木枯らし吹き荒ぶ初冬の昼下がり。
 高須家の居間は、参考書をめくる紙擦れとシャーペンの音で満ちていた。
「で、この式に代入するとiの値は……」
「sanguinaryってなんだろ。
 えーっとsanguinary、sanguinary──流血を好む、ね」
「……どんな問題文だよ?」
「え? 古代ローマの戦士が云々っていう……
 竜児、血。」
「おう?」
 愛しの婚約者に指さされ、竜児は慌てて口元に手をやった。
 唇を指で辿ると、お馴染みの痛みがピリッと走る。
「っつ。 切れちまってたかぁ」
「あ、擦っちゃダメ! バイキン入っちゃう」
「おう、そうだな。 俺としたことがうっかり」
 悪化するとわかっていても、つい舐めてしまって血の味に顔をしかめる。
 痛そ、と一緒に顔をしかめて、大河はポーチの中身をひっくり返した。
「えーっとえーっと、あった。
 は〜い、竜ちゃんぬりぬりしましょうね〜。」
「気色悪い声出すなよ……。 遠慮しとく。」
「またまた照れちゃって。 ちゃっちゃとこっちにかがむ!」
「いや、マジでいい。 自分で塗るから貸してくれ」
 恋人の手に握られた白いリップクリームを見るなり、いつかのしょっぱい経験がフラッシュバックしたのだ。
 すすす、と膝で後ずさった竜児を追いかけて、大河もずずず、と間を詰める。
「ほれほれほれ」
「いやいやいや」
「まあまあまあ」
「どうどうどう」
「……。」
「…………。」
「──観念しるぉい!」
 しばしの不毛な追いかけっこの後、雌虎はとうとう獲物に飛びかかった。
「恋人のスキンシップの誘いを断るなんて言語道断!
 黙って唇差し出さんかーい!」
「うおーい鷲掴もうとすんな!? 唇ごともぐ気か!
 だってお前、またうっかりズッポリいったらどうしてくれんだよ……!」
「あんな奇跡のホールインワン何度もあるわけないでしょ!
 わかったわ、なんなら膝枕も許してやろう! 追加オプションで耳掃除も可!
 だからほら、はやくこっちに寝転んで──ひゃーあ!」

「…………。」
「……………………。」
「……わ、わざとじゃないよ?」
 裾を踏んですっ転んだ姿勢のまま、大河はそっと目を覆った。
 もともと直視に向いていない面立ちが、ますます悲惨な事になっている。

 すぽん、と無言で鼻腔からリップクリームを引き抜くと、竜児はそれを丁寧にティッシュで拭い、ヤケクソのように唇に塗り始めた。
 メンソールが傷口にしみるのにも構わず、ぐりぐりと。
「り、竜児……?」
 ぐりぐり、ぐりぐり。
 そしておもむろに、大河の肩をがっちり掴んで引き起こし、
「あの、ほんとにごめん──んぅー!?」

 ぶっちゅうううううう。

 唇全体をしっかりぴったり密着させ、あまつさえ上下にもぐもぐさせて。
 思う存分薬効成分を塗ったくりまくってから、竜児は酸欠直前の恋人にようやく息継ぎを許した。
「ぶふぁっ!
 にゃー! 分泌物が、分泌物がー!」
「おうよ。 たっぷり塗り込んでやったぜ……!」
 ニヤリと歪めた唇に、また赤いものが滲む。
「痛ててっ。 あと俺の血もな!」
「なんてこと……! お嫁に行けないじゃないの……!」
「もう来てるからな。」
「そうね。」
 あっさりと普段のテンションに戻ると、二人はいそいそと卓袱台に戻って受験勉強を再開した。
 明日の模試は絶対に落とせないのだ。

「えーっと、この場合は微積を使わずに……」
「“SAMOSとは、satellite antimissile observation systemの略であり……”」
「だからなんでそう血生臭いんだよ、その問題集?」
「私に訊かないでってば。
 ねー竜児ぃ」
「おう?」
「後で、その。 普通に、さ。」
「……お、おう。」

 後日二人は、偏差値と恋愛経験値は反比例しないことを証明してみせ、クラスメイトを大いに悔しがらせた。




 おわり



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