「なぁ〜、頼むよ、みらのちゃん!」
「うぅ〜ん、竜ちゃんそういうの嫌がると思うなぁ…。」
「この通り、お願い!!」
毘沙門天国以来の常連客。その頼みとなると、泰子にとっても断り辛い頼みである。
普段はおっとりポケポケしていても、雇われとは言え一国一城の主。その辺は心得ている。
「んん〜、聞いてみるだけは聞いてみるけどぉ…あんまり期待しないでねぇ。」
「ありがとぉ!みらのちゃん!!」
「だからぁ、貰えるかどうか解らないよぉ?」
「…って訳なのぉ。お願い、竜ちゃん!」
ただ、親としては息子にだだ甘えして丸投げする駄目な母親だった。
「じゃ、行って来るから。あ、帰り遅くなるなら連絡しろよ?飯、冷蔵庫に入れとくから。」
「あぁ〜ん、華麗にスルーしないでぇ☆」
やはり大河のようにまるで無視、というのは人のいい竜児には出来なかった。
なんと言っても竜児本人が自認するマザコンである。泰子の困った顔を見せられれば、無下にも出来ない。
「お願〜い、川嶋安奈のサイン貰って来てぇ♪」
「……」
つまり、川嶋亜美に頼んでくれと言っているのだ。
当然―――絶対、嫌だった。
なんせ、あの川嶋亜美だ。友愛の象徴のような仮面の下に、魔性を持つ事を竜児は知っている。
真剣に頼めばからかわれ、下手に出れば笠に掛かって無茶な要求をされるのは目に見えている。
口で勝てる相手でもない。
憂鬱、だ。結局断れない自分がいるのが解っているから。
「と、言う訳で頼む川嶋。サインくれ。」
取り敢えず、泰子と同じ切り出しをしてみた。
タッタッタッタッタッタッタ……ドガッ!!!!!!!!!!!!
「ッ!!!」
後方からとんでもない勢いをつけた飛び蹴りを食らって、声もなく竜児は床に突っ伏した。
確認するまでもない。この強烈な一撃は、虎の咆哮だ。
「いつからばかちーの色香に騙される様になった、エロ犬。」
「ありゃー、まあ無理もないんじゃない?亜美ちゃんの美貌って、魔性?世の男共を狂わす、みたいな?」
長い髪をふぁ…とかきあげ、亜美は勝ち誇ったような表情で大河を見る。
「むしろ遅いぐらい?やっと気づいた、って感じかなぁ〜。ようやく高須君の目も見た目以外は正常になったって事ね。」
「ばかちーはやっぱりばかちーね。竜児は気が変になってるだけよ。」
よろよろと立ち上がる竜児。その姿にはダメージがありありだ。肉体的にも精神的にも効いていそうだ。
そんな所に突きつけられる二択。不敵な笑みを浮かべる亜美か、仁王立ちの大河か。
いやいや待て待て、そんな話じゃないんだ。そう言い訳したいのだが、竜児はどう説明すればいいのか悩んだ。そして
「大河、ちょっと待ってくれ。こんな事を頼むとしたら川嶋以外考えられないんだよ、俺には。」
他につてもないし、という意味で言ったのだが。ついでに言えば、欲しいのは『川嶋安奈』のサインなのだが。
だが、しかし―――。
大河には『サインを貰いたいと思うような人間は亜美以外考えられない』と聞こえたのだ。
つまり、亜美が特別なのだと。そう、聞こえてしまったのだ。
「りゅ、竜児…あ、あ、あ、あ、アンタ…白昼堂々人前で、ましてやこの私の前で……いい度胸だわ!!!」
「へ?お、おま…絶対なんか勘違いしてるだろ?」
「…うるさい…言い訳はいいわ……。」
「ま、待て!落ち着け!話せば…」
わかる、と言いかけた竜児の言葉は、大河の前に尻すぼみに消えてしまう。
栗色の長い髪は天を衝かんばかりに逆立っている―――様に見えるほど、大河の怒りはMAXに達していた。
まさしく怒髪天を衝く、というヤツだ。
しかも悪い事に、その目尻は赤く潤み、今にも大粒の涙が零れ落ちんとしている。
やばい、これは本気でやばい。泣く寸前だ!てか泣く!大河に先に事情を説明しておくべきだったか?
いや、今からでも遅くない!いやいや、今の大河が聞く耳を持っているのか?そもそも何でこんな事にetc、etc…。
色々思考が駆け巡るが、焦りと痛みと混乱で上手くまとまらない。
と、背後に立つ影が一つ。櫛枝実乃梨その人だった。一瞬、天の助けかと竜児は思ったが、そうは行かず。
「高須君、言ったはずだよ〜。大河を泣かせたら…ね♪」
にっこりと微笑む実乃梨。でも、笑ってない。はっきりと解る。或いは大河よりも恐ろしいかもしれない。捕食者、肉食獣、野生。
そう、実乃梨は、いや実乃梨も怒っていた。勘違いしていた。
「さあ、君はあ〜みんと大河、どっちを選ぶんだいっ!」
「えぇ!?何でそんな話に?!」
それに追い討ちをかけるのが、弱った獲物が大好物、チワワの仮面をかぶったハイエナ、女王川嶋亜美だ。
「んふふ…高須くぅん、サインだけでいいのぉ?頼み方次第ではもっとさ・あ・び・すしてあげない事もないかもよぉ?」
扇情的な表情で、格好の獲物を見つけたと言わんばかりの亜美。
当然、どうせ誰かに頼まれたのだろう事位は亜美には想像に難くない所だが。
ギュン……ドカッ!!
「ぐぁっ!!」
亜美の顔面すれすれを通り過ぎていったものが筆箱(近くにあった能登の)だったと気づいたのは、
後方にいた春田の轢かれた蛙のような声が聞こえてからであった。
「お、おい春田!しっかりしろぉ〜!」
「うう、能登っちの筆箱にやられた…がくっ。」
「ななな…なんて事しやがる!!殺す気か、チビ虎っ!!」
「うっさい……黙れ、ばかちー。それ以上喋ったら竜児の前にアンタ殺す。」
「うわっ!!こ、こいつ目がいっちゃってるんですけど!?た、高須君、責任とって沈めなさいよ?」
「ば、馬鹿!お前が煽るから…。た、大河!頼む、落ち着け、違うんだ!」
落ち着け、と言われて落ち着く相手かどうか。
そう問われれば間違いなく100人中100人が『NO』と答えるだろう。
『手乗りタイガー』と言われる彼女では。
「竜児…竜児はばかちーがいいんでしょ…脂肪たっぷりの乳が好きなんでしょ?」
「脂肪たっぷり言うな!!」
「でも、そんなの許さない。今更そんなの許さない。絶対許さなぁぁぁぁぁいっ!!」
「ちちち…違う!!断じて違う!!俺が欲しかったのは、川嶋のお袋さんのサインなんだよっ!!」
「何よっ!!どうせばかちーのお母さんは……お母さん??」
虎の牙が寸での所で止まる。
はぁっ、はぁっ、と息を荒くして、竜児はかろうじて一命を取り留めた、などと大袈裟にも本気で思っていた。
「ちょいと高須クン。どういう事だね?」
実乃梨が取り成す様に事情を問いただす。竜児は制服についた埃を払いながら、説明を始めた。
「あ、ああ。だから―――。」
結局泰子の頼みという事を一から話し、亜美には「ま、貸しにしといてあげるわ。20個程ね。」などと言われながらも了承を得た。
亜美の割にはあっさりOKを貰えたが、大河のキれ方に、多少罪悪感を感じたようだ。
一方のその大河は。
「……。」
「な、なぁ…そろそろ機嫌直せよ。」
「ふん。」
憮然、であった。一日中そんな調子で。
クラスでは「久々にタイガー様の降臨じゃ〜」などと、流れ弾に当たった春田が囁いていたが、皆噛み付かれないようにしていた。
実乃梨でさえ「今日のタイガーは手に負えんです」などと言っていた位だ。
「いや、俺も渋々だったんだよ。泰子がどうしてもって言うから…」
ギロッ!!
「う…。」
いつもはあれやこれやと賑やかな帰り道を、今日は二人とも押し黙ったまま歩いていく。
竜児は大河の顔をちらりと覗き見たりするが、その表情は前髪に隠れてはっきりとは見えない。
そうこうしている内に、タイムリミットは刻一刻と迫っていた。
以前のように竜児の家に入り浸っていたのなら、時間はまだまだあるのだが、生憎別れ道はもうすぐそこ。
竜児が何も切り出せないでいると、ようやく大河が口をきいた。
「竜児が…」
竜児が悪いのよ。鈍犬。最初から説明しないから。
どんな事を言われるのかと身構えていたが。
「竜児が、盗られちゃうって思ったんだもん…。」
小さな背中が、より一層小さく見えた。
そうだ。こいつは意地っ張りで凶暴で負けず嫌いで―――そして、誰よりも独りぼっちを味わってきたんだ。
そう思ったら、竜児は自分でも気づかないうちに大河の手を取っていた。
「…ごめん。」
泣いているのか。その手はかすかに震えていた。
「どこにも、行かないでよ…。」
「ああ。」
その震えを抑えるように、大河の手を掴む手に力を込めて。
「ずっと、一緒にいてよ…。」
「ああ。」
更に力を込めて。
「ずっと、一緒だ。」
そして、大河の手も力強く、握り返して。お互いがお互いを確かめて。
別れ道に辿り着いても、しばらくそのままでいた。交わった二人の影が、一伸び、また一伸びと長くなっていく。
竜児にとって、一番のお願い。それを、一生をかけて守ろうと。
改めて、心に誓って。
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