――かわいいなあ。
 高須竜児は居間のちゃぶ台の前に腰を下ろしながら、向こう側でごろっと横になり早くも寝
息を立てている逢坂大河を見て、つい小声で呟いた。
 16歳で初めて遭ったときすんげえかわいいと思い、そのまんま17歳になって、殴られよ
うと罵倒されようとやっぱりかわいかった。18歳のときは事情があって離れ離れになり、ほ
とんど姿を見ていないけど、もしも傍にいられたなら春も夏も秋も冬もやっぱり印象は変わら
なかっただろう。
 実際、19歳になるひと月ほど前に再会して、今日まで毎日かわいかったわけだし。

 夏休みだとこうなのか。朝食が済めば満腹感に鋼鉄の胃袋が限界稼働を始めて他の身体機能
も一旦スイッチが切れるらしい。あれか、シエスタってやつか?瞳や髪の色あいといい、スペ
イン人が祖先にいるのか?そんな話は聞いたことないけども。

 部屋のサッシはどこも全開にしてあり、数年前に隣に建ったマンションのせいで日当たりが
悪くなったとは言っても、気候条件さえ整えばそれなりに風は通りまあまあ快適で、母の泰子
もエアコンを適度に効かせた自室でいつもどおり寝ている昼前。竜児には家族みんなが起きる
まで掃除など物音をたてるつもりはやっぱりなかった。ひとり暇を持て余しながらも、窓から
カーテンを揺らして吹きこむ風に前髪を撫でつけられ気持ち良さそうに眠っている大河をただ
じっと視る。

 今日はハーフパンツにTシャツのラフな格好で、昨日のように突然の風に裾がめくられるこ
とは初手からありえないが、別に、だからといって残念とも思わない。

 大河がなんの緊張もなく寝ていられる場所を再び俺のうちに定めてくれた、その嬉しさを沁
み入るように感じ続けた数カ月が経って、何かに大河を奪われていくんじゃないかという根拠
なき不安ゆえ湧きあがる恋しさの熱量も、ようやく少しばかり落ち着いてきたこの頃だった。

 Tシャツの胸がゆっくりと上下しているさまを、ただ視ている。どうした?自分も食後で眠
気を催しているのだろうか。
 あ、こいつまたノーブラだ、と唐突に気づいた。いくら脇汗が溜まるのがイヤとか言っても
だらしねえ。他に考えることも浮かばずぼんやり思っていると、むにゃむにゃ動いて鼻先を擦
るとごろっと寝がえりを打った。
 二つに折った、枕がわりにした座布団の端っこから頭を落としそうになりながらきもち身体
を縮めて微風に向かって横向きになり、そうしてふっと目を覚ますのかと思わせるような空気
を漂わせただけで、またすうーっと眠りに沈んでゆく。

 竜児は四つん這いで物音を立てずに近寄って、大河の背後に、静かに、身を横たえた。

 じぶんでも何でそうしようと思ったのか分からない。起こして眠りの邪魔をしたくないって
建前は確かにあったが、内心でも今はそれほど触りたいと思ってはいない。与えたいとも、求
めたいとも強くは思っていない。なのに身体は動いてしまった。2mに満たないちゃぶ台を挟
んだ距離が遠過ぎると思えてきて、あえて言うならばそれが動機だった。

 身体をわずかに平仮名のくの字に折った大河の背に触れぬよう気をつけて、一回り大きいく
の字を描いて横向きに、大河が余らせた枕の、逆の端っこに頭を乗っけて横になる。
 ほわほわした長い髪の匂いを嗅ぎ、かすかな寝息を聞き、寝てると上がる体温の輻射を受け
て熱っちいなと少しウザがりながらも、快い。
 大河の地元の方言では、確かこんなのを“あずましい”て言うんだっけ。「あんたのそばで
こうしてるとあずましいぃ」前に聞いたふざけた声の感じが柔らかく思い出されて、瞼がとろ
ーっと重たくなってくる……。



 うああ……熱っついと思って目を覚ましかけた大河が薄目を開ける。ベランダに通じるサッ
シの輪郭がぼやけて見えた。

 ねむい。まだ眠い。吹きこむ微風で顔は涼しいけど背中があつい。まるで他人の身体のよう
に重いのをひねって逆向きに寝がえりを……ぎょっ!?
 見慣れた竜児の顔があった。
 頭に寝癖をつけて、半開きのくちからだらしなくヨダレを垂らしながらフゴゴゴなんてかる
くイビキもかいてる。なるほど、こんなぴったり添い寝されていればそれは背中が暑かったわ
けだ。ていうかなによ、昼寝するならなにもこんなに暑っ苦しくくっ付かなくてもいいじゃな
い、いいのよ。
 ……ねむい。

 崩れかけた腕組みをぼんやり見ながら、竜児に触れないように、物音を立てないようにゆっ
くりと寝がえりを終える。鏡文字のくの字形になって向かい合い、前髪だけ触れ合わせている
とすうすういってる鼻息がかかってさすがにこれはウザかった。近い近い近いと思いながら腰
を少しだけ後ろへずらしてみる。

 目が覚めたときに抱きしめられていたら嬉しかったのにと思った。
 そうして触れもせずこんなに近くにくっ付いてくれたのはもっと、もっと嬉しい。暑いだろ
うとか、起こしたくないとか、気を遣ってくれたんだろうっていうのもあるけど、それよりも
懐かしくて嬉しい気持ちになった。

 竜児のそばにいられるかな?いてもいいのかな?ずっと付きまとわれて、たぶん消える事は
ないそうした思いがさほど苦しくはなくなってきたこの頃。そして、それだけが苦しかったあ
の頃の記憶。
 なんでおまえここにいるのと誰かに言われるのが恐ろしかった。ここにいる理由を弁明しよ
うとして、何一つ言葉にすることができない自分がいやでたまらなかった。目をつぶって、耳
を塞いで、買い物について行って料理している姿を眺めてごはん限界まで食べて、呆れながら
もずっと視ていてくれるのを感じては、がーがー眠りにおちる幸福。

 大河はまた目を閉じて、昼寝の続きに入るような入らないような浮遊感のなかにいた。お腹
はいっぱいで暑苦しかった背中も涼しくなった。出逢って初めての夏と同じように、竜児のそ
ばにいるのが気持ち良かった。ぼうっとした意識で、かつての苛まされる感じを思い出して誰
にともなく言葉にする。言葉にすることが、できる。
 ――だってさ、りゅうじの近くにいると……きもちいいんだよ。
 だからここにいる。
 独りでも生きていけるようになりたい。なりたかった。ならなきゃいけない。なのに、ここ
にいる。気持ち、預けっぱなしで、すがったままで、ここにいる。ここに、いたい。……いた
い、の。いても、いい。でも、なんで?
 なんで?
 あれ?なんで?なんでだ……っけ?

 知ってる。答えはもう知ってるはず。忘れたわけじゃない、今は、ねむいから。あーなんか
出て来ないけど大丈夫、もう知ってるよ。ずっと、竜児のそばにいていい。
 ねむい……。


 夢うつつで何かに頬を撫でられて、竜児は目を覚ましかける。
 吹き込む風に撫でられたのか、風に煽られた大河の猫毛に撫でられたのか。いずれにしても
気持ちいいことに変わりはなかった。
 風が急に冷たくなっていたり湿り気を帯びていたりすれば干した洗濯物に意識が行ったかも
しれなかったが、昼下がりの天気は変わることなく。

 細めに開けた目で間近にいる大河を見た。あ、こいつ寝がえり打ちやがったな。
 かわいいなあ、と、思い、今度こそ触れたいと思った。色白の頬に掌を当てて撫でたい、ほ
わほわの髪にも触りたい、華奢な肩をぎゅっと抱きしめたい。
 そう思うのに、目覚めていない身体はあまりに重く、あまりに億劫で、動かせなかった。
 そうして、また眠りに還っていく。


(……おい、おいりゅうじ)
(……んぁ?)

「竜児ってば、お昼」
「ん?おおお?すっかり寝込んじまったか?」
「あんたが涎たらしてぐぁぐぁ昼寝するなんて初めて見たよ。ほら昼ご飯。……もう2時だけど」
「ご飯て……お前がぁ?」
「なによ?いいじゃないよ」

 起き上がってみると、ちゃぶ台の上にはほっかほか湯気を立てるチャーハンの皿。
 すでに泰子が美味しそうにぱくついていた。作り置きの朝食と、大河の作ったチャーハンと
をまとめて食べる気らしい。
 竜児も頭に寝癖をつけたまま食卓についた。

「おう。うまいな?」
「ほんと?お世辞ぬきだよ?」
「世辞なんか言わねえよ。ちゃんとうまいよ」
「ほぉんと。大河ちゃんじょうずだねえ♪」
「へ、へへへ。いよっし!」

 高須母子から一斉に褒められて、大河は小さくガッツポーズ。

「まあ、しいて言えば少し塩気が強いから、今度は気持〜ち薄味に作ってくれた方がいい」
「な、なによ!?文句あるんじゃない」
「文句じゃねえよ。リ・ク・エ・ス・ト。ほら、あれだ。……子供に食わすこと考えると」
「う、あ、……そ、そかっ。そうね。塩気はあとからでも足せるし?」
「そーそー。そゆこと。俺にはこれで充分うめえよ。炒め具合なんか見事なもんだ」

 鍋振ってるところも見たかったなあ、と竜児は思いながら、まあ見られる機会はまたすぐに
あるだろうとくちの中のチャーハンを飲みこむ。
 目も覚めてきた。いろいろ覚えていて、メシが済んだら、少しばかり大河に甘えさせてもら
おうと思いついて頬がゆるんだ。自分の方が一歩大人で、じゃれつきたい恋人に合わせてやっ
てるみたいな態度をとってきたけど、本当はそんなことはない。甘えたいと思ってるのはお互
い様だ。

 お前のそばにいるときもちいい……そう“あずましい”からいてくれと頼んだって構わない
はずだから。

 だって、漢字で書けば“吾妻しい”が語源だって聞いた。気心が知れた妻がそばにいてくれ
るように、居心地がいい場所や状況。そういう意味で使うんだって大河はまた聞きだろうけど
教えてくれた。そのまんまじゃねえか。
 (――お前とこうしてるとあずましいもな〜)
 なんだか恥ずかしいけど、大河に向かって言ってみたい。好きだと言うより、愛してると言
うより自分たちに似合っているんじゃないかって気がする。

 泰子と世間話をしながら昼食を摂ってる大河はふと竜児と視線を合わせて、そうしたら目じ
りがつと下がって、なにも言葉を発しないまま、笑顔をもう少しだけ緩ませたような、泣いて
しまう直前のような表情になった。

 かわいい、と竜児はまた思った。



〜おしまい〜




作品一覧ページに戻る   TOPにもどる

inserted by FC2 system