――そんな事を思っていると、赤ちゃんの口が段々大きく開いていくのが見えた。

「……って、ちょっ……」

やばい、と思った時には既に遅く、大きな声を上げて泣き出してしまった。

「わっ!?」
「うおっ!?」

突然の大音量に実乃梨ちゃんも高須君も驚いたように声の主を見つめる。

「あっ!? 竜児あんた何やってんのよ、泣かせてんじゃないわよ!」
「大河がでっかい声出すからだろうが……ったく、よーしよし。いい子でちゅね〜」

いやいや、どっちもどっち……だよね……と呆れていると、タイガーが片肘を付いて起き上がった。
上半身だけ起こした状態で赤ちゃんの首の下に手を差し入れて、あっという間に胸元へと抱き上げた。
その、あまりにも自然な動作に驚いていると、

「き〜ら〜き〜ら、 ひ〜か〜る〜 お〜そ〜ら〜の、 ほ〜し〜よ〜♪」

ゆっくりと、ゆっくりと、一言一言区切るように歌い始めた。
その声は小さく、かすれる様な感じなので耳を澄まさないと聞こえないくらい。

「ま〜ば〜た〜き、 し〜て〜は、 み〜ん〜な〜を、 見〜て〜る〜♪」

赤ちゃんにだけ聞かせるように俯きながら微かに身体を揺らしていて、
左手で赤ちゃんの胸元にポンポンと触れながらリズムを取って歌っている。

「き〜ら〜き〜ら、 ひ〜か〜る〜 お〜そ〜ら〜の、 ほ〜、 し〜、 よ〜♪」

そうしている内に赤ちゃんはあっという間に泣き止んだ。

ママの腕の中は居心地が良いらしく、両手を元気いっぱいに動かし始める。
タイガーはクスッと一つ微笑んで、ちらりと高須君を見て、どうよ?とばかりに片眉を上げるのはいつも通り。

「す、すげぇな……」
「ふふーん、だ。……ねぇ〜竜河?ずっとこうやって歌ってあげてたもんねぇ〜?」

そう言って赤ちゃんに……竜河ちゃんに顔を寄せて笑いかける。
あわやファーストキス強奪の危機!? と思ったけど、寸前で思い留まったらしい。

……あ、こっち見た。ちょっと睨むようにして、少し口を曲げて笑って、
そして人が変わったかのように優しい笑顔で我が子に微笑む……と。

「……フン」

あーあ、マジでやってらんねーっての。
いったい何度、こいつらに見せ付けられればいいんだろう?


「あっ…………」

あたしの不貞腐れた溜息に反応したのかどうかは分からないが、
何かに気付いたみたいにハッとした顔をしてタイガーが言った。

「そうだ……二人とも本当にありがとね。おかげさまで何とやらってやつよ」
「何だよそりゃ……」
「いやいやぁ、わたしゃ信じてたよ。大河なら絶対大丈夫だってね!」

それを聞いたタイガーは弾けんばかりの笑顔で宣言する。

「母子ともに健康ですっ!……って、見てりゃ分かるわよね?」
「うんうん! ちょー元気ですげーよ!」
「ホントだよねぇ……あんだけ『竜児ぃ〜竜児ぃ〜』って言ってたやつとは思えないくらい元気じゃね?」
「……おう?」
「あっ、ばかちー! バラすな!」

途端にボッと頬を染めて、慌てた素振りで口止めしようとしてくるが、

「あれれぇ、いいのかなぁ?ホラホラ、怒鳴ったりしたら竜河ちゃんがまた泣き出しちゃうよ?」
「うっ…………」

なんせ相手は赤ちゃんを抱いてるんだ。そんな状態であたしに勝てるなんて思わないでよね?

「あんた……後で覚えておきなさいよ……?」
「はいはいっ、と〜♪」

我ながら大人気ないと思うけど、楽しいんだからしょうがない。チビ虎いじりはライフワークってか?

「でもま……無事に産めたのは、ほんっと二人のおかげ。いくら感謝してもし足りないくらい」
「い、いやぁ、そんなことないぜよ」
「そんな風に言われたんじゃ調子狂うっつーの……」

照れ隠しにそう言ってみるけど、タイガーはニコニコ顔のままでこちらを見ている。
あたしも、実乃梨ちゃんもニコニコ笑っていて、女三人でキャーキャー騒いでた午前中に戻ったみたい。

――あれが随分昔のことのよう。


まだ2、3時間しか経ってないってのに、タイガーのお腹はぺったんこになってて、
その腕には新しい命があって……そんな感慨に浸っていると、
すっかり忘れ去られた存在だった高須君がおずおずと割って入ってくる。

「な、なぁ大河? その……俺もまた……竜河のこと抱きてえんだけど……」
「なによ……あ、分かった。誰からも相手にされなくって寂しかったんでしょ?竜河に癒しを求めるんじゃないっ!」
「いや、普通求めるだろう!?」

……うん、普通は求めるよね。
……だよね、今のはあんまりじゃね?
……高須君ってば可哀想。
……まぁいつも通りってやつ?

なんて感じであたしと実乃梨ちゃんが通じ合っていると、

「お生憎様。
 さっきあんたが抱いたら泣いちゃったじゃない?
 今度もきっとそうなるじゃない?
 そしたらまた私が苦労するじゃない?
 だからダメ」

…………なんという傲慢三段活用。
なんてヒドイ。言葉も出ない。代わりに涙が出そう。
「ねぇ〜竜河ぁ〜」とニコニコタイガーが上機嫌で笑いかけるその横で、半ベソ状態の高須君が哀れすぎる。

「うそうそ。冗談よ、竜児。ほら、変わってあげるから腕伸ばして……」
「……おうっ!?」

パァァ……と花が咲くように笑顔になる高須君。これが有名なアメとムチか?それとも駄犬の躾ってやつか?
ベッドに座ったタイガーが隣の高須君に竜河ちゃんを渡そうとしながら、

「はい、パパですよぉ〜……って竜児!? もっとしっかり首支えて! あぁもう、何やってんのよ!?」
「うおっ!? なんだ……やけに難しいな、なんで大河はそんな上手いんだ?」
「そりゃーママですから」

理屈など不要! と聞こえた気がした。
……でも実際にアレってそんなもんだよと、あたしの本能が囁きかける。
高須君は、と見れば「なんだよそりゃ?」とこちらも声が聞こえてきそうなほど目を見開いている。



「大河すげー!」
「そう……なのか……な?」

冷静に考えれば、つい数年前までは幼い弟の面倒を見てたらしいし、手慣れてるのも納得がいく。
だけど高須君はそれに思い当たる余裕もなく、ぐずりはじめた竜河ちゃん相手にあたふたしている。

「文句ある?だって私出来てたでしょ?あんた出来ないでしょ?ほら、こうやるのよ……こうよ、こう!」

でもまぁ、言ってる事に間違いがあるわけじゃないし、突っ込まないであげようか……なんて。

「お、おう……こう……かな? あれ? どこが違うんだ……? おうっ!? 分かったぞ! こうか!」
「ちっがーう!!!」

……これだけ騒いでるのにちっとも動じない竜河ちゃんは、きっと将来大物になるに違いない。
っていうか、産後って絶対安静なんじゃねーの?なんて思っていると、実乃梨ちゃんが話しかけてきた。

「あーみん気付いているかね?」
「ん、何が?」
「あの高須君が……大河よりぶきっちょだよ……」
「あぁ……言われてみればそうね……いつもと逆って変な感じ」
「ママになるってすげーんだね! 高須君に勝っちゃったよー!」
「いや……勝ち負けじゃねーし……」

高須君は努力の人だから、きっと近い将来タイガーと同じかそれ以上こなせるようになると思うんだけど。
大体この暴君タイガーに子育てなんて出来るの?と一瞬だけ心配になるが、すぐに大丈夫だと思い至る。
今日だって、言葉遣いは相変わらずだったけど乱暴なことをしたわけじゃない。むしろ優しい場面に何度も遭遇した。

「そう……そうそう。腕だけじゃなくて胸に抱えるような感じね……」
「うっ? こ、これは……? やばい、大河。変な位置で止めたら腕がつりそうだ……」
「つっても耐える! っていうか、力を入れすぎなのよ。あんたが緊張してたら竜河に伝わっちゃうでしょ」

そもそも、傷の癒えた虎が、しかも子連れの虎がそんなことをする道理がない。
とすれば、さっきみたいに優しく、今みたいに力強く、自分の手の届く範囲を守っていくのだろう。

「パパの腕はどう?……ん?あはは、下手っぴだってよ?」
「ほんとかよ……うおっ!?」

竜河ちゃんが文字通り竜と虎の子供なのだとしたら、それは縄張りと呼ぶのかもしれないが、
タイガーは……あの子は人間なんだから、それは家族と呼ばれるものに違いない。


◇ ◇ ◇


それから暫く、竜河ちゃんを抱いた高須君はベッド脇の椅子に腰掛けてタイガーに抱き方講座を受けている。
ああでもない、こうでもないと昔ながらのやり取りを繰り広げていたけど、どうやら落ち着いて来たらしい。

「お?これどうだ?何だか収まりがいいな。こんな感じでいいのか?」
「ま、悪くないんじゃない?」

高須君の腕の中もまんざらでもないのか、竜河ちゃんは静かに身を委ねている。
「んー」だか「あー」だかよく分からない言葉を発しながら、時折動いては高須君を慌てさせている。

「きっと大河に似てすっげー綺麗になるぜ?」
「竜児みたく家事上手にならないかしらね?そしたら楽できるのに」

娘の将来に幸多かれと願う高須君の慎ましやかな祈り。
そしてそれをぶち壊しにするようなグータラ未来予想図を描いてるタイガー。

「…………」
「…………」

いくら男がロマンチストで女がリアリストだと言っても、生まれて間もない竜河ちゃんに
初めに願う事がこれなのだから高須君の心痛は察して余りあると言うものだ。

おい、お前、何だかもう色々と信じらんねぇ。
と言った風情で目を眇めている高須君に掛ける言葉が見当たらない。可哀想すぎて。

「…………はぁ…………おまえな」

知らない人が見ればものすごい形相で睨んでるようにしか見えないが、
タイガーはと見れば全く効いた様子もなくペロと舌を出しておどけてみせる。

「これだけ痛い思いしたんだもの、親孝行して欲しいもんだわ」
「気が早すぎるだろ、いくらなんでも……」
「なによ。竜児は頑張れ、頑張れしか言わなかったじゃない。はぁーあ、女って損よねー」
「そ、そりゃあ……」

思ってても、それは言っちゃーいけないんじゃない?なんて思うけど、高須君は気にした様子も無い。

「……ったく」

ふっと溜息を付いて、穏やかな笑顔を浮かべる。

昔から何度も見た事がある。
ワガママ言い放題、荒れ放題、甘え放題のタイガーを全て包み込んで来たアレだ。

「ま、でも、本当に……よく頑張ったな……」



その慈愛に満ちた表情は駄々っ子を諭す母親のようで、
本物の母親になったばかりのタイガーもさすがにきまりが悪くなったのか、

「それは…………そんなの……竜児が……いてくれたから……に決まってるじゃない」

なんて珍しく可愛い台詞。

「……お、おう」

二人とも落ち着いて来たみたいで静かな口調になってきた。
少し前の事を思い出したのか恥ずかしげに見つめ合っている。

「ずっと傍にいてやるって言ってたのに、遅くなってすまねえ」
「ううん。あっという間に来てくれたもん。全然ね……十分なの」

確かに高須君はあっという間に来たと思うし、タイガーだって高須君がいたから頑張れたんだと思う。
そう思うは……思うのだが……何やら雲行きが怪しくなってきた。

「あのさ……大河……」
「え……竜児……?」

ほんのり赤く染まった頬をしながら高須君がタイガーに近づいていく。
あの顔……どこかで見た気がする……しかも今日だ。間違いなく今日だと思う。
でも何だっただろう?色々ありすぎて忘れちゃったみたい。

「ダメか?」
「ううん…………そんなことない……実は……ね、実は……私も……」

そう言いながら僅かにあごを上げるタイガー。
そのラインはふっくら丸みを帯びていて。

なるほど、子を宿すと言うのはこんなにも……っていうか近くない?
ここどこか忘れてない?
あたしら目の前にいるの忘れてない?

「大河……」
「りゅ……竜児……」

高須君の腕に抱かれた竜河ちゃんも今や蚊帳の外。
まさかお腹の中にいる頃から教育されてたなんて思いはしないが、
まるで息を潜めてるんじゃないかって言うくらい静かにしている。

「……ん」

生まれ落ちて五分後には空気が読めるようになるなんて……恐ろしい子……じゃなくてっ!

「い……いやいやいやいや!」
「待てよ! 待てよおい! そこ! あたしらいるんだけど!?」

これはツッコミじゃない。本気の本気で止めに入ってる。
しかし眼前には瞳を閉じかける二人、近づいていく唇……なんてこと……なんて……

「直視は! 直視だけは勘弁しておくれやすぅ〜!」
「聞けよ! ねぇ頼むから聞いて! あたしの声を聞けぇ〜!」

ここまで色々見せ付けられた上に、こいつらのキスシーンまで目撃してなるものか!



「……はっ、いけない。ばかちーなんか目に入らなかったわ」
「おおう……俺としたことが……今日はもうダメだ……おまえらと顔を合わせらんねえ」

全く恥らう様子の無いタイガーと罰の悪そうな顔をしながら照れる高須君が対照的だ。

「大河……さすがの私でもそれは恥知らずだと思ったり……ねぇ、あーみん?」
「やりすぎなんだよあんたっ!…………あんたらは……」

いけないいけない。大きな声はダメだ。せっかく静かにしてる竜河ちゃんを刺激しちゃう。
あいつらの馬鹿でかいやり取りを聞いてもびくともしなかったからといって安心は出来ない。
あたしの大きな声を聞いたら泣いちゃうかも。もしそうなったら……結構ショックかな?
だってさ、ほら、亜美ちゃん今日頑張ったし?やっぱり好いてもらいたいじゃん?

「ぶっ」

あっはは、なーに考えてんだ、あたしは……でもま、長い付き合いになりそうだよ、あなたとは。
だってさ、縁があるなんてもんじゃないでしょ?
あなたにとってはもちろん大事な誕生日だけど、あたしにとっても忘れられない一日だからさ。

「…………」

唐突に吹き出したあたしを不思議そうに見てから、思い出したようにタイガーが一言。

「あーあ、竜児のせいでばかちーに見られちゃうとこだったじゃない」
「……うるせえよ」

正真正銘の夫婦漫才を横目で眺めつつ、実乃梨ちゃんと顔を見合わせて何度目かの苦笑い。

「ねねね、大河……そんなことよりさ」
「そうそう。あたしらにも挨拶させてよ」

そう言いながらベッド脇にいる高須君に近付く。
パパの腕の中で眠っている竜河ちゃんはしわしわで真っ赤で……その全てがすごく小さくて愛おしい。
瞬きすら忘れて見とれていると、

「……んぷっ」

と今度はタイガーが吹き出した。

「……く……櫛枝……」

高須君の声と視線を追うように実乃梨ちゃんの方に目を向けると、

「ぴるぴるぴー」

と言いながら舌を出している。それだけなら微笑ましい光景と言えなくもないが、
両手の小指がありえないほど鼻の穴に埋まっている上に、ありえないほど鼻の穴を左右に拡げている。
んべっと出した舌を鼻の頭に付けようと上に伸ばした状態で超常現象のような不思議な動きをしていた。

彼女が模した生き物はおそらく提灯アンコウ。
獲物の視線を釘付けにするために女であることを捨てたような変顔を全力、全開、待ったなしで披露してくれちゃってる。

「いや、それ何か違うから……」
「そうよみのりん、それはもう少し大きくなってから……ぷぷっ」


そうは言いつつ対抗心が湧いて来る。
……いや、竜河ちゃんを構いたくてしょうがないんだね、あたしも。

「こんにちはっ」

満面の笑みを浮かべながら竜河ちゃんの目線の高さまで屈んでひらひらと指先を躍らせる。
まぁ目が開いてるかどうかも分からないし、あたしの事が見えてるかどうか分かったもんじゃないけどね。

「……う」

当然のように竜河ちゃんの反応は無かったけど、その代わりに高須君が声を漏らした。

「あんた……」
「……ん?」

何だろうと思ってると憮然とした表情でタイガーが文句を付けてくる。

「ウチの娘だけじゃ飽き足らず旦那様まで誘惑してくるとは……見上げた根性ね?」
「へっ!?」

竜河ちゃんを覗き込んでいた視線を上げると、友達以上の至近距離に高須君の三白眼。
昔のように高須君をからかうのも楽しいだろうと思うけど、心の準備もしないで今の距離はちょっと近すぎた。
思わずのけ反りつつ距離を空けて冷静を装う。

「……ってか……あたしは竜河ちゃんしか見てないし」

同じくらい近付いていた実乃梨ちゃんは平気だったくせに……なんて思う。

「す……すまん。ちょっとビックリしただけだ……なんだ……その……」

しどろもどろになる高須君にピンと来る。

「あーそっかぁ。高須君ラッキーだったね?
 亜美ちゃんのこーんな無防備な笑顔、見れる人なんて少ないんだから」

気恥ずかしさを隠して必要以上にかわいらしく言い放つとタイガーが呆れたように反論してきた。

「あんたの腹黒分も竜河の前じゃキレイに洗われちゃったんだわね」
「そ……そうだそうだ。なぁ〜竜河も見とれちゃったんだよなぁ〜?」

なんてわざとらしい事を言いながら竜河ちゃんに逃げる高須君。



「……おうっ?」

あたしたちがあやそうとしてもあんまり反応してくれなかったのに、
高須君がほっぺを撫でると、すぐにまたその指先がキュッと掴まれた。
なんか負けた気がするけど、こればっかりはしょうがない。

「ふふっ……竜河は本当に竜児のことが好きなのね……」

タイガーがあたしの心の声を代弁してくれた。

「そうかそうか、竜河はパパが大好きなんだなぁ〜?」

でれっでれの顔で握られた指先を上下に揺らす。それでも離そうとしない竜河ちゃんの小さな手を見て、
タイガーに潰されかけた真っ赤な手の平を見て、あーあ、と思う。

――あーあ、これから大変だねぇ高須君、と。

その小さい手がこれから大きくなって、きっと、いつか、今みたいに高須君の手をボロボロにしちゃう事もあるだろう。
タイガーがこれから先、長い人生の中で今日みたく必死で握り締める時がくるかもしれない。
だけど……高須君は、その手を離さずに、ずっとずっと、この絆を繋いでいかないとならないんだから。

「ママのことだって大好きだよねぇ、竜河ぁ〜?」

負けじと顔を寄せるのはタイガー。

「どっちも大好きに決まってるべさ!」
「ったく、あんたらは……いきなり競ってんじゃないよ」

あたしと実乃梨ちゃんも傍に寄って、こんなに広い部屋なのに、竜河ちゃんの周りに大集合。
ホント……せせこましいったらありゃしない。

――けれど、その小さな空間はすごく居心地が良くて。
――ミルクのような赤ちゃんの匂いが頬を緩ませる。

悪くないね。うん。全然悪くないよ。



◇ ◇ ◇



そんなことを思いながらみんなで竜河ちゃんの一挙手一投足を眺めていると、
ふとタイガーが目を真ん丸にして自分のお腹を凝視し始めた。

「あはは、大河が一番不思議なんじゃない?すっかりお腹も元通りでさ」
「ちゃんとお手入れしないと元の体型に戻りにくいらしいから気を付けなよ?」

と気遣う台詞を投げかけるが、

「ううん……そんなんじゃなくて……そんなんじゃなくてね?」

目を見開いたままワナワナと震えている。

「なんだ……どうしたんだ、大河?」

さすがに見かねて高須君が尋ねる。
体調が優れないのかと心配になるも、

「大変……私……どうしよう……すっごくお腹空いた!」

すっごくどうでもいい事だったらしい。

……なんだそんなことかよ。
……あーあ、心配して損した。
……しょ、しょうがないよね、カロリー消費するし。

三対のジト目に囲まれながらも怯まずに力説するタイガー。

「だってお昼ご飯食べてないし。
 最後に食べたのマドレーヌだし。
 しかも全然足りなかったし」
「あんだけ食って足りなかったの!?」
「さ、三人で分けて食べたから……かな?あ……あはは」

唇を尖らせて不満げに頷くタイガーに目眩がする。
……なんて事だろう。大食い担当二人を含むスイーツ大好き三人娘の
小腹を満たした山盛りマドレーヌがまさかの一人前だったとは。

「って、ちょっと待って。ということは……竜河だって腹ペコなんじゃない?」
「おう?そんなもんか?」
「……うーん。ごめんね、大河。あんまり聞かないかなぁ」
「あんた、何のために臍の緒が付いてるのか考えた事ないわけ?」

まぁ、そう言いながらも食いしん坊って遺伝したっけ?と考える。
なにせ虎も竜もそれはそれは大飯喰らいだもんね、と。


「きっと言葉が出せないだけで、この子も心の中で叫んでるはずよ」
「ほぅほぅ……ママンになった大河には聞こえるの?」
「そうよ、みのりん。きっとこう言ってるに違いないわ」
「へぇ……なんて言ってるんだ?」

馬鹿らしいと思うあたしとは違って、あくまでも乗っかってあげる実乃梨ちゃんと高須君。

「肉を……肉をくれぇ〜! ってね」
「はぁ!? そんなの、あんただけでしょ!?」
「大河それは……さすがに……」
「そんなこったろうと思ったよ」

相変わらずの逆風を物ともせずに勢い込みながら続ける。
……むしろ勢いが付きすぎて前のめりに倒れる寸前だったりして。
思えばこの子の自爆パターンはいつもそうだったし。

「だっ、だったら母乳の出番じゃない?そうよ!
我が子がお腹を減らしてるんだからね! 私の晴れの舞台がやって来たってものよ!」

ホラ寄越しなさい、と言わんばかりに腕を伸ばして竜河ちゃんを受け取るタイガー。
それを心配そうに見ながら高須君が尋ねる。

「大丈夫なのか?こんな産まれたてなのに」
「あんただって味見したでしょうよ」
「んばっ!? ばっ、ばかやろう! 大河お前なんっ……っ!」

特大の爆弾をまともに食らった高須君が顎をカクカクと震わせている。
何かを言おうとするが次の言葉が続かない。
なるほど。つんのめった先にはいつものように高須君がいたわけだ。
そして一番痛い思いをするのも高須君。まさに運命と言う名の予定調和。

「味見ですと!?」
「へぇ〜そうやっておねだりしたんだ。ふ〜ん?」
「ちがっ!」

何が違うと言うのか……神と、時間と、吸われた本人さえ許せば小一時間くらい問い詰めたい。
俄然瞳の輝きが増した実乃梨ちゃんと冷ややかな視線を向けるあたしの前で
真っ赤な顔を左右に激しく震わせて否定のポーズ。
椅子を鳴らして立ち上がりかけ必死で弁解しようとする高須君の言葉にかぶせるように、

「まーあたしらには関係ないけど……ねぇ〜?実乃梨ちゃん」
「……ふむ。味覚の探究者としては、やはりそこは外せなかったわけだね?」

ずずいと前のめり。赤っ恥を晒してる高須君の更に内面に切り込んで行くのが恐ろしい。


「と……とにかくダメだ。母乳にしろ何にしろ、先生に聞いてからにしよう」
「ぶー」

せっかくの晴れ舞台を。とか何とかブツブツ言いながら諦めきれないのか、

「ねー竜河。お腹減ったよねぇ〜?」

と胸元の我が子に視線を送る。
猫のように目を細めるのがやけにお似合いで、コイツやっぱり猫科だよね……と思ってると、

「うぷぷ。ほらほら竜児、見てみなさいよ」
「おう?竜河がどうした?」

渡りに船とはこの事か。
あたしたちの視線から逃げるように腰を屈め、タイガーと共に我が子の顔を覗き込む。

「ママのおっぱいが飲めなくて残念なのよねぇ〜?お預けされちゃって残念って顔してるわよ、あはは」
「そ、そうなのか?すげぇな。俺にはまだ見分けが付かねぇぞ?」

なんて微笑ましい会話を繰り広げる新米パパとママ。

「見て見て。この口の尖んがらせ方とかホント……竜児に似てるわ」
「おう……そうか?」

目を細めたままコロコロと転がるような声で笑うタイガー。

「竜児にお預けした時とそっくり……ふふっ」
「ぶっ!」

何とか自分のペースを取り戻そうと必死で頑張ってた高須君に容赦のない追撃。
おっぱいをお預けされる顔さえ友人達に想像されるのはさぞや恥ずかしいだろう。

「も……萌えていいかい、あーみん?」
「だから……想像したくもないっつーの!」

そんなあたしたちのツッコミも聞こえないみたいで高須君は物も言えずに立ち尽くしている。
その首から上は真っ赤を通り越して赤鬼と呼んでも差し障りがないほど。
落ち着きなく顔を揺らしながら「あ……う……」などと唸る。
只でさえ小さな黒目がギュッと収縮していて、どこから見ても人外のモノだ。
視線を合わせたら死に至るであろう怪奇光線を真っ白な病室に乱射してるようで不衛生極まりない。

「んふふ……竜河はあんまり強く吸っちゃヤだよぅ?」

その台詞を聞かされるこっちがヤだよ!と叫び出したいのを寸前で堪える。
実乃梨ちゃんのうっとりした三分開きの瞳に気付いた高須君の顔がますます赤黒くなり頭から湯気があがるよう。

「…………誰か……助けて……」


◇ ◇ ◇


そんなあたしの願いが伝わったのだろうか、パタパタと誰かが走ってくる音が聞こえてくる。
入り口の方を気にかけながら少し待つとキャリアウーマン風の女性と、
おめでたそうな漢字が書いてあるエプロンを付けた女性が部屋に入って来た。

「大河ちゃぁ〜ん☆ りゅ〜ちゃ〜ん☆ ――っ!? きゃあああああああああぁ☆★☆★☆★」
「大河? あらら、もう終わっちゃったのね。ま、元気そうで安心したわ」

真っ白な部屋が真っ黄色になりそうな甲高い声と、やけに冷静な声が対照的だ。

「……おっと、到着なされたようだね」
「そうだね……家族の時間だね」

実乃梨ちゃんと頷き合って、二人を迎え入れるようにベッドの脇を空けると、
落ち着いた方のお母さんがあたしに軽く目配せをして通り過ぎてく。

「ママ、ついさっきよ。終わったの」
「そう……お疲れ様、大河」
「ふあぁ〜ちっちゃくって可愛い〜よ〜」
「泰子、いきなり近付きすぎだ。大体、手とか洗ったのか?」

さっきのあたしたちと同じようにお母さん達も竜河ちゃんを取り囲んでワイワイやり始めた。
それを一歩引いた位置で実乃梨ちゃんと眺めていると、ちょいちょいと肩を叩かれた。

「あーみん、どっかでお茶でもしようか?」
「それいいね。亜美ちゃん疲れちゃったぁ」

手近なカフェでも探そうと決めて、皆に気を遣わせないようにゆっくり背を向ける。

「りゅ、竜児君?ここはやっぱり、大河の親である私が……その、抱いてもいいかしらね?」
「ほえぇ?ず〜る〜い〜! やっちゃんだって竜ちゃんの親なんだから、先に抱〜く〜の〜!」

などと可愛さ余ってちょっとした小競り合い。

「ママったらワガママ言わないでよ、もう! どうせ竜児が一番だったんだし大して変わらないわよ」
「いやいやいやいや、お義母さんがお先にどうぞ。泰子、おまえはちょっと我慢しろって」
「やだやだや〜だ〜! ふえぇぇぇ〜ん! 竜ちゃんが苛めるよぉ〜」
「おぎゃああああああああああああああああああああぁぁ!」

背中越しに大音量の泣き声が届いて来て思わず肩をすくませる。
さっきと比べるまでもなく本気の泣き方だ。
だから大きな声はダメだって……言っては……いないけど。

「うおお!?」
「ちょっとみんな静かにしてって! せっかく泣き止んだのにもぉう!」

竜河ちゃんの泣き声に負けない大声を張り上げるタイガー。
もはやここが神聖な分娩室だとは思えないくらい騒がしい。



「あらら。あららら。貸しなさい大河。すぐに泣き止ませるから」
「やっちゃんだって上手いんだよ〜?竜ちゃんあやしの名人だったんだから〜」
「ママったら邪魔しないでよ!」
「泰子! 黙って大河に任せとけ!」
「……いやはや、賑やかですなぁ」
「だから……ここは病院だっつーの!」

静かに出て行こうとした苦労は何だったんだろうと思いながら連れ立って入り口に向かう。
二人して肩をすくめて笑い合うと、実乃梨ちゃんは美味しい物でも食べた時みたいに満ち足りた顔をして、

「ねぇ、あーみん。あの二人の周りはいっつも騒々しくて、んでも……楽しそうだよね」
「ん……ホント……そうだね」

――昔も今も、絶対ああはならないぞと思いながら……でもいつも……いつだって楽しそうな二人が羨ましくなる。

「……あたしも」
「うん?どしたよ、あーみん?」
「あたしも楽しい家庭を作るぞーって……あはっ」

普段なら言わない恥ずかしい台詞を口に出して照れ笑い。

「おっと、奇遇だね。私もそう思ってたところだよ」
「えっ?……って事はそういう相手がいるんだ?」
「いやっ、まだだよ私は。まだまだそこまで行ってないっつーか……」
「あー。なんか怪しいなぁ?そこまでじゃないけどイイ人はいるんじゃない?」

正直に言って、実乃梨ちゃんにそういう話は全く無いと決め付けてたから思わず食いついてしまう。

「たはは……あーみんには勝てませんなぁ」
「うっそぉ〜!? ちょ……ちょっと、詳しく聞かせてよ。ねぇ、どんな人なの?」
「そういうあーみんこそ、デートのお誘いで首が回らないんじゃないかね?」
「あたしは清純派で売ってるんだから無理無理!
 映画の話だってあるんだし、今は恋人より仕事よ、仕事。それより……」

きゃっきゃと話しながら待合室を通り抜け非常口のようなドアから外に出る。

「……そういや、さっきの……謝りに行かなくていいの?」

さっきの?何の事?と思っていると警備員の制服が頭に浮かぶ。

「あー。あんなのどうでもいいの。だってこのあたしがわざわざ頭下げて謝ったんだよ?」
「黒い! 黒いぜあーみん! あの若いお医者さんとか楽しみにしてるんじゃないのかね?」

柔らかい日差しを感じて空を見上げる。
さっきはうらめしかった青空が、今はあの三人を祝福してくれてるように思える。

「そうねぇ……そしたら…………

  実乃梨ちゃんにとびっきりの笑顔を向けて。

    ……スクリーンの中でたーっぷり微笑んであげればいいのっ♪」



【 - baby holding hands - end - 】




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