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 (承前っ!)

 目を瞑って心もち上を向き、大河はそのまま受け止めて貰えるのを確信したからゆっくり身
体を預けてくる。ぷるぷる突き出した唇まであと5センチ。好物をとっといて最後に食べる性
格の竜児はまだかなーと開ける薄目に笑いかけたりしてちょいとスローモーションぽく引きの
ばしてからおもむろに。

 しかし、こんなときでさえ安全確認だけはしっかりと怠らないのも竜児という男。
 さっと素早く視線を走らせれば、女湯とのガラス戸が少し開いてうずくまっている人影を視
界の端で捉えながら慣性でちゅっと触れ、

(おうっ?)

 一瞬固まる。

 すっと肩を押して垂直に戻し、その反動を利用してささっと身体を離すと「あぁ〜んっ?」
なんて疑問形のあと語尾が消沈していく声ももちろん聞こえて後ろ髪を引かれまくりだったけ
どこればっかりは仕方なく突貫で心に棚をしつらえごちゃごちゃっと棚上げ終わるまでの神速
の判断におよそ、2秒。
 にごり湯の中でつないだ手までは離さない、というか離してもらえなかった。

「ちっっっ!!!スネークA、あと一歩のところでバレた。作戦を終了する」
「了解スネークM!あ〜〜あ〜〜」

 人影は立ちあがってざぶざぶ湯に入ってくる。

「ごめんよ大河〜。まじごめん。いきなりだったから動けなくなっちゃったのよ」
「そうそう。部屋出てくのに起こされちゃって〜♪あ、朝湯かーそれもいいかなってね。」
「いっ、遺憾だわ……」

 せっかくだし露天で夜明け迎えようかってねえ?……そーそー。高須くんいるの中から見え
たけど前振り長いんでしないのかなって……いやー油断したよね?まさか逢い引きになってた
なんてびっくりよー。……また言いかた古いねあーみん。

「そんなんじゃねえよ、偶然だよ」
「そそそうっ、独りで浸かるつもりで……偶然で」

(言ってますぜ旦那?『……一生お前のメシ作る』あたしゃはっきり聞きやしたぜ?)
(ほんとほんと。こっちの被害どうしてくれるんだろ?お釣りもらってもいいぐらい)
(それでもさ、ぶっちゅうーっと濃厚に始めたらその隙にコソコソ退却できたのにね)
(なんであそこまで行ってから周り確認すんのか教えてもらいたいよねー?)

「むー」
「……聞いてねえな」

「あ、ところでそっちは高須くんひとりなの?」
「おう、そうだけ……ど?」

「わ、悪いな。じつはおれも目が覚めてしまって」

 ぜんぜん注意を向けてなかった男湯の方に目をやりながら答えてみれば、開いていた戸口に
仁王立ちのマッチョ。聞き覚えのある悪気なき声。そして、ああ、なんてこと。大方の予想を
これっぽっちも裏切らない裸(ラ)・オンザタオル。


 ポチリ。トラウマスイッチ。

「えっ?きくっっ、ききききたっ!!」

 ざばあっっとカンガルーのごとく跳び退く小柄な少女。湯の抵抗で抵抗の少ない細い身体か
らすとーんと脱げ落ちるムームー状の湯衣!

「おうっっ!?おお前水着はっ?!」
「えっ?あぁっ!」
「動くなっ」

 握ったままだった手に引っ張られた竜児はその勢いに乗ったままスライディング。大河の足
元に手を突っ込むと、ざっばぁーーっ!電光石火の早業で沈みかけの湯衣を引き上げた。両手
で広げたゴム輪部分を脇下でぱっちん、手を離すとヒッ!と悲鳴があがる。許せ緊急避難だ。

「北村……見たか?」
「大丈夫だ高須、逢坂。状況は理解したが角度的に仕切りで見えなかった」
「わ……ワキ、いたいぃ」
「す、済まねえ大河」

 なにしろ内湯で眼鏡も曇ってしまっててなあ、はっはっは。しかし高須、おまえは少し慌て
た方がよくないか?……え?なんでだよ?竜児が我に返ってみれば、実乃梨と亜美はすっと目
線を逸らしていて……みてない。……みてないよー。
 そして中腰の体勢の上からいろいろ感情を抑えた情けない声も降ってくる。りゅうじぃ……。

 ――半ケツくらい……どうってことねえよ……


 ドタバタがひとまず落ち着いて北村が湯衣着用で戻って来ると、さすがに密着まではしなか
ったが仲良く全員で混浴達成とあいなった。
 同じように、星の数の多さに都会育ちの目を奪われながら天を見上げて浸かる。夜気にさら
されたせいか昼間よりぬるめの湯はのぼせる心配も少なく、次第に口数も減っていく。

「オリオン……どこだろう?」

 大河がぽつんともらした。

「タイガー、オリオンは冬の星座だよ」

「そうだが……たぶん見えるんじゃないかな?」
「え、そうなの?祐作」
「ああ、いま4時台だろ?夏のオリオンは太陽に近い方向だから夜明け前に登る。そうだろ高須?」
「おう、たしか東南東の方角だったか」
「そうなんだ。どこ?」
「ここからじゃ天頂近くしか見えねえな。どうだ部屋で見るか?」
「うん、見たい」
「今日は……日の出が5時ちょっと過ぎだから逢坂、見るならちょうど今だぞ」

「女子部屋の窓が南アルプス方向だったよな?櫛枝、川嶋、部屋に入っても構わねえか?」
「いいぜ?ぱんつは干してなかったし……あたしらも見ようかあーみん?」
「うん、いいね。上がろ?」
「じゃあおまえたちもしたくは急がないと。夜明けに星の明るさが勝っている間しか見られない」

 急にそんなことになり、みんなバタバタと湯を上がった。身じたくもそこそこに、けどまだ
深夜のうち、足音には気をつけて3階まで上がると12畳の女子部屋に集まった。


 たしかに下着こそほったらかしてなかったが、服やら化粧品やら広い部屋をいいことに満遍
なく散らかされた有様を見て竜児の胸はうずく。ひょっとしてこいつら使用していない平面を
残したらもったいないという宗派に帰依しているんじゃないのか、そんなことまで胸をよぎり
はしたが、大河がちゃんと干していた水着を見てなんとか落ち着く。

 カラカラカラ……カーテンを引き、軽いサッシの音とともに窓を開けると冷えた微風が吹き
こんで浴衣の裾を揺らせる。湯上がりの脚にちょうどいい涼しさ。
 大河は未だほの暗い東の空を少し乗り出して眺めてみた。またたく天の川の濃淡を真上から
地平へとたどっていけば他の方向と比べて微妙に明るいかもしれないと感じる。

「星が多すぎてかえって星座は分かり難いね……どれだろう?」
「方向は白根三山と赤石岳の間あたりだが、おう櫛枝すまん」

 実乃梨がフロントで貰ってきていたリーフレットを開いて示す。景色を眺めるためのパノラ
マ写真がのってるよ?山の名前が記された写真を参考に、黒々と見える影の形を突き合わせて、
あの山と、ずーーっと行ったあの山の間、たぶん。竜児が指し示した方角を凝視して、それは
大河にも比較的簡単に見つけられた。

「あ、あった。あれ三ツ星じゃない?」
「おう。そうだ。下に辿って……シリウスまで見えるからけっこう高く登ってんだな」

 山の影のうえ、縦に3つ並ぶ星を見つけ、それが分かったとたん皆の目にもぱっと星座の全
体が見えた。寝っ転がって登るんだ?それに……覚えているのよりすごく大きい。

「地表近くに見る天体は大きく感じるんだ。比較対象が一緒に見えるから」
「あ、そうか。夕陽とかもだね」

 大河の問いに北村が答える。

「このあと暁光が強くなるから等級の低い星から見えなくなって夜明けだ」
「やっぱり祐作は星のことになると、詳しいね」
「船乗りにはまず必要とされる知識だからな。……逢坂はオリオン、好きなのか?」
「うん、好きだよ。たぶん……一生忘れない」
「そうか。じゃあ写真撮っておくか」

「撮れるかな?北村」
「マニュアルで開放してなんとか写るかもしれん」

 デジカメを窓の桟に置いて、角度を爪楊枝で固定して星座をフレームに収めた北村は、大河
にシャッターボタンを押せと促した。いいか逢坂、押しっぱなしだ。

「カメラ本体をブレさせないように、力加減には注意してな」
「うん、やってみる」

 そうして撮れたオリオン座の写真は、いま目で見ている景色と違って暗い星が写らず、三つ
星も小さく、暗く、点ではなく線で、少々ボケてもいて、それでも確かに映った。目で見たら
分からない明けゆく暁光のグラデーションも下半分に鮮やかに捉えたそれは素人写真ではあっ
たけれど、同じ時を過ごした大切な思い出になるだろう。

 ――北村……
 ――なんだ高須?
 ――船乗りか
 ――ああ、そうさ

 大河も横目で見上げて聞いている。

 ――船に乗るんだからな。いつか、星へ行く船に。


 星へ行く船。大河はすぐに思い当たる。北村くんも読んだことあるのかな?わたしたちが生
まれる前に書かれた小説のタイトル。……こぼれた思いがたまたま同じ言葉にたどり着いただ
けかも知れないけど。

 ――きっと乗れるよ

 そう元気づけようとして、少し考えて、やめた。

 初めて熱病のように慕った男の子は、高く、より高く見上げてばかりいる、脆いところもあ
るひとだった。求めていたのは傍らでなく上。そう知った頃と同じようにその姿を見つめてお
こう、ただ覚えていよう、そう決めた。励ますまでもない。

 そうしてまた、傍らに立つ彼の親友が自分にも投げてくれる視線に、何度も気づく。
 大河はまばたきに乗せてかすかに笑みを返すと、大きな掌をそっとつまんだ。

 順々に星が消えていって夜が明けるまで、5人は肩を寄せ合って空を眺めつづけた。



「よし詰まった」
「ありがと竜児」

 普段はバイキング形式のところ、やはり泊まり客の少なさで定食に変更された朝食を済ませ
て、そろそろこの宿ともお別れの時刻。にもつ、つめてとワサワサ抱えて男子部屋に降りてき
た大河の世話を焼き終わり、竜児もダッフルバッグを肩に掛ける。

「忘れモン、ねえな?」「ん、だいじょうぶ」

 北村と3人でロビーへ降りれば、すでにあとのふたりも居て幹事の亜美がフロントでチェッ
クアウトしていた。どうやら専務さんはシフトに入っていないようだ。腰掛けて新聞を読み始
めた親友を置いて、竜児は大河とともに泰子へのみやげを買い直しに売店へゆく。

 駅まで送迎車の希望を訊ねられ、亜美が途中で寄ってくところがあるからと断りながら吹き
かけた。フロントの後ろの壁に『湯けむりちゃんねる』の川嶋亜美ちゃん色紙が早くも張り出
され、その横に竜児と大河のサイン色紙もあったのだ。
 なにかおかしいと思わなかったのだろうかあの二人。ことによるとネタと知りつつ乗ったの
かもしれないけど……とにかく。亜美は北村を手招きするときっちり撮影させた。どした〜?
と寄ってきた実乃梨も壁の色紙を見て大口を開けて笑った。


 ホテルの人に見送られて玄関を出て、広い駐車場を横切って街道に出る途中で箒を持った作
業着姿の専務さんを見かけた。フロントに立っていた時の和やかな印象と違い、ちょっと頑固
そうなじいちゃんといった感じ。歩み寄って皆で厚意にお礼を言うと、ぱっとえびす顔になっ
てまたお越し下さいと送られる。なるほど、なんでもできる人なんだと竜児は感心した。

「ああいうのもいいな。そう思わねえ?」
「ああいうのって、専務さん?」
「ん、まあそれだけじゃなくて。ホテル業全般」

 交通量もさほどなく、車社会な地域だけに歩行者はさらに少なく、土地が余っているのか建
物も間を空けてゆったり感のある街道沿いを揃って歩きながら、ハテナマークを頭上に飛ばした大河と話す。


「は?」
「旅館やホテルって毎日の掃除やお客さんのお世話が仕事だろ?」
「はあ」
「それで給料貰えるなんて……夢みてえ」

 うっとりいい気分になってる竜児を見ると、大河は反射で混ぜっ返したくなるもので。

「あんたさ……お客様の立場になって考えようよ」
「おう?」
「ちょっと挨拶してみ?『ようこそお越しくださいました』って」
「当ホテルにようこそお越し下さいました。ごゆっくりお寛ぎ下さいませ。……どうよ」
「このたびは盛大なる襲名披露にお招きいただき、ありがとござんす」

 先に立って歩いていた実乃梨と亜美がブーーーッと吹いて、北村の背中をばんばん叩いた。

「おうっ!?なんだそりゃ?」
「その筋のお客御用達のホテルならいいんじゃない?毎月10日は銃撃戦の日!」
「失敬な……」
「あ!宴会中とかにヒットマンに間違えて狙われないか心配ね」

「まあまあ、大河。高須くんだってさ」

 あまりの漫才に女子ふたり思わず口をはさんで。

「シュウカツする頃になればお愛想笑い練習して巧くなってるって」
「ちょっとやってみなよ?」
「こうか」

 にまあ。

「う〜ん、相変わらずぎこちない……ま、タイガーと向かい合って練習するんだね」
「やだそんなの。竜児の愛想笑いなんてうそくさくて」
「嘘くさくならないように見てやんなよ。あんたしかいないんじゃないのぉ〜」
「むー。じゃあしかたないか……帰ったら特訓ね、竜児」
「俺ってどんだけ……てかお前だって愛想笑い得意なわけじゃ」

 今日の伊那谷は雲が多く、でも雨の心配はないらしい。


「それは?」
「マイラケ〜♪」
「それも?」
「マイウェア〜……とサンバイザー♪」
「うわあばかちーってテニサー?ホテルにマイラケ宅配しとくなんて計画的犯行じゃない」
「いいじゃん。幹事だって趣味のひとつくらい通すよ」

 2時間借りたコートで高原テニスとは実にセレブらしい趣味だった。ま、町営ではあるけれ
ど地方のハコモノというのは思いのほか充実しているもので、更衣室もシャワールームもレス
トハウスもちゃんとある。平日とあって少ないのは客だけであった。

 昨日のダッシュや温泉卓球と違って、体力勝負でも器用さ勝負でもない。ブランクのある元
テニス部と現在スクールに通っているセレブ、ソフトボール部に元バドミントンとくればそん
なに差があるわけではない。
 だからさほど勝負にこだわりもないと言ったらいかにも仲が悪そうだが、そうではなく、そ
ろそろ楽しかった旅行も終わりに近づいて、バカやって笑いあえる時間もあとわずかというこ
とを皆それぞれに感じているだけ。


 普通にかわるがわる練習打ちをして、総当たりでひととおり試合形式。瞬く間に時間は過ぎ
去って、現時点ではやはりセレブがいちばん巧いという結果になる。

 昼過ぎに再び飯田線の乗客となり、長野県岡谷で降り、接続待ちの間に駅前でパスタ屋に入
りお昼を食べた。
 午後のスーパーあずさに乗って新宿まで3時間ほど電車旅。首都圏中央線のラッシュを避け
るようなダイヤで特急が設定されていて、まだ早いようでも仕方ない。これを逃したら帰着が
夜遅くになってしまう。

「ずいぶん空いてるから、座席を向かい合わせるか」
「そうね。混んできたら詰めるとして、じゃ2−3で分かれよっかタイガー?」
「ん。私はみのりんと、北村くんと。竜児はそっちでばかちーに虜囚の辱めを受ける!」
「おう」

 なんだかんだでやっぱりテニスは賭け試合だったわけだが、そんなノリもそろそろ落ち着き
かけて、すこしだけ寂しくもある。

「ねえ……高須くん?」

 東京に向かって走り出した電車のなか。温泉でみんな軽く湯当たりしていたかもしれないし、
けさ早起きし過ぎたのもあるだろう。腰を落ち着けると感じるけだるさに竜児も身を任せてい
ると、斜め向かいの亜美が話しかける。

「おう」
「楽しかったね♪」
「楽しかった。川嶋も幹事ごくろうさん」
「うふ、趣味みたいなものだから仕切り回してると楽しい。高須くんの掃除と同じだよ」

「そっか。そう言えばさ……『大橋剣友会』ってどこにあんのかな?」
「うん?あー。最近できたんじゃない?」
「スーツアクターっていう進路はちょっと選びたくねえ気がする」
「特撮番組とか、ヒーローショーとかね。けっこうな肉体労働だからね」

 あ、でも家族連れを喜ばすっていう仕事だから向いてるかもよ?

「だめよー竜児。自分ちのこどもに怖がられちゃうよ〜?」
「……確かにパパ悪もんって引かれ続けるのはねえ〜つらいか〜ぁ」

「大河の場合はやっぱアイドル系……は無理っぽいか」
「アイドル系……女子プロレスラーとかね。いずれ鬼嫁キャラってか〜んじ♪」
「はぁ〜〜眠むぅ……」

 ノリツッコミの誘いも眠気には勝てないみたいで不発。これが日常に帰るということ、と分
かってはいても去り難い。名残りは惜しい。

「まあいっか♪ねんがんのタイガーすりすりもどさくさにできたことだし」
「黒歴史になるんじゃねえの、それ」
「……いじめないでよ」

 通路を挟んで向かいのボックスでシートに埋まって居眠りを決め込んだ大河がふふんと鼻を
鳴らした。聞いてないふり、らしい。



「やっぱりきょうだいがいる、いないで違うのかな?どう、実乃梨ちゃん?」
「んーーそうだねえ?ウザさと近さと……まあ両方あるよ」
「何の話だ?ととぼけるのもわざとらしいな。うん、おれもそういうのは分かる気がする」
「大河も俺もひとりっ子だしな。あ、川嶋もか」
「そ。それでだからかもしーれないっと♪」

 竜児には、この世話焼きな友人の思いもよくわかった。みっともなく、バカで汗くさくこど
もっぽく過ごせる時間が、この先の自分たちにどれだけ貴重なものとなっていくのか。それを
ひと足早く見つけ、導いてくれたと思う。――同じ道の、少し先を行く。いつかの彼女の言葉
も単なるカッコつけではない。
 それでも独りきりではいられない、と思うのだ。

 あ……そうだ、高須くん。着いたらうち寄って行ってね?……ん?いいけど何でだ?……亜
美ちゃんに5キロもブツ運ばせんのかよふたりで持って帰れよ……それってひょっとして。

「まつざかさん?」
「うん。約束通りあげる……っていうか友達いるだろ食えって押し付けられて困ってたのよ」
「約束ったって、俺勝負に勝ってねえぞ?」
「それはそれで済んだじゃん。タイガーとした約束のほうよ。ほらっ?寝たふりしてんじゃねーってのっ」
「えへへへへへへへ」

 むくりと半身を起き上がらせた大河。

「なんだよ、出来レースってことかよ?」
「いやまあ、くれるって言うし。じゃあ竜児にどうにかしてもらって美味しくいただこうと」
「あたしもカッチンコッチンの肉なんてどうしたらいいか知らねーし」
「おう。で、ひと塊?そうか、解凍に中一日くらいかかって……?」

 カットもしてってことになると一度に食べきらないと悪くなるな。手作業じゃそんなには薄
く切れねえから、やっぱすき焼き、ステーキかローストビーフ、カレーかシチューは松坂牛じ
ゃもったいなさすぎだな?竜児は目まぐるしく手順を考える。

「北村、櫛枝。あさって以降のどこかでさ、俺ん家ですき焼きランチやらねえ?まだ暑いけど」

「すき焼きかぁっ?この残暑厳しき折にっ……あ、でもビール美味しそう♪乗った!」
「俺は文句なんかカケラもないぞ?暑い中で鍋、いいじゃないか!口福きわまる」
「タオル持ってって汗かきまくって食いまくってやるぜっ」
「着替えとかいるかもー?」
「ね、ね、竜児。しらたき抜きでね、ねぎ多めのつゆだくで」
「あれは煮詰まったあとが美味いんだぞ?」

 名残り尽きないなら、もう1ラウンドあってもいいじゃねえか。

 電車は夕暮れに新宿に着き、乗り換えて大橋へ。程なくして楽しかった旅行は終わった。


 ****


 後日。
 事の発端となった大橋駅裏のこじゃれたカフェに逢坂大河と川嶋亜美がとぐろを巻いて茶を
喫んでいた。夏休みとはいえ、お互いそうそうヒマを持て余しているわけでもないのだけれど、
なんとなく付き合ってやるわみたいな態度で時間を作っては顔を合わせている。

 居心地のいいこの店に高校時代の二人の担任が常連客であると知ってからも変わらずに足が
向いてしまって。……もっとも、前のようにヤバめな話題は、始める前に辺りを見回してから、
という変化もあったにはあった。



「昨日のすき焼きステーキ、美味しかったねー。半年も凍ってたら味落ちてるかもとか思ったのに」
「竜児がいろいろ調べて工夫してたよ。解凍は5度以下でゆっくりがコツなんだって」

 亜美が大橋で暮らし続けている川嶋家の冷凍庫は、専用の独立した業務用ストッカーで伯父
の友人知人からの贈答品――釣った魚介やら撃った獲物やら生産した食肉やら――を長期保存
するために用意したスグレモノだった。
 それだけに竜児の価値感からは宝物庫も同然で、ゆえに半年以上も底の方でマイナス30度
の眠りについていた松坂牛もその品質を保ったまま食卓に上ることができた。ついでに新巻鮭
とか身欠きニシンの極上品なども持たされて、大河も、あんな溶け落ちそうな竜児のニヤケ顔
をそうそう見たことないと語る。

「甘めのと、あっさりおダシっぽいのと、鍋ふたつ作ったのも驚いたよ」
「あーあれ?ワリシタの味どうするか意見が割れてね、ああなった」

 竜児は半解凍状態の塊肉をさばくにあたり、表面の若干酸化が進んだ部分をまず削ぎ落して
からステーキ分をカットし、それからすき焼き用のスライスを多少ぎこちなくも綺麗に切って
みせた。
 来客が訪れる前に家族だけが見ることのできた『カッコいいポーズ』に大河が内心はぅはぅ
したのはまあ、公然の秘密だ。

 ちなみに竜児のことで削ぎ落しも棄てたりしなかった。今朝がた煮詰めたすき焼きの残りと
共に牛丼となって大河にしらたきの旨さをこれでもかと知らしめた。

「でもおかげで飽きなかったし野菜もたっぷり摂れて、やっぱあんたたち食べることに関してはプロだわ」
「うん。もっと褒めてもいいよ」
「くいしんぼー」
「それ褒めてないから」

 ダイエット戦士の一員に復帰した亜美はアールグレイのシュガー抜きで我慢しつつ、あから
さまにカロリーオーバーな昨日のパーティーを回顧。走らなきゃなぁ〜と痛感はしても、あん
なに美味しい思いができるのなら盆暮れにいつも冷凍庫からあふれ出そうになる高級食材を貰
い受けてちょくちょくプロの家に届けようと思っていた。

「ゆりちゃん、今日は来ないかな」
「あたしらは夏休みでも、せんせはお仕事あるもんね」

 いちおう、電話だけでなく会って報告を兼ねたお礼を言おうと待ってはいるのだ。名物にう
まいものなしでみつくろった手土産も用意して、でもわざわざ訪ねるほど他人行儀でもなく。

「やっちゃんがね『しばらくお肉いらなーい』って言ってたから修行僧のようなご飯が続きそう……」
「なに食べたってあんたは美味しいんでしょーが。あっ、先生だよ♪」
「あらっ、こんにちは。……どうでした?伊那谷」
「こんにちは、せんせー。景色のいいとこでした。はいこれお土産です」
「あ……ありがとね」
「お料理は本格的だし、お湯もいいし。さすがに先生は旅慣れてるって竜児も言ってました」

 ふっ。

「旅慣れるものよ……とくに独り旅にね……」

 あれっ……?大河と亜美は思わず顔を見合わせる。


 たしか大元の旅行企画を通じて、そこの営業さんといい雰囲気……?のはずだったと思うけ
ど……え?こんなに早々に?ふたりの怪訝そうな空気を察して、恋ヶ窪ゆり(32)は明るく笑っ
て見せる。

「ええ〜。人生山あり谷ありですってば。……妻帯者でしたあ。ま、よくある話ね」

 (どどどうしよ?痛いよばかちー)
 (痛いね……けど)

「なんとなく突っ込んでもいいようなので敢えて火中の栗を拾いますけど……と、10日くらいで?」
「そんなにかかりませんよ私くらいになると。あの日麻雀打ちに行ってそく判明」

 いちいち気落ちしていられませんって。ええ。あ、ウェイターさあん、いつものシナモンテ
ィーくださいなー。仕切りの鉢植えの向こうのいつもの席、いつものオーダー。でもテーブル
に置いた手は小刻みに震えてもいて……。

「先生、先生っ。だいじょうぶだからっ」
「逢坂さん?だいじょうぶですとも。ははっ……きちんと清算しましたから。あはは……」

 せ、清算って?……きっと麻雀のことね……。

「ええっ思いっ切りかーっ剥いでやりましたあっ。あーーっはっはっはぁ〜あぁ〜〜んん〜(TT)」



 〜おしまい〜





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