高須竜児が目を覚ましたのは、まだ部屋が暗い時間だった。耳を澄ませてみるが、町は夜の底にあるようだ。ほんの少し首を回して時計を見る。午前4時。

軽く深呼吸する。部屋の空気に触れている顔は少しひんやりしているが、布団の中は暖かい。左隣に妻の体温を感じる。いつものように自分より少し高めの体温に安心して、もう一度深呼吸。まだ十分な睡眠をとっていない体は再びの眠りへとゆっくり沈んでいく。

だが、

『…北村君…』

妻が呟いた言葉に、いきなり頬を張り飛ばされたように目が覚めた。


◇ ◇ ◇ ◇


高校時代に知り合った妻の大河とは、大学卒業後仕事についてようやく結婚することができた。プロポーズから長い月日を経て迎えた結婚生活は、つきあいが長かったにもかかわらずいくつもの驚きに彩られていた。

二人は知り合って最初の一年間、事情があって半同棲生活を営んでおり、竜児は大河の生活に関して相当知っているつもりだった。なにしろ生活能力皆無の大河を半ば引き取ってしまった竜児は、掃除、洗濯、ご飯の用意、後片付け、栄養状態の管理まで行っていたのだ。
手出ししなかったのは睡眠、入浴とトイレ、あと下着の洗濯くらいで、もしそれに手を出していたら完全に同棲だった。

しかし当時二人にはそれぞれ片思いの相手がいたし、何しろその頃の大河は学校で「手乗りタイガー」などというニックネームをもらうほど凶暴だったから、竜児は大河に手を出すなど想像したこともなかった。

それが急転直下、たった一年で二人は婚約に至るのだが、それでも実直きわまりない竜児は高校時代キスまでしか手を出さず、大学に進学してそれなりに深い仲になったものの、とうとう二人で朝を迎えることがなかった。
そんな竜児に大河は幾分あきれ気味だったが、そういった堅さまで含めて竜児のことが好きだったのだから、大河がぐずるということもなかった。

だから、本当に朝まで同じベッドで過ごしたのは新婚初夜がはじめてだったのだ。そして、結婚して竜児をおそった驚きの一つは、人々が深い眠りについた後にやってきた。

最初に気づいたのは新婚旅行から帰ってきて二週間ほど経ってからのことだ。夜中眼をさました竜児は布団の中で首をかしげた。普段体調管理を万全に行っている彼には、夜中目を覚ますなど滅多にないことだった。

部屋の気配を探ってみるが特に不審なこともなく、もう一度寝ようとした竜児は、隣で妻の大河が呟いた言葉に思わず笑い出しそうになった。

『私ハンバーグ』


◇ ◇ ◇ ◇


それから何度も、竜児は夜中に起きて妻の寝言を聞くことになった。大河は恐ろしく寝言が多い女だったのだ。たまに、布団を派手に引っぺがされて寒さに驚いて起きることもあったが、ほとんどの場合、目が覚めてしばらくすると寝言を聞かされた。
おそらく直前に寝言を聞いて目が覚めていたのだろう。

たった一言聞いて終わることもあれば、延々と断片的な話を聞かされることもあった。そして、それは竜児にとって苦々しい事態となった。睡眠不足になるほど長い寝言は滅多になかったが、かなりの確率でどんな夢を見ているのかはっきりわかったのだ。
言い換えれば、高須大河は夢の中でプライバシーをだだ漏れにしていた。

竜児は堅い男である。結婚しているからプライバシーはいらないなどとは考えない。親しき仲にも礼儀あり。慎ましく、きちんとした生活にこそ、魂の安らぎがあると考えている。その竜児の上に、大河はバケツをひっくり返すように自分の小さな脳みその中身をぶちまけてきた。

夢の内容はその時々によって違っていた。

全くとりとめのない冒険話を聞かされることもあれば、食べ物の話のこともあった。一番好きな食べ物はとんかつで、二番目はカレーライスだと言うこともわかった。大河は何を食べたいか聞くと、いつも頭の中が肉でパンクしてはっきりしない答えになるのだが、
寝言の数から統計的にとんかつが一番好きだと言うことがはっきりした。これはまあ予想通り。そして意外にもカレーライスが二位だったわけだが、きっと竜児特製のスパイスのおかげだろう。
普段食べたいと聞かなかったから、やや後ろめたさがあるとは言え、自分のスパイスが認められたのはうれしいかった。

大河の夢は、最近の自分たちの話題はあまりなくて、それよりも少し先の話や親戚、友達の話が多かった。夏休みがとれたらどこそこに行こうとか、おじいちゃん元気かなとか、子供何人ほしい?などという話も何度も聞かされた。それから、昔の話をなぞる寝言も良く聞いた。
一番多いのは、二人が知り合った高校二年生の時の話。それ以降の話は、竜児と一緒の時の話だったり、あるいは竜児が知らない友達の話であることもあった。
どの話も、夢らしくとりとめのない情景が断片的につながっていて、しかも多くの場合突拍子のない方向へと物語は進むようだった。

竜児が一番聞きたくなくて、だけど聞かずにはいられない、二人が知り合う前の話もあった。切れ切れの寝言はだんだんと悲しそうな声色に染められていき、終いには夢の中で泣き出した大河をたまらずに起こしたこともある。
闇の中で「何?」と涙声で問う妻に、「お前、泣いてたぞ。嫌な夢見たのか?」と聞き返した。夢の内容を聞いたなどとは口が裂けても言えなかった。

寝言を聞いているとは、とても言えなかった。そんなことを言ったら、夫婦とは言え気まずくなるだろうし、何より大河が竜児と寝ることに不安を覚えるかもしれない、そう考えただけで竜児は暗い気持ちになった。
つらい少女時代を送った大河を幸せにしてやるというのが竜児の目標であり、大河に自分と寝ることを不安に思わせるなど論外だった。夢のことは竜児が口をつぐんで墓場に持って行けば済むことだ。


◇ ◇ ◇ ◇


『北村君…どうして?』

夢の中で妻は高校二年生の頃をなぞっているようだった。竜児の友達である北村祐作、大河の友達である櫛枝実乃梨。互いの想い人との仲を共同で取り持とうとしていたあの頃。やがて竜児は大河のことを誰よりも大切に思うようになり、
大河も同じように竜児を大切に思うようになった。

ベッドに入るときにはいつも竜児の腕にしがみついて寝る大河だが、今は猫のように丸くなって、つらい夢の中、誰の助けも得られずに孤独に耐えているようだった。学校で手乗りタイガーと恐れられながら、誰も寄せ付けず、
好きな男に声もかけられずに独りで泣いていたあのころの夢をさまよっているのだろうか。

大河は今でも北村のことが好きなのだろうか。それは友達としてだろうか、それとも昔抱いたような恋心を今でも思い起こすことがあるのだろうか。あるいは、夢とは知らずあの頃のつらい片思いにもう一度胸を痛めているのだろうか。

横で竜児は目を見開いたまま、見えない天井を凝視している。優しく起こしてやり、どうした、怖い夢でも見たのかと抱きしめてやればいいのか。何も言わずにそっとしてやればいいのか。今胸が痛むのは、妻を助けてやれないからか、それとも嫉妬なのか。


◇ ◇ ◇ ◇


結論のでない逡巡は、妻が漏らす弱々しい寝言とともに続く。心の中に手を差し入れることはできない。昔のことを思い出すなと言うこともできない。思い出していい。ただ、楽しかった思い出として思い出してほしい。
そして願わくば、「竜児を一番愛している」と夢の中でも言ってほしい。

涙声混じりの寝言に心を揺さぶられながら、何年たっても無力な自分に苦い思いをかみしめる。

『…竜児、助けてよ…』
「おう」

寝言に、思わず応える。いつもそうだった。唐突に助けを求めてくる大河に何度手をさしのべたことか。

未だ夢をさまよっているのか、それとも竜児が漏らした声に起きたか、大河が身じろぎしてしがみついてくる。寝たふりをする竜児の横で、再び規則的な寝息を立て始める。

腕に絡みついてきた体温に、われ知らず安堵のため息を漏らす。つかの間迷路をさまよった竜児の意識も、もう一度眠りへと落ちていく。

(おしまい)



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