「じゃあ泰子、戸締まりよろしくなー。」
 ふぁーい、という実母の間延びした返事を聞きつつ、高須竜児は厚手のミドルカットスニーカーにもぞもぞ足を突っ込んだ。
 重苦しい2月の曇天の下、今日も1日寒くなりそうだ。
 竜ちゃんかっこいー、といつもの声援を背に受け、面映ゆい気持ちで施錠を外し。
「行ってきま、おうっ!?」
 ガッツン。
 鈍い手応えと共に、側溝に落ちた虎猫みたいな悲鳴が響く。
「ふぎゃー!」
「す、すみませ──大河!?」
 身も世もなく踊り場にうずくまった白いアンゴラのコートは、紛うことなき愛しの婚約者のもの。
「だ、大丈夫か大河!」
 玄関開けたら5msec.で大河、などと一瞬つまらないことを考えてから、竜児は慌てて小柄な体躯を抱き起こした。 痛みに呻いている腕を引いて、ゆっくり階段を下ろしてやる。
「血は出てないか!? 目は見えてるか!? 
 てか何してたんだよこの寒いのに! そもそもなんで入って来ねえ?」
 知らない家じゃあるまいし、と言いかけて、竜児は不意に表情を曇らせた。
 今日は2月14日、泣く子もチョコを強請るバレンタインだ。
 目下婚約中であるところの二人も、もちろんデートの約束をしている。 つまり夜には確実に会えるのだ。
 それをわざわざ早朝に来たってことは──。
「もしかして、今夜の予定、ダメになったのか……?」
「そんなんじゃないったら!」
 ようやく玄関扉とのディープキスから立ち直った大河がぶんぶん首を振る。
 次いでほんのり赤くなった額に竜児の手を押し当てると、正しく理解した竜児も優しくなでなで。 ここでしばしのイチャイチャタイム。
「おう、やっぱちょっと腫れてる。 ごめんな?」
「ううん、私もぼんやりしてたし。 後で一発蹴るけど」
「許さねえんだ!? ……まあいいや、お手柔らかに頼むわ。
 それより本当にどうしたんだよ。 お前んとこも授業あるだろ?」
「ええっと……」
 上を見て下を見て横を向き、もじっ、とひとつ身をよじると、大河の頬がぽやっと赤らむ。 先刻打った鼻先と額も赤いので、つまり今の大河は真っ赤っかだ。


「ただちょっと、その……そう!
 バレンタインだし、エロ犬が犬っぽく鼻の下伸ばしてないか見てやろうと思って!」
「伸びてるよ。 そりゃ期待するだろ、バレンタインなんだから。」
 にゃにおう、と目を三角にした大河が掴みかかってくる前に、竜児はさらりと一言付け加えた。
「婚約者がいる身としてはさ。」
 ──私からの? ──お前からの! ──本当に? ──本当さ! ──Only you!! ──I need you!!
 という熱視線の遣り取りの途中で、竜児の頭がポコリ、と箒の柄で叩かれる。
「何だよ、今いい雰囲気でゴメンナサイ。」
 振り向きざま45°に折れる竜児の後ろで、大河もえへへと照れ笑い。
「朝からお盛んで結構なことだけどね。」
 さすがの大家も当てられた様子で、しっしっ、と箒で掃き出す仕草をした。
「そういうのはウチの敷地外でやっとくれ。」
 哀れ借家のヒエラルキー、手に手を取って退散するロミオとジュリエットである。


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