空が高い。

 もしも雲ひとつなかったなら、青い空が高いのか低いのかなんて見たって分からない。太陽
光が空気の分子に当たったとき――レイリー散乱ってんだけどよ――青色の波長の光だけを、
よりたくさんまき散らすから青く見えるんだよと竜児に教わったことはあるけど。
 高く見えるのは、散りばめられた雲が距離を知らせてくれるからだ。
 秋の空に浮かぶ雲は5000m以上の高い空にできる。いわし雲とかうろこ雲とか言われて
るやつ。理系風に言うと、け……巻雲だっけ?ケンセキだったかケンソウだったか。よだれ垂
らして寝ていて授業は正確に覚えてないけど一応知っている。
 自宅の寝室の、北側の窓を開け放して、隣家との僅かな隙間から帯に切り取られた空を見上
げて、逢坂大河は窓辺に佇む。
 この前、オリオンの光を見上げた時にはあまりの遠さにくじけそうになった。
 人と分かり合おうとするのに喩えれば、それは星の距離なんていう絶対に手の届かないもの
じゃない。せいぜい、こうして見上げる雲の高さだ。背は届かないし、高校生は飛行機に乗る
のもそうはない。でもどうしようもなく泣くしかない距離とは、もう思わない。
 そうは言っても。
 今ごろ分かっても、時間は戻らない。

 めちゃくちゃな私は激情に突き動かされて、電柱でなく人に。傷も負うし死にもする、人に
刃を向けてしまった
 春先には家宅侵入、傷害未遂。そしてついに今度は、傷害。
 どこへ突き出されても文句の言えない犯罪者となり、未成年だから、そして被害者が情状を
酌んで、温情を示してくれたから、停学で済ましてもらって今ここにいる。
 もしもあの女が剣道有段者でなかったら、情状を酌んでもらえないほど深刻な事態になって
いたかもしれない。そんなことにも気を回せないほどキレていたから、最初の斬撃で後の先を
取られ木刀をすっ飛ばされたのが良かったのだろう。心得者に殴りこんだから幸運にも済んだ
だけ。落ち着いて記憶をたどってみてその恐ろしさに震えた。
 しょせん、後はこれだから……と素手で殴りまくったのにやはり幸運にも指を折らずに済ん
だ拳を見た。痛みがまだ残る、腫れた小さな手を握って開いてみた。このちっぽけな身体が暴
力に訴えて出せる力なんて高が知れてる。

 今日から二週間の停学となった。
 土曜日の事件当日にはそのまま病院に行って被害者ともども治療を受け、幸い軽傷だったか
ら事情を訊かれて、私は身元を引き取りに来ない保護者を遅くまで待って、担任に付き添われ
てマンションに帰った。
 翌日は朝から迎えに来てくれた担任といっしょに被害者宅へ謝りに行った。
 ゆりちゃんは私を同行させる説得に相当時間がかかると思っていたらしく、訪問を午後に約
束していて、あっさり行くと伝えた私に驚いていた。空いてしまった時間に駅前でいっしょに
お昼してくれて、いろんな話を聞いてくれた。
 あんまり深刻な顔をされたから、少し安心させるつもりでお休みの日に迷惑かけてごめん、
婚期がまた遅れちゃうねと軽口を叩いたら、つまらない心配は要らないと小突かれた。
 帰ってきたら竜児とやっちゃんが出迎えてくれて、お夕飯に招んでくれた。
 そうして、眠れない二日間が明けた。
 目は覚ましていたけど隣家の竜児が出かけて行く姿を見送ることはできなかった。日が高く
なってから起き出して、窓を開けて、ここに立ってる。

 よく晴れてもう初冬に移ろうとする冷たい風が広い寝室に吹き込んで遠慮なく手と脚を冷や
していく。けれども、このぐらいだったら、代謝能力抜群の大河の小さな身体は芯まで冷えき
るまでに至らない。



 空を見上げたかったわけじゃない。
 腰をかがめて窓枠に肘をつき、もたれて、半開きのカーテンで目隠しされていない隣家の部
屋を眺めた。整頓された机にぴったり収められた椅子、本のサイズごとにきっちり並べられて
埃ひとつない本棚も見える。
 その部屋の主はいまごろ学校だけれど、掃除の行き届いたガラ空きの部屋を眺めているだけ
で気が休まる。寝巻がわりのスウェットが部屋の隅に畳まれた布団と夜具の上に同じように丁
寧に畳まれて置かれてる。今日に限って押し入れに仕舞ってないのは少々なりとも寝坊をした
んじゃないかな、あいつ。
 がさつな自分がそんな他人の細かいところを小姑のように見てるなんて不思議なこと。とは
大河自身は気づかない。

 竜児が守ってくれた。
 興奮したあの女からだけじゃなく、私が私を壊すのを見つけて、飛び込んで、抱きとめてく
れた。壊すんじゃねえ、耐えろと、もの言わぬ声で強く叱られた。
 感謝……だろうな。
 冷気の中で背を丸め、飽きもしないでわずか3m先の、今はあるじ不在の部屋を見ていると
ようやくのこと気持ちが穏やかに帰る。竜児がいてくれる。帰れるうちがある。

 しばらくそうしていたら、隣家の居間に、ヘアバンドで髪を後ろに放り出した、つるつる茹
で卵な洗顔後の泰子があらわれた。肌年齢というのはあってもすっぴんの方がかわいいな、や
っちゃん。と眺めていると、気が付いて手を振ってきた。
 大河も思わず笑みがこぼれて手を振り返す。
 泰子は左手を茶碗に見立て、右手を二本指にしてご飯を食べる振りで、頭上にハテナマーク
を浮かべて首を傾げる。そしてニコっと笑いながら手招きをする。
 大河は両腕でバッテンをつくって、立てた親指で自らの喉をかっさばく。ええええ?と泰子
が驚いて。大河は続けて両手で輪をつくったハンギングの振りを返し、ぐえ!と白眼も剥くと、
泰子がびっくりしたまま自分のつるつる童顔を指差して、やっちゃんが?とボケ返す。
 両手をゆっくり下手に開いて「オウ!」と肩をすくめて見せる大河は自分の顔をぴっぴっと
指差して、てへ♪と。ちょっと腰を曲げたかわいいこポーズが似合わなくてキモい。それから
拝んで頭を下げる。竜児に聞いているだろうからこれで外出禁止だって伝わるはず。
 だけど、竜児は大河が停学になったことまでは話していないようだった。泰子はちょこちょ
こベランダに這い出てくると、なぁ〜〜にぃ〜〜?どおしたのぉ〜?とのんびり聞く。ジェス
チャー芸が全部無駄。
 かくかくしかじかと説明したら、そぉなの〜☆と意にも介さず。じゃあ、ちょっと待ってて
ねえ〜☆とおにぎりを握ってくれてコンビニ袋。デッキブラシに引っ掛け、身を乗り出して窓
越しに渡してくれた。
 ありがと、やっちゃん。いただきます。大河は半身を乗り出して受け取った。

 寝室でごろごろしているうち午後になった。
 と、ぴんぽんとインターホンが鳴った。来客の予定なんかないし、ここを訪れるのは竜児か、
やっちゃんか、もしかしたらみのりんくらいだ。訪問販売なんだろうと寝転がったままで無視
をする。しばらくして携帯にメール着信。なによもう。見ると泰子からで、続いて開け放した
窓から呼ぶ声も聞こえてくる。
 ――たいがちゃぁん、たいがちゃぁん
 メールに“お友だち来てるよぉ〜☆”とだけ記されているのを見て、窓辺に立ち、隣家のベ
ランダを見やれば、そこにはたいがちゃぁんと手を振る泰子、そしてもう一人横に。
 上目遣いの智天使の笑みを浮かべて、長〜い脚をほんの少しXっぽく縮め、首を傾げた被写
体ポーズ。風にさらっさらの髪を投げて、愛想いっぱいに片手をあげ、はーい♪なんつってる
完璧美少女こそ別名腹黒バカチワワ。愛称ばかちー。川嶋亜美だった。



「ヨーグルトは」
「いらねー」
「牛乳」
「いらねー」
 招き入れてしまった以上、何らかもてなさねば。
 ひっでーツラ!と絆創膏だらけの顔を笑われ、ひっでーカッコ!と寝巻姿をこ憎らしく笑わ
れても来客は来客だから。
 とは思っていたがあいにくお菓子もドリンクも切らしていた。竜児特製のはちみつキンカン
はとっくの昔にぜんぶ飲んじゃったし、しかたなく湯を沸かして紅茶を淹れる。
 はい、どーぞ。といつぞやのように無愛想にカップを置いた。
「てか座ったら?なんで突っ立ってんの?」
「座れねーんだよ……とっ」
 亜美は後頭部の襟元に手をやり、ごそごそっと。んっ、と。つかんだ木刀をしゅるり、と背
から抜き出して大河に渡す。
「はい、忘れ物」
「……こんなもの届けに来たっての?」
「要らねーの?オートロックとはいえいざってときの護身用じゃね?」
「それはそうだけど」
「はーーっ、背筋伸びたわ。やーれやれ」
 このうちの家具はすべて独り用。椅子もすべて一脚だけ。ローテーブルの脇にかしこまった
皮張りのソファにスローモーションのようにふわっと腰をおろして亜美は長い脚を組む。
 大河は受け取った木刀を壁に立てかけて、毛足の長いラグにぺたんこ座りで、来客が手を付
けるのをを待たずに熱い紅茶をすすり始めている。
「お砂糖でもジャムでもお好きな方でどーぞ。ミルク沸かす?」
「んー、いい香り。ジャムかなー。薔薇の」
 あるか!と吐き捨てられる。
 優雅な手つき、紺青の瞳はキラキラ。端をついっと上げたアヒルぐちで、ここでは一文の得
もないお愛想。つーかあんた紅茶淹れるのうまいじゃん?にこっ。……なんかきもいと大河は
掛け値なしに思う。
「で?それだけでわざわざ来たわけ?ていうかあんた学校どうしたのよ?」
「んー。亜美ちゃん具合悪くてえ、早退して休んでるのー。これ渡さなきゃなんないからあ」
 口調のかわいさとは裏腹に無造作なしぐさでポケットを探り、テーブルにぽいっと投げたの
は十字にひもをかけた大河の生徒手帳だった。
「木刀はただのついでだよ」
 それがパシっと音を立てて落ちると、さすがに大河の顔色も変わった。
 まったく忘れていた、というより落としたことにも気づいていなかった。そこに挟んである
ものを見られてはいけない相手もいるというのに。
 あわててひもを解き、開いて中を確認する大河を見下ろして亜美が言う。
「一枚目を麻耶と奈々子が見てる。実乃梨ちゃんが聞いてる。二枚目はあたしが見ただけ」
「そ……」
「そう。噂になるとしても一枚目だけ」
 あ、……ありがと。大河は嫌そうに見上げて礼を述べた。

 ソファに身を沈め、ソーサー片手に紅茶を楽しんでる貴族の足元で膝まづく平民、といった
感じにも見えたが他人行儀はここまでと決めたらしい。亜美は起き上がり、ローテーブルの角
を挟んで大河の横に胡座をかいて、目線を同じ高さにして座った。
 大河が顔を上げるのを待って、ねえあんた、と。いままでのことなんかどうでもいい。これ
からのこと。
「祐作はやめな」
「なんであんたに、そんなこと……」
「あんたもバカじゃないんだからもう分かってるよね?」
 祐作は、やめときな。黙りこんだ大河にぴしゃりと言い放ちつつも、でもさほど厳しい顔を
しているわけでなく、亜美は淡々と続ける。


 祐作はね、あんたに好かれてるの知ってる。でもあんな告白してあんたがどう思うのかも分
からない、自分が堂々としていさえすれば問題なんか存在するはずないと思ってるやつ。だか
らあいつの側にいても対等にはなれないよ。従うか、従えるかで。並ぶことだけはできない。
「だから、あんたにも合わない」
「……竜児なら合うって?あんたに分かんの?」
 ほんの半年前には憎悪しか持っていなかった女とこんな挑発的な話をしているのが大河には
不思議に思えた。憎まれ口のような調子ではあっても、ちゃんと会話になっている。

 紅茶を挿し替えに立つと、亜美はなんかお菓子ないのかよ?と図々しい。
 もう一度キッチンまわりを探してみるとあった。地元の銘菓、袋入りの五家宝(ごかぼう)。
 和菓子かよ、なんか地味〜。
 どんな味なのか私も知らないよ。
 そんなもん客に出すのかよ?
 あ……けっこうふにょふにょであんまり甘くないや。ほら毒味してやったわよ。どーぞ。
 まあ不味くはねーけど紅茶には合わねー。緑茶ねーの?渋ーいの。
 ……ないわ。図々しい。
 だいたいなんでこんなもの買ったのよ?
 買ったんじゃないよ、やっちゃんにおすそ分けってもらったのよ、ちょっと前に。
 やっちゃんて?さっきあんたも会ったでしょ?ああ高須くんの。
 んー。くち乾く。紅茶でいいからもう一杯淹れろや。 
 地味な菓子をそこそこ美味しそうに食べて、二杯目からは適当に淹れた紅茶を飲みながら、
大河と亜美は元の話に戻る。

 高須くんだってね……たいして変わんないよ。男の子はだいたい同じ。
「でも優しい人は従えることができる。自分次第で対等になれるのよ」
「ふん。ばかちーはやっぱばかね。なんで対等でなきゃいけないの?」
「え?」
 だってあんたは……。
「人と対等になれるなんて幻想。私も、対等を夢見るあんたもたぶん、従うしかない人間よ」
 悔しそうでも、諦めてるようでもない、ごく普通の表情の大河を見て、亜美は意外に感じて
いた。孤高の虎じゃなかったのか?あたしが一方的に見誤っていた?
 そんなはずねえだろっ、と頭に血が上る。
「だったらなんでとっとと高須くんに従わねえんだよっ!」
「あんたに関係ないでしょっ!」
「関係なかったら言わねえよっ!」
「クチはさむんじゃないよっ!私に触れんなっ」
「触って悪りぃのかよっ?おめえに触れてえんだよっ!あたしはっ」
 なっ?
 売り言葉に買い言葉ってやつだった。怒鳴った口のままで固まった大河を、頬を上気させた
亜美が睨みつける。
 ……なに言ってんのよ。
 ……い、言った通りだよくそちび。あんたに触れると幸せになれる……伝説ってのがあるん
だからさ、などと亜美は口ごもった。そのばつ悪そうな顔をぽかんと眺めながら、触れたいと
告げられた驚きが大河にとってどこか懐かしい感じをもたらしている。
 そう、はっきり覚えてる。“放っとけねえんだよ”と言われたあのとき。
 自分だって言ったことがある。それは“犬のようにしてくれる?”って意味不明な言葉でし
かなかったけれど。でもその求める思いは同じはずだった。


「触れたいっ……て?ばかちー?」
「う、なによ」
「じゃああんたにも触れていいってことだよね?私も」
「キモいんですけど。……まあ、いいよ。そういうことで」
 近くへ行きたい。
 触れたい。
 触れられたい。
 ああ、そうだ。分かった。あああああ、そっか。
 ばかちーとなら女同士だからこの気持ちだけで友だちになれる。
 だから北村くんはわざわざああ言わなくちゃならなかったのか。私にはそんな区別がついて
なくて、それもありかも、なんて思っちゃったんだ。
「ま、あんたから頭下げて仲良くしてくれって言うんなら、やぶさかではないわね?」
「なんだその態度?なんか湧いた?脳に?」
「だってあんたから告白したじゃん?立場下じゃん?」
 わたし対等信じないってさっき言ってあるしさと、憎まれ口を叩いても大河は嬉しそう。
「あんたねー!まあそれでもいいけどね」
「……ってね?形だけあんたを下風に立たせて実質では私が従わされるってわけか」
「けっこうわかってんじゃん?そういうことよ」
「それ悪くないかもね。……ほーら対等なんてありえない♪」
 きゃきゃきゃ、と笑いだす大河を見て、亜美も緊張を解く。
 対等だよ。と亜美はまた紺青色の瞳をきらきらさせる。
 じゃあ北村くんとも対等になれるよね?と大河も負けじと鳶色の瞳をうるうるさせる。
 きらきらとうるうるで、しばし見つめあって。きららとうるる。
 うげー!
 おげぇ!
「キモいんだよ似合わねえんだよタイガーなんだその顔っ!」
「ばかちーこそいいかげん室内愛玩犬やめなさいよっ!」
 そこで、どちらからともなくぷっと笑いだし……なんてことはないのだった。
 互いにおどけて見せたのは相当むりがあったようで、心底きもいと思って、嫌そうな顔にな
って睨み合い、でもどこかでは、少なくとも背負っていた荷を下ろせた気分になった。

 大河は生徒手帳を弄りながら憮然として訊く。
 ねえ?
 ん?
「みのりんが聞いてた……んだよね?」
「そう。……だけど?」
 亜美の眉根がわずかにひそむ。大河が何を考えているか分かってしまった。
 けれどどうしてそう考えるのかが分からない。訊いても、言うまいだろうと思う。そして、
おまえはそれを心配しなくて良いのだと、得意げに伝えることも、もうできない。
 大人ぶって、冷静に観察して、間違えないよう導けると思いあがっていた。
 でもどうだ?実乃梨の背中をぽんと押してやるつもりで放った一言は当事者のそれから一歩
も出ていなかった。3人が大けがをして動けなくなってるときに無傷だから動こうとする者を
留めるなんておかしい。そんな資格を持ちあわせてはいないのに。
 その悔恨や不安やらも手伝って、亜美の足をここに向けさせたのだ。可愛いと思っている無
垢なケモノならば、導くこともまだできる。そう思っていた。


 舐めていた。
「私はね、あんたがやめろって言う北村くんが好きなのよ」
「……そこに戻るわけ?ほんとにそれでいいの?」
 いいの。別に無理してるわけじゃない。ほんとにいいって思う。と大河は言う。
 ばかちーから見ればどうしてか分からないかもしれないけど、そうなのよ。竜児の事情もあ
るから、今そこまでは勝手に教えてあげられないけど。
 無理していないやつがこんな顔をするのか。
 告白しただけではこのちび虎の近くへは行けないのか。
 つと立った大河は、ちょっと待ってなと言い置いて寝室へ行く。しばらくして戻ってくると
手に一枚のDVD。今さらだろうけど、と亜美に渡す。
「流出もしていないしカメラにもPCにもデータは置いてない。これだけ」
 ほんとに今さらだ。亜美だってモノマネ動画で脅迫される心配なんかとっくの昔にしていな
かった。ただ単に、気持ちを向けてくれた、触れに来てくれたことに感謝を示しているのだろ
うと。
 これが大河なりに対等を受け入れたしるしということなのだろう。
 この先には、今は踏み込めないと亜美は知る。今の自分では彼女を思い通りにできないこと
を思い知らされた。夏から秋へと季節が移るわずかな間に、ケダモノ少女は自分たちに追いつ
き、並び、追い越そうとしているのだと知った。
 来て良かった、と目を細めて大河を見ると、いたずらっぽく込めた親しみを隠しもせず笑い
かけている。こんな顔を高須竜児は見たのだろうか?とふと思う。見ていて恋しないなんてう
そだろ、とも思う。
 これからだ、と亜美は思えた。すべてはこれから。
 手はつながねえけど、あんたを傍で見続けていきたい、と強く。

 またねタイガー、と来客が帰ったあと。
 大河はいまだ消えない、砕けた憧れの欠片を集めてみる。
 想い人がいたのを隠して、私が持っている期待を奪い去らなかった。そんな狡さを否応なく
見せられた。ずっと好きでいてくれたのはもちろんほのかに嬉しい。けど、二番目以下だとい
うことも明確に突き付けられた。
 桜がまだ散らない頃にそれを言ってくれたら竜児と素直に向き合えていたのかもしれない。
もしもそうだったら、今日までどんなふうに、いっしょに過ごして来れただろう。
 もやもやしていた思いが、亜美にはっきり指差されて形になってしまっていた。見たくなか
ったとムカつきもするし、見せてくれたのはありがたい、とも思う。
 ゴールデンウィークには彼氏だって、ばかちーを睨んで言えたかも知れないんだ。そうした
ら、あいつの性格ならチョッカイ出して来なかったはず。むしろ私らになんの興味も持たなく
て、ストーカーも北村くんに撃退してもらって、私たちはそんなこと知らないでいたかも。
 当然、別荘に誘われたりもしなかったかわりに、夏は彼氏と毎日いっしょに思い出を作れた
んじゃないかって思う。プールでしょ、バーベキューでしょ、図書館で涼んだり、海にも1回
くらいは行けたんじゃないかな?やっちゃんと3人で。
 勝手な妄想を次々湧かして身もだえる。もちろん高二らしいエロ含みで。

 こんな考えが生まれるなんて昨日まで予感すらなかった。
 実際に歩んできた半年間と比べてそんなに大幅に良かっただろうか?とも思う。都合良く最
も満たされる妄想ばかり重ねてみたのに、けた違いにいいのかと言えば、そっちはそっちで望
まない方に転ぶことだっていくつもあるはずだった。
 たとえば……実の父親のこと。
 また近づこうなんて思うことはなく、なんの迷いもなく要らないと切って棄ててしまってい
たと思う。私にはもう竜児がいるからあんなの要らない、と本気で押し通せたはず。竜児もみ
のりんも傷つけずには済んでいて、そのかわり、たぶん私は後悔しまくって泣くだろう。
 それよりも亜美のこと。
 向こうから近付いてくれなければ、ファーストインプレッションが最悪すぎて仲良くなるな
んて不可能だった。
 自分がやつとどうなりたい、などとはっきり考えたこともなかったから、まさに神々が気ま
ぐれに振ったダイスの目に導かれて、めちゃくちゃ虎女とキラキラチワワ女はぶつかり、今日、
友だちになれた、としか思えない。



 だから甘ったれた気持ちを振り払う。北村のせいではないと。
 自分と竜児の間のことは、本当の自分に訊いてみればすぐに分かること。それを見るのがい
やで、それを認めたらドミノのように今までの自分を断罪することになるのがいやで、今日ま
で来てしまった。
 無垢ゆえに脆く、脆いゆえ壊れていくのはアホくさいと見えてしまっていた。
 そうしてドミノは至る。
 あの女、狩野すみれはほぼ完璧に正しかった。
 あの女と同じことをした北村もまた、そうなのだ。
 受け入れない、けど拒絶はしない、どんなに問われても答えない。それがどれだけ誠を尽く
すことになるか。傷を最小でとどめられるやり方なのか。それを完璧に近づけるにはどうすべ
きなのか。あんな半端なところで泣き崩れて、突っ張りきれなくなるような無様をどうしたら
晒さないで済むかも、教えてもらった。

 ふぅーーーーっと、大河はベッドに寝転がって長いため息。窓を開け放して、部屋は冷え切
っていた。シルクのパジャマに包まれた身体は盛大に熱を発していたが、ひざの下とひじの先
も部屋の温度と同じに冷え切っていた。
 竜児は今朝もご飯を用意してくれていた。とっとと食いに来いよーと窓をガンガン叩いてく
れた。私と同じように思い切り胸を抉られたはずなのに、いつもと同じ日常を貫くんだという
確固たる意思を感じた。……みじめに思えて、寝たふりでスルーしてしまったけど。
 なんでそんなに気を使うのよ?みのりんと思いがつながりそうなのに、そんなことしてる場
合なの?いまだに私を気にしてるとでも言うわけ?
 いいの。別に無理してるわけじゃない。ほんとにいいって思う。と大河はさっきのようにま
た思う。眉間の奥、胸の奥と、順々に白く小さな炎がぽっと燃え上って、すぐまた消えていく
奇妙な違和感にもとまどう。
「バカじゃないの……なに考えてんの」
 小さな胸を波のように締め付けてくる感情に驚き、耐えかねて枕を力一杯抱きしめてしまう。
 二日、眠っていなかった。
 そして大河はうとうと……とし、寝落ちる前に微かに呟いた。
 ――竜児のことが。

「おい、大河起きろ。メシ食え」
 おい、大河。最初に声をかけられた時にびくっと目を覚ましていた。
 インターホンで起こしにかかってから入って来ると余裕ぶっこいていたから、いきなり合鍵
で入ってこられるとは考えてもいなかった。でも、朝に無視された立場からすれば、夕食どき
はこうでもなんら不思議はない。
 いつもどおりなの?
 いつもどおりにしてくれるんだ。
 合わせる顔がない、という。大河のまだ短い人生ながらも夜ごとひと晩じゅう抱いた最大の
惧れを軽々と蹴散らした高須竜児は、寝室の入り口に立って声をかけた。

 その後で、それが寝たふりとすぐに見破りつつ、竜児は立ち尽くしてしまう。すたすたベッ
ドに歩み寄って、丸まってる猫を揺すって起こすだけなのに。大河がいぎたなく寝ているパジ
ャマ姿を目の当たりにして、そんなのは何度も見慣れているはずなのに、それは突然に訪れて
しまった。
 元気づけるんだから。
 昨日までと何ひとつ変わらない日常を与えるんだから。
 俺がしっかりしねえと。
 絆創膏だらけのやつを見て、自分が絆創膏の代わりになってやらねえと、ぐらい疑いなく思
っていたというのにそれは直後に突然にやってきた。ここは女の寝室で、あれはベッドで、寝
ているのは大河なのに、自分がここに足を踏み入れてはいけないのに、……と。
 朝も昼も食ってないであろう大河を一日中心配していた。
 買い物もせず駈け帰り、ありあわせで夕食をつくり、ここへ来たのだった。
 突然の思いに惑ったのはほんの数十秒であったろうか。


 お気に入りのシルクのパジャマで背を向けて寝たふりの大河は、北向きの窓から差し込む夕
刻の、つるべ落としの秋の日の最後の明かりを逆光で受けていた。
 滑らかな生地を透かして、隠された素肌のシルエットが肩口から見える。華奢な肩と腕の輪
郭をおぼろげながらに映して、それは確かにここに居るよと訴えかけているようだった。
 今日まで気づきもしなかったのに。
 いやそれは嘘だ。気づいても、気にならないでいられたのに、だ。
 それもまた嘘だった。気づいて、気になって、そのうえで気にしてはいけないのだと目を背
けていた、が事実だった。
 俺はそれを見たかったんだな?見なくちゃいけなかったんだ?と竜児は問いを内なる声で発
してしまった。ここは女の寝室で、あれはベッドで、寝ているのは大河なのに、自分はここに
いて……と、だから思えてしまった。
 だが、誰も答えてはくれない。
 俺は……なに考えているんだ?見えている……ったって、背中だろ。だからわずか数十秒の
思考にとどまる。

 答えの代わりに想い起こした。
 竜児には、いつでも一番大切に思っている女の子がいた。
 垂れ目が可愛いらしく、腕も身体もふくよかに柔らかくて、明るく優しくて、いつも一緒に
いてくれて、いつも竜児のことを思ってくれていて、最高の笑顔を向けてくれる、満開の向日
葵のようなその女の子を物心がついて10年くらいか、思い続けてきた。
 お金が足りなかったり、身体を壊したり、ふたりで静かに暮らしているところに押し入って
こようとする他人がいたり、捜索の手が伸びてきたり。
 そのたびにふたりとも恐ろしく、悲しくなり、涙をこぼすのを竜児は見て育ってきた。歯を
食いしばって、自分には最高の笑顔を向けてくれながら、どうにかこうにか逃げまどって、こ
こまで連れて来てくれたその女の子を。

 長い間、ほとんど泣き喚くしかできることがなかった、ちっぽけでつまらぬ、価値のない自
分は、身体も大きくなり、手にも脚にも力を得て、背の高さも並んだ頃には、その女の子を守
らねばならないと心の底から思うようになった。自分にとって誰よりも大切な、世界でただひ
とりの愛する女の子だから。
 いつも、どうしようもないことで泣かされていてかわいそうだった。泣かずにがまんして笑
うのを見てしまった幼い自分の胸もごっそりと抉られてしまって、ぽっかりと大きな傷が開く
ようだった。それは、痛くて、苦しくて、耐えられそうにないじゃないか。

 寂しくてどうにかなってしまいそうだったけど、ひとりで留守番をすることから竜児は始め
た。女の子の泣き顔を思って耐えた。
 長い時間仕事に出ていたというのに、疲れた身体で帰って来て、ご飯を作っている姿を見た
から代った。掃除をするよりは少しでも寝て休まないといけないから、代った。夜中にレシー
トを並べては電卓を叩いて悲しそうな顔をしているのを目を擦りながら見て、倹約するという
ことを学んだ。
 少しずつ女の子を支えて、少しでも本当に笑ってほしい。いっしょに寄り添って笑えたら、
すごくいいじゃないか。
 竜児にとって、渇いた喉に水を注ぎ込むようなやり方がそうして始まったのだ。

 やがて女の子がいくぶんか巧く世間を泳ぎ渡って行けるようになり、やや暮らしに余裕が生
まれた頃に、竜児にも友だちができた。どちらも眼鏡男だったのは偶然なのだろうが、見た目
とは違って優しくていいやつと分かってくれたのはとても嬉しく、それはささやかな自信にも
つながった。
 だから、綺麗で、可愛くて、明るい別の女の子に恋をすることもできたのだろう。
 いつかこの気持ちを告げられたら、受け入れてくれたなら、最高の笑顔を向けてほしい、い
つも自分のことを想ってほしい。そんな淡い願いとともに。
 一番大切な女の子と結ばれることは永遠にないのだから。そんなことは明らかだから、意識
もせず16歳の竜児は健やかに思いを秘め続けた。
 思っているだけで良かったのだ。実際のところは。
 否、思っていることしか、赦してもらえないでいるのだ。竜児の心中でいっしょに育ち続け
た女の子は、誰にも、何も、求めないというのに。



 だけど、今やどうだろう。
 もう晩秋から初冬に至ろうという、外は空高く晴れ上がって寒風吹く頃というのに、窓を全
開にして、寒いだろうに昼間っから惰眠を貪っている、さらにまた別の、小柄なこの女を眺め
ている。
 見た目も性格も理想とは違っていたけれど、綺麗だと思うし、可愛いと思っている。時たま
ではあっても最高の笑顔を向けてもくれた。いてくれと頼んだわけでもないのに、毎日いっし
ょで、すぐ近くにいた。
 ただ、喉が渇いていたから水を与え、腹を減らしていたから食わせただけだった。
 それで安らいで、それで笑顔を向けてくれて、それで自分にもこのうえない喜びをもたらし
てくれる、とは後から気づいた。彼女が近くにいないことなどもはや考えられない。

 声をかけてから黙ったままで、歩みよって揺するのでなく、さらに起きろとたたみかけるの
でなく、かといってリビングに戻り放っといてくれるのでもなく、ただ立ちつくして送り続け
る視線を寝たふりの大河は感じて、耐えきれないかのようにひとつ大きく呼吸をする。
 その背の動きを見せられて、だめだ、とどこかで思いながらも、竜児はさらに内なる声を発
するのをやめられなくなった。

 惹かれて、側に居ると言い放ったときの俺の中二な台詞は、どこかその場限りの口から出ま
かせのつもりでもあった。かわいそうな女の子を救う方便で理屈なんてどうでもいい。放っと
けない俺が居たいと思ったから居ることにした。
 でも、真に受けたこいつは、言った通りに並び立とうとしている。
 たくさんの昼と夜を共に過ごして、そんなみっともない姿を幾度と見て。歯を食いしばって
自分の足で立つんだという、高潔な姿をこれ以上なく鮮やかに見せつけられて。
 そうして、今ではかわいそうな、棄てられた女の子だなんてまったく思わない。
 竜児が気持ちを放り込んでいた皮袋は、もう、ぼろぼろで、どうしようもなくずたずたで、
ものを仕舞っておく役に立ちそうもなくなっていた。中になにがあるのか文字通りだだ漏れに
なろうとしていた。
 でも、気づくことと向き合えることはまったく別物。

 逆光に透かされる、パジャマの中の大河を見てしまってなお思う。
 とうに日は暮れて差し込む光が赤から青、紫へ色を変えていく中で。
 こいつの瞳を真っすぐに見て思えるか?その方の情動、控えおろ!と竜児の脳内お奉行がま
たもしゃしゃり出て、預かりものゆえいつか返さねばならぬものよとしたり顔。そのほう道理
というもの、存じておろうが、と。
 思い出せと諭されて、罪を恥じ、竜児はまた新しい丈夫な皮袋にその思いを仕舞いこむ。仕
舞い込めさえしたならそれは真実に他ならない。
 曰く家族のようなもの、と。
 曰く妹のようなもの、と。
 左様。安全に包み隠し終わったうえなら、狂おしいほど熱を持ちながら思ってよい、だがゆ
めゆめ言ってはならぬとお奉行がお白州を終える。これにて一件落着。
 そうして赦しを得た竜児はもう遠慮はしない。目の前の女にあらためて思いを寄せる。言わ
なければどんなに強く思おうが、いいんだから。
 ――大河、お前が。と。

 竜児は、歩み寄って北向きの窓を閉めた。寝ている女の傍らに立ち、おい大丈夫か?腹減り
すぎて起きれないのか、と揺する。
 ――お前が好きだ
 風邪ひくぞ、と妙にしゃがれた声をかける。
 ――お前が好きだ
 目を開けた。表情が硬かった。メシ用意してあるからいっしょに食おうぜと、いつものよう
に、なにげなく向けてみる。
 ――お前が好きだ



 大河は逃げなかった。……というより逃げ込めるところがない。竜児の優しい眼差しにほん
の少し違和感を感じて、訝しそうに見上げていた。
 大きな鳶色の瞳を三角に眇めて、迷惑そうな、寝起きで分からないといったような顔。この
ままぶすーーっとして、やがてけだるそうに起き上がって、ぺたぺたリビングへ歩いて行って
夕食を済ませばいいのだろう。

 私の駄目なところばっかり見てきて。
 あれだけ思ってくれた大切な男の子と。
 無愛想に、迷惑そうに、ご飯を。いっしょに。少しだけ感謝をあらわして。
 ――竜児が好き

 ゆらっと瞳が揺れたと思ったら、ぼろっと。重みに耐えかねた大粒の涙がこぼれた。ひとつ
だけ、つっと白い頬を伝って枕に落ちて、染みをつくる。
 大河はそんなことに構わず、竜児の目を真っすぐに睨み続ける。
 ふつうに、いつもの不機嫌ツラをしているつもりでいたのに、そうなってしまった。
 竜児は大河が起き上がれるまでベッドに腰掛けて、目をそらさずに黙って見つめ続けた。
 互いに、何をを言葉にしたらいいのか、分からない。
 口を開いてしまえば、伝えたい言葉はおそらくひとつしかなかった。それはどうしても言え
ない。言ったらいくつものことをさらに壊してしまいそうだ。
 言えず、動けず、固まったまま。それでも目を反らしたくはない。
 涙がもうひとつ。ぼろっ、と。
 ずいぶん時間が経ってから、竜児はティッシュを取り出して、大河のドジをフォローするよ
うに拭った。いつものような手つきで、でも初めて大河の涙を拭う。その手が微かに震えて息
苦しく、胸が裂けてしまいそうで、でも大丈夫。大丈夫と言い聞かせる。
 ――お前が好きなんだ、俺
 うん大丈夫、と頷いた大河がその手を受け継いで自分で拭いはじめた。悲しくて、つらくて
泣けてしまったのではないんだよと。心配すんなと、伝えたい。
 ――竜児が好きだよ、私
 竜児は大河の冷え切った手を取った。握って、リビングに引っ張って行こうとした。それは
まるでダンスに誘っているようにも見えた。
 その動きが途中で止まる。
 冷たい手だった。かわいそうだ。そんなふうに見られるのなんかまっぴらだと思う誇り高い
女と、いやというほど知っていた。それでも分かってしまえば、やっぱり竜児はあっためてや
らねえと、と思う。
 ――お前が好きだ、大河
 引っ張られて立ち上がりかけた大河は、もう片方の手も握られて、すとんと落ちて再びベッ
ドに腰掛けた。目を向けられなくなって俯いてしまう。冷え切った手を預けて、普段よりも熱
い竜児の手で擦られる。抵抗もせず、出来ずに、ただただ好意を受け取る。
 それが、自分にだけ向けられる優しさと、この距離で触れられればごまかされようもなくわ
かってしまった。甘えたい気持ちが湧いて何度も、何度も唇が開きかけ、無責任な言葉を宙に
響かせてしまいそうになって、そのたびに必死で抑え込んだ。
 ――竜児が好き
 ――竜児が好き
 ――竜児が……好き
「りゅっ……」
 悲鳴のように漏れた音が動きを止める。
 耳元にまで破裂しそうな鼓動を感じているうちに体温が上がってきて、末端の手足にも熱が
送り込まれて、やがて温まる。
 握った手に熱を感じた竜児は、大河の両手をつかんだまま、リビングへと引っ張り出した。
手を離したくなかったけれど、夕食のしたくをすませておいたガラスのローテーブルに向かい
合って座った。ご飯を盛ってやり、食べ始めたころに、互いにやっと人語を解し、口にするこ
とができるようになった。


「おいしいよ」
 おかずを頬張りながらの大河の頬にさらにもうひとつ、ぼろっと伝う。
 ――すきだよ
「そうか、よかったな」
 またなにげなく拭ってやりながらの竜児がぽつりと受ける。
 ――すきだ
 いつまでもこうしていたいと思った。少しずつ笑みが戻って、ゆっくり、ゆっくりと時間を
かけて、笑いあうでなく、背きあうでなく、でも寄り添っているかのような不思議な心地よさ
を感じて、ふたりでご飯を食べた。

 でも、こんなときでさえも大河はしっかりと三杯飯を胃におさめるのだ。自分が悩んでいる
うちならば、こうなのだった。もう、ラブレターを間違えた鞄に入れたぐらいで倒れるような、
ひ弱な子虎ではない。
 勝手知ったる大河んちで洗った食器を提げて帰ろうとした竜児に大河が声をかける。
「ねえ?」
「なんだ?」
「アイスクリーム食べたい。明日でいい」
「はあ?この寒いのにか?」
「あんたが作るホームメイドのやつ。すごく美味しいから」
 暖かい部屋で季節を問わずに食べるのが真のアイス通ってものよ?頼んだわよ。
「……この期に及んでわがまま放題なら、まあ逆に安心だよ」
「あんたが私の傷心につけこんで不埒な行為に及ばなかった方が安心したね」
「しねえよ!」
 やれやれといった感じで緊張を解く竜児に、ふひ♪と眉を気持ち吊り上げ、少しばかり赤く
した目をやっぱり心もち三角にした、挑発的ないつもの笑みを大河は見せる。
 わかったわかった。いつもどおりでなによりだ。じゃあ明日な?

 独り残された、だだっ広いリビングで、大河は膝を抱えてうずくまる。
 以前は、この寒々しい自分ちに独りきりでいた時の孤独とそれなりにうまく折り合えていた
と思う。高須家へ招かれて団らんの中に置かれたときの方が、言いしれない寂しさに襲われて
いたのを覚えている。
 でも、今はここに独り残されている方がさみしい。
 それでいて、次に逢えるときが約束されている。それがどれほどの幸福感をもたらしてくれ
るかを、大河は身をもって感じている。
 涙を零してしまった辺りから胸を焦がされて、それはそれはたまらなかった。よくもまあこ
んな病気みたいな発作みたいな状態に、それも瞬時に陥るものと驚いたり呆れたり。
 なるほど“落ちる”と形容するわけだと妙な感心も。
 現在進行中で胸を焦がされているなかでもこう思えるのが大河という女ではあった。
 でも、それでも堰き止めた思いは乗り越えて流れ出している。


 だって本当に息苦しいのだ。目を開けていても、閉じていても、竜児の顔が、手が、指先が、
背中が肩が、声が、次から次へと想い起こされる。そのひとつひとつに集中して思いを寄せれ
ば息苦しさが少し緩まって、幸福感で満たされてくる。
 これじゃ、竜児のことしか考えられない。
 驚いたことに、その自分の脳内で再合成されたに違いないビジュアルイメージは実物の倍ほ
ど格好良く、実物と同じように優しくて、面倒を見てくれる能力抜群で、毅然と、決然と、ロ
マンティックに口説いてくれて、スーパーに連れてってくれたりするのだ。
 スーパーなのかよ、というツッコミは大河の脳内ですらスルーされている。
 ――お前のために角煮をとろっとろに蕩かしておいたぜ
 うはぁ、たまんないわ!
 あ、あ〜ん……あん。おいしっ。おかわり(はぁと)。
 この特殊な状況に置かれた少女の妄想力は自由で奔放で勝手でアホくさいものなのだった。
毎日繰り返す営みに、涙ぐんだり、笑いあったり、戦いも、やすらぎも、すべてはまだ途中な
のであった。大して現状と変わらないような気もするが、昨日と今日は別の日でちょっとずつ
だけど違うんだもん。
 逢坂大河は、恋をした。
 遺憾ながら。


 どうもおかしいなと気づいた。
 確か昨日は恋しい恋しいと思い勢いで浮かれポンチな妄想をしながら落ちたはずだ。気持ち
良く深〜く眠れて夢も見なかった。眩しいじゃんかと思ったらぱっちり目が覚めて、何も残っ
ていない。
 あらま。
 明るいけどまだこんな時間?
 二度寝を試みるも全然眠くないし、起きたとしてやることはないし。シャワーでも浴びてく
るかと立ってみて気づいた。
 ゆうべ確かに竜児に恋したはずなのに、寝て起きたらなんかうそくさい。
 熱いシャワーとぬるいシャワーを交互に浴びて、たっぷりの泡を立ててつるんつるんに磨き
上げながらいろいろと思ってみるけど、息苦しさも胸の締め付けも感じられなかった。
 角煮妄想をしてみても、絶妙な煮汁にひたひたとろとろなバラ肉の旨さと、白いご飯をいっ
ぱいに頬張って食べる喉越しの充実と幸せを真っ先に思い出すばかり。
 こんなに美味しく煮上げる竜児すごい!とは思うけど殊更にかっこいいとはあんまり思えて
こなくて、この妄想の中ではむしろ皿に残してるふた切れのどっちかをいかに目を盗んで奪い
取ってやろうかという方が当面の関心事だ。
 おっかしい、おかしいな?と思いながら手持ちの中では数少ないせくすぃーな下着をつけて
みた。恋したのだからいつ、いかなるとき変な雰囲気になってそういう事になるかも知れない
から。と、思ってみる自分にもアホくさいわあと。実は乗りが悪かったり。



 身じたくを終えて、停学二日目の朝。
 外出は極力しないよう担任に言われていたけど、独り暮らしなのは知っているから食事や買
い物を別としてなるべくね、ということだった。そろそろ時分だし隣家でご飯を招ばれるのは
許容範囲だろうから行こうと思う。暇だし。お腹すいたし。
 マンションを出て見上げたら今日もいわし雲がびっしりと高い。湯冷めしそうな寒気の中を
通りに出て、今日は少しばかりエレガントに歩いてみる。
 この来るべき冬は面倒がってまだコートを出していないから、秋物ワンピースの上にラベン
ダー色の手編み風カーディガン、アンダースカートのフリルをひらひら舞わせるキメたファッ
ションにふさわしくエレガントに。でかいクシャミをひとつぶっ放しながら。
 出勤途中のサラリーマンやOLと多くすれ違う時間帯にちょうど当たったらしく、何人もが
襟を合わせながら、季節感もなくこの寒いのに気合い十分のあれは?という顔で振り返る。ド
ラマの撮影でもしてるのだろうか、前か後ろにひょっとしてカメラクルーが?映っちゃっても
いいのかしら?そうしたら名古屋のお母さんと友だちに放映日を連絡しとかないと、あ、なん
てドラマでこのシーンどこなのか聞かないと。スタッフさんどこー?スタッッフーーッ!など
と要らぬ心配してるっぽい人もいるけどそんなわけはない。
 ただの停学中の美少女はそんな視線には気づかず、高須家へと向かう路地をぐるっと回り込
んで、数十秒で着いた。

 外階段を普通に登って、大河にしては静かに扉を開けて上がり込む。
 ちゃんと来そうな頃には鍵をあけておいてくれるのもいつもどおり。上がるとみそ汁の美味
しそうな香りがうちいっぱいに漂っている幸せな朝も、いつもどおりだった。
「角煮ー、角煮はー!竜児角煮ー!」
「お前なあ、朝メシで角煮はねえよ。シャケだ鮭!」
 さっさと居間へ駈け込んで、窓際の定位置にちょこんと座って、卓袱台に頬杖をついて台所
に立つ竜児を急かす。いわゆるメシまだコール。
「うん。まあ言ってみただけ。けさ起きたらなんと角煮の妄想でお腹減らされたから」
「じゃあ夕食は角煮にすっか。和風中華風、どっち?」
「中華風ってのは珍しいからそれ!でも茴香の香り付き?あれ嫌い」
「俺も苦手だから心配すんな。軽く素揚げにしてネギとショウガと鷹の爪でちょいピリにするから」
「酢豚っぽいけどそれいい!」
 あとデザートにアイスクリームだっけな。……と、と?なんだお前?
 ん?なによ?



 偶々手が離せなくて、雑談を交わしながらようやく振りかえってみたら大河が妙に身綺麗な
のを見てしまい、つい竜児は突っ込んでしまった。
「どっか出かけんの……かなって綺麗なカッコしてるから驚いただけだけどよ」
「停学中にお出かけするわけないじゃん。気分よ」
 別に特別に装ったつもりはなく本当に気分でちょっと念入りにしただけだった。今までだっ
てこのぐらい着飾っていたことは何度かあったけど、それを竜児がどうこうコメントするなん
て一度もなかった。内心どう思っていたかまでは分からないけど、少なくとも言われた覚えは
まっったくない。
 それが言うに事欠いて、きっ“キレイ”って?
 つるっとシレっと言われたことに反射的な受けを返した後で気づいてしまい、昨日までと違
う今日に大河は困ってしまった。何のつもりだこのバター犬!あんたの方だけ雰囲気おかしく
したら、どんな態度とっていいかこっちだって分かんなくなるじゃないよっなどと心のうちで
軽く毒づいてみるが。

 あ?あっ?あっ?……あれ?すっ、はっ、すっ、はあ〜。
 来たよ?
 なんか息、くるしいよ?吸って吐いて、吸って吐いて、ヒッヒッフー。これは違うけどちゃ
んと呼吸してるのに。胸がきゅーーっと締め付けられて、喉の下になんか塊を感じて、それが
鳩尾を通ってお腹の方へゆっくり降りていく。
 その通り道が奥からくすぐったい。なんかたまんないよ?
 なんでそんなことしたのか、立ちあがって、アンダースカートの裾を両手でつまみ上げて、
そのまんまくる〜っと一回転。モデルのように回れれば理想だったけどちょっと加減ができな
くて広がりすぎたのはみっともなかったし、これがなんのための行為か考える間もなく、勢い
で、ほーら、どう?なんて。……て。
 りゅ・う・じ・に・愛・想・ふ・り・ま・い・て・しまったっ。げーーーっ!キモいっ!

 竜児は棒立ちで、クチを∞の形に半開きにして、両肩を落としてげっそりと呆れてるように
見えた。なによ!あああんたが褒めたんじゃないよ?
 だめだっ、なに言ってる私っ!もうだめっ!自爆。
「か……」
 か?
「可愛いな。……い、いいんじゃね」
 なんだ。呆れてるんじゃないのあんた。まんまじゃん。ここ全力でツッコんでくれないと私
すべっちゃうんだけど。てかもうすべっちゃったじゃんっ。おまけにその棒立ちの後ろでなん
か焼いてるものがどんどん炭化してるじゃんっ。
「今朝はっそういうおかずなわけっ?」
「お?おおっ!あああっ!?」
 そのまますとんと垂直に落ちて私が座り込んだのは、いうまでもない。今日からこんな重い
十字架を背負わなきゃいけないの?私は?



「あんたが焦がしたんだから背の方食べなさいよ。腹身に箸伸ばすんじゃないよ」
「おう……。でも俺のせいか?お前が……」
「私が何したってのよ?言ったらぶつからね」
「……せめて皮くれー」
「だめ。焼き鮭の皮おいしいもん。好物だもん。あんたは大根おろしでご飯食べてろ」
「そんなに綺麗にしてるくせになんてセコいんだお前はよっ」
「どぅぁーおらぁぁっっ!言うなっつったろが!!……おかわりっ」
「おうっ」
 結局、焼き鮭の切り身ひとつを奪い合っ……仲良くつつきあって朝ご飯を済ませた。

「昨日、川嶋が来たんだって?」
 朝食といえども高須家では食休みというのをきちんと取る。熱いお茶をすすって、洗い物も
済ませてくつろぐ時間をちゃんと読みこんで竜児は動いている。いつも。
「やっちゃんに聞いたの?」
「おう。早退してまでおまえんちに行くなんてなんか大事な用だったんだろ?」
「そ。大事なものを秘密裏に届けてくれたのよ」
「なんだよ?」
「生徒手帳……って言うより中に挟んでた写真ね。アレよ、アレ」
「ああ……アレか。親切なやつだな。礼言っとかねえと」
「もう済ましたわよ。なんであんたがお礼言うわけ?やっぱ私のお母さんか?あんた」
「そんなつもりはねえけどよ……お、そうだ」
 今日から夕方早目に行くから、全科目ノート写せ。んでもって昼間それ見てちゃんと進めろ
と竜児は世話を焼く。うん、と大河も素直に頷く。
「分かんない事はその次に行ったとき教えてやるから。そういうルーチンでやるぞ」
「ほんと?なんでも教えてくれる?じゃあ答えられない質問を用意しないとね」
「なんだそりゃ?あ、そろそろ俺は行くな。お前はゴロゴロしてっていいぞ」
「うん。合鍵置いてきちゃったから、やっちゃん起きてきたら帰るわ」
「おう。じゃまた夕方な」
 それ置いて行けと、大河はマフラーを奪う。コタツもストーブも出してないこの寒いうちに
軟禁して私を凍死させるつもりかと脅迫したら苦笑しつつ巻いてくれた。



 登校していくのを、外階段の踊り場に出て手を振って見送る。
 出かける竜児を朝に見送るなんて初めてのことで、これじゃまるで嫁みたい、と思う。
 家事がなにひとつできない嫁。まああんたができるからいいのかな?
 分かんない事は教えてやるからって言ってた。ほんとは誰が好きなの?って訊いてやろうか。
ははっ、まさかね。まさか。訊くまでもない。余計な期待はしちゃいけない。
 もう息苦しくはない。寂しくない。やっぱり病気みたいな発作みたいなものなんだ。いつも
いつまでも悩まされることはない。
 それでも思うんだ。私は。
 りゅうじがすきだよ。ありがとう。ばかちーにも同じ思い。

 大河は主のいない竜児の部屋に入って、畳に寝転がってみたり、机に向かって椅子に腰掛け
てみたりする。何を想っているのか誰にも言わないけど、嬉しそうだった。
 しばらくして竜児の部屋からベランダへ出てみる。
 隣のマンションとの僅かな隙間から帯に切り取られた空を見上げる。ちょっと風が強い。

 人と人が対等につながれるなんて幻想でしかない。私は誰かに従わされ、あるいは従えて、
独りきりで生きていく他にないんだろう。
 でも、竜児とだけは幻想を現実にできるのかもしれないんだ、ばかちー。
 ドミノの最後のピースを倒すまでは誰にも言えないことだけど。先のことなんか分からない
し、どうせ裏切られると思ってるのに期待なんか持てない。
 最後までドミノが倒れるのかも。ね?
 でも、少しだけ夢は見るよ、わたし。いろんなことをぜんぶ巧くやって、自分の望みもその
中でかなえられるって、そういう夢を。



 今日も見上げた空が高い。
 高空にはいわし雲が散りばめられてまだ秋の空だけど、寒気団がやってきていているのか、
風はずいぶん冷たくなった。
 でも大丈夫。

 大河は、赤いカシミアのマフラーに顔を埋めた。あったかくて、匂いがして、まるで抱きし
められているようだ。……とは思ってみるけど、思いを込めて抱かれ包まれたら、本当はどん
な気持ちになるのか分からない。知りたいと思うけど、たぶん知る機会はこない。
 でもそれでいい。恋がかなうのはどんなに嬉しいか、私にだってもう分かった。
 ずっともらうばかりだった私が、初めて竜児にあげられるもの。それがこんなに嬉しいもの
なら最高だ。竜児のそんな顔が見れたら言うことない。お釣りくらい貰わなくちゃ。

 大河は空を見たまま、小さな胸を押さえて確かめてみる。おかしな浮かれ方をしていないか、
変なごまかしをしていないか。だって、間違えたら取り返しがつかない。
 本当の自分に嘘をついていない?
 大丈夫。うん。
 涙は出ない。ちゃんと落ち着けば、苦しくも切なくもない。大丈夫だよ。

 竜は水を統べる神様だから、あの高い空からきっと見ていてくれる。
 私も見上げていたい。
 私のすきな竜児を、見ていたい。




――END




※作中にて、以下の一部を引用させていただきました
岡崎律子『心晴れて 夜も明けて』作詞




作品一覧ページに戻る   TOPにもどる

inserted by FC2 system