【これまでのあらすじ】親元で一年を過ごし進学した逢坂大河は大橋の町に帰ってきた。高須
家から徒歩3分のワンルームマンションで独り暮らし。ぶじ嫁入りのその日まで!などと大げ
さな話は置いといて瑣末事を綴ったホームコメディ(要するにアニメ版アフターです)


****

 
 課業を終えて帰宅しようとしている途中、喉を潤す飲み物をコンビニで買おうとしていたそ
の時に、メールが着信する音が聞こえた。
 逢坂大河はポケットから携帯を取り出して、LEDの点灯を見ながらレジで支払いを済ませ、
店先に出てからななめに掛けた鞄をくるりと背に回し、それを埃だらけの柱と背の間の緩衝材
にして寄りかかった。
 都心のターミナル駅の橋上エキナカらしく、せわしなく通る人が多い。
 前も見ていないくせに早足で、ぶつかりそうになってから舌打ちをするような手合いもいる
から、いかに大河が喧嘩早くても、相手が威嚇の視線にそもそも目を合わせないのではなんの
効果も見込めず、ぴったり壁際に寄ってそんな不愉快な目に遭わないよう避けた。
 もっとも大切にされているうちには際限なく可愛くなっていくような性格の女だから、それ
以前に、牙も爪も威厳も、実はもう備えていないかも知れない。いつの間にか意に反して武装
解除されているなどとまだ考えたくなく、高校時代までと違って社会は世知辛いわ、と目をぴ
かぴか光らせて偉そうに辺りを見回している。
 そうしていま買ったお茶のフタをあけ、飲みながらメールを開いた。

「む……」
 来たか。と唸った。
 予想通りついに来た。いつか近いうちに来るとは思っていた。今日来るとはまったく知らな
かったけど。
 去年生まれた弟の世話もまだまだこれからというときに義父にまかせて観光とか、建前にし
てはぞんざいに過ぎると思うが『育児休暇もそろそろ終わるので観光のため上京する。ついて
はあんたの部屋にひと晩泊まるから』だ、そうだ。

 進学して遠い地元を離れ、大橋で独り暮らしを始めた娘の暮らしを母親が確認するために上
京してくる。それは遅すぎるタイミングではあってもまあまあ自然なことだった。
 休日の前を狙ってくるのも当然といえば当然。
 もちろん、暮らしているワンルームマンションの賃料はもとより、学費も生活費も、仕送り
という形で実母から出ていたから、自立、自活してるなんて元より言うつもりはない。泊めろ
と求められて応ずるにやぶさかではない。
 問題なのは、今日これから行くわよと。いま大橋の駅ビルに着いてお茶してるから、とっと
と迎えに来いと。どう考えてもこっちのスケジュールを把握した上での抜き打ち検査です、と
いうところ。
 それはとりもなおさず暮らしだけでなく、娘が勝手に称しているだけの婚約者。別名彼氏、
恋人、その男、高須竜児に会わせなさいよばか娘。という魂胆なのだろう。

 大河は小さくため息をついた。無理もなかったから。
 ママが実際に竜児を見たのはあのバレンタインの日だけだもの。どんなに私から話したとこ
ろで、娘を連れ去ってキズモノにした不良同級生って印象は拭いづらいはず。竜児のあの顔を
見ただけなら、なおさらね。
 すこし考えてから、親に遠慮はないので直電をかけた。いま駅だから、30分くらいで大橋
に着く。と用件だけ話して切った。
 飲み終わったミニペットボトルを屑かごに放り込んで、ホームに降りて、帰宅の方向の電車
を待った。この時間ならラッシュが始まるより前でそれほど混み合ってはいない。
 間に間にもの思う。
 “夏休みになったら連れて帰省しなさいよ”なんて言ったこともあるくせに、油断していそ
うな時期を見計らって抜き打ち面接か。そういうとこがパパに計算高い嫌な女、可愛くない女
って思われちゃったって言うのにね。
 ……そこは私も、かな。
 面倒くさいから、私もね。と少し自嘲してみた。変わらなければいけないと思い、変われな
いとこは、でも変われない。


 だけど、私にも、ママにもそのままを見てくれる人はいた。
 可笑しくて、まだ少し苦いけどそう思える。
 竜児は私の大好きな、誇るべき人。彼と結びあった関係は恥ずかしいことなんてひとつもな
い。そのまま見せてやるだけよ。
 大型連休が終わって最初の週末。大橋へと帰る北行き電車の中で、大河は高須母子にも連絡
のメールを打った。母がやっちゃんと竜児に挨拶をしたいと上京しているから、連れて行って
もいい?大橋駅に着く前にどちらからも快く返信が届く。


「意外に早いじゃない」
 駅ビルのカフェで雑誌を読みながら不機嫌そうに佇んでいた姿を認め、外からガラス越しに
手を振ったら会計を済ませて出てきた母の、第一声がこれだった。こまめに連絡をとっている
し、時間割も伝えてあるからそんなのは分かっているはずなのに。
「遊び歩きたくてここへ帰って来たんじゃないからね」
 ふた月ぶりに逢う母に、大河はにこやかに、でも切り返すような挨拶をする。どこかツンケ
ンとしたやりとりだけど、これは母娘にとっては常であって、仲が悪いわけではない。
「買い物していくんだけど?」
 先にマンションにママ案内しようか?それとも?と振ると、母は一緒に行くに決まってるで
しょうと、大河の指に光るものに気付き、目で追いながら答えた。
 それは何も聞いていないことだったから実は少なからず驚いた。
 荷物を肩にかけ直して、眼鏡をかけ直して、奥で大河と似た色の瞳を光らせて、でもその場
で問い詰めたりはしなかった。伝える必要があると思うなら、自分から言うだろう。

「買いすぎじゃないの?」
「4人分だもの。他に頼まれものもあるし」
「4人?」
「そ。部屋には布団一組しかないもん。お泊まりは古いけど清潔なうちに案内します」
 スーパーで食材や日用品の買い物をしながら、母娘は並んで話す。
 特売を気にしていたりポイント集めたりするのを見て、堅実なところが身に着いてきたかな
と思い、レジ袋を断ってエコバッグを取り出すのを見てそれはやりすぎなんじゃないかと思っ
た。独り暮らしならレジ袋はゴミ出しにちょうど良くて無駄にはならないのに。

 大河の暮らすワンルームマンションに帰りついて、鍵を開けている間に母は表札に目を留め
て、なにこれ?と問う。
 そこには逢坂の姓に続けて、竜児、と大河の丸っこく肉太の字で記されている。連名で下に
部屋の主である娘の名。「うん、防犯のためにそうしてるのよ」と扉を開けながら大河が答え
る。さ、入って入って。
 あんな表札を出しているくらいなら、既に同棲しているのでは?と母は思ったが、そんなこ
とはなかった。食器もカップも歯ブラシもきちんと一人分で、小綺麗に暮らしているようだ。
 きょろきょろしている母に気付いたのか「竜児も遊びには来るけど、泊まった事はなくて夜
はちゃんと帰ってるよ。けじめはつけるって決めてるから」と得意げに言ってる。
 ……もっとも、大河は高須家に何度も泊まっていたが、こっちの部屋に関しては現在までの
ところ嘘ではない。その理由が、ユニットバスが狭すぎて一緒に入れないからとは、当然なが
ら親には言えないが。

「じゃ、お茶のんでひと休みしたら高須さんちに行くよ?」
 ちょっとしたら竜児も帰ってくるし、お母さんがいるからさ。親同士でいろいろあるんじゃ
ない?と言う娘の顔を見て、どう切り出そうと考えていた事は既に承知のうえなのだろうと分
かる。
 元々、駆け落ちと言う不正手段を取りかけながらも踏みとどまり、戻って来て、子どもとし
ての礼を尽くすと言い切った時点で、明らかにもう子どもではないのだ。
 そうなら、曲がりなりにも大人の矜持を持つ者として、重ねた指導や抑制を強いて、自分の
要求だけを押しつけることは間違っている、とは思っていた。自分がして許されることは、す
でに助言しかない。
 人の親というのは、それでも情から、子どもの上に君臨し続けたいと思うのだ。理で押さえ
つけられなくなれば、子どもが未だ経済的に自立していない一点だけを卑怯と知りつつもあげ
つらって、自分の庇護下で言うことを聞き続けるよう迫るもの。


 大河の母は、我が子に対する情が世間一般より薄かったかもしれない。自ら嘆く通り、人の
母としてはいろいろ欠落していたかもしれないが、だからこそ、繭から羽化しようとしている
娘に、世間一般の親のように、あれこれを押しつけようという欲もまた薄い。
 だから、監視なんかもういいんじゃないかという気にもなっていた。けれど娘の方は堂々と
迎え撃つ気まんまんで。

「なに言ってんの。それなら駅前のビジネスホテルに部屋取るわよ」
「ははっ、面倒くさいのなしなし。ね?もう連絡してあるし、私も泊めてもらうから」
 別にうしろめたいことなんかないから。とか言いつつティーバッグで淹れた紅茶をすすって
いるのにつきあってお茶を飲みながら、その辺を読み取ったのかどうか。まあ、元々逢わせて
もらうために来たんだしね。と、母は構えを解くことにした。
 ねえ、お土産クッキーなんだけど高須さんのとこ大丈夫かしら?と振ってみる。
 大丈夫、とニヤニヤ笑いの娘。
「どうせ私が大半食べることになるから」
 どこ?六花亭?ロイズ?などと図々しく母の荷物をごそごそ漁って確かめて、知ってる?焼
き菓子はねえ、たいてい店で買うより自分で作った方がおいしくできるのよ、となにやら反り
返って、頬をぷくぷく膨らませている。
 はて?確か焼き菓子を作っていたことなんか一度たりとも記憶にはないけど……。


****


「先だってはぶしつけなご訪問をして申し訳ございませんでした」
「いいえ。こちらこそ息子がとんでもないことをしでかしましてご無礼いたしました」

 高須家の八畳居間。
 挨拶を交わし、お土産を渡し、お茶が出たタイミングで42歳の大河の母と、35歳の高須
泰子は、きちんと正座して向かい合い、交互に畳に指をついて深々と頭を下げあっていた。

 先だって、というのはちょうど一年三カ月前の雪の日のことを言っているのだろう。
 ぽえぽえ〜ん☆な泰子がフォーマルなスーツ姿で出迎えたことも、きっちり正座できること
も知らなかった大河は、ぽかんとしながらなんとなく気圧されて、帰宅したばかりで苦笑して
いる竜児に寄り添うように座って背筋を伸ばしている。
「私は夜勤ですので途中で失礼しますが、今夜は大河ちゃんとおやすみ下さぁい☆」
「ありがとうございます。でしたら遠慮なく甘えさせていただきますね」
 泰子はこれから出勤だから、高須家の夕食はそう遅くには動かせない。いつまでも大人の礼
儀作法を眺めて驚いているわけにもいかず、竜児は肘で小突かれてそれを思い出し、したくに
立つ。
 大河も髪を結わえてエプロンを着けた。

 泰子と世間話を交わしながら、大河の母は台所に立つ娘に時おり目をやる。竜児にレシート
を渡して買い物の精算をしつつ、何が安かったとか、何が切れてたから買っといた、なんて所
帯じみた話をしている。
 なるほど、高須家を落ち着いて訪れてみて、初めて分かる事があった。
 このうちに暮らす人は気持ち良く清潔に暮らす努力を惜しまないようだった。家事全般を息
子さんがやってくれているから、と大河も泰子さんも言っているけど、それはこの若すぎるお
母さんに備わっていなかったらどうしたって学べない。ちゃんとした人なのだ。
 貧しい母子家庭だし、水商売らしいし、といった心配はいらないのではないかと思った。現
に何ひとつ家事ができなかった娘がここで暮らしたおかげであんなにマ!
「うわぁおっ!」がっしゃぁーーんっ!!
 ま、マメに……?
 ドジ!ボウルはちゃんと折り返しに指あてて持てって教えたろ!しょうがないでしょっ!濡
れてて滑っちゃったんだもん!中身入ってなかったからいいじゃんよっ!心構えだ、お前には
それが足んねえ。なによ細かいなぁっ!
 ……マメなのだろうけど大丈夫なのかしらね?と、もの思いはでかい音に遮られる。


 ふたりはシンクをはさんで立ち、手分けして夕食を作りはじめた。
 竜児は白身魚のムニエル、大河はトスドサラダ。手際の差は見れば明白だけれど、せっかく
おふくろさんが上京してきたからにはいいとこ見させてやらねえと、と気を利かせた竜児の方
が大河の進行を見ながら合わせてゆっくりめに進めている。
 サラダのポイントは新鮮な生野菜を使うこと、よく流水で洗ったうえで水気をきっちりと切
ること、ドレッシングで和える前に少量の新鮮なオイルだけで和え、ごく薄い油膜を張って酸
化進行を止めることの三点だ。下ごしらえを済ませたボウルごと冷やしておいて、食べる時に
ドレッシングを添える。
 トスは、大きなボウルでオイルと和えるために二本の木匙でぽいぽい放り上げる動作。
 よく水を切ったちぎりレタス、トマト、キュウリ、茹でブロッコリーなどをトストスしてい
る大河の手つきはおそらく今日が初めてではないだろう。ちぎったり刻んだり茹でたりのぎこ
ちなさに比べて慣れが伺えた。

 余裕も持てるようで、鼻歌までうなりはじめて楽しそう。腰と膝で拍子をとり、竜児を見上
げてにーっと笑いかける。
「へへんどうよ?」「おう周りに飛ばさなくなったな」
 ふっふふーん♪
 地元でも同じようにわたしの隣によく立ってたわね、と。母はいろいろと教えたっけと思い
出した。なにせそのたびに大変だった、覚えの悪い大河の起こす惨事の後始末が。
 40代の自分でさえ花嫁修業なんて古くさいと思う。
 家事と言うのは必要に迫られたそのつど最低限するもので、だから、自分が伝えたわけでも
ないそうした価値観を、よりにもよって高慢でぐうたらで不器用なこの娘が持ち始めているの
を不思議に思っている。

 大河と竜児がいっしょに台所に立ち始めてからまだ数週足らず。
 食事をつくるには、すでに手持ちの食材を把握したうえでなにを食べようと考える。いいも
のを安く買うための情報収集や無駄のない買い物計画、当てが外れたときの仕切り直しも求め
られる。時には献立を根本から、もともと想定していたおかずを食べたい気持ちをいかに逸ら
さないよう他のメニューに替えるか心理を読んだりも。
 いよいよ調理となれば、懸命な姿や得意な技を見て、見せられて、ほめたりけなしたりボケ
ツッコミの応酬をしながら、時に新しいやり方も教わる。じゃれつきながら。
 大河はこれらを楽しいと思う。美味しくて高級な店に連れてってもらうのも嬉しいけど、そ
の倍くらい愉しいと思う。
 早く、安く、美味しく、栄養のバランス良く、そのいちいちにある確かな目的と達成感。竜
児がご飯をつくる気持ちが義務感ではないと分かりかけてきて、それを竜児も嬉しいと思い、
ひとつながりの作業をぜんぶ終えれば、家族そろっての美味しい思いと、腹を満たしていく幸
福の時間が待っている。
 だから、いっしょに料理をつくるのは格別に愉しいことなのだ。

 だから、浮かれてしまうから、下味を付けて粉を振ったおろし身をバターで炒め焼き始めた
竜児も、焼き目を付けて火を弱め、鍋にふたをして手が空くと、傍らの者をちらと見て、腰を
かがめながら何かくだらないことをささやき始めたりしてしまう。
 大河だってそんな気配を向けられれば、手が離せなくても、ん?なになに?などと見上げて
しまう。二言、三言、小声で交わし、くふっと吹いて、肩や肘で小突いて、その行く末がもう
どうしたってこうなるのは当然、仕方ない。
 ちゅっ(はぁと)

 馬鹿な子ねえ、と。大河の母は気配を察していち早く目をそらし、見てないふり。

 ……油断しすぎだった。いくら普段どおりとはいえ、ふたりきりじゃないのを忘れ、既にし
て新婚夫婦のようなこんな背伸びはない。人差し指を立てて口にあてた泰子が、しぃ〜っ、と。
はっとふり返って様子を探る二人の料理人に、半笑いのダブルVサインをこっそり送る。
 見てない。見てないでヤンスよぉ☆はい続けてぇ〜♪
 どっちを?やっちゃん。と微妙な目をした大河はドレッシングを混ぜる。


137 名前:母きたる ◆0/FKyHtS2M [sage] 投稿日:2011/07/22(金) 19:18:26.52 ID:JAWmal+b0
 卓袱台の四辺にすべて人が着くという、高須家では祖父母が訪れたとき以外にあまり見られ
ない賑わいの中、ふた組の母子は和やかに食事をした。
 バターの香り立つふわふわムニエルにレモンをキュッとしぼり、良く冷やしたサラダはパリ
パリシャキシャキ、つつーっと滑った、旬のいんげんのみそ汁椀がコツンと漬物の鉢に当たっ
て止まり、高須家家宝のぬか床から出した春カブの白と緑に少しだけ醤油を垂らして、こんぶ
と削り節の自家製佃煮も添えて。肉はないけど文句もない。
 四合炊いたご飯のうち、およそ半分が誰においしく平らげられたかは、言うまでもないこと。

 夜のお仕事用に着替えを済ませた泰子がまた正座をして、ごゆっくりしてくださいと丁寧に
お辞儀をして出かけた。大河の母もお世話になります、と見送った。

 お茶を淹れて、後片付けを大河と共に済ませたあとで、来客のお世話をまかされた竜児は遠
慮がちに大河の母に言う。
「あの。風呂わきましたから、いつでも使って下さい」
「あら。いいのかしら?」
「お客さんが一番風呂に決まってますよ。タオルはあちらにありますからどれでも」
「ありがとう。じゃ、お先にいただきますね」
 来客を浴室に案内して居間に戻り、ふぅーっと息をついてお茶をすする。

 ふと気がついて、なにやら難しい顔の大河にどうした?と訊いてみると、うん、次の一手を
考えてると言う。湯を流す音がざぁーっと聞こえてきて、そうか、この後いよいよ面接なのか
と思うと、竜児にも急に、あらためて緊張が走る。
 しかし次の一手って……今までのところは、なにか手を考えながら動いてたようにはとても
見えなかったけどなあ?とツッコもうとしてやめる。傍目にそうは見えなくてもいろいろ考え
てる(こともある)やつだ。何か(余計なこと)考えてるかもしれねえ。
 そんな目線を送ると、それを見返して難しい顔のまま、大河は独り言のように言う。
「ねえ。この後いっしょに入ってみようか?」
「ばっ……。なに言ってんだお前!?」
 いっしょに入るって、ふふふふ風呂のことか?お前のおふくろさんが上がったあとで?キャ
ッキャウフフな脱がしっこ洗いっこやるって?
 か?

「なんとなくね?『じゃーママ、私たちもお風呂いただきまーす』で通りそうな予感が!」
「通るわけねえだろ?通ったとして『俺らこういう関係です』って見せて何の意味が!」
「ああ〜うん。意味ないっぽい?」
「つか俺がそれは無理だからっ」
「むりか。そっか。……そうよね。神の一手を極めたような気がフッとしたんだけど」
 よく考えたら私もそれ無理っぽい。あんたとふたりきりならともかく。
 よく考えてから言えよ。
「Saiもびっくりだそりゃ」
「じゃあ……そうね?ママが上がったらあんたから先に入って」
 私その間にママ寝かすべく努力をしておくから、と真顔で告げる大河に「うーん」と竜児が
考え込んだ。そして真面目な顔になって言う。
「普通にくつろいで貰えばいいと思うぞ?あんまりよそよそしくても悪くねえ?」
「え……?あんたそう考えてくれんの?なんか緊張してるみたいだったからさ」
「そうだけど……緊張したまんまでいいと思うぜ。それが素なんだろうし」
 俺たち、焦らずにゆっくり幸せになっていけばいいって誓ったろ?偽ってその場限りで切り
抜けるなんてなるべくなしで行こうぜ?そのまんまの俺たちを分かってもらおうぜ。
 な?

 穏やかに竜児が振れば、眉をひそめてくっさ!といつもどおりの反応を大河もする。それで
も神妙にうん、と頷いた。今日この機会にどうしても、という構えは解いたらしい。
「そんならそれでいいや。……布団敷いとこ」
 大河は押し入れから客用布団を出しにかかり、竜児の部屋、泰子の部屋と、それぞれふた組
ずつ敷いた。


 正確には竜児にくっ付いて歩いて、布団をかかえた脇をつんつんしてみたり、それで頭の上
から投げ落とされて布団蒸しにされてみたり、シーツを張る前に大の字に寝てみたり、しまい
にはまくら投げと、相変わらず難しい顔のまま、敷こうと言ったくせに大河は邪魔ばかり。
 いちいち小言を返しながらも、竜児はふと気づいた。こいつはおふくろさんに、俺とは仲が
いいってところを一番に見てほしいんだろうな。
「お前、おふくろさんとうちに泊まるの、実は楽しんでるだろ?」
「ん?……んー?……ふぇふぇふぇ……♪」
 図星かよ。
 照れ照れに頭をかくふりで、難しそうな表情がふにゃあ、と溶けてゆく。
 こどもか!と内心でツッコみながら見下ろす竜児の頬も緩んできて、いっちょからかってや
ろうかと次の句を告げようとして、ああ、と思いとどまる。
 おかしくねえ。こどもなんだもんな。
 大河は「なによ?悪い?」すぐに不機嫌ツラに戻った。耳まで真っ赤にして。

 しばらくして湯から上がった母に、竜児は軽く冷やしておいた枇杷を勧めておいて入れ替わ
りに入浴するべく風呂場へ向かった。
 枇杷なんて久しぶりねーと言いながら。ああ、そうね。もう五月だもの。旬なのよねと薄い
皮をむいて、あふれ出てくる果汁を行儀悪くすする母は、とても機嫌よく、くつろいでいるよ
うだった。
 大河も気を良くして受け答えなどしながら枇杷に手を伸ばすが、むくのがへたで手を汁だら
けにしてしまう。ぽたぽた卓袱台にこぼしてしまうのを見かねた母が、もったいない、と睨み
つけ、そうして、むいたそばから口つけて汁をすするのよ。と食べ方を教えてくれる。
 どうしても行儀よく食べられないから、なんだかこどもか年配の人しか食べない印象で、旬
だから出回っているのを見てもあんまり手が出ないけど、と前置いて。
「思い出して食べてみると、いつも沁み入るように……優しい味なのよね」
 ぽつり、感想を。

「うーん。なんかよくわかんない。そこそこ美味しいとは思うけど」
「あんたの齢なら別にわかんなくてもいいのよ」
 他に美味しいものはいくらでも手に入るんだしね、今時は。と誰にともなく呟いて。
「……ところで、いっしょに入らないの?」
「へ?なななななにをっ?」
「お母さんてっきりそうするのかなあと思っていたのに」
 お風呂っ!?まさか風呂のことっ?
 クチを△な形にして返す言葉を失った娘に、馬鹿ね冗談にきまってるでしょうと珍しく軽口
を叩いて、ふん、とひとつ得意げに笑う。
 このうちには、食器もカップも歯ブラシもきちんと大河の分が備えてあった。ごく当たり前
のように、泰子と竜児のものらしきそれらと並んで。そればかりかシャンプーやリンス、ヘア
ブラシ、タオル、着替えにいたるまで大河専用と思しきものがどこにでも、隠そうともせずい
たるところに置いてあった。

 やがて竜児が上がる。
 枇杷ごちそうさまーと竜児にも笑みを見せ、他愛ない世間話をする母を横目に見て、代って
大河が入浴しに立った。
 居間に残された母は、竜児になにか探りを入れるふうでもなく、大橋と地元の気候の違いと
か、旬の食べ物なんかの話。それから、竜児が知らない、子供の時の大河がどんな子だったの
かをのんびりと話してくれた。竜児も、母が知らない期間の大河の話を、聞こえが悪くないも
のを慎重にえらんで話した。
 いっしょにご飯を食べ、入浴も済ませて眠くなるまでのひと時という、ほぐれた空気も助け
てくれたのだろう。くち下手な竜児にもほとんど緊張感は生まれない。もっと性格のきつそう
な人かという印象があったけど、落ち着いて話してみると大河のお母さんなのだし、近しくな
れば優しい人なのかもしれない。



 大河が長い髪を拭きながらパジャマ姿で戻って来たときには、母と竜児が、よりにもよって
自分のドジエピソードをネタにそこそこ盛り上がっているところだった。共通の話題はそれし
かないわけだが、だからといって。
 そんな話すんなあっ!と、もちろん割り込んで抗議。
 仕返しのつもりで、竜児が教室に炊飯器を持っていき炊き込みご飯を調理して担任にバレ、
大河ともども昼飯抜きになった実話をマシンガントークで暴露すれば、なぜそんな行為に及ん
だかそもそものところから竜児が間延びした声で弁明を始める。
 これは大河の母にはもろにツボだったらしく、はしたなく声を上げて笑われた。
 事件の動機と真相は大河自身にも初耳だった。いくら問い詰めても教えてもらえなかったこ
とがやっと分かって「嫉妬か?やきもちか?たかがお弁当のおかずでっ!」と、こちらはこち
らで吹き出てしまう。
 そっくりだ。母娘の笑い声を聞いて、区別がつかねえな、と竜児は思った。
 笑いながら髪を拭き終わって、側にてこてこ歩いてきて、背を向けて座る大河に、竜児はド
ライヤーとブラシを渡して知らん顔。ああそうか、と自分で乾かし始めたところで母にやって
あげると言われ、微妙な面持ちでドライヤーを渡した。


 母子ごとに部屋を分かれて引っ込んだ深夜のこと。
 大河の母はなかなか寝付けず、枕が違うせいかしらと思っていた。しきりに寝返りを打って
いると隣ですうすう爆睡していた大河がむくり。するりと抜け出すとふすまを開けて、目を擦
りながら開けっ放しで出て行った。
 ぺったぺった立てる足音から察するに、只の用足しらしい。
 深夜の2DKに、流す水音がやけに大きく響いて、またぺったぺったと半分眠っている足音
が近づいてくる。すうっとふすまを開ける音がして――。ごそごそ。うう〜ん。

 開ける音?
 母はややあって目を開く。閉める音じゃなくて?
 首を伸ばして見れば、自分が寝ている泰子の部屋のふすまは半開きのまま。隣の掛け布団は
トンネル状のアーチを描いてぽっかりと留守中のまま。
 ……まあ、要するに寝ぼけて。たぶんいつものように、習慣で、すいっと高須君の部屋に入
っちゃったということね。まったく……節度もヘッタクレもないもんだわ。あんなに好きあっ
ているなら、もうしょうがないことだけど。
 母親としては、それは気にかかる。目の前でサカられてはいたたまれない。けしからんと言
う以前にこっちの方が恥ずかしくなるし、妊娠も心配、複雑だ。
 ところが、いつまで経ってもそれらしい雰囲気は漂ってこない。それはそうか。いくらなん
でも親が来ているところでそんなことしないわよね。寝るだけか。寝ぼけて……それはそれで
恥ずかしいけど。
 ああ〜、あんな寝起きの悪い子に産むんじゃなかった!などと無茶なことを思いながら他に
どうすることもできず、布団を這い出てふすまを閉め、悩まないことにした。

 うとうと……として、はっと意識が戻っては耳をすまし、またうとうと……。そんな繰り返
しで夜は更けていった。何度目かの覚醒をしたときに玄関が開いた物音を聞き、泰子が帰宅し
たのを知る。もう午前3時過ぎか、とぼんやり思う。
 ありゃぁ〜☆という小さな声が聞こえた。
 しばらく経っても、気にすまい、寝よう、と思うほどに目が冴えてきてしまう。そんなわけ
でもういちど布団を這い出して、そぉ〜っと居間へ出てみたのだった。
 卓袱台越しに、向かいが竜児の部屋。
 ふすまが開けっぱなしの六畳間。
 灯りはないが暗闇と言うわけではない。北側の路地に面した台所の窓を通して、すぐ外にあ
る街路灯から居間へと差し込んでいて、ここはそれなりの明るさ。ふすまが開いてさえいれば、
それは寝ている部屋まで届いている。
 大河の母は卓袱台に肘をついて向かいの部屋を覗きこんだ。思わずあらと小さく声が漏れそ
うになった。


 竜児の部屋いっぱいに、ふた組敷かれた布団の一方には泰子が倒れ込んでいて、もう片方で
眠っている竜児は寝相が良く、ふたりの間に大河が潜り込んでいた。川の字に並んでいるとこ
ろは本当の親子のように見えた。
 長い髪をシーツの上に散らしながら伸びている娘がとても小さい。
 アバウトなうちねえと思う。まあよくも、聞いた限りでは一年近くも、これで男女の関係に
ならないでいたものと変な感心もする。
 ただそれよりも先に思い出した。
 人一倍寂しんぼうのくせに、差し伸ばされた手は、こどもじゃないからと払いのける。よー
く見て、油断しているときを見つけて優しくしてやらないと受け入れない。気難しく、はねっ
返りの、細かいことをクヨクヨ気にする娘。
 どれだけ見てもらえて、どれだけ大切に可愛がられてきたのだろう。わたしも逢坂も半ばま
でしか与えなかったものを、このうちで、どのくらいもらえたのだろう。こどものまま居させ
てもらえたのだろう。
 夕食後に出してもらった、枇杷の味を思い起こした。
 派手さはなく、普段は忘れていても、食べてみればほっとするような味。泰子さんにも、竜
児君にも、そんな沁み入るようなところがあるのだろうという気がした。
 産みの親として、だから、取られてしまったのだと思う。我欲で手を離してしまったゆえに
受ける罰と、また向き合わされる苦しみ。

 それは、そんなには長く続かない。
 大河が身体を縮めながらもぞもぞと寝返りをうち、少し寒いのか、竜児の胸元へ吸い込まれ
るように顔を埋める。
 ん〜。ふ〜。と長い息をついているその姿は親を求めて身を寄せる仔猫のよう。父や母に縋
りついて眠る子。あるいはひっ付きあって温みを分け合う幼いきょうだいのよう。
 けれどそれは、傍らの男が次に寝返りを打つまでのことだ。
 その手は当たり前のように小さな肩を抱き、乱れ散らばる髪の間に差し込まれるだろう。
 眠りから覚めないままでも、すでに何度もなじんだ温度と匂い、互いに触れ合った記憶を得
ているから、それが安息を妨げないほど心地良いと、もう知っているから。
 もう……こどもじゃないから。
 卓袱台についていた頬杖を解いて、座ったままでしばらく伏し、顔をあげて、また大河を眺
める。薄明かりに照らし出された寝顔の安らかさを。それは自分もよく覚えている貌……。
 これでいいのだ。もうとっくに嫁いでいた、それで。

 元の布団に戻った。
 今度は程なくして、すっと、眠りにつけた。

 ぶぁさっっと物音がして。
 なにか低く言い合う声がする。かすかにすり足の音がして、それからがつんと何かぶつかる
音。声を殺して痛がる気配がしばらく続いて、やがてふすまが細めに開けられて、様子をうか
がっている。
 細目を開けて見れば、窓にはうっすらと朝が訪れる色。
 大人に半分だけ頭を突っ込んだ娘は、すーーっとふすまを開けて身体を滑り込ませて、後ろ
手に閉める。背を向けている隣にそっと歩み寄って、息をひそめて潜り込もうとする。
 見えてなくても全部分かる。
 少しずつ可笑しくなってきてしまって、わたしは堪え切れなくなった。
「長いトイレね。寝ぼけ娘」
 小さくささやくと、びくっとして。
「な……ほんとに寝ぼけていただけなんだから。なんにも……」
 寝返りをうって。
「どっちでもいいのよ、そんなこと」
 娘に向き直り、ほら、と手を差し出す。一度は諦めて棄てたこの子をまた抱ける。取られた
なんて思っては罰が当たる。かあっと胸元で熱くなっていくのを感じながら、これでいいとま
た思う。
 ――いい人を、見つけたの? ――お嫁に、いくの?
 訊くまでもない。
「よかったね」
「……うん」
 もうすぐ夜が明けて朝が来る。それまで。


****


「あ、お早うございます」
「お早う。竜児君……って名前で呼んでもいいかしら?」
「あ、どうぞ。大河も最初に逢った日に俺のこと名前で呼びましたから」
「あらそう。……そうなのよ。うちの家系って気易いのか、ちょっと礼儀知らずなのよね」
「は、はあ。気易い……っすか」
 確かにそうかも知れない。初めて訪れた家の台所をあちこち漁って勝手に朝食を作っている
くらいだから。こういう物怖じしないところは連綿と受け継がれているのだろう。
「あの、お客さんに働かせるのも悪いんで、座っていてもらえれば」
「汁だけもう終わるわ。味加減は竜児君にやってもらおうとまだだから、お願いね」
「は、はあ」
 おたまを竜児に渡して、隙もないほど身支度を済ませた大河の母は数歩、居間に戻って行儀
よく座る。まだ大河が起き出すには早いし、味噌を溶くのはあとでやろうと思った竜児は、お
茶の支度に移る。朝いちだから茶菓子は要らないか?そうだな……と考えて小皿に塩昆布を出
してみた。

「あら気をつかってもらって。……お茶うけに塩昆布はいいわよね」
「母の実家で、祖母に教わったんです。地味だけど美味しいですよね」
「うん。行儀悪いけど、おせんべバリバリより健康的よね。塩分だけ注意すれば」
 確かに気易くて昨夜より格段に柔らかな印象を受ける。
 大河と見た目で似ているのは髪の色合いくらいで、他は一度逢った父親の方が似ていると思
っていたのだが、声の調子とか、雰囲気の変わりようなんかは、この人の方がずっと似ている。
 だったら、きっと、よそよそしくしない方がずっといいはずだ。
「あの、これ見て下さい」
 竜児は、自らの指のリングを目の前に差し出し、見せた。先月、大河の誕生日に交換した安
物だけどふたりで結婚を誓い合ったしるしだ。
「お嬢さんと……大河と交換しました。がんばっていっしょに大人になって、結婚しようって
約束しました」
 認めてほしい、祝福してほしい。一気にそう言ってしまいたかった。
 けれど詰まってしまう。今は、社会的にまだ何者でもない自分がもどかしくて、後の句を継
げなくなってしまう。

「竜児君、大河と同じ齢よね?一年待てば二十歳でしょ」
 眼鏡の奥で、釣り上がった眼をふっと和らげて、母は助け舟を出すことにしたようだ。
「来年も貴方の気持ちが変わらなかったら、入籍したらいい。大河は変わんないだろうし」
「え?……えっ?」
「知ってると思うけど……わたしは血がつながってるだけで、扶養者ではあっても戸籍上は親
じゃないのよ。あの子は逢坂の娘で、逢坂夫婦は行方不明だから、事実上はあの子が筆頭者と
言っていい。結婚相手を自分の意思だけで決めても文句を言える筋合いの者は誰もいない。成
人すればなおさらね。それに……」
 定番通りのアクション。お茶をずずっとすすって、ひと呼吸置いて。
「わたし、15歳から18歳まで、あの子が何を考えてどう生きてきたか、知らないのよ。貴方は
それをわたしよりも知ってるでしょう?」
「そ、そうですけど……」

「会ったばかりで、結婚したいと言ったら何のダメも出さないのは逆に不安?」
「そうですね……こんなこと言っちゃ失礼ですけど、本当に仲を取り戻したのかが少し心配に
なってきます」
「はっきり言うのね。大河はわたしが知らない間に知らない子に育っていた。それはたぶん貴
方に逢ったからで、リセットして戻すことはもうできない」
「はあ……」
「だからね。世間一般で言うお母さんとこどもの仲、ということならもう取り戻せないの。空
白の間を、あの子もそうだろうし、わたしにも埋めることはできない」
「そう……ですか。そうか……」


「でもね。埋める必要はないのよ。いろいろあって18歳からまたわたしの娘になった。ゆくゆ
くは結婚したい人がいると言っていて、その判断が呆れるほど馬鹿言ってるんじゃなければそ
れでいいってこと」
 言っていることは竜児にも分かったし、筋も通っていると思ったけど、やっぱりドライにす
ぎるような気がした。大河にもそういう一面があったけど本心は……と考えが至る。
 そうだ、このお母さんと大河は性格がよく似ているんだった。“大河ちゃんのぉ〜言うこと
はぁ〜いつも逆のことだよぉ〜☆”泰子の声が蘇ってくる。娘が心配で、相手を見ようと思わ
なければそもそも遠いここまで来やしない。

 じゃあ、とりあえずは、認めてもらえたのか?という顔に竜児がなったのを見透かされたの
だろう。ふふん♪とひとつ微笑んでたたみかけられた。
「親子の間まで気にしてくれて本当にありがとう。でも、産みの母としては、貴方のこと男性
として品定めはします。見させてもらって、いっしょになったら不幸になりそうと思えたら、
それはもちろん大河に吹き込むわ。遠慮なく、ね」
 まあでもそれは全部これからの話ですし、もしそうであっても貴方と大河の判断の方が先に
立つものというのは変わらないわ。
 だから後は貴方の方の親御さんと話してみてくださいな。

 ややこしいのにずいぶん簡潔な話だった。いつしか優しい目をしてくれるのを、竜児は確か
に見た。世間体が一番大事な人なんだと聞いた記憶とはずいぶん違う。かと言って長年見てき
た大河の評が嘘、とも思えない。
 つまり人というのはいくつになってもいろんな面をもっていたり、隠していたり。変わった
りもするのだろう。
「あとね、竜児君。今は好きかも知れないけど、好きになってべったりしているうちにいろい
ろ分かってきてウンザリ、っていうのはね、まあ〜よくあることよ。あの子ってひどい癇癪持
ちだし、こんな筈じゃなかった、って言うのも、ま、少し考えておいて♪」
 眼鏡をかけ直しながら、意地悪そうな、嬲るような言い方をする。
 調子に乗るのも遺伝なんだろうか、と竜児は思った。ここまで似てたら嫌いあっても不思議
はないような気がしてきた。俺だって、もし泰子が俺と同程度に神経質だったら心休まらなか
ったかもしれない。面と向かってそんな感想をとても言えないが……。

「もうあの子にはみっともなく振られてもスゴスゴ帰る家があるんだから、何の心配も要りま
せん。ウザくなってしまったら遠慮なく……」
「どぅわーおぉっっ!!」
 でえんっ!と泰子部屋のふすまが開けられて、パジャマ姿のまま、寝癖もわもわのままの大
河が這い出てきた。さっきからやりとりを聞いていたのかもしれない。
「ちょっとぉっ!ママのくせになんてこと言うのよっ!せっかくよ、よぉっ、お嫁に貰ってく
れるって言ってる人にっ」
「あら聞いてたの。ほらねえ?竜児君。すっごい癇癪でしょー?小さい頃はなんですぐこんな
にキレるのか、何か栄養が足りてないのかって、ものすごく心配したんですよ」
「あー、分かります分かります。大喰らいなのに好き嫌い多いですよねえ、大河って」
「は、は、話を聞けぇっ!あんたも尻馬に乗るなっ!」
「なによ?行儀悪いからひと指しちゃだめでしょう」
「こ……これ。先月誕生日に竜児からもらったの。お嫁にいく約束……したの」
「あらそう。良かったわね。ちゃんとお礼言っときなさい」
「なにそれっ!?なんか近所のおばさんにお菓子もらったみたいにっ!」
「だってさっきそれの話し、竜児君と長々済ましちゃったし、聞いてたんでしょあんたも」
「……聞いてはいたけどさ。なんか感動薄いっぽい……」

「あんたは感動なんかしてる余裕なんてないのよ?聞いた通りわたしには道義的な報告だけす
れば済むけど、陸郎さんにも夕さんにも婚姻を認めない法的な権利があるんだから。来年まで」
「……分かってる。それは調べた」
「借金踏み倒して逃げてるからそうそう出ては来れないだろうけど、あんたには逢いに来ても
不思議ないんだから……竜児君は、逢坂の件はご存知?」
「だいたいは聞いてます」
「そう。じゃ、癇癪の他にもこの子には父親のゴタゴタも付いてます。これはおカネの話にな
るし、根深いかもしれない。いざとなったらわたしも知らん顔はしませんし、相続の放棄とか
手段もありますけど、全然いいとこの箱入り娘なんかじゃないわ」


「はい。全部、こいつといっしょに乗り越えるつもりです。みんなと幸せになるように」
「ふふっ。良かったじゃない大河。いつも言ってた通りね。“こういう人”なのね」
「そ、そう。そうなのよ」
「じっくり感動したいなら来年ね。二人とも二十歳になって、いっしょに暮らすのは先でも法
的な世帯となって、権利を保障されて。そこが一里塚になるんじゃないかしら」

「さぁ〜んせ〜えぃ☆」
 反対側の、竜児の部屋のふすまががらっ☆と開けられ、仕事着のままメイクも落とさない泰
子が這い出てきた。こっちも珍しく朝っぱらから目覚めていて、話を立ち聞き……いやたぶん
寝っ転がり聞きしてたのだろう。
「そうそう!式とか披露宴とかは余裕が出来たらでいいんだよぉ☆」
「おわっ!!!!そんなカッコで出てくんな!息子が嫁取りしてる大事な場面なんだぞ」
「あ〜いやいやいや〜ん☆だーいじょーぶだよー。大河ちゃんのお母さん、いい人だからあ」
「ふふふ。恐れ入ります泰子さん。おはようございます」
「はい。おはようございまぁす。大河ちゃんを大切にいただきまーす」
「いえいえ。ふつつかもので至らぬと思いますから、遠慮なく叱ってくださいまし」
「出来婚だけは避けたいですよねえ〜☆」
「まあ、本人が恥ずかしいばっかりですからねえ」
 またも交互に畳に指をついて深々と頭を下げあっている母親同士。その雰囲気が昨夜より打
ち解けているのは気のせいではないだろう。てか、出来婚って?気が早えぇ!泰子が言うな!

 なんてホームドラマになっちまったんだ、と可笑しくなりながらも、竜児はいつのまにか傍
らに寄り添っている大河に、こつん、と頭突きをして言う。
「みんな起きちまったな。じゃ、朝飯のしたくだな?」
「あ、そうね。出来婚の前にご飯だよね」
「あほか。じゃあお前の得意のアレ。『うまい目玉焼き、また作ってくれよ』!」
「ふふん♪もうホントに得意だもんね」
「おう」

 休日の朝、居間で話し込む親同士を置いてふたりはまた台所に立つ。
 今日は4人で、口実に過ぎなかった東京の観光に出かけてみたらいいんじゃないか。どこだ
っていいし、少しの時間でいい。そうすれば幸せな家族の思い出を、ひとつ作れる。
 竜児はそんなことを思いついて、冷蔵庫から卵を取り出している大河と目を合わせる。きっ
とお前もそれはいいって賛成してくれるだろう?
「入籍……ニューセキかあ〜。来年、竜児の誕生日……えへっ。出来婚。えへへっ」
「おいおい上の空だと、焦がすぞ」
 いっしょにご飯をつくる。
 それは自分が竜児のもとへお嫁に行って、かいがいしく世話してやったり、してもらったり
と想像していたことなんかよりずっと楽しい。失敗だらけで、ばかだなあと言われ、なによと
言い返し。得意げに手本を見せられてすごいと思い、チクショウ偉そうにと思う。そうして出
来たご飯を美味しいと思う。
 想像じゃない、竜児と手を携えて新しい毎日を暮らして行くというのは、きっと全部こうい
うことなんだ。
 そうしてそれは、ご飯だけのことじゃない……きっと。
「その前にこども、出来ちゃったりしてね♪」
「ばか言え、そんなダラシねえこと……と言いたいところだけどよ、もし」
 味噌を溶きいれながら、嬉しそうな竜児の目を。
「そうなっても俺は受け入れるからな。今から保証しておくよ」
「うん……生まれてきて」
 卵をカツン、と油を敷いた鍋に割り入れながら大河は見上げて。
 笑みをいっぱいに湛えた鳶色の大きな瞳に、何の翳りもない。
「私、生まれてきて、良かったよ?」

 近頃いつもいつも、そう思ってるけどね。と。照れくさそうに付け足した。


――END



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