「ふふん♪」
 あー。なんだか分からんが少なくとも機嫌は悪くない。
 足がつかない深さのプールで浮き輪に尻をとぷんと突っ込み、手と脚でちゃぷちゃぷ水をか
いて、どこまでも青い夏空を仰ぎ見ている大河を眺めて竜児は思っていた。
 なんで機嫌を気にしたかと言えば、表情がふだんどおりの不機嫌ツラだったからだ。
 自分から行きたいと付き合わせておきながら、さっさと自分だけ機嫌を損ねるなんてことも
珍しくはないし、もう慣れたからそんなことにいちいち腹も立たない。
 まあ、大河はこんな顔をしている方がふつうだ。
 眉は釣り上がって目はやや三角、親友の櫛枝実乃梨を除いては、基本、誰とも目を合わせな
い。たまに合わせれば、それは“そこにあんたが存在して良いとでも思ってるわけ?”などと
言いたげな攻撃的かつ威嚇的な視線を飛ばしてびびらせるとき。
 公称身長145cm、実際には143.6cm。だとか。高校二年にしては小柄すぎるその
体躯と可愛らしい見た目を讃えて『手乗り』、そこからのあまりにも落差ある威嚇の激しさと
ちょっと女の子っぽくない名前から『タイガー』。
 通称手乗りタイガーと呼ばれている、これが逢坂大河のふたつ名のゆえん。
「んーんーんー♪んんんーんんんん♪んーんんー♪」
 まあそんな危険生物であってもこんな天気の良い、おまけに夏真っ盛りの暑い日に水浴びと
くれば、機嫌も良くなるのだろう。空を見上げたままで鼻歌まで聞こえてくる。
 そのチョイスがたとえ『怪奇○作戦』のオープニングテーマであろうとも、年中不機嫌大王
な大河が鼻歌ってるという事実が大切なのだ。
 相変わらず眉は釣り上がっているが、色白の頬がぷくっと膨らんでいるところを見るとこれ
がこいつの笑顔だと可笑しくなってくる。

 これで笑ってるなんていうのはたぶん俺にしか分からない。

「ほら、竜児ーあれー?」
「おう?なんだー?」
 その大河が腕を伸ばして空を指差したので、思わず一緒に見上げる。
「ほらほら、あれあれ?」
「だからなんだ?どこだ?」
 指差す方向に目を凝らしても飛行機雲すら見当たらないから、まさかUFOらしきものでも
見つけたか?などとつい真面目に探し始めた。すると。
 ぶわしゃっ!!
 思ってもいなかった角度から水流を浴びせられ。みごと鼻の穴に直撃。
「ぶわっ!?うぇっ、げほっがはげへごほっ」
「へっへ〜〜ぇ♪油断大敵♪」
 浮き輪の舷側に両の手を突っ込み、頬をぷくぷく膨らませ、八重歯が見えるほどニヤニヤし
て、意っ地悪そうに笑ってやがる。
「お、おまっ。み?水鉄砲……できるようになったのか?」
「教わってから毎日おふろで練習したもん。なにその顔?くくくくく!」
 夏休みに入って一週間が経つ。竜児と大河は、寝るとき以外をほとんど共に過ごしている。
 今日は新しく水着を買ったから、じゃあ遊ぼうということになって市民プールに来ていた。
 4つのプールがある。子供用プール、流れるプール、滝のプール、そしてここは普通の大人
用プール。イモ洗いを避けて午前中から来て、背が立たない大河は浮き輪を借りて、のんびり
浸かっていた矢先のことだった。
「もいっちょ、おらっ」
「ぶぁ!……そうか、練習したのか。うんそいつは進歩だな。そうかー♪」
 へっへっへ♪竜児はつかまってた浮き輪から手を離して距離をとった。


 な、なによあんた?
 昨日今日撃てるようになったからって、そうそういい気になんなよ?こっちには十年来磨き
上げてきた技術ってもんがあんだからよ。
 ちょ、ちょっとなにする気?
 充分距離をとって、両の拳を水に沈める竜児。その顔はまさにこれから逝くとこ行くぜとい
うヒットマンのよう。……ということはなく、と、いつもなら記述するところだがここはその
まんまで合っていた。ちゅぃぃぃっっと結構な量の水塊を飛ばす。
 ぶぁっしゃっ!
「ぶわぁっ!ちょっ、ちょっとっ!髪濡れちゃうじゃんよっ!」
「泳ぎに来てんだからそれくらいなんだ。水鉄砲の師匠に牙をむいた報い思い知れっ!」
「ぶあぁっ、ぷわ!おのれ犬の分際でっ!飼い主がたまぁに遊んでやったらその態度かっ!」
「誰が犬だ。俺は竜だって言ったろ?水上で猫に負けるかっての♪」
「ぶぁぁっ!ぷわっ!ね、猫だってっ!?こ、このーっ!」」
 ちゅぃっ、ちゅぃぃっと昨日今日マスターしたばかりの水鉄砲を撃ってはみるけど、大河の
火力(水力?)は明らかに竜児より短射程で全然届いていない。その射程外をニヤニヤした竜児
がひょっとこ顔なんかして挑発しながら遊弋している。
 かくして、虎vs竜、市民プール海戦が始まったというわけだ。
 当てられる距離に近づかなければ話にならない大河は、ひざ下だけのバタ足でとにかく射程
を詰めにかかる。竜児は離れながら射程外から一方的に撃ちまくろうとする。お互い動かずに
いれば当たる水鉄砲でも、移動しながらでは外れるばかり。
 もともと電子戦以前の時代の海上砲戦というのはほとんど命中しなかったそうである。それ
こそ300m程度の距離の水平射撃ですら艦船からの砲撃はなかなか当たらなかった、という
記録もあるくらいだ。そこで砲を連装、三連装にし、複数の砲で一斉射をし、着弾範囲を広く
取り、測定して修正し、やっと命中精度を上げる、という迂遠な歴史をたどって来たのだ。
 まあそんな海軍ヲタのたわごとはどうでもいい。迂遠な歴史、と言う点では竜児と大河の関
係そのものとも言えようが。
 斉射の出来ない単装水鉄砲では着弾修正にも時間がかかり、その間に大河が移動してしまえ
ば修正もヘッタクレもなく、こうなると竜児の大口径長距離射撃の方が分が悪くなる。撃てど
も撃てどもムダ弾で当たりはしない。待てえーーぃっ逃げんなぁーーっと追いかけ回されるの
から距離を取るだけで一杯になる。
 このままでは水中で走ってるこちらの方が体力的には不利になりかねない、と竜児は考えて
いた。なにより接舷しての白兵戦となったら手段を選ばぬ大河のこと。眼前バタ足などの大量
破壊兵器を躊躇なく使う事も考えられる。そうなれば水しぶき攻撃だけでなくキックも当たる
かもしれない。あの脚力を想像するだに被害甚大だ。
 そう思った竜児はくるり回頭してすれ違いざまの反航砲戦に出た。アホの大河は真っすぐ距
離を詰めてくるだろうから、いわく、市民プールの七面鳥撃ち。そのあいだ無照準で撃ちまく
ってやる。
「おらぁーーっ!やっとやる気になったわねっ。ぶはっ、ぶほっ!」
「よーっし来るなら来い!堂々とお前のも当たるレンジでやってやるぜ!ははっ♪」
「望むところっ♪逃げないんなら当てまくってやるっ、そらっ!当たった?あはははは♪」
 お互いの射程内に留まって撃ち合っていると避けるのにも慣れてきていた。要するに所詮は
水鉄砲、目や鼻に直撃されなければ良いのだから、肩や腕でガードしたり、顔を反らして受け
流せばよく、あとは速射とフェイントがものを言う。
 だんだん夢中になってくると大河の浮き輪が起き上がってきた。両手を水に突っ込んで撃っ
てるのだから重心が外へ行くのは当たり前だが、逆バタ足をかいてバランスを取っている。こ
の辺を無意識にできるのが運動神経の良さ。
 ではあったが、たまたま崩れかけたところへ竜児の一発が直撃する。ぶはぁっ!と顔を上げ
たとたん浮き輪は垂直に起き上がって。
「ぶわはっ、あ?お?おおお、お?」
 どばっっしゃあん!と、ひっくり返った。
 さいわい大河の小柄な身体は浮き輪からすぐに抜け、水中逆立ちなんて目には遭わずに済ん
だが、カナヅチなのを知っている竜児は意外なほど慌ててしまった。あいつ背も立たないし、
お、おいっ?とばかりに潜って大河を抱きかかえて浮上する。
「……っ、ぶわぁっっ!」
「だ、大丈夫かっ。溺れて……ねえな?」
「ははっ、平気だよ。もう30秒は息止められるもん」


 なにその慌てよう?と超至近距離から水鉄砲をぴぅっ!ぶわぁっ、ともろに鼻に浴びた竜児
は思わず手を離してしまい、目も開けられずげほげほと咳き込んだ。でも大河が肩につかまり
ながらきゃっきゃ大声で笑っているのが聞こえてひと安心。問題はなさそうだ。
 ふーぃ。と息をつくと、背後の大河が言う。
「ねえ、浮き輪取りに行かなくちゃ。肩車して」
 と言いながら答えも待たず、跳び箱を飛ぶ要領でセイヤッと飛び乗る。
 おら行け私の犬っころ!目標まで10m!あああ。へいへい、10m、サー!と大河を肩に
担いで復唱、竜児は水中を歩き出す。
 気づかない、気づかない。白く柔らかな太腿が直に頬に触れていることも。さっき抱き上げ
たときにぐうぜん尻をつかんでしまったことも。
 こいつは家族。仲のいい妹みたいなもの。見た目も中身も可愛いと思っているし、とても好
きだと思っているけど、そういうものだ。
 月の裏側の神様からなよ竹のかぐや姫を授かったオキナとオウナは大切に育てた。オキナが
かぐやを欲望のままハプニング凌辱していたらお話として台無しだ。まあそんな冗談は置いと
くとしても、どこか預かりもの、という意識が竜児にもあったのは確かであったろう。昔話の
かぐや姫に喩えるには傲慢横暴過ぎても、大河の見た目はちゃあんと姫様だったし。
 このままふたりそろって転んだら大惨事になると思い、竜児はそろそろと歩きながら、膝小
僧を持って支える。つるつるですらっと伸びて綺麗な脚なのに、なにもないところで転ぶから
ここだけガサガサとした手触りになっている。こうして撫でていたらそんな古傷も消えてなく
なるだろうか。そんなわけアルマイト弁当箱か。などと考えてしまう。
 追いついて捕まえた浮き輪を背後に回した大河がまたとぷんと尻を突っ込んだ。ひゃはぁ♪
といった感じで笑いかけてくる。
 それを見て、なんとなく行き場を失った感情を緩やかに吐き出すように、竜児は浮き輪をつ
かんでぐるっと回した。ちょ?おおおお?と言う間に大河を乗せたまま回り出す。手足を浮き
輪の外へ伸ばすとゆっくり、縮こめると速く回ると教えられて、やってみたらその通り。
 楽しいのだろう。あっはははは♪と大笑い。もう眉も吊り上がってはいない。上機嫌で楽し
そうだった。竜児も釣られて頬が緩んできてしまう。大きく口を開けて、少々ハナも垂れてい
て、ポニーテールに結った髪もびしょびしょに濡れて貼り付いていて、みっともなくて、可愛
いらしかった。こいつが好きなんだとまた思った。
 いっしょにプールに来て、こんなに笑ってくれて本当に良かった。


 あそこの売店、不味いからな。と竜児が作ってきたお弁当。
 大きいタッパには小さめのおにぎりがぎっしり。小さいタッパにはおかずがいっぱい。お茶
だけ買ってきて、込み合ったプールサイドのテーブルに空席を見つけてずいぶん早めにお昼に
した。夢中で遊んでたらお腹ぺこぺこになってた。おいしいっ。
「中身、鶏そぼろだった」
「おう、そりゃ当たりだ。良かったじゃねえか」
「刻みハムとツナマヨ」
「それも当たり。おめでとうだな」
「当たりばっかじゃんよ。外れの具はなんなのよ?」
「1個イカの塩辛が入ったのがある。あと具が入ってないのもひとつ」
「具のないおにぎりは負けおにぎり。つかみませんよう〜に!うわ!塩辛だった」
「よく引いたなあ。苦手なら食ってやるぞ」
「得意じゃあないけどさ。あ、でもなんかいける。塩分ほしいみたいで。磯くさいけど」
 空腹は最高の調味料っていうんだぜ、とちょっと得意げに笑っている。竜児はなに考えてる
か表情だとわかりにくい。雰囲気とか声の調子とかだけど、やっぱり目だ。ちゃんと見ていれ
ばなんとなく分かってくる。

 ペットボトルのお茶をごくごく飲んであらためて思う。竜児の気持ちを分かるのってやっち
ゃんの他には私だけなんだ……ね。

 この場所で、ふたりはひと月ほど前に大喧嘩をした。
 互いの距離感が分からなくなって……というよりも、確かめたくなって。分からないふりを
し続けて、あえて顔色を読むのを止めて、一歩も退かずに相手のせいにした長梅雨のころ。
 パラソルの日陰から出て、焼けたコンクリートの上を裸足で歩いてみた。あっつい!あっつ
いわっ。ちょっ、竜児!?あっついよっ?慌てて駈け戻る。
「あんたも肉球焼いてみればっ?」
「焼くまでもねえ、つか肉球もねえ。……ネコ科のお前にはあんのかも知れんが」


「相っ変わらずクチの減らない犬ねえ?」
 プールサイドでサンダル履いちゃいけないから、どのくらい裸足で歩けるか確かめてあげた
んじゃないのよ。と恩を着せて、背筋を伸ばして手は腰に。
 どうよ?水着。
 昨日、犬同伴で旅行用の新しいのを買ってきた。せっかくのイベントなんだから学校用の水
着じゃやだ、可愛いのほしい。ついでにビーサンとか帽子とかいろいろ揃えたい。そんなの独
りで選びに行くのやだ!とごねて、重い腰を上げさせて、蹴りだすようにして駅ビルへ行った
のだった。
「水着いいんじゃねえ。着てみるとあんまり子供っぽくないし」
「うん、私もそう思うわ。あんたに選ばせたのは正解だったね」
 ローレグのワンピース。オレンジ色のチェック模様にひまわりがパシパシ散っている柄はお
子さまっぽいが、薄手の光沢素材なので程ほどに年齢相応な感じもある。なにより肌が色白だ
から暖色系がよく似合っていた。
 例のパッドはもう要らないと言うので、竜児がちょちょっとサイズ直しだけしたものを、い
ま着ている。
「……でもな。北村がどう思うかは正直分かんねえぞ?」
 あくまで俺が似合うと思っただけだからな?と竜児はちょっとビビり顔になる。
「昨日も言ったじゃん。そんなこと後で怒んないわよ」
 私もあんたも北村くんの好みなんか結局知らないわけでしょ。だったらできるだけ似合うも
のを選ぶしかないわけで、そこで男の子の目がどうしても必要と思ったのよ。
「あんただって男の子の端くれ。あんたの目に賭けた以上、もうグダグダ迷ったりしない」
「それならいいけどよ。……暑くなってきたな?もうひと泳ぎするか?」
「ようし!食休みも済んだし、今度は流れるプールで自堕落にクラゲよう!」
 大河は日陰に脱ぎすてていたビーチサンダルを履いた。水着とお揃いで鼻緒にひまわりが付
いているおろしたて。これも昨日、選んでもらったものだ。それで日向に出て行って、焼けた
コンクリートを涼しい顔ですたすた歩いて戻ってくる。こんな感じ、と告げてみる。
 なんだそりゃ?と竜児は変な顔。ああ、裸足で歩いてみろってことか。何歩くらいで火傷す
んのかな?
「うぉあっっちぃ!!」
「きゃははは♪」
 せいぜい三歩だった。
 ひと月ほど前にふたりで大喧嘩をしたこの場所。
 互いの距離を、なあなあでなんとなく近づいた関係を確かめたいという、強い思いがそうさ
せた。回避できる喧嘩をわざわざして、そうしたからこそ竜児と大河はいま笑いあえるように
なっていた。
 長い梅雨が明けて、心が浮き立つような真夏の空の下。ふたりだけで。
 そこそこ混んできた流れるブールで、しばらくはクラゲのように漂ってはみたけれど、エネ
ルギーのあり余っている17歳同士のこと。結局は第二次海戦となった。とばっちりを食らっ
た周りから迷惑そうで、でもカップルらしいから大目にみるか、という微妙な視線をくらい、
すんませんでしたーと退散する。
 正午を過ぎると目にみえて混んできた。充分遊んだしそろそろ帰るとするか、と竜児が向け
ると、大河もそうだね、と答え、帰ることにした。
 互いに男女別の更衣室に分かれ、出口で合流した。
 その装いこそふだんのふたりを知っていれば異様。異形。
 大河は素足にかかとの後ろに大きな結び目を作ったリボンサンダル。ローライズショートデ
ニムにへそ出しタンクトップ。
 竜児は純白スラックス。雪駄でかりゆしアロハシャツ。おまけにツンツンサングラス。
 ふたりともお揃いのカンカン帽をかぶって。
 まあ夏らしい、とは言えたが、どちらも別の意味で高校生らしくはなかった。なんでこんな
ことになったのか?それは時計を30時間ほど巻き戻してご覧いただく。


 旅行用の水着その他を買いに行くから付き合え、と大河が竜児に振ったのは前日。朝食後の
ことだった。
 別に用事があるわけでもなかったが、高二男子には女物の水着売り場の雰囲気はやっぱりき
つい。一度は、えー独りで行けよーと言ったのだが、男子の目が要るんだと頼まれればそれは
別、仕方なくこの街で唯一のそうした店が集まる大橋駅ビルに出かけたのだ。


 3時間ほどあーだこーだして水着を選んだ経緯は、前にも述べたから省く。水着が決まれば
合わせたビーサンを選ぶのはさほど困らない。無事に買い物を終えたあと、大河が帽子を新調
すると言いだしたところからが本題だ。
 欲しいものは、カンカン帽。ストローハット、つまり麦わら帽子の一種で、もともと水兵や
船員がかぶる用途の、水濡れにも強くするよう平たくつぶした麦わらを編んでプレスやニスで
固く整形した帽子である。名称の由来は叩くとカンカン音がするくらい固い、というところか
ら来ているらしい。
 これが、去年も今年もリバイバル流行だったというわけだ。
 もっとも大河としては、ブリム部分が広く取ってあるキャペリンではどうしてもお子さまっ
ぽいと思って、もっと汎用的なこれを欲しいなと。ちょっと思っていたにすぎない。
 そんなわけで、やはり一軒だけの帽子屋に寄ってみると、あるわあるわ。さすが流行りのも
のは品揃えが豊富。奥からチョビ髭親爺が“ボインや〜ぁでぇ〜♪”と口ずさみながら出てき
そうな雰囲気まで漂っていた。
 基本、スタイルは一緒だから、選ぶのはサイズと、巻かれたハットバンドの好みだけという
ものでそうは迷うものでもなかった。頭のサイズより気持ち小さめで、少々かませる感じでな
いと不安定だから、ちょうどいいサイズがあるかどうかだけの話だ。
 頭がちっちゃい大河のサイズに合うものも無事何個か見つかって、単にバンドが一周してい
る方か、余りバンドがぴろぴろっとリボンとして流れてるものかで悩んでいた。色はエンジか
ピンクの二択。
 うう〜、と唸りながら目線を向けられて、竜児は応えた。どうせ来年も流行るかどうかなん
て分からねえひと夏の消費物だろ?お前天然茶髪なんだからエンジのっけたら重いぞ。色でい
ったらピンクの方しかない。ぴろぴろが嫌なら他の店も探せばいい。
 じゃあ、こっちにする。と言ってぴろぴろピンクにあっさり決めた。ついで、みたいにエン
ジの方の大きいサイズをいくつか持ってきて、かぶってみてよと言う。なに俺バンドの色も選
べないわけ?と軽口をたたくと、へえ?じゃあエンジ以外に似合うとでも思うの?と。
 元より竜児には年齢相応のカジュアルなもの、という以外に選択基準なんて持ち合わせてい
なかった。大河のように綺麗なら似合うものを選ぶ甲斐というのもあるだろうと思うが、自分
にはどこといって見た目の取りえはないし、目つきが酷いのをどうにかしたい、ぐらいしか思
うことはなかった。
 だから、それをちょっと前傾ぎみでかぶってみ、と言われてその通りにしてみて、鏡をみた
ら初めて驚いたのだった。
 カッコいい、とまでは思わない。けれど、酷い目つきとは思えなかった。少々切れ長で鋭い
目、という程度に収まってるように見えたのが驚きだ。但し高校生には到底見えず、どうした
ってハタチ過ぎではあったが。
「あんた目つき気にしてるようだけど、学生風にしてるからよ。見れば分かるでしょ?」
 けっこうカッコいいんだよ?と独り言のようなお世辞も聞けた。少し嬉しい。
 衣装持ちのファッションリーダー(但しロリ限定)にそう言われれば、否定する根拠など持っ
てはいない。へえ、そうなのか。と竜児は驚いて、同時にそんなとこを大河が見ていたという
ことにもっと驚く。驚きのまま、じゃあ納得行ったんならお揃いで買お?と言われたので思わ
ずおうと頷いてしまった。
 そのあと大河はノリに乗った。
 あとは白スラックスとアロハよ!と興奮気味。ドカンとかだとほんとにヤクザっぽく見えか
ねないからストレートでねとスラックスを。アロハも毒々しいのは控えてかりゆしウェアにし
よう、と仕切られて、花と竜柄のをあっという間に揃えられた。
 おいおいそんなに服買う予算はねえぞ?というと、心配ない、プレゼントするからという。
「パッドのお礼……ってことでね。あんたには拒否する権利なんかないからっ!」
 ご飯も作ってもらってるし、いろいろ元気づけてもらってもいるし、とかぶつぶつぶつぶつ
付けたしもあったが、ほとんどは竜児には聞こえない。が、まあ日ごろの感謝の気持ちだけは
伝わったことだろう。
 あ、雪駄やサンダルはだめよ。あんたがそっちがいいなら止めないけど、それ履いたらほん
とうに軍需物資を横流しする稼業の人に見えちゃう。
 どんだけ俺は戦中派なんだと。じゃあなに履けと。真顔になって竜児が訊く。
「ふつうにスポーティなスニーカーがいいよ。持ってるよね?」


「あーそうなんだ?で、これ何系?」
「んーーー。沖縄とか奄美の……モテ系男子……かね?……知らんわメンズなんか」
「なんで語尾がだんだん小さくなっていくんだよ」
「なんか沖縄つっといてモテ系って続けるのがしっくりこなかった。癒し系?なわけないか」
「すんげえ微妙な感じ!ニッチ?すき間?」
「あーもうめんどくさいなっ!ゆるゆるスジモン系でいいやもう。雪駄履けっ」
「ぶははっ♪でもせっかくお前が選んでくれたんだから、せいぜいこの夏は着させてもらうわ」
 その答えに大河は満足そうに頷いた。
 あっ、でもね?と何かを思い出したふうで口元に掌をかざし、ないしょ話のポーズ。んんん
なになに?と竜児も耳を寄せるマネ。
「みのりんにはウケない……ていうか引かれると思う。親切にも教えといてやるから」
「そ、そうなのか?……じゃっ、なぜ勧めたし?」
「……あんた。私からのプレゼントじゃんよそれ」
「あ!そうか、なんか混同していた。悪りぃ、ほんとに悪りぃ」
 ふひぃ♪と意地悪そうに大きな目を眇めた大河は、オプションよオプションなどと半笑いで、
安物の雪駄とツンツンサングラスも付けてみる。そこまでやったら仮装だとは思っていたけど
こんなのはノリがあるうちじゃなければ楽しめないからね。とも。
「うん。じゃあ次は私の方の見立て、頼もうか」
「えっ?手持ちのフリフリに合わせて帽子買ったんじゃねえの?」
「別にそれもいいけどさ。あんたのセンスが見たいわー、なんてねっ♪」
 これもノリで迂闊に言ってしまった大河に、竜児はニヤリと笑いかける。別に意地悪をしよ
うと思っていたわけでは全然ないが、委任された以上は見たいものがある。
 いいんだな?俺はお前の指向と違って、夏なんだから可能な限り露出をするべきだと思って
いる立場なんだが?ほんっとうに、いいな?
 ひっ、と少しばかり大河はおののく。
 そうして竜児が選んだのが、ローライズショートデニムにへそ出しタンクトップ、というわ
けだ。なにしろ夏休みの竜児。なにも木の股から生まれたわけじゃない。あまり知られてはい
ないが、普通にしょうもない17歳のスケベ少年であってもなんら不思議はなかった。
「お前は短足じゃないし、真夏ぐらい惜しみなく見せるべきだ、と思う」
 うんうん頷きながら、それでもこのぐらいもっともらしい事も言える。らしければらしいほ
ど実はしょうもなさがにじみ出るのだが、そこまで気を回せ、言われてる方も口車に乗せられ
てないで気づけ、というのは高校生には求めすぎだろう。
「こ、こんなの水着で歩くみたいっ……じゃんっ……たっ、平らだし私」
「誰も平らなとこなんか見ねえ。みんな脚を見る。気になるなら盛ればいいだけだろ?」
 お前を盛るのに関してだけは、俺は世界的権威と言っても間違いないからな。任せておけよ
とそれはそれは偉そうに胸を反らす。
「それはそうね。でででもっ、膝が傷だらけでみっともないしっ」
「あ、そこ見られるのいやか。そうだな?それは足元でカバーしようぜ」
 そんなわけで追加で選ばれたのがミュールサンダル。
 装飾用のリボンが付いていて、これを足首に回して結び目をつくればけっこう華やか。確か
にこれで膝だけをじっと見るやつはそうそういないだろう。
 まあこんなハダカになれと言わんばかりのコーデをこいつも納得はすまい。とは、いかな浮
かれ竜児といえども思っていた。だからセンスを見せろと言うのに応えただけでもあったし、
一応正直にそのまんまではあった。
 だけど最終的には、意外なことに、大河はさほどの文句も言わずに全部を受け入れた。
 長くなったが、かくいう経緯をたどって、軍需物資を大陸に横流しして私服を肥やすマニラ
かシンガポール辺りのその筋の人と、かの人が経営する娼館に囚われた少女、とでも言うべき
見た目のコンビが出来上がったというわけなのだ。
 まあ、大河の方は竜児と並んでいるからそう見える、というだけであって、ピンなら小柄だ
けれど健康的に色っぽい非実在美少女といったふうではあったけれど。
 プールを出てバスで20分、余談ではあるが、帰宅する前に竜児が警ら中の警察官から職質
を食らった事実は伝えておかねばなるまい。真面目な性格ゆえ生徒手帳を携行していてことな
きを得たことも。




 カッチカッチカッチカッチ……。
「……うるさいなあ!もう!」
 買い物をすませて帰る道すがら、竜児はそれを聞いてブッと吹いてしまった。だって、自分
が立ててるヒールの音にイラっとしてキレ気味な女というのもそう見られるものではないだろ
う。続いて恨めしそうな視線を向けられてしまう。
 ああ、はいはい。それ選んでやったの俺だよな。済まなかったな。
「もうちょっと、そっ、そっと歩けばいいんじゃねえかな?」
「分かるけど、……どうも私向きじゃないね。歩いてみないと分かんないものだわ」
「なんか無駄な買い物させたみたいで悪かったな」
 ぺたんこサンダルでリボンストラップのもの探すか?まあシルエットだけでいいなら足首に
リボン巻けば済むしな。
「んーー、まあいいや。そうしよ?私がヒールを普段履きにしにくいって授業料だと思えば」
「……足音を立てないように歩いてみようって選択は……ないんだな?」
「やっぱ心ゆくまで地面を踏みしめたいからね!じゃあ、明日のプール帰りに寄ろうよね」
「明日もプール?マジ?」
「マジマジ。どうせあんたも私もヒマなんだし、天気もいいに決まってるし」
「俺はいいけど……旅行用の水着じゃなかったっけ?」
「うるさいな。飼い主が飼い犬と遊んでなにか悪いっ?」
 いやあ、別に文句はねえよ。深く考えるといろいろと問題あるような気はするがな。深く考
えないようにするわ。まあ……。
「なにしろ夏休みだしな!」
「そうそう。夏休みだしっ!」
 高須家に帰宅して、すぐに水着を洗って干す。夕立ちさえなければ夜までには乾くだろうし、
明日の使用にも差し支えはないはず。
 起き出していた泰子には朝出がけに見られていなかったふたりのカッコは超ウケた。大河に
は可愛い可愛いを連発したのに、竜児は指差されて延々爆笑された。泰子によればマニラ辺り
のその筋の人姿を完成させるには、扇子とバナナひと房を持たせなければいけないのだそうだ。
 明日は雪駄とサングラスはやめてスニーカーを履こう、と竜児は思った。ただ扇子はいいア
イテムかもしれない。なんかエコな印象がするから明日ついでに見に行こう。
 ひとしきり三人で笑いあって、大河は自分ちへシャワーを浴びに戻る。夕飯までには帰って
こいよ、と竜児がふざける。おう、と竜児の口ぐせを真似て大河も返す。もう、どっちが本当
の家なんだか。とくすくす笑いながら外階段を降りて行った。


 シャワー前に汚れものを全自動洗濯機に放り込んで回し、湯上がりに寝室で髪を乾かしなが
ら、北向きの窓に映る隣家の灯りをぼんやり眺めている。
 ここに戻ると夢から醒めてしまう。
 楽しくて、良くしてくれて、とても感謝していた。竜児とやっちゃんのうちに行けなくなっ
たら私はどうなるだろう?心から楽しく嬉しいのに、それを失くしてしまう怖さの方を先に強
く感じてしまうんだ。あのうちにいる間にはかけらも感じないそれを。
 ほんの数mしか離れていないのに。
 ここに独りでいるときは本当の私に戻る。夏休みになって、寝るとき以外はずっと竜児とい
っしょにいるようになって、一日のうち眠る前後の僅かな時間だけ戻る。どこにもつかまると
ころがない、背の立たないプールで漂ってるみたいな本当の私に。
 洗たくが済んだ。
 乾燥機に移してぴっぴと設定。
 これからお夕飯に招ばれて、食べたらごろごろして、テレビ見て、竜児とふざけて。そうし
てまた寝に戻ったら、やっぱりそう思ってしまうんだろうか。
 そろそろご飯どき。着替えて、夢を見せてもらいに行こう。


 外階段を騒がしく駆け上がる足音。そして今日も扉を破壊……まではしないが、そんな感じ
にばあん!と開ける。
「ぅお腹すいたーっ!」
「おう、もうすぐできるぞ。座って待ってろ。つか、静かに開けろっての」
「へへへへぇ〜♪」
 窓側の定位置に、勝手にテレビを点けて座る。卓袱台に頬杖をついて、エプロン姿で台所に
立つ竜児の大きな背を眺める。


 換気扇が回る音、水道の音、ガスコンロの音、まな板でなにか刻む音、おたまが鍋に当たる
音、香ってくる美味しい匂いに、忙しく動く肘。背。聞いて、嗅いで、見て。
 昨日も、今日も、一昨日も、その前もいっしょに居て楽しかった。
 あんたといると笑うことができる。幸福な思いで満たされる。ここにいられるのが夢なんて
思えなくなる。でも……独りでいるときよりも寂しくなってしまうんだ。
 近くなるのが嬉しいのに、近くなると泣きたいほどに寂しくなる。独りになりたくない、と
思ってしまう。それは、つらい。
 どこに流れ着くのかもわからない今は自分でも驚くほどつらくて、そして幸せ。
 今日も竜児の背中を見上げて、すき、と心の中だけで呟く。
 言えない、言わない。
 それは本当の私が許してはくれないから。ただ、すき。と思ってみるだけ。
 苦しくはない。切なくもなく。ただ、思うだけ。
 できたぞー運べー、と声がかかって大河は手伝いに立つ。
 いつの間にか部屋から出てきた泰子にそんな様子を見られていたとは気づかない。
 ごはーん☆まだぁ〜?やっちゃんお腹へったぁ〜〜☆と、優しい笑みで催促をする泰子に、
おう今出すよと竜児が振りかえりもせず返事をする。
 暮色が藍に染まって、ようやく夜になろうという頃に、高須家の夕飯は始まる。
 こんな淡い思いを抱きしめているときにだって、大河は堂々と三杯飯。このおかず美味しー、
と殊更に褒めるでもないただの感想に、作った竜児もどや顔になる。訊かれもしない蘊蓄をえ
んえん語り始めると、最初はへーえ?と聞いていた大河もだんだんうぜえ、という顔になって
いく。
 それをにこにこと泰子が満面の笑顔で眺めながら竜児のご飯をくちに運んでいる。
 食事が済んで、泰子は出勤。竜児は後片付け。大河はといえば、プールで心地よく疲れたの
だろう、淹れてもらったお茶が熱くて冷めるのを待って、飲まないうちに、落ちて爆睡。
 あっという間に寝入ってしまった大河の幼子のような姿を、今度は後片付けを済ませて居間
に戻って来た竜児が、ふっとため息とともに優しい表情で見る。

 名を……呼ばれた感じがした。
 目を覚まして起き上がってみると暗い。ああこんなとこで寝ちゃった、と思った。
 深夜。高須家の台所から玄関へとつながる廊下、そういえば起こされて、うん帰ると言った
ような。途中で眠くてへたり込んで木の床がひんやりしていて。
 いつも綺麗に掃除してあるからちり一つないしカビ臭くもない。
 ふと見ると夏掛けもかけてもらっていた。
 それをズルズルひきずったまま居間へと這い入る。
「おう……起きたか?ふわぁ〜」
 竜児はもう部屋で寝てるのかな?と思ったら、居間に入ってすぐ、左の壁に寄り掛かって座
っていた。
「ずっと、そこで?」
「ああ。今日疲れてたんだな?泰子の部屋に布団もうひとつ敷いてあるから、まだ眠いなら……」
 泊めてくれるの?
 でも、ううん。
「やっちゃんが帰るまでに、帰る。決めごとだもん。でも少し」
 肩貸せ、犬。と言って竜児に寄りかかって座った。
 薄暗がりだし寝起きでちょっとぼうっとしてもいた。廊下で落ちた私と壁一枚おいただけの
ここで竜児もうたた寝しながら見守ってくれていた。見るともう一度、ふあぁ〜とあくび。
 私が甘えたい。私に触れたい竜児にもご褒美をあげたい。そんなふうに思って。
「どんなへんなことした?灯りまで消して」
「してねえ。灯りつけるか?」
「いい。恥ずかしいから。よだれ垂れて粉ふいてるっぽい。頭ぐしゃぐしゃだし」
「寝落ちしたときって必ずこの話からだな。おはようって言ってるみたいなもんだ」
「ブッ、ふふふっ、……そうかもね」
 可笑しくなってしまい声をひそめて笑いだしたら、竜児も可笑しいようで肩が小刻みに震え
だした。と、思ったら、くしゃっと肩に預けた頭に手を置かれてモフモフされた。ひとを猫だ
と思ってるんだろうか。ま、いいや。寝苦しい夜に涼しいところを見つけて伸びてたんだから
そう間違いでもない。
「な?」
「ん?」
「きょう……もう昨日か。……プール楽しかったな」
「うん。今日も楽しいよ。きっと」


 竜児は私の頭に手を置いたままで時折撫でる。余計なことを訊かないし、言わなかった。
 私もそうする。
 別々のことを考えてるかもしれないし、同じことを考えてるかもしれない。
 いま何時ごろだろう?窓は暗くて、夜明けまでは、まだかかりそう。
 眠って、目が覚めたけれど夢は続いていた。心地が良くて、幸せな気持ちがして、そうして
やっぱり独りになりたくない。と思う。
 さみしいよ……と伝えてしまいたい。
 ねえ?竜児は。
 竜児は独りきりで寂しいと思ったことある?
 ……もう、ねえな。前は毎晩あった。泰子夜勤だしな。ずっと夜は寂しかった。
 いいね。寂しくなくなってさ。
 お前のおかげだよ。ふあぁぁぁ〜。
 そう……なの?
「ぁぁぁ〜。うん。お前が居てくれるようになってから」
「そっか。そうなの。じゃあ、いまは寂しくないんだ?」
「ああ」
 くしゃくしゃくしゃ、と頭めちゃめちゃにされてうざい。うざくて、うざいのに。
「……そろそろ私、寝に帰っちゃうけど。その後は?」
「ん?」
「……ちょっとは、寂しくなる?」
「ちょっとだけな」
「主人がいないと寂しくて眠れませんぐらい言えないもんか?愚鈍犬」
「主人が猫だからな。好きなとこで気まぐれに過ごすやつだしな」
「ははっ、なんだそれ……なんだ……」

 乾いた声で冗談を受けていた大河に、ごつ、と軽い頭突きが入る。
 なにごとか竜児に小さくささやかれたあと、うん、と口元を緩ませて頷いた。
 そろそろ帰って寝るわ、と告げて立ち上がり。巻いていた夏掛けを竜児にかけて玄関へ。
 ごそごそとサンダルをつっかけて、扉を開けて階段を降りる。竜児が少しあとをついて送っ
て行くと、涼しいとまではいかないが、蒸し暑さもこの時間には一段落をして、近所の家々か
ら終夜動き続けるエアコンが室外機の音を響かせている。
 竜児がマンションの角を曲がると、大河はワンピースの裾をひるがえしてエントランスに入
っていくところだった。入る前に振り向いて片手をあげる。街路灯に照らされた白い顔が笑っ
ているようだった。

 竜児も片手をあげて応える。また明日な、いやもう今日か。
 暑くなりそうだしプール日和になるだろう。そういや日焼け止めがそろそろ切れてるんじゃ
ねえか?行く前にドラッグストアに寄るの忘れないようにしねえと。
 旅行のときにすでに真っ黒になってたらまた誤解されちまうもんな。
 こっちもしばらく寝て、起きたら弁当作ろう。朝飯は何にしてやろうかな?などと半分は眠
気を払えないまま主婦脳だけが回っている。あと考えていることは、いまはひとつ。

 ――元気出せ、大河

 夏休みに入って一週間が経っていた。高須竜児と逢坂大河は、寝るとき以外をほとんど共に、
大切に思い合って日々を過ごしていた。



――END



作品一覧ページに戻る   TOPにもどる

inserted by FC2 system