2月11日(月)

 帰宅ラッシュ前の電車で逢坂大河は座っていた。寒がりではあったけど車内は暖かく、コー
トは着たままマフラーだけを外し膝の上でもてあそぶ。夕日が台地の端に隠れるまではまだ少
しあり、それまでは頭越しの窓から差し込む光が床をくっきりと照らすだろう。
 マフラーは年明けにカタログギフトで買ったもの。いつまでも竜児のマフラーに頼るわけに
いかないと思っていたし、年が明けての風はいっそう冷たく、身を暖めねばならなかったから。

 カタログは去年の秋も深まった頃に父親が贈り付けてきた。

 どうせなら合うと思うものを選んでくれればいいのにと思い、でも好きなものを選べという
のも気遣いだと思う。いずれにせよ、あれはこれでお詫びを済ませたつもりでいるはずだ。
 色は彼が着けていたものと同じ印象のピンクを選んだ。ウールは肌に合わないので一昨年の
クリスマスプレゼントにもらった純白のコートと同じアンゴラにした。憎んでも憎み足りない
からカタログをほっといたのだし、すがりたいから買っただけのこと。

 高架に差しかかった電車の中で、つかみあげたマフラーに鼻先を突っ込む。当たり前だが自
分の匂いしか付いてはいない。都内のホテルで一週間。自分と父を棄てて出て行った母に囚わ
れていた。今日、やっと解放され帰宅するところだった。

 その、囚われの一週間で、修学旅行にも持って行ったこのマフラーの意味が大河にとっては
大きく変わっていた。

 もう愛憎の代用ではなく自分が何者なのかを主張するための装いとなった。たとえどんな目
に遭わされていようと、価値を持たない棄て子だと認めるつもりは、諦めるつもりはもうなか
った。そうでなければ顔向けできないと思うほど大切な人が自分にはいるのだから。

 みのりん。

 北村くん。

 ばかちー。


 ――竜児。


 電車が大きく金属の音を響かせて鉄橋を越えていることを知らせる。手にしたマフラーを巻
きつけ、停まるまで待たずに足元の荷物を持って立つ。決意の瞳で、見慣れた景色が車窓を流
れて行くのを眺める。次が、大橋。ここが大河のホームタウン。

 改札を抜けて、階段を降りる。半年前にこの駅舎を出た時の大河は耐えがたい孤独を感じて
いた。春から夏、幸運にも膨らんでいった思いは、まるで世界の決めごとがあらかじめ決まっ
ていたように奪われていくと感じた。何度も何度もそうだったように、また。
 悔しい。
 いつそう思い始めたのだろう?背中に受けようと胸に受けようと傷は傷。どうしたって生き
てる限り受けるのなら、それなら前を向いて胸に受ければ望みがかなうかも知れない。かなえ
ば報われるのかも知れない。

 荷物を小脇にかかえて走り出した。人の多い駅前を華麗とは言えないサイドステップで走り
抜けて、足を止めさせようと点滅する信号を認めると、ガードレールの支柱にばんと手をつい
て跳び越える。そのままショートカットで駆け抜けていく。

 ――りゅうじ

 厳しい寒気に白い息が弾んで、マフラーが解けかけてくる。
 これは逢坂の娘だと主張するもの。自らを鼓舞するための大事なものだから、落とすわけに
はいかない。走りながら巻き直してぎゅっと結んだ。大通りから住宅街に入れば人通りが減っ
て、走る速度がいちだんと上がる。
 棄てられずに持ち続けた思いのたけが迸りだす。


 どうでもいいことばかり喋り続けてきた
 言わなきゃいけないことだけが分かんなかったから
 だから言わなくちゃ

 今日か明日か、もっと先になっちゃうかもしれないけど
 びくびくしながらでも、どうしても言わなくちゃ
 『あんたがほしい』って

 気持ち、受け入れて……
 受け入れてよ!
 あと何日かで行ってしまうんだ わたし


 言われるまでもなくめちゃくちゃなはんぱものよ
 だけどつまづいて、転んで
 少しずつ生き方を覚えていく

 言ったら……続けて言って
 わたしたち、兄妹じゃないんだよ

 わたしを受け止めて……
 受け止めてよ!
 あと少ししかここに居られない


 逢いたい。逢いたいよ。逢ったら言いたい。時間がもうないの。このままで離れて行くわけ
にいかないんだ。腿があがらない、荷物が重い、喉が苦しい、暑い。熱い。はあっ、はあっ、
はあ、はあ、はあ。すれ違った主婦が買い物袋を提げた手を上げてなにか訊ねかけようとする。
大丈夫……のそぶりで応えやり過ごす。だんだん速度が落ちて。
 ヨレヨレになりながらようやくたどり着いた。
 一週間も離れていた。

 日没前。自宅マンションの南側にある児童公園に足を踏み入れた。外周部の一段高くなった
テラスにパーゴラふうの場所がある。木製のベンチに腰を下ろして息を整えた。熱すぎて外す
わけにいかないマフラーを外してしまったけど仕方ない。

 はあ……はあ……はあ……はあ……はあ。肩で息をし口も利けぬままマンション東側の路地
を見るとそこにいた!遠いけど見間違えるわけがない。エコバックを提げ鞄を肩掛けにした学
ランの男の子。公園の方には気づかずマンションの2階を見上げて佇んでいた。

 ――りゅう、じ。

 息が整うまでは、まだ。
 竜児は高須家へと帰る外階段を登って行った。


 修学旅行の雪山で怪我をした娘を実の母親が迎えに来て、都内のホテルで大河の言う『囚わ
れの一週間』を過ごした。そこで自分の身の上が大きく変わる事を伝えられた。

 父親が事業に失敗し、夜逃げして行方は知れない。
 大河が暮らすマンションは今月中に引き渡さねばならない。
 この街で転居して暮らすのは認めない。無責任な父親が触れる所には置けないから。
 つまりこのまま退学、引っ越し、編入転校、というのが母の書いたシナリオだった。

 理屈ではそれしかなくても、初めは感情が認めなかった。
 大河にとってはすべてが途中だった。初めて自分の足で立ち、他者との絆を育もうとした矢
先のことだったから。自分の思いも、大切な人の恋も、恋した相手や反発していた相手と結べ
た友情も。すべて。だから母のシナリオを一応でも呑みこむのに一週間もかかったのだ。

 結局は受け入れざるを得なかった大河にも絶対に同意しなかったことはある。逢坂家から母
の家庭に籍を移すことは断固として拒否した。だって棄てたやつに再度拾われるなんて到底認
められない。自分は身を切られる思いで父を選んだのだから、十四や十五の娘の言う事であっ
ても決断は決断だ、と。これは母が大河の主張を受け入れた。

 もうひとつは、このまま引っ越すのはあまりに急すぎるから一度戻ることだった。

 当初、大河は「大切なものを回収するため」という言い方をしたから、母はモノのことと思
って認めなかった。一切合財を業者に運んでもらえば済む事だからだ。
 それで仕方なくこれまでの交友関係を母に話した。母にしても結婚生活にしくじって離婚→
再婚を選んだ女だったから、大河が友人のことと曖昧にぼかして話す中に恋情が含まれている
ことにはすぐに気がついた。

 それがどの程度のものか。母として把握しておかねばならなかったから、誘導尋問のように
してあらかたを訊き出す事には成功した。そして半ば『飼われていた』ようにも聞こえる大河
の境遇に、彼女はいたくプライドを傷つけられてしまったのだ。

 それでも、世間体のこととしてなじりはしても、愛するものを自分の知らぬところで損なわ
れた感情に基づいていた事は確かだった。要するにこう言ったのだ、嫁入り前の娘をキズモノ
にするなんて、と。そのため、この点において母娘の合意をみることはなく、最終的には黙認
というかたちをとって大河は戻って来た。
 「二月一週で」と無理やり切られた期限に大河は返答もしなかった。今日がすでに11日で
ある段階で「一週め」もないものだが、これはこの母娘独特の言い回しであって、簡単に翻訳
すると「二週を越えるのは許さない」と言っているのだ。
 まったく意地の張り方がよく似ていた。


 ……ママには裏切られたと思ってる。けど嫌悪感も一時よりは少なくなった。やっぱり自分
を10年以上見てた人だからこうして手を差し伸べてくれるのは間違いないんだし。こうして
納得しようと頑張れば、まあなんとかはなる。

 それでもここから離れたくはない……。
 公園のベンチで俯いてしまう。息は戻ったのに大河は動けなかった。突き動かされ、走る事
であふれそうに増幅された思いはどこに行ってしまったのだろう?

 ああ、半年。せめて3カ月でいいからこのまま居られたら。
 そのくらいなら生活費の残りでなんとかなる。マンションを退去させられたらりゅうじのと
こに転がり込んで。
 ……それが過ぎたらどうするの?
 学校に知れたらどうなる?知れるよね。
 学校を辞めてバイトしてりゅうじのうちに寄生するの?

 めちゃくちゃにも程がある。と、さすがに思う。

 どうしようもなく子供でしかないんだ、私。どうしたってママに頼らなくては生きていけな
いんだ。今までだってパパに頼っていて、りゅうじとやっちゃんに頼っていて、……生かされ
てきたんだ。
 その前はみのりんにも。
 ……だから。分不相応な願いを持ってはだめ……なの?

 両手を伸ばして膝についていないと突っ伏してしまいそうになりながらも、肩を上下させて
力を込める。夕方の公園は家路につく人が時おり近道として通っていても、わざわざテラスに
上がってくる者はいない。倒れそうな小柄の少女に気がついて手を差し伸べる者は、いない。
 悔しい。と思う。
 でも、ここには現れなくても、今の大河にはいるのだ。今はたった数人ではあるけれど、こ
の世界に大河がいると知って、見ている者が。

 ――別れを。ちゃんと告げないと……

 ぎりぎり涙こそ零れないけど、俯いた瞳を光らせる。

 北村くん。憧れて恋して、それが破れたあと友だちになってくれてありがとう。友だちにな
れるようにずっと変わらずに見ていてくれてほんとにありがとう。
 ばかちー。ムカついたこともあったけど、正反対なやつだけど、いろいろ気を使ってくれて
ありがとう。あんたと友だちになれるなら苦手な相手なんかいないって思えるよ。

 ふたりと友人になれた事で、自分はどれだけ世界が許せるようになったことか。自分を分か
ってくれる人がいると信じられるようになったことか。
 そう思うとわずかではあっても自信が生まれて、少しはちっぽけでない価値を持ってると自
惚れることもできそうに思う。
 ありがとう。
 零れそうだった涙がその思いに止められて、少し顔を上げられるようになる。

 みのりん……。修学旅行ではっきりしちゃった。やっぱりりゅうじのこと好きなんだよね?
 やっぱり私に譲ろうって思ってるんだよね。
 ……今なら私、みのりんと恋敵にもなれる。みのりんとりゅうじを争って取り合おうと思う
こともできるよ。……ここに居られたら。りゅうじを見ていられる場所に居られるなら。

 まるで竜児にすがったのと同じように実乃梨にぶら下がっていた。友情と愛情の区別もつか
ないまま、ただ慕われ、慕った。その惜しみなく与えてもらえた水にどれほど乾きが癒やされ
たことだろう。
 ありがとう、みのりん。ぜったいに忘れない。

 りゅうじ……は。りゅうじには。
 いちばん近く思ってる。別れの言葉なんてなにも思いつけない。だって、あんたが私を大切
にしてるの知ってる。いつも側にいて助けたいと思ってるの知ってる。家族みたいに思ってる
の知ってる。私のこと好きなのも、知ってる。

 でも、それだけじゃもうぜんぜん足りない。
 あんたが私のこと思って眠れないんじゃなきゃいや。私のこと思うと涙が出てきて止まらな
くなるんじゃなきゃいや。私を見かけると熱くなって胸がざわついてくれないといや。私の声
を聞いたら、耳が貫かれていくように感じてくれなきゃいや。私に触れたら、そこからとろと
ろ蕩けていってくれないと……いや。

 あんたはそうなの?って訊こうとしてる。
 わたしはそうだよって言おうとしている。

 大河は自分の肩をかき抱いてこの場所で過ごした夏の日を思い出した。前の晩の無責任な経
験を思い出した。髪が覚えている。頬が、腕が、肩が、背中が覚えている。とろとろに蕩けて
いった感覚が確かに呼び覚まされてくる。
 そんなことはあり得ない。
 はっきり言語化された記録ではそうはなっていなかった。それにはこう記されていた。

『安心とくつろぎを感じた。ここに居てくれと乞われている気がした。
 隣家の2DKの居心地によく似てもいた。』

 何度も思い出しているうちに、いつの間にか記憶をもすり変えてしまっていた。いつそうな
ってしまったのか、もう自分でもわからない。初めて廊下でぶつかった時にはすでにそうなっ
ていた、ぐらいの感覚だって、今では生み出せてしまう。


 ずいぶん前から一杯になりあふれだしていた。乾き切った地に注いでもらう水に潤されて、
それを嬉しく吸い込みながら安穏と暮らしてきた。注がれる量が増えていき、池に沼に湖にな
り、ついにはあふれて流れ出していた。
 気がついた時にはどうしようもなくて、それを堰き止めてもみた。堤をつくり注ぎ込まれる
水さえ止めればどうにかなるのだと思い込もうとした。
 いつしか地からも、驚くほどの水が湧き出してしまっていたのも知らずに。

 この清冽な水をすくって竜児に飲ませたかった。湧き出したとっておきの水を飲ませてほし
かった。そうするだけでこの地が豊饒の恵みあふるる里へと変わって行く予感があった。

 季節ごとに咲くたくさんの花と収穫の実り。鳥の声で目覚め、美味しい食べものでお腹いっ
ぱい。火を焚いて満点の星を見上げ、みんな寄り添い笑いあう。そんな願い、夢が、ひとすく
いの水を分け合うだけで始まるような気がしていた。


 すっかり日は暮れて夜となっていた。
 なんのためにこの街に戻って来たのか、やっと思い出せた。


 疲れきってマンションに帰りつく。
 灯りをつけずに荷物を置いて、汗だくで冷え切った身体をシャワーで流し温めた。久しぶり
に気に入りのコロンをお腹にちょっと付けて軽く流した。
 バニラの甘い香りがほんのわずかに立って少しだけ元気づけられるのが好きだ。力を貸して
もらおう。髪を乾かして着替えが済んだ頃にかすかに香ってくる。
 寝室に入って北側の窓の鍵を外して、大河はもう一度、しっかりとピンクのマフラーを巻い
た。それから高須家へと向かった。
 午後8時。

 両頬に平手打ちで気合いを入れてから、外階段を上がる。かつてのように高らかに足音を立
てることはできずに玄関先まで来てしまった。

 ホントに言うの?
 あんたを寄越せば私をまるごとくれてやるって?

 弱気の虫が疼き出す。

 あんなにいっしょで、もう見せられるいいとこなんかない。そもそも見せてきたものがどう
受け取られているのかなんて、ほんとのところでは分からない。
お前をまるごともらってもなあ。まあくれるってんなら。ぐらいに言われても不思議はなさそ
うに思えてくる。

 くいっと眉を八の字に寄せて困った顔をする。
 でも大河は、もう退こうとは思わなかった。

 春、北村に告白した日の方がよっぽどハードだった。それは、その時に抱えていた思いが今
よりも全然少なく、大半は自分の勝手な妄想だったからだ。結果がどうであろうとそんなもの
に気を使う必要はないが、手伝いもしてくれない。
 今はたくさんの日をいっしょに過ごした大切な記憶があった。そのすべてを偶然だったり勘
違いだったりで済ませるなんてできはしない。それは自分だけでなく相手も大切にしているも
のだから、一存で傷つけたりできるものじゃない。その代わりに、行けよ!と背中を押してく
れる確かな力を持っている。
 それに。のぼせてはいても、譲らなくちゃと思っているのに横からかっ攫おうとしてるって
くらいは分かってる。
 恍惚と不安がちっぽけな身体を動かした。

 前と同じように扉を思いっきり叩いた。……けど、名を呼ぶことができなかった。
 前と同じような声で呼べるとどうしても思えなかった。
 カギが中から開けられて、扉が開いた。


 10分後。
 いま、大河は寝室の北側の窓の下に座りこんでいる。ここは自分のマンションで竜児に一番
近い。壁にもたれて、竜児にもたれていると錯覚することもできる。自室の机の前に座ってい
てくれるなら3mと離れていない。

 言えなかった。
 訊けなかった。

 あんたの顔を見たらすぐに分かっちゃった。耳をつかんで引き寄せて、まるでキスをしよう
としてるみたいに近づいたら。あんたが私をほしいって。恋しいって。ハァハァしてるエロ犬なん
だって。分かっちゃった。
 片恋じゃない。のぼせてあんたを見誤ってなかった。そんなことを見間違えるわけがない。
 ……嬉しい。

 報われた思いがして、かかえていた膝をゆるめて顔を上げる。マフラーを外して床に放ると、
お腹に隠していたバニラの香りがふわっとのぼって少しだけ元気づけてくれる。
 そのままで頭上の窓を見上げてみる。
 あんたと離れなくちゃいけないと知ったイヴの夜から今日まで、ここにかけていたカギを、
今日からはまたかけないでおくよ。
 あんたが私の思いを聞いていてあんな顔をしてくれたんだから。

 大河は天井を見上げたまま目を閉じて、そんなにも幸福と思える事が世の中には存在するの
かと思わせるくらいの表情をになる。
 しばらくして瞼をわずかに震わせる。……嬉しかった。
 そんなことを考えても、しても、自己満足でしかない。あんたはそんなことをしないから。

 ――タイムアップだ。

 ろくに話したこともなかったみのりんを大切に想い続けることができるあんただもの。わず
か二、三日でその果実を熟して差し出せなんて、言えないよ。
 言わなくて良かった。めちゃめちゃにブッ壊すとこだった。

 閉じたまなじりから、つっとひとすじだけ湧き水があふれてこぼれる。耳の横を伝い、喉を
伝って、襟の内側に消えて行った。あんなに豊かにイメージできた水の流れだったのに。現実
にはこれだけかと思う。

 玄関先で分かった。
 あとは言うだけ、聞くだけだった。
 でもそこでたたらを踏んだ。明日でもいいと思ってしまった。大事な瞬間にふさわしい舞台
に誘い出してあらためて、とか、寝ぼけたことをも望んでしまった。
 だから大河は予定通りに竜児の部屋を通り、窓から自室に戻ろうとして、そうしてあれを見
てしまったのだ。竜児が実乃梨に贈り想いを伝えるはずだったクリスマスプレゼントを。

 大河にはそれが竜児の恋そのものに思えていたから、捨てようとしたものを奪い取って実乃
梨に渡した。いま考えれば贈り主が竜児であると伝えられないそれにどれほどの意味があるだ
ろう?まったくの空回り。自分の気が済むわけでもない。
 修学旅行で実乃梨が亜美と殴り合いをしたときにそれは跳んで行って、崖の下に落ちてしま
った。あるべき場所に戻そうと拾いに行って、大河は崖を落ちた。
 ――違う。戻そうとしたのじゃない。わたしが、それを、ほしかった。

 あれがここにあるなら助けてくれたのは竜児。
 なのに北村くんが助けてくれたとつく嘘は、わたしが隠していた気持ちをいっしょにささえ
るって竜児の意思。
 気持ちがなんなのか分からなければささえられはしない。だから。
 あのとき北村くんだと思って吐いてしまった弱音を聞いたのは……竜児。
 もう伝え終わっていた。私が竜児に言うことはもう残っていない。本当にドジ踏んだ。

 だからもう一度促した。わたしをほしいと思ってる竜児に。無かったことにしたい、と聞こ
えるように。
 いなくなるわたしには、あんたをほしがる資格がもうないから。あんたがくれと言ってくれ
たら、しょうがないからやる、と受け入れる他にわたしにはもうないから。

『……夢……だよね……?』

『夢だよ。』

 このまま側にいられたら。ほんのちょっとのズレだから。……でも。
 私のターンは終わった。
 もし次が巡る頃があったとしても、もうここにいない。

 結局は、それならば、今となっては。いなくなる私よりみのりんの事だ。
 竜児は仕舞いこもうとしているけど、本当に封印しちゃったら、みのりんが片恋になってし
まう。だからこうなったら竜児はみのりんだけを想わなきゃ。

 立ちあがって明日のために眠ろう。横になろう。眠れるかどうか分からないけど、眠ろう。
鏡台の横に立てかけた木刀に目が留まった。捨てろ捨てろとうるさく竜児に言われていた護身
用の武器。あした言われた通りに捨てよう。もう私は武器を振るうこともない。

 わたしがいなくなれば、少し時間はかかっても必ず竜児はみのりんと結ばれる。
 涙は零さない。

****

 竜児は机の前に座って南側にぴったり建ったマンションを向いていた。窓、ベランダ、建築
限界の隙間、向こうの窓。その奥は大河の寝室。あいつがもう眠っているはずのベッドまでた
かが10mしか離れていない。
 大河までたったそれだけ。
 本当は、今は3mだったけど。それを竜児は知らない。

 竜児は左右の手で逆の肘をつかんで輪をつくってみる。こんなに小さい輪のなかにぴったり
とはまり込むものを思っている。
 ドジなやつ。
 帰宅したら鍵をなくしていたから窓から入らせろ?お前の履いていたストラップシューズは
どこから持ち出したんだよ。お前の香りはどこで付けたんだよ。お前はそんなにも俺と櫛枝が
恋仲になればいいと思い続けるのかよ。お前にとって俺は手放せるくらいのもんなのかよ。

 ふざけんな。

 真っ白になるほど力を込めて拳を握りしめて、ようやくのことで開いてみる。さっきも近づ
いたら知っている匂いがしていた。首なんかしめるつもりは全然なかった。何をしようとした
のか考えまいとする。水面まで浮かび上がる、深い底から叫びだした声がひとつだけ波紋を記
してまた沈んでいく。
 家族じゃねえ。可愛い女だ。
 俺のもんだ。

 何だって?
 考えれば考えるほど喉がカラカラになってしまい、居間に移って茶を入れる。
わざと乱暴に腰を下ろして茶をすすり、独りだと妙に広すぎる八畳間を眺める。そこに、ここ
にくつろいでいた大河の幻が見えてくる。
 それは世界の隅で見捨てられたやつがここで家族となって、平穏を得て過ごした安らぎの景
色だった。俺はそれを見て同じものを、いや、それ以上のものをもらっていた。

 肉がないと文句を言ったあと必ず旨そうに大メシを喰らう。図々しく寝転がる。眠くなって
も意地になってゲームをする。気まぐれに家事を手伝うと必ずなにかドジを踏む。
 不機嫌なツラも綺麗だった。なにか意地悪を思いついたときの顔、つまんないことで得意げ
な顔、感謝をあらわしたら負けと思ってる真っ赤な顔。楽しくて笑ってる顔。
 それらすべての記憶が今では切なさを伴って思い起こされてしまう。

 この身体に湧き上がってくるざわめいた気持ちを、ぜんぶ家族みたいなもんだからで片付け
てきた。いつかちゃんと整理して向きあおうと思っても、わざと先日までほったらかしにして
きた。
 向き合ったら最後、こんな気持ちになると。たぶん竜児はずっと前から知っていた。
 飲みかけの茶に視線を落として今ここにいない大河を思おうとする。でも、その気持ちを当
たり前のように抑えつける抗い難いなにかがある。

 時々ではあっても、大河はここでなら素で笑った。メシが旨かったとか、お笑い番組が面白
かったとか、つまんない事で。でも見たくてたまらない。見れば嬉しくなる。それを近くで見
るために俺はいるんだぐらいにも思える。櫛枝の眩しさとは全然違うそれを。
 ここから扉を開けて、踏み出して、追いかけて、つかまえて。それで笑顔にしてやれるのか。
あんなに辛そうに好きと言うやつを。
 竜児の脳裡に、雪山の斜面が思い起こされる。

 ふと一片の桜に目を奪われた。大河がうちを襲撃したときふすまに開けた穴を、大河がくれ
た和紙を使って、そういう季節だったから桜のかたちに切り抜いて塞いだものだ。
 それを見ているうちに、突然にあれを剥がしてみれば、と思えた。大河が開けた穴を隠して
きたそれを剥がしてしっかりと見れば。あるいは?
 なぜだろう?なんの意味がある。
 色も形もきれいで、優しげで、貧乏くさくはあってもこのうちによく似合ってるのに。

 竜児は頭を振ってすっかり冷えた残りの茶を飲み干した。
 おそらくは戸惑って、逃げようとしているから意味のない考えが浮かぶのだ。今は、無かっ
た事にしようと考える大河を追い詰めたりできないと、ただ思おうとした。
 必死に思っていた。

俺たちにはたくさん時間がある。ゆっくり考えていけばいい。



2月14日(木)


 あんたは誰を演じていたの?
 気になるよ
 知りたいよ
 だってわたし、あんたの全てが忘れられない
 びくびくしながら言ってくれたら
 もしも言ってくれたら あんたの胸に飛び込むよ
 捕まえてりゅうじ(傍らに)
 連れてってりゅうじ(どこへでも)
 お別れなんだよ 今日で


 今日までにいくつか出来事があった。
 私は、ママとの約束よりも大事なことに出遭ったから、大橋の街に居続けて2日間だけバイ
トをした。それで何の手助けになるのかは分からない。できることをするだけ。

 逃げることが唯一のできることだったから、逃げただけ。
 音が響き渡るほどの勢いで竜児の右手をつかみ、行こう、と思ったら次の瞬間にはふたりで
身を翻して走り出してた。つかんだ手を持ち替えて、竜児の左手に利き手を預けた。
 夢中じゃないよ。わたしはママを棄ててあんたを選んだ。
 この冬初めての雪が降り出した中をいっしょに走って、走って。身体の芯から凍えそうな寒
気に晒されて。右手だけが燃えるように熱い。


 今日までにいくつか出来事が、あった。
 大河は泰子の子じゃなかった。あんな親父と言ってもよそんちの娘で。可愛い女。俺のもん
だ。なってくれと土下座をして、冷たい瞳で蔑むように見下ろされて、承諾してもらえば。

 そのために、逃げる。誰にも邪魔はさせない。
 音が響き渡るほどの勢いで大河は俺の利き手をつかみ、応、と思った次の瞬間にはふたりで
身を翻して走り出してた。つかんだ手を持ち替えて、大河の右手を確りと握った。
 のぼせあがっている。俺は、泰子を棄てても大河を選ぶ。
 この冬最後になるだろう雪が舞う中いっしょに走って、走って。身体の芯から凍えそうな寒
気に晒されて。左手だけが燃えるように熱い。
 時間は、もうなかった。


 もういろんな事情は関係ない。りゅうじの側に終わりまでいるだけ。
 ただ私が逢坂の娘である印のマフラーに触って、顔を埋めて、ぜんぶ見届けようと決める。
 ね?りゅうじ。どこへ……行くの?



2月17日(日)


 夕暮れ。
 りゅうじのうちに寄らずに独りでマンションに帰ってきた。
 りゅうじに求婚されていっしょに逃げることになったから、曲りなりにでも高須のうちの者
になるのだからとアンゴラのマフラーは巻かずに置いて行った。
 駆け落ち先でいろいろあって、帰りにりゅうじの赤いマフラーを巻いてもらった。
 男物で長いから髪ごと三重に巻いて、どっかに引っかかったりしないよう後ろで団子結びに
してくれる特別の巻き方で。

 大河は何度も、何度も何度も両手でマフラーを撫でて、顔を埋めて胸一杯に匂いを吸い込む。
りゅうじの……と頬ずりもして。

 お世話になるのはクリスマスイヴ以来となる。晩秋から何度となく借りて、私とりゅうじの
首まわりを行ったり来たりして暖めてくれたカシミヤの高級品。これに今日だけは特別な意味
が込められた。
 それは、わたしが本当にりゅうじのものになった証し。
 今朝りゅうじがそういう思いを込めて巻いてくれた。

 嬉しい……心から。
 とっておきの水はすごく甘かった。わたしのすくった水を飲んで猛毒だ……と笑ってくれた。

 たったそれだけのことなのに、湧き出した水はあふれて流れになって、瀑の飛沫が霧に雲に
なって、雨を降らせ、永遠の緑を潤し、この世界はまるごと愛すべきものに変わった。
 そうして、いくつも流れが出逢って。やがて名のとおり大河になろうとする。
 竜は天空から水を統べる神様だ。虎の傍らにいて、もちろん大河を見続ける。

 こんなにも幸せをくれる人のところへ、棄て子のままでお嫁になんて行けない。と大河は思
う。逢坂の普通の娘としてりゅうじに嫁ぎたいのだと、マフラーに顔をぜんぶ埋めて本当の願
いを言葉にする。

 やっちゃんとりゅうじの、仮初の家族じゃなくてね。

 私は、最初の決めごとに戻ってママのうちに行こう。
 そこでママとの絆を取り戻そう。ちゃんとママのこどもになって、できるだけ早くこの街に
帰ってこよう。
 離れ離れになると思うと、つらすぎて胸が押しつぶされそうになる。けれど明るい面だけを
見ていこう。りゅうじだけじゃなくて、友だちにも。私にいて欲しいと思ってくれたみんなに
もう一度会うためにも。

 旅立つ荷造りを始めた。駆け落ち用から簡単に移し替えるだけですぐ終わりそうだ。
 やっちゃんにもうちのママにも子供みたいなところがあった。パパだって夕を愛していて、
そのためには実の子を道具にも使うような生き物。きっと、それが人なんだね。
 みんなへっぽこくてどこか足りないままで生きている。私もそれでいい。世界に許せないも
のが満ちているんじゃなく私が許さないだけだった。

 荷造りは間もなく終わった。高校の制服を丁寧にたたんでベッドに置く。アンゴラの、ピン
クのマフラーもハンガーにかけてクローゼットに仕舞った。もうモノに頼らなくても、私はこ
の身体ひとつで逢坂大河と、今は思えるから。

 夕食に私が行かなければ、今夜じゅうにりゅうじはここへ来るだろう。
 テーブルでりゅうじへのメッセージをしたためた。それから2年間を過ごした部屋のひとつ
ひとつを巡り、家具のひとつひとつを触って名残りを惜しんだ。寒くて嫌いだったこのマンシ
ョンも、最後に自分のうちだったと思えた。みのりんと出逢えてりゅうじと出逢えて。友だち
を招くこともできた。

 ――パパ?

 逢坂陸郎の娘は、いい人に見初められて昨日お嫁に行ったよ、と。今はどこにいるのかも分
からない父にも率直に報告をする。

 最後に、緩んできた竜児の赤いマフラーを外してまた何度も頬ずりをした。
 自分の匂いがたくさん移ってりゅうじを包んでくれるように。念入りに。そうだ、と。お気
に入りのバニラのコロンを一吹き。
 鳶色の大きな瞳には光が揺らいでいるけど、唇にしっかりと笑みを持ち続けている。

「じゃありゅうじ。……着替えてくる。」

 北向きの窓にまた逢おうねと小さく声をかけ静かに寝室の扉を閉めた。マンションのエント
ランスを出て、路地の角。見やれば慣れ親しんだうちがある。しばらく眺めて、そして。

 いつしか暮れた街路を踏みしめるように、逢坂大河はゆっくりと。
 でも力強く歩き出した。




――END

(continues to 『虎、帰る』+アフター)



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