「ねえ、お父さんとお母さん、本当に離婚しちゃうのかな」
「わからねぇ。俺にはもう、あの二人のことはわからねぇよ」

四月になったとはいえ、夜も11時を過ぎると寒さが厳しい。高須竜河はかすり模様の綿入れにくるまるようにしてうつむいた。できればこのまま綿入れの中に引きこもって世間から音信を絶ってしまいたいなんて考えてみる。そうすればつらい現実と向き合わなくてすむ。

両親が離婚する。

冗談だと思った。ありえない。明日地球が滅びますと言われるほうがまだ信憑性が高いと思った。だって、高須竜児と高須大河である。いつもべたべた、いちゃいちゃ、何かというと互いの愛情を確認し合い、子供の前で臆面もなく互いが運命の人であると言い、
知り合いのおじさん、おばさん達(なんと芸能人、著名スポーツトレーナー、はては宇宙飛行士まで居るらしい)からバカップルとうざがられ、子供をしかるときには必ず片方が一言も言わずになだめ役に廻るという、息のあった二人である。離婚?寝言は寝てから言ってよね。

しかしながら、二人の態度は硬く、兄の泰児から伝え聞く原因はばかばかしく、事態は好転しないままとうとう離婚届を持って父親が帰宅するに至った。

「最悪」

頭を抱える。泰児は今年高校三年生、竜河は一年生。互いに多感な年頃の上、兄は大学受験である。どこの世の中にこの最悪なタイミングで離婚を決める親が居るのだと言いたい。たくさんいるんだろうけど。

両親からあふれるほどの愛情を注がれて育てられただけに、竜河は目の前に突きつけられた現実と向き合う覚悟をなかなか決められないでいる。

「とにかく。頭を抱えていても始まらねぇ。竜河、俺たち、どっちについて行くか決めないといけねぇぞ」
「ええ、嫌だよう。どっちとも分かれたくない」
「それも俺たちからちゃんと二人に言わないといけない。だけど、本当にそうなったときに慌てないよう、俺たち自身が決めておかないといけねぇんだ」
「お兄ちゃんは、お母さんとお父さん、どっちについて行くの?」
「それを決めるには、お前の同意が居る」

兄の泰児は目のあたりに父親からの血を色濃く受け継いでいる。すらっとした長身や、最近とみに大人っぽくなったしゃべり口もあわせて、父親の竜児にどんどん似てきている。


◇ ◇ ◇ ◇


竜河と泰児の二人に、父親の竜児が『話がある』と、リビングで切り出したのは、それから二日後の事である。

いつも暖かく楽しかった高須家の食後の団らんは、ここのところすっかり冷え込んでいる。今まではいつもリビングに長居していた二人だが、最近はさっさと子供部屋に逃げ込むようになっていた。

「あれこれ言っても仕方がねぇ。単刀直入に言う」

父の竜児が目をすがめて唇を引き結ぶ。竜児の左横が母親の大河、正面が泰児、大河の正面が竜河。高須家の食卓は、竜河がひとりで食事できるようになってから、10年以上ずっとこのフォーメーションだ。

ご近所では未だに怖がられている父親の目をじっと見つめながら、兄が言葉を待っている。

「父さんと母さんは離婚することにした。お前達には難しい時期に騒がしくしてしまうが、二人で話し合って決めたことだ。理解してくれ」
「そっか。もう離婚しないって選択肢はないの?」
「ない」

泰児の質問に竜児が短く答える。その硬い表情に竜河は最後の希望も絶たれたようにため息を漏らす。それが合図だったように竜児が言葉を継ぐが

「それで、今後のことだが」
「その件だけど、俺と竜河から二つばかり言うことがあるんだ」

泰児が決然とした表情で遮る。竜児が口をつぐんでじっと泰児を見つめる。怒っている顔ではないが、普通の人なら逃げ出すような圧迫感がその目にはある。だが、言うべきことを言おうとした泰児を遮ったのは竜児ではなく、地獄の底から響くような大河の低い声だった。


「黙って聞きなさいよ」
「嫌だね」

即答に、茶の間が凍り付いた。高須兄妹鉄の掟、その1:『不機嫌な母さんには逆らうな』が破られたことは、過去12年に渡って無かったことである。物心ついて最初に覚える社会のルールがこれである。

「なんですって」
「離婚は二人の問題だけど、俺たちにとっても深刻な問題だろ。だから言いたいことは言わせてもらう。親の言うことを聞けっていうのなら、子供に暖かい家庭を提供するっていう義務を最後まで果たしてからにしてよ」

大河の顔つきが目に見えて変化する。目をすがめ、唇を醜くよじらせて、今にもつかみかからんばかりだ。泰児は悠然とそれを受け止めているが、竜河からは額に汗が浮かんでいるのが見える。

「で、言いたいことって、何なんだ」

竜児が言ったのは、結局は助け船だったのだろう。『ちっ』と不愉快な舌打ちを飛ばして大河が大きく息を吸う。後ろの水屋の硝子にひびでも入っているかもしれない。

「言いたいことは二つだけだ。まず一つ。俺たち二人は、父さんと母さんが離婚することには反対だ。夫婦の問題は二人だけの問題だってことはわかるけど、やっぱり俺たちにとっても大問題だ。
だから、考え直して欲しい。竜河とも話し合ったけど、これまで二人に育ててもらったことを俺たち二人は本当に感謝している。高須家は俺たち二人にとって暖かくて幸せな家庭だったよ。これからもそうあってほしい。だから離婚しないでほしい」

竜児は大きくため息をついた。

「残念だが、無理だ。もう、引き返せない」

やっぱり、と竜河も目を伏せて小さくため息をつく。実のところ、子供が何か言って今更好転するとは二人とも思っていなかった。ただ、言うべきことは言おうというのが泰児の強い意見だった。

「そう、じゃ二つ目。二人が離婚するなら、俺は母さんに、竜河は父さんについて行く。それだけ」
「はぁ?あんたたちが仕切るんじゃないわよ」
「俺たちが決めることさ。産まれたときには親は選べないけどね。事ここに及んじゃ、自分たちの将来は自分たちでもきめる。じゃ、俺たちからこの件について言いたいことはこれだけだから。あとはいいよ。事情なんか聞きたくないし、
時期や引っ越し先については決まってから教えてくれればそれで言い」

そう言うと、泰児が立ち上がる。つられて竜河も立ち上がった。泰児が言ったのは、二人で考えたことだ。竜河から付け加えることは何も無い。それに掟の件もある。高須兄妹鉄の掟、その2:『片方が母さんを怒らせたら、もう片方は絶対にいい子でいる事』。

立ち上がると、竜河もそこそこに背が高い。竜児や泰児ほどではないが、女子の間ではそのすらりとした長身をうらやむ声も多い。ちょくちょく遊びに来る川嶋亜美からもスタイル維持に励めと言われている。
その長身が、ほんの少し猫背気味なのは、家族がこんなだからだ。竜河の寂しげな背中に不機嫌そうな声ではあるが、一言大河が声をかけたのは、やはり後ろめたい気持ちがあったからだろう。

「竜河、あんた竜児について行ったら念願の一人部屋がもらえるわね」

だが、そんなことを喜べる状況であろうはずがなかった。

「なによっ、誰が自分の部屋がほしいなんて言った?いつ、わたしが言ったのよ!お兄ちゃん、ちゃんと気を遣ってわたしが着替えるときには黙って部屋を空けてくれるわよ。一度だってお兄ちゃんが嫌だなんて思った事無い。
わたしたちをそんな風に育ててくれたのはお父さんとお母さんじゃない。わたしが二人が別れることを、お兄ちゃんと離ればなれになることを喜んでいるなんて、勝手なことを言わないで!わたしが何を考えているかなんて勝手に想像して言わないでよ!」

涙混じりの声は、最後はほとんど叫ぶようになっていた。両親の前で号泣せずに済んだのは、泰児が腕を引っ張ってリビングから連れ出してくれたからだ。

「お兄ちゃん、ごめん」
「いいって」

鉄の掟その1と2が同時に破られたのは、二人が物心ついて2度目である。1度で十分なほど痛い目に遭ったのだ。


◇ ◇ ◇ ◇


竜児と竜河の引っ越し先は小さなアパートだった。

隣の物音が聞こえそうで少し不安になることがあるが、おおむね部屋に対しては不平不満無く暮らしている。幸い、転校せずに済んだ。

祖母の泰子が引っ越し後に一度訪れている。部屋を見回すと、悲しそうに笑って「思い出すね」と、竜児に呟いた。竜児は黙ったまま、じっとふすまをに睨んでいた。目を合わせたくなかったのだろう。

不平不満は部屋ではなく家族のほうにある。家にいるべき人がいないことがこれほど寂しいとは思わなかった。

離婚に当たっては両家の親から始まって高須の祖父母、友人に至るまでが大量に押しかけて説教、反対を行ったが、結局は二人のつきあいの良さを再認識しただけで、離婚を覆すには至らなかった。
あまりに多くの人が押しかけてきたので、誰が何を言ったか記憶が曖昧になったほどだ。だが、川嶋亜美が乗り込んできた時のことは別だった。美しい顔をしかめて口をへの字にし、目を伏せて何かを考えている様子が竜河の胸に写真のように鮮明に残っている。

あと、バットを持っていきなり乗り込んできたスポーツトレーナーもいた。

「お父さん、もうすぐ朝ご飯できるからね」
「おう」

家事の分担はしている。今日は日曜だからゆっくり準備できたが、平日はまだ軽いパニック状態で朝の準備をしていると言っていい。

竜児の家事の腕が大河をはるかに上回ることは高須家では周知の事実だが、離婚前の竜児は休みの日にたまに料理をするくらいだった。普段は滅多に料理はしない。『母さんのご飯を食べたいんだ』と笑っていっていたのを思い出す。
正直、竜河の家事の腕前は大河よりさらに数段劣るが、竜児は黙って食べている。

泰児とはメールで連絡を取り合っている。もともと仲のいい兄妹だった二人だ、引き離されて寂しいという気持ちは強い。学校に行けば会うこともできるのだが、家に帰ればいるはずのひとがいないというのは、竜河にとって想像以上のショックだった。

竜児がすぐに引っ越し先を決めたのに対して、大河のほうは随分ぐずぐずとしていた。もともと離婚したらすぐに二人とも家を見つけて、今の借家は返すはずだったのだ。が、何を考えているのか、大河はいつまで経っても動かなかった。
一応職は探しているようだが、竜児が送っている生活費ではあの家には住めないはずだ。そのうち貯金も底をつくだろう。さすがの大河も危機感を抱いたか、ようやく引っ越しが決まったということだった。
急な決定らしく、荷づくりに忙しいから住所は引っ越して落ち着いたら教えるといわれている。


◇ ◇ ◇ ◇


どちらが母親について、どちらが父親につくか。あの晩、泰児は二人が同じ親につくわけにはいかないと竜河に言った。兄と離れることを考えて悲しい気持ちになった竜河だったが、泰児はあきれるほどの筋論を展開した。

「父さんも母さんもひとりで生きろと言われれば何とかできる。母さんはめちゃめちゃだけどな。だから、助けるために俺たちがついていく必要はねぇ」
「じゃぁ、好きなほうについていけばいいの?」

なんとなく、竜河は大河に二人がついていけばいいような気がした。父親の竜児はひとりでなんでもテキパキできる。

「そうじゃねぇ。俺の見立てだと、あの二人、見かけよりずっとさびしがり屋だ」
「えー、そうかなぁ」
「一番さびしがりなのは父さんだな」
「うそー」

兄妹故の気安さで竜河が小さく声を上げる。

「竜河が父さんのところに行け、おれが母さんの所に行く」

竜河は黙り込んだ。反対かと言われれば反対だ。お兄ちゃんと別れるのは嫌、お母さんと別れるのは嫌。お父さんと別れるのも嫌。二人が別れるのも嫌。嫌だ嫌だが通ればそれが一番幸せだが、そうはいかない。高須家から幸せはもう逃げ去ってしまったのかもしれない。

「お兄ちゃんがそうしろって言うならそうするけど、どうして?」

泰児は深いため息をついてこたえた。

「父さんは何でも一人でできるけど、だれか世話を焼いてやる相手が必要なタイプだ。母さんはあれだ。時々当たる相手が必要なタイプだな」

竜河がくすりとわらった。母親の大河は確かにそうかもしれない。泰児は竜河が当たられるのを嫌って自分がいくのだろう。

「私、お父さんに何から何まで面倒みてもらうって嫌だな。自分でも何かしないと」
「おう、やれやれ。全部面倒見てもらうことなんか無いんだ。父さんに必要なのは『俺が面倒みてる』って思うことだ。ほんとかどうかなんて、別の話だ」

泰児がにやりと笑った。本当に父親に似てきた。


◇ ◇ ◇ ◇


「父さん、今日はゆっくりできるんでしょ」
「おう、せっかくの日曜日だ、今日は徹底的に掃除するぞ」
「それはゆっくりとは言わないんだけどな」

そんなに古いアパートではないのだが、やはり安い物件だ。前の住人が壊したところや汚したところがまだ残っている。そういうところを見かけるたびに、竜児は嬉しそうに目を眇めて掃除している。前の家出は休日はもっとのんびりしていた。
離婚のことを振り切りたくて、掃除に励んでいるのかもしれない。

朝食が終わり、二人でしばらくお茶をすすった後、

「じゃ、私洗ってくる」

と言って、竜河は立ち上がった。竜児も

「おう、じゃぁ俺は掃除の準備をするか。お前の部屋も入るぞ」
「うん」

立ち上がってにやりと笑う。年頃の娘の部屋に入るのが楽しみなのではない。掃除が好きなのだ。

それから竜河は食器をのせたお盆をキッチンに運び、洗い物をはじめた。だから、その瞬間のことは目にしていない。


◇ ◇ ◇ ◇


洗い物も終わり、一息ついた竜河は居間に戻って息をのんだ。『父さん、掃除私も手伝うね』という言葉は口のところで止まっている。

父親が仁王立ちしていた。辛うじてキッチンと呼べる小さなスペースから、食事をした小さな居間に戻ってくると、左側が竜児の部屋だ。居間と竜児の部屋間にはふすまがあって、きっちり半間だけ開いている。その向こうに竜児が仁王立ちして外を見ていた。

ふすまによって写真のフレームのように切り取られた部屋にたたずむ竜児。その表情は、竜河が初めて目にするものだった。

そんなはずはないのに、口が耳まで裂けたように見える。そんなはずはないのに、目からバチバチと火花がはぜているように見える。切れ長の眼の中には大きな眼球がはめ込まれており、その青白いとさえいえる白目の中心にギュッとしまった黒目が狂気を放っている。
そんなはずはないのにゆらゆらと変なオーラが立ち上がっているように見える。実の娘でなければ逃げ出したかもしれない。

そして、竜河は唐突に大河の言葉を思い出す。あれは幼稚園の友達から『竜河ちゃんのおとうさんこわい』と笑われて泣いて帰った時のことだった。『あんたたち、竜児の顔の怖さってこんなものじゃないわよ』。その言葉を口にした時の大河の嬉しそうな顔を思い出す。
糸のように細くなった眼、ぷくぷくと愛らしく膨らむ頬。そしてそんな酷い悪口を言った後、大河は幸せそうな目で竜児を見上げたのだった。

父親が怖い顔だとはわかるし、いわゆる魔王状態だが、何しろ竜河は肉親だ。だからわかる。怒ってはいない。

「父さん、どうしたの?」

そう言って部屋に入り、竜児が見ている窓を見た。布団を上げた時に空気の入れ替えのために開けた窓。その向こうにはベランダがあり、すぐ隣の同じようなアパートの窓がすぐそこにある。
最近住人が引っ越して行って無人になったその部屋の窓が全開になっており、そこに人が立っていた。

その人が、目ん玉をひんむいて凄みのある笑いで竜児と向き合っている。

「…母さん…」

なぜ、そこに。という言葉も出ない。びっくりである。

今日引っ越しとは聞いていたが、そこがお隣だったとは。今更ながら大河の横に泰児が立っているのに気がつく。こめかみを押さえていた。そりゃそうだろう。頭を抱えたくなるような事態だ。

大河はどういうつもりなのだろう、と竜河は混乱する。離婚するほど喧嘩したくせに、なぜ隣に引っ越してくるのだろう。気まずいとか遠慮とかいった常識はないのか。どうしてそんな年齢不相応なかわいらしいワンピースを着て偉そうにふんぞり返っていられるのか。

そして、父さんはと、竜河は隣の竜児を見上げる。気配をさっしたか、竜児は鬼般若のような顔を娘に向けて、おごそかに言い放った。

「いいか、戸締りに気をつけろ。俺がちゃんと毎晩鍵を確認するからな」


◇ ◇ ◇ ◇


夜更け。

一応、声は筒抜けだから泰児とはメールのやり取りしかしない。話したからといって竜児が怒るとも思えないが、無用な気は使わせたくない。そもそも、大河は怒るだろう。

『もう、わけわからねえよ。母さん』
『お兄ちゃん、引っ越し先がうちの隣って知らなかったの?』
『全然。ぐずぐずしてたのって、ここ狙ってたのかな』
『そんなに偶然に部屋が空くかなぁ』
『なんか怖い方向に話がいきそうだから、俺は考えたくねぇ』
『母さん、どうしてる?』
『めっちゃ元気になった。何あれ。すげぇ張り切ってるぞ。目なんか見開いて。怖ぇよ。父さんは?』

父さん?竜河は昼間、自分の顔を覗き込んで『戸締りに気をつけろ』と言った鬼般若を思い出す。

ふと、笑みが漏れた。

『すごくうれしそうだよ』

(おしまい)



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