜美は眉根に皺を寄せ、実に疑わしげな目でこちらを見ていた。

「まあいいや、アンタ暇だったらスドバでも行かない?」

 この際ばかちーでもいいか。
 どうせ私も暇なのだ。夕方までのそう長くはない時間、我慢することにした。


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「で、結局あんたと高須君は何なわけ」

 こうやってタイガー一人に話を聞く機会もそうはない。
 世間話もそこそこに、亜美は常々感じていた疑問を尋ねてみた。
 聞けば聞くほど、信じられないのだ。この二人の、互いへの執着が。

「家が隣のクラスメイト」

 さも興味なさげに答えると、小さな口を窄めて、ストローを通じてタイガーはずるずると飲み物をすする。

「で」

 納得のいく回答が引き出せない私は、その先を促す。

「…友達?」

 納得のいく回答が引き出せない私は、その返事に眉根を寄せる。

「大負けに負けて親友までつけてやろう」
「竜児は私のだー、って言った口と同じ口とは思えないわね」
「うっ、うるさい!あれは口が滑ったの!」

 口が滑った、で世紀の大告白(ということになっている)なんて、するわきゃない。

「私は口が滑っても祐作は私のだー!とは言わないけどね」
「っていうか、結局あんたらって付き合ってたわけじゃないのね。そんな気はしたけど」

 少し嫌みったらしく、意地悪く付け足してやる。
 勿論、あくまでも私に隠してるだけかもしれない。
 が、逢坂大河は、どうやらそんな器用な人間はないらしく、ストローの端をみっともなく噛みながら、苛立たしげに視線を寄越す。

「どこをどう見たら私と竜児が付き合ってるように見えるのよ」

「ありとあらゆる方向から見たら」

「ぐっ」

「どっからどう見ても相思相愛に見える」

 そうだろう。
 いくら口ではいがみ合っても、いつも殆どぴたっと隣同士で、聞けば夕食は毎日一緒、夏休みは毎日のように一緒。
 家族だって、そんなに一緒の時間を過ごすだろうか?
 高須竜児と、逢坂大河。二人は仲の良い隣人の領域を遥かに越えている。
 それは大橋高校2-Cの誰もが感じていることだろう。
 何故だか、口に出されることはあまりないけれども――

「でも残念。現実に私にその気はないもの」

 したり顔をしつつも、タイガーは視線を手の中のカップに戻す。

「本当に?」
「本当に本当に?それ絶対嘘じゃない?…じゃあ、私がとっちゃおうかなー」

「あんたにゃ無理よ」

 短い沈黙の後、冗談であることを察したのか、タイガーは薄く笑いながら言う。
 その真意を、読み取れない自分にいらついた私は、ちょっとだけ荒っぽい手段を選ぶ。

「じゃ、みのりちゃん炊きつけよっかなー」

「!!」

「そこまで露骨に表情変える?」

 タイガーは大きなめを見開き、ぱちくり、と二度瞬きをすると、こちらを凝視する。
 透明なカップの中の、水面がぶるぶると震える。
 多分そうなのだろう、とは少し思っていた。

 苛立たしげに軽く頭を振って、ようやくタイガーは小さな声で「うるさい」と私を制した。

「竜児は私のだー、って言ってもさ…高須君に首輪なんかついてないし、放っておいたらどっかいっちゃうかもよ」

「それは…竜児の自由じゃない」

「まっ、それはそうだけどねー。アンタがそれでいいのなら」

「…」

「よくないんでしょ?」

「…別に私は…」

「なんでもいいから高須君にアタックしてみれば?案外その気になるかもよ?」

「ばかちーは相変わらずばかちーね」

「あんたほど馬鹿じゃないわよ。
 このまま放っておいて、何もしないで、あんたはその時どうするの?びーびー泣くの?一人で。まあ、あんたの好きにすればいいけど」

 それを最後に、この話題は終わった、終わってしまった。
 タイガーは少し俯いてて、その表情は窺い知れない。
 ストローを吸うが、その中身は氷だけで、プラスチックのカップにしがみついた水分が、重たげにタイガーのスカートに落ちていった。

 好きにすればいい。好きにすればいいのだろう。
 彼も彼女も、好きにすればいい。

 世界は異常にしんどい。だからこそ、単純に生きるべきだ。
 傍に居たいなら、そのために許された手段は、多くはない。

 それを感じるのは、私だけなのだろうか。


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 馬鹿と時間を無駄にして来て、高須家に帰ると、掃除は一段落していた。
 竜児は「綺麗になったろう」と胸を張ったが、大した変化を感じなかったので適当に返事しておいた。

 昨日までと同じようにやっちゃんと三人で食卓を囲み、
 いただきますをして、
 ご飯を今日は少し控えめに二杯半食べて、
 ごちそうさまをして、
 やっちゃんが仕事に出かけて、
 くだらないテレビを見て、
 お茶を飲みながら笑って、

 なんとなく、今日のご飯はいつもより美味しくなかった気がした。
 それも全部、ばかちーのせいだ。きっと。

「竜児はさ、迷惑じゃないの?」

 日は、もうすぐ跨ぐ頃だろうか。
 最近はもう珍しくない時間だ。
 以前は竜児が帰れ帰れと煩かったが、面倒になったのか12時を過ぎるまではあまり言ってこないようになっていた。

「いきなり脈絡もなく、何がだよ」

「わ・た・し」

 ちょっと悪戯っぽく、自分を指差す。

「はあ?なんで俺がお前を迷惑に思わなきゃいけないんだよ」

「だって、ご飯とか、ご飯とか…色々してもらってるけど、私、あんたに何をしてあげてるわけでもない」

「自覚はあったのか…」

「だから、迷惑とか思ってないのか、気になったの。
 まっ、迷惑してるからってご飯私の分作らなかったら勿論怒るけどね」

 一応、疑問、ではあるのだ。
 竜児と私は、友人かもしれない。
 けど、突き詰めれば、知り合ってまだ4ヶ月もないクラスメイトで、4ヶ月遡れば私たちは、名前も知らない他人なのだ。
 竜児は机に肘をついて、少し悩ましげに前髪をいじる。

「うーん…別に迷惑とか考えたこともねえよ。
 飯の二人分も三人分も、俺にとっちゃあ特に変わらねえし。一緒に食卓囲めるのは楽しいし。言っちゃ悪いが飯代だってもらってるし、不満はねえ。
 まあ、お前の人格はどうかと思うが、別に嫌いじゃないしな。なんにせよ、迷惑ってことはねーよ」

 ゆっくりと言葉を選ぶようにして、最後は笑いながら言った。

「ふぅん…ねえ竜児」

「おう、なんだ?」

 手の中の雑誌から視線を、机越しへ持ち上げる。
 唾を、一度ゆっくりと飲み込む。
 代わりにに、胸の中から、言葉を引っ張り出す。

「もしも私が竜児のこと好きだったら、どうする?」

「そうだな――って、いきなり何を言い出すんだお前は!!」

「いいから、どうするの?」

「いくらなんでも仮定に無理がある。回答を拒否する」

 大仰に、掌をこちらへ突きつける。

「私は――
 私は、竜児に好きって言われても、嫌じゃないよ」

 小声で私は、他愛もないことを付け足す。
 これは仮定で、嘘で、本当ではない話。だから、本当にそれは他愛のないこと。

「お前、熱でもあるんじゃねーのか、どうかしてるぞ」

 心配半分、怒り半分で竜児が私を見つめる。
 それ以外、多分、なんにもない。

「どうもしてない!」

 6畳の部屋に、沈黙が募る。
 からからになった喉から振り絞るように、私は漸く、声を上げる。

「…質問に答えてよ」

「あのなあ、お前が北村を好きで、俺は櫛枝を好き、そんなの前々からわかってるだろ?」
「いきなりそんなこと言われても、わかるわけないだろ」

 どぎっつい三白眼の目線は床に落とし、竜児はこともなげに、いつものように私に呆れながら言った。

 そっか――そうだよね

 その言葉が、声になったかどうかも分からない内に、私は立ち上がっていた。

「ごめん、今日はもう帰る。それと、さっきのは忘れて」

 竜児が声をかけてきたけど、よく聞き取れなかった。
 見慣れた自分の部屋は、いつものように暗く、無駄に広い。
 寝て、起きるだけしかすることもないのに、何故だろうか。

 ああ、なんて馬鹿馬鹿しい。
 ばかちーめ、今度会ったらぶっ飛ばしてやる。
 あいつの性で、無駄に私は傷ついた。ぼすりと、枕が鈍い悲鳴を上げる。

 …傷ついた?

 なんで?

 竜児が私のことをなんとも思ってないから?
 竜児がみのりんのことを好きだから?
 馬鹿。そんなの知っている。私たちは友達で、隣人で、クラスメイトで…他人だ。
 そんなことで私は…私は…

 私は、別に
 ぐるぐると考えてるうちに、ベッドのシーツの上に、鈍い色の染みが出来る。
 もう、夏だ。今日も暑い。
 のろのろと私はクーラーのスイッチを入れる。
 再び落ちた視線の先に、染みがまた点々と出来る。
 私はクーラーの温度を下げた、染みがまた増える。
 壊れるほど強くボタンを押す。

 急速に冷房で部屋が冷える、寒い。染みは、また増えた。

 漸く気づいた。これは。そうか。ああ。なんて私は馬鹿なのだろうか。

 本当に、どうしようもない奴だった。


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 馬鹿馬鹿しい、前提条件がもう滅茶苦茶だ。そんな問題にどう答えろというんだ。
 X=1で2でもしくはよかったら5なんて式は、解ける筈がない。

 それよりあいつ、明日飯食いに来るかな…
 随分気分を損ねたみたいだし、機嫌とるか?
 いや、下手に機嫌をとろうとすると藪蛇だ。やめておこう。
 でもなあ、やっぱり何かしらフォローをすべきなんだろうか。心配だけど、どうすりゃいいのか。
 明日の夕飯は好物の豚カツにしてやるか?いや、食べに来るかがわからねえ。

 …それにしてもあいついきなり帰ったのはいいけど、食事どうするつもりだ。
 向こうの冷蔵庫にも多少なり食べ物はあるし、一日二日は死にはしないだろうが…心配だ。そもそも、あいつ家にちゃんと帰ったか!?
 急いでベランダに出て、大河の寝室を確認する。
 ああ、よかった、カーテン越しから光が漏れてる…少なくとも今日はちゃんと帰ったみたいだな。全く、何かあったらと思うと生きた心地がしねえぜ。

「にしても、変なこと言うよな大河の奴」

「大河が俺を好きだったら…か」

 正直に言おう。悪い気はしない。俺だって人の子だ、悪魔の子ではないのだ。
 綺麗な女の子に惹かれないわけじゃない。
 あの水着姿だって、俺は結構ドキドキしていたんだ。そもそも本当の第一印象悪くない。その3秒後に180度反転することにはなったが。
 もっと正直なことを言えば、大河の隣はその、なんだ「悪くない」
 それが好きと言えるかは、俺にはわからないけども。

 とりあえず、間違いないことは、俺は逢坂大河は嫌いではないということ。
 好悪の対象で言えば好に入るだろう。
 キス?抱擁?セックス?いや、その想像は全くしたことないから、やっぱり何とも答えられない。
 大体、俺なんてあいつからすれば、何を言っても「このエロ犬」で一蹴されるような存在なのだ。そんな想像をしろという方が無茶ではないか。

 ただ。

 だとしたら、彼女は――逢坂大河は、何故その言葉を口にしたのだろうか。

 わからない、俺には全然、わからなかった。


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「うお、こんな時間か」

 目が覚めた時間は昼の2時過ぎ。
 どうやら考え事してるうちに自然に寝てしまったようだ。
 そうだ、大河は?はっと顔を上げるが、どうやら、この部屋には居ないようだ。
 とりあえず、ベランダから大河の部屋を確認する、電気がつけっぱなし、MOTTAINAI。
 大方寝っぱなしなのだろう。今はそう思うことにしよう。
 スーパーの特売までは1時間そこそこしかない。準備をしたら、すぐ出よう。

 一応念のため、国産の豚カツ用の肉も買っておかないとな。

 シャワーを浴び、朝食にも昼食にも遅すぎる飯を平らげ、エコバッグと財布、それから携帯をもって家を出る。
 携帯には着信はなし、メールはファミレスからのメルマガが一件。
 大河、腹空かせてねーかなあ…いや、流石に半日やそこらで死にはしないし、まあ本当にやばかったら俺か櫛枝に連絡を寄越すだろう。

 そういえば、夏休みに入ってから櫛枝に全く連絡をとってもいないどころか、
 さしあたって「久しぶりに名前を思い出した」気さえする。
 全く、いつからだか知らないが、俺はいっつも大河の心配ばっかりしてるな。スーパーへ歩きながら、俺は薄く笑う。

 …?

 おかしくないか、それ。
 何故俺は只のクラスメイトにここまで気をかけねばならないのか。
 そう、好きな人のことを考えるのを失念するほどに。

 俺と大河は、友人で、隣人で、クラスメイトで、他人…かもしれない。
 本当に、そうなのか?そうだったのか?

 前提条件が間違ってる。これは、確かに間違っている気がする。
 急に重たくなった頭を抱えて、スーパーの自動ドアをくぐる、びっくりするほどの冷気が体を包んだ。

 そういえば、一人でスーパーに来るのも久しぶりか。
 カゴをひとつひっつかみ、少し悩んでからカートを引っ張り出した。

 「高須君、珍しいね」

 それ以上にスーパーで俺が声をかけられるのは珍しい。
 振り返ると…なんだか周囲の人が一歩ずつ引いた気がするが、多分それは気のせい。
 声の主は、柔らかくウェーブのかかった髪と口元のほくろが印象的なクラスメイト、香椎だった。年齢は同じ筈だが、いつも落ち着いていて、どこか大人びている。

「香椎…?いや、俺は殆ど毎日ここに通っているが」

 違うスーパーに行くこともあるが、値段や学校からの距離、諸々を考慮して大抵は同じスーパーを利用している。

「違うよ、一人なのが珍しいなって」

「ん、ああ、最近は大河が一緒のことが殆どだもんな。それにしても、なんかここで会うのは久しぶりだな」

 実のところ、香椎とはスーパーで鉢合わせるのはこれが初めてではない。
 よくは知らないが、香椎も片親ということらしく、頻繁に買い物をしていて、その縁があったかないのか、挨拶したり世間話する程度には仲が良い。
 言われてみれば、一学期の間にスーパーで顔をあわせることが殆どなかったのは、今にして思えば不思議だ。
 近くに新しいスーパーが出来たりすることもなかったし、何故だろうか。

「そう?私もよく来てるし、高須君はよく見かけてたよ」

「そうだったのか」

 素直に驚く。そうだったのか、見落としてたのかも知れないな。

「でもまあ、普段はタイガー居るしね」

「はあ?どういう意味だよ」

「なんか声かけたらタイガーに悪いじゃない」

「だから、どういう意味だよ」

「どうもこうも、そういう意味だって。タイガー春先からずっと高須君に懐いてるし」

「まあ、そう見えるのか…当たり前といえば、当たり前だな」

 そう、かもしれない。何せ川嶋亜美とちょっと話しただけであの怒りようなのだ、香椎と挨拶することだって、大河は怒るかもしれない。

 そういう意味。か。

 春先には、俺と大河が付き合ってるって噂されてたんだっけ。
 それも随分昔のことのような気がするが、まだ季節は春から夏になっただけで、4ヶ月と経ってない。

 大河が俺に懐いている。それはまあ、そうだろう。
 でもただの友人なら、挨拶ひとつに早々噛みつくだろうか?あいつは多分、噛みつく。
 それは、何故だ。

 俺には、わからない。いや、違う。

「なあ、香椎。この後ちょっと時間あるか?」

「えっ?まあ、急いでご飯作らなきゃいけないわけじゃないから、ないわけじゃないけど」

「すまん、ちょっと相談に乗ってくれ…」

 藁にも縋る気持ちだったこと、それはいずれ香椎に謝ろうと、そう思った。
 本当にわからないわけじゃない。ただ、わかるために必要なことがあったんだ。


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 高須君が私を誘う、というのは全く想像したことのないシチュエーションだった。
 しかし特に断る理由もないし、誘いに乗ることにした。
 それぞれ買い物袋を持って、スーパーから程近い須藤コーヒースタンドバー、通称スドバへ向かう。何かの間違いで亜美ちゃんやタイガーに見られなければいいけど。

 高須君はスーパーからどうにも心ここにあらずと言った体で、どこかそわそわとしながら椅子に座った。。
 やっぱりコーヒーはブラックで飲むんだなあ、とどうでもいいことを思いながら、何の用、というか何の相談をしたいのか、と促すことにした。

 同じクラスになって分かったことだけど、高須君は相当に女々しい。
 いや、優しいのかもしれない。悪い印象は目つき以外特にないけど、ちょっと男らしさには欠けるタイプだ。多分。
 なんてことを考えていると、高須君は「友達の話」をはじめた。

「ふぅん」

「…と、いうわけなんだ」

「つまり、ずっと別な人を好きだといっていた、仲のいい子が、ある日突然超真剣に自分のことを好きらしいことを言ってきて、自分は他に好きな子がいるはずなのだけど、そのことばっかり気になっていると」

「どう思う」

 恐る恐る、と言った感じで私に返事を促す。
 目つきはとっくに慣れてしまって、高須君はむしろ少し、可愛らしい。

「どう思うって、私は当人じゃないからなあ。無責任なことはいえないよ。高須君が自分で決めないと」

「そうか…」

「あっ、やっぱりこれって高須君とタイガーのことなんだ」

 まあ友達の話、と言ったら大抵自分のことだしね。
 それに、さほど接点のない私に相談することも合点がいく。

「いや!そういう…いや、取り繕っても仕方がないか、そうだ」

 知らない人には見るから凶器の目線が、所在なさげにうろうろとすると、観念したように高須君は言った。

「二人ってまだ付き合ってなかったんだ。意外」

「俺と大河が付き合ってる?どっからどう見たらそうなるんだ」

「ありとあらゆる方向から見たら…それに現実に、タイガーは高須君のこと好きみたいだし」

 好きでもない相手に所有物宣言なんてするだろうか。しないと思うんだけどなあ。
 高須君は苦虫を噛み潰したような表情で、頬杖をつく。

「周りからはそう見えるもんなのか」

「むしろそう思わない高須君が異常だと思うけど」

「さらっと異常とか言うな…若干凹むだろ」

「でもてっきり高須君もタイガーのことを好きなのかと思った」

 そう見えるか、と高須君は誰に言ったのかわからない程の声の小ささでぼつりと呟く。
 もしも、好きでもないのに、あそこまで出来るとしたら高須君は相当なものだ。
 相当なナニなのかは、人によって感じ方は様々だろうけど。

「俺は…まあ、嫌いじゃねーけど」

「私はそこはどっちでもいいけど。
 要するに、高須君はタイガーに対してどうしてあげたらいいか、全然全くわからないどうしたらいいのー!っていう状態で、たまたまクラスメートにスーパーで遭遇したから「ええい、ままよ!」と事の顛末を話してみたと」

「意地悪い言い方しないでくれよ。それに、誰でもよかったわけじゃない。香椎なら話してもいいと思ったんだよ」

「嬉しいお言葉」

 本音かどうかは別として。という言葉は出そうとして、引っ込める。
 相談事っていうのは幾つかのパターンがあるけど、これは「既に答えがある」んだろうな。
 相談を持ちかけた時から、高須君は迷いがあるようなポーズはしてるものの、どこかに口実を探している、そんな印象を私は受けた。
 憶測でしかないし、私のことでないし、はっきりしたことは言えない、けれど。

「そうだなあ…私の友達の話なんだけどね、ずっと友達だと思ってる女の子のことを、ある日突然好きになっちゃった人がいたんだって」

 高須君は、顔を上げて真剣に聞き入る。

「その理由って言うのがね、大地震になったとき、真っ先に安否を確認したい人は誰だろう、って考えた時に、その子のことが浮かんだんだって」

「…」

「万人に通用する理論じゃないけど、参考にはなるんじゃない?」

 でも、通りがかった人の背中を、他人がたまたま偶然押すことだって、ある。
 そこまで他人ってわけでもないかな。

「…おう、そうだな」

 いくらか納得した様子の高須君は、臆面もなく「ありがとう、助かった」と言うと、返事もそこそこにスドバから出ていった。
 頑張れヤンキー高須竜児。通りがかりのクラスメイトは、応援してるよ。


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 結局のところ、私は卑怯者なのだ。
 なんとなく気づいていたけど、私ははっきりとそれを、知った。

 竜児のことが好きなのか?答えは決まっている。

 北村君のことは、別に嘘じゃない。
 本当の気持ちなのだ。
 それでも少しずつ少しずつ、本当の気持ちが胸の中をせり上がって来るのを、いつも感じていて、それを私は「私以外の何か」を理由にして回答をずっとずっとずっと先に延ばそうとしていた。
 けど、それは遠からず限界を迎えていたのだと、今は思う。

 竜児はみのりんが好き。

 その現実とのギャップに、いつか私は打ちのめされる。

 竜児がみのりんと付き合い出したら、そんな想像をたまに夢に見る。
 二人は楽しそうで、とてもお似合いのカップルで、当然そこに私は居ない。
 その時の私を想像しても、ちっとも思いつかない。

 今が今のままずっと続けばいいと思っていた。
 けど、次の日に来るのは「明日」で、人の気持ちもその度に、変わる。私は、竜児の傍に居たかった。明日が来る度にその気持ちは強くなった。

 だからこそ、口に出した。
 でもその言葉も「もしも」の保険つきで、結局私は馬鹿みたく臆病で、卑怯で、どうしようもない奴だ。

 卑怯者の、のろのろとした朝も、もう6時を過ぎた。
 夕闇は部屋からは見えない、冷房は相変わらず寒い、電灯を消すスイッチは遠い。

 お腹が、空いた。

 まだ残っていた涙が枕を少し濡らして、もういいや、と目を瞑る。
 こんなことをしたってなんにもならない。でも、いい。謝って元に戻っても、いつかは破綻するなら、早く慣れよう。

 私は、独りがお似合いだ。


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 結局のところ、俺は卑怯者なのだ。
 決められた、口に出されたものを全て本当だと決めつけて、
 その前提が崩れることをいつも恐れてる。

 今は、正直嫌いじゃない。
 大河が居て、みんなが居て、馬鹿騒ぎをして、笑いあって。
 けど、次の日に来るのは「明日」で、季節は変わる、旬の素材も変わる。
 そんで、俺や大河の気持ちだって、口に出された真実だって、変わっていく。

 それに打ちのめされるんじゃ、しょうがない。
 気持ちが変わるなら、俺たちも変わらなきゃいけない。
 竜が虎に並ぶために、それが必要なら当然だと、俺はそう思うのだ。


 泰子の飯を用意して、その傍らで別な下ごしらえをする。
 泰子は怪訝な顔していたが、大河は調子が悪いので、向こうで飯作って食わせてやると言っておいた。
 調子が悪いのも、向こうで飯作るのも本当なので別に嘘じゃない。
 
 エントランスももう見慣れたもので、エレベーターで手早く二階へ上がる。
 意味もなく広く、長い廊下の先には、ろくに生活には使われてない逢坂大河の部屋がある。
 ひとつ、深呼吸をする。じっとりと汗が頬を伝う。インターホンの前の震える右手を、無理やりに押し出す。

 ピンポーン、と軽快な電子音が響く。

 反応はない。もう一度押す、反応はない。10秒ほど間を置いて、更に押す、反応はない。
 深く深く、溜息。いや、想定内だ。とにかく早くしないと肉がどんどんダメになる、ダメになってしまうから、ドアノブに手をかけ、捻る。
 ドアはその重さ以外に抵抗することなく開いた。…戸締まりくらいしろよな。

 決して大きくはない声で入るぞ、と俺は言うと、逢坂家のドアをくぐる。
 逢坂家とは言っても、ここに立ち入る人はあいつと、俺くらいしかいないみたいだが。

 だだっ広いリビングは相変わらずの殺風景。
 品の良い調度が揃うが、そのどれもに生活感があまり感じられない。
 それもそうか、と俺は薄く笑い、首を振る。

 どうでもいい感傷もそこそこに、エコバッグに詰めた食材をアイランドキッチンに次々並べる。
 とりあえずは作ろう。

 あいつが美味いと言う飯を。


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「生きてたか」

 私は、何をみているのだろうか。
 竜児が私の家のキッチンに居て、どうやらご飯の用意をしてるらしかった。
 どうして、どうして、どうして。

「何しに来たのよ。っていうか、どっから入って来たのよ」

 顔を伏せる。ダメだ。今はきっと酷い顔をしている。

「玄関から。鍵くらい閉めろ。不用心だぞ」

 小さく聞こえる包丁の音は、いつもと同じリズムで。
 それに安心する自分が居る。
 それがまた苦しくて、伏せた顔の上で、眉根に力が篭る。

「…だから、何しにきたのよ」

「飯を食いに来ないから、作りに来た。それとまあ、用事があってな」

「私はあんたの顔見たくない」

 違う。でも、見ることはできない。
 それを見ようとする勇気は、私にはないから。

「…俺は、そうでもない。あと、俺の用事は別にお前が俺の顔見なくても済む」

「なによ…用事って」

 おなかが、ぐうと鳴る。私のおなかの音だ。

「顔洗って来い。どうせ昨日から何も食ってないんだろ。もう飯出来るから、少し待ってろ」

 見上げた視線の先の竜児はいつもと同じように、笑っていた。
 格好のつかない私を、笑っていた。いや、多分、笑ってくれた。

 ああ、どうしてあんたはそんなに優しいのよ。


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「ご飯、ここで食べてくの」

 幾分かさっぱり、とは言えないまでも、覚醒をした大河は、裸足でぺたぺたとフローリングの床を歩き、食卓に着く。
 視線は一度上げただけで、こっちを見ようとはしない。

「ああ、そのつもりだ。用事を済ませるには、こっちのが俺が都合がいい」

 そう、と小さく大河が呟く。ヒステリーを起こす元気は、多分ないのだろう。
 昨日から何も食ってないんじゃ、仕方がない。目の前に自慢の豚カツを並べてやる。
 二人でいつもより随分小さな声で、いただきます、と言って、会話のない食事を始める。
 これが終わったら、言う。俺は、言うのだ。
 
「それで、用事って何よ…」

 食事も済み、洗い物も終わった。
 そうだ、あとは俺の用事だけなのだ。
 大河の言葉からたっぷり、5秒はあっただろうか。いや、もっとあったかも知れない。
 俺は錆びた金属が組み合わさったみたいに固くなった口を、やっとの思いで開く。

「…まあ、昨日の話の続きだ」

 これ以上、静かになる筈のない部屋の音がすっとまた、小さくなった気がする。
 大河は、その続きを促さない、体を小さくしているだけだった。

「お前が俺のことを好きって言ったらだったな。俺は嫌じゃない、というかむしろ、嬉しい」

 そりゃ、大河は美少女だから――
 そんなことではない。知ってるぞ。俺は知ってるんだ。

「なぜなら俺はお前のことが好きだからだ」

 限界まで静まり返った部屋に、どこからとなく音が灯る。
 それは多分、二人分の心音なんじゃないかと、俺は思う。
 顔を手で覆う。ダメだ、きっと。今は酷い顔をしている。

「嘘。機嫌取りに軽々しくそんなこと言わないでよ」

「お前には俺が軽々しくそんなこと言う奴に見えるか?」

「嘘よ。大体、みのりんのことは」

「それは、やめた。俺はお前のこと方が好きだからな」

 俺にとって大切なものは、櫛枝よりも――。

「なにその冗談、面白くない」

 目の前のお前なのだから。

「どうしたら信じる」

「…」

「大体、それを言ったら昨日のお前だって、北村のことはどうした」

「…あれは…冗談だもん」

「俺の知ってる逢坂大河はあんな冗談は言ったりしないし、冗談だったらいきなり怒ったりはしない」

 本当に冗談だったら、こいつはこんなに不貞腐れない。
 そりゃ勿論、俺の推測かもしれないし、俺の「願望」かも知れない。
 だがそんなもん、知ったことか。
 今の俺は、逢坂大河が好きなのだ。

「もう一度言う、どうしたら信じる」

 視線が、正面からぶつかる。
 大河はどこか諦めたように、投げやりにそれを言った。

「じゃあ、キスして」

 多分その時、俺の心臓はとんでもない速度で鼓動していて。
 おそらくはこいつ――大河、逢坂大河の性で、俺の寿命は相当に縮んでいて。
 その責任を少しは持ってもらおうじゃないかと、馬鹿みたいなことを考えていたと思う。


=======================================


 世界が一瞬にして変わった。

 誰にも求められず、愛されず、傍らに人は居ない、孤独な孤独な手乗りタイガー。
 誰の手にも乗れやしないのに。何かを追い求める一方で、ずっとそんな風に諦めていた。
 だってそれが生きるってことでしょう?辛くて辛くて堪らなくて、けどその愚痴さえ零す場所はない。

 けど、そうか、それは違ったみたい。
 世界は変わるんだ。
 私がいつまでも独りだって、そんなのだって、変わっていくことの一つでしかない。
 
「これで、信じるんだな?」

「…うそ」

 目の前には、見たこと無い程顔を赤くする竜児が居て。
 大きくて、ガサガサした肌の、見慣れた大きな手は、それぞれ私の肩を掴んでいるのだ。
 思いつきのように呟いた言葉に、竜児は何を思ったのか、早口でまくし立てる。
 当然だけど、全く私の頭には入らないのだ。
 
「――これでお前が納得するかどうかは俺にはわからねえし、はっきり言って興味がない。
 俺がお前が好きという根拠は、いつもお前のことを考えてるからだ」

「竜児は、私がすき、なの?」

 どうにかようやく、なんとかして言葉を搾り出す。

「ああそうだ」

 竜児がさっきからずっとぶっきらぼうなのは、

「ほんとに?」

 きっと恥ずかしいからで、

「何回信じろといえば済むんだ」

 それはつまりやっぱり、

「夢じゃない?」

 竜児が私のことを好きというのは、

「頬をつねれば答えは出る」

 そう、紛れも無い現実で、

「…いたい」

 おそらくは今、私の望んだものが、もう手が届くところにあって、

「そういうことだ」

 竜児は多分、今必死に私に手を伸ばしている――。

「…お前はどうなんだ」

 相変わらず頬を染めたまま、竜児は少しだけ躊躇いがちに言った。

「…レディーに、言わせないでよ」

 半歩だけ踏み出して、竜児の胸に顔を埋める。
 恐る恐る、抱きついてみる。
 竜児の心臓と、私の心臓がどっちもどくどくと音がするのを感じた。

「そういうことを言うと、俺の好きに解釈するぞ」

「竜児なら、構わないわよ」

 だって私は、あなたが好きなのだから。



「…やっと笑ったな。俺、お前が笑ってる顔、結構好きだぞ」

「へへっ」

 濡れた頬を伝って、涙がするりと零れていく。
 悲しい成分が全部溶けて、涙を通して抜けていって。
 悲しい気持ちの分が全て、嬉しい気持ちにとって変わっていった。 


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 意味もなく広い部屋の、殆ど使われない、それこそやはり意味もなく大きなソファー。

 こんなに広いのにそんなにくっついたって、何の意味もない。
 それはそうかもしれない。全ての人から二人引いたくらいの人数が、そう思うかもしれない。

 それでも引かれた二人――虎と竜には、こんなに広い部屋の、分不相応な大きさのソファーで、
 まるでそこが六畳一間かのようのにくっついてるのは、それはとても大きな意味があって。
 少しだけ早足の世界で、竜児と大河は、その存在を確かめるためにただただ、身を寄せる。

 これから二人を待ち受ける出来事なんて、誰にも知ることは出来ない、けれど――

 もしも今の二人を見ることが叶えば、どんな出来事も、なんとかなっていくのだろう、そういう風に思える「何か」がきっとここにはあるのだろう。

 多分僕らは、それを信じて、望んで、願っているのだろう。

 ――おわり。



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