『Sweet Child O' Mine』


某月某日、大河家(新)の居間にて。高須竜児は未知との遭遇を果たした。
世間一般に言う嬰児・乳児・赤ん坊。婚約者の少女、逢坂大河の弟である。

「あ、あーあ」
「おう。なんだ?」
「あぶぅ、う」
「うんうん。ん?」
「あうわう」
「おう、そうかそうか。」

「…………キモイ」

「何ッ!?」
振り向いた拍子に、吊り上がった三白眼から凶悪な光がほとばしる。腕の中の赤ん坊をひと息に呑んでやろうというわけではない。単に驚いているのだ。
竜児の肩にぺったりもたれていた美少女は、その恐ろしく整った顔を台無しにして大あくびし、伸びをし、ついでに彼に向かって掌を突き出した。

「そろそろ返して。弟が汚染されちゃう」
「な……、なんてことを言うんだお前は!」
伸ばされた手を避けるように赤ん坊を懐へ抱えこむ。繰り返すが、骨まで砕いて長寿の薬にしようとしているのではない。初対面の義弟が心底愛おしいのだ。
「ちょっと昼寝したいから見ててくれって言ったのは大河、お前だろ!」
「だってあんたってば、横で聞いてりゃ一時間も抱っこしっぱなしでおうおうおうおうって! 弟の最初の言葉が「おう」になったらどう責任取ってくれんのよこのオットセイオウム犬!」
「結局どれなんだよ!?……え、犬?ほっとけ!
 だいたいなぁ、一時間かそこらで口調がうつるわけねえだろっ。」
まあ今後はわからねえけど、と竜児が続ける。もう抱かせないわおぞましい、と大河がやり返す。これを毎回ソファーでぴったり寄り添ってやるので始末に終えない(大河母のちに語る)。

お前はどっちの味方だ?ん?などと赤ん坊のあんよをくすぐれば、彼は年長者の小競り合いにも全く動じていない様子で、きゃらきゃらと愛らしい笑みを振りまいた。
途端にフニャフニャと表情を和らげる二人。
しばし夢中でであやしていると、赤子は不意にそのモミジのような手を伸ばして竜児の前髪(ふんわりバングス仕様)をむんずと掴んだ。
どんなに力任せに引っ張られようと、竜児は笑みを崩さない。
「ほーらみろ、俺のことが好きなんだ。」
ククッと喉を鳴らすさまは、無礼を働いた仔羊を祭壇へ捧げんとする悪魔神官そのもの。しかしてその心はというと、溢れんばかりの父性愛に満ち満ちている。


竜児は嬉しかったのだ。

母ひとり子ひとりのワケあり家庭で育った竜児には、年下をあやした経験がない。つい最近まで帰省先も無かったため、親戚の子供の存在すら知らない。彼の面倒見の良さはひとえに、母・泰子との共依存すれすれの関係から作り上げられたものだ。

そういうわけで竜児が今まで出会ったのは、彼の穏やかな性格を知らず、その強烈な御面相の前に寄ると触ると泣き出す子供ばかり。不器用なりに優しさをアピールしても、身体から滲み出る善人オーラも、父親譲りのキング・オブ・チンピラEYEの前では全てが無力だった。
忘れもしない、あれは中学の職業体験だ。教師のミスで一日だけ幼稚園へ行かされた時のトラウマを、竜児は今でも夢に見る。
自分が鬼役の地獄絵図。ついたあだ名はフロム・ヘル。

だから竜児は知らなかったのだ。物心つく前の赤ん坊なら、彼の顔を怖がらないということを。むしろ好意を敏感に感じ取って、それを素直に返してくれることもあることを。指でつつくと握り返してくる小さな手の温もりを。

竜児はとてもとても嬉しかったのだ。
大河の仮眠中に、こっそり涙ぐんでしまうくらいには。

「──欲しいよなあ。子供。」
思わずポロッと零れた言葉に、大河がぴくりと肩を震わせる。
「……弟はあげないわよ。このロリペド誘拐犯。」
わかっていて敢えての暴言だろう。俯いた頬が赤い。
「馬鹿、この子のことじゃねえよ。」
──俺たちの、だよ。
囁き声は彼女の耳にだけ静かに届く。
思いがけず大胆な発言に、ぱっと顔を上げる大河。その顎を竜児の家事で荒れた掌が優しく包み、
「なあ、たいフガッ。」

一瞬の沈黙ののち。

「きゃーっはっはっはっ!」
ずっぽりと。
赤ん坊の指は見事に二本ずつ、竜児の鼻の穴に突き刺さっていた。
大河はソファーからずり落ちそうな角度で、そっくり返って爆笑。「にゃはははっあ痛!」ずり落ちた。
「……………………。」
竜児は顎を引いてすぽん、と指を外すと、ウェットティッシュを取り出して、自分の鼻の分泌物がべっとりついたおててを丁寧に拭ってやる。
「……“まだ姉ちゃんはわたせない”ってか。」
瞳孔の開いた瞳がギラギラゆらめき、立ちふさがる者すべてを引き裂く覚悟を思わせる。というわけではなく、ちょっぴり傷ついているのだ。


──上等だぜ。必ずしっかりした食い扶持を見つけて、お前まで養えるくらい稼いでやるからな。
進学、就職、ひいては勤労意欲をも静かに燃やす竜児をよそに、ようやく笑いやんだ大河はその手から弟を抱き上げた。
「はーいヨチヨチ、きちゃなかったねー。おててのバイキンはとれたかな?
 ほんとにこの凶眼マヌケ犬お兄ちゃんはしょうもないわねー。」
「おう……」
竜児に5の追加ダメージ。
「でもね、こんな間が抜けたとこがあるから、お姉ちゃんの所に来てくれたのよ。」
「大河?」
「……竜児が今よりもっと完璧な人間だったら、きっと、私の手なんて握ってないかもね。」
あの大胆発言に何か思うところがあったのだろうか。きゅっと弟を抱きしめる横顔には、さっきまで爆笑していた面影もなく、流れ落ちる髪に隠されて。
──そういやこいつも、いろんな傷を乗り越え、ねじ伏せ、無理やり飲み込んで、ここまで来たんだよなぁ。
こみ上げる切なさに、竜児はそっと横髪を掬って耳にかけてやった。
「……つまらねえ仮定の話なんかするなよ。俺はこの通り完璧とは程遠い人間だし、ドジじゃないお前だって想像がつかねえや。」
それに、どんな容姿で、どんな世界で出会おうと、きっと俺たちは恋に落ちる──そう続けようとして口をつぐむ。
今口にするには、自分たちはあまりに幼いような気がしたのだ。

「──ただいま。二人ともいい子にしてた?
 あら、高須くんが来てるのね。」
玄関から開錠の音と女性の声がして、大河がさっと立ち上がって迎えにいく。
「お帰りなさいママ。うん、竜児が面倒見てくれたから……」
それは「二人とも」にかかってるのか大河よ。内心突っ込みながら、恋人の後を追って玄関へ向かう。
まだ少しぎこちない挨拶を交わし、夕飯の誘いを固辞。暇を告げると、大河は一瞬だけ寂しげに目を伏せたが、笑顔で竜児の手を握ってすぐに離した。


夕暮れの大橋をのんびりと歩く。
信号待ちの間にどこからか夕餉の匂いがして、竜児はふと“家庭”というものに思いを馳せた。
実家を飛び出し、独りで自分を産み育てた泰子のこと。両親の不仲のとばっちりで、堅くて脆い鎧を何重にも纏った大河のこと。
さっきまで抱いていた、赤ん坊のずっしりとした重み。
その先にぼんやり浮かぶのは、いつか会えるであろう小さな命と、それを囲む人々みんなの幸せそうな笑顔。

──大丈夫、その日はきっと来る。俺と大河で叶えてみせる。

信号が青に変わる。
ぶるっとひとつ武者震いして、竜児はそう遠くない未来へ向かってゆっくりと足を踏み出した。



 (おわり)




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