五月。といえばスギ花粉の飛来する季節も終わり傍らの小さいやつが不機嫌にグジュグジュ
いわなくなって竜児にはありがたい頃だった。未だ花粉症にまでは至らないようだが、ハウス
ダストに弱けりゃ当然のことスギ花粉にも弱いのが道理で、これで目が痒いぃリュウジぃ〜な
レベルにまで達したらどんだけ不機嫌度が増すものか、戦々恐々としていたのだ。
 まあそんな心配は取り合えず去ったというのに、転校生が気に食わないという理由で大河が
ピリピリして予想外のとばっちりを喰らうなど、人生は順調に理不尽に出来ている。ただそれ
も昨夜ソースを買いに行ったコンビニで件の川嶋亜美を目撃した後にはなぜか収束していたよ
うで。

 ここ数日来の緊張が解けた朝、先に立って軽快に歩く大河が平穏な空気を醸し出していると
竜児の気持ちだって一層穏やかになる。あの暴君が珍しくおとなしいのは貴方のお陰だ!あり
がとう!などと竜児は盛大に内心で誰かに礼を述べながら次第に遅れていつも以上に距離を取
り、大河たちの待ち合わせポイントでは相当離れたところからチラっと視線が合った実乃梨に
も櫛枝さん!ありがとう!と大盤振る舞い。……もっとも、実乃梨からしてみれば只のおはよ
う!でしかないのは言わずもがなだった。

「竜児、閃いた。今夜のおかずはまたお刺身にして」

 平穏なまま流れた一日の終わり。つまり放課後。逢坂大河は肩越しに鞄を担いで空いた方の
手は腰に。思いっきり鼻の穴をかっ開きばふーぅっと息も荒く竜児を見下ろしながら献立の要
請をして下さった。見下ろされてるのは竜児が座っているからだがそんな事はどうでもいい。

「刺身……か?こないだ食ったばっかりだろ」
「こないだはマグロじゃん。鰹よ、初鰹!初物は家族を人買いに叩き売って食べろって言うじゃない」
「えーと『女房を質入れしてでも』だな?それにそれは江戸っ子格言じゃなかったか」
「あとサーモンね」
「話聞けよ……今日は刺身の特売日じゃねえし初物は高い」
「だって昨日トンカツだったし、今日のお弁当は余り黒豚のソテーだったからあっさりが食べたいの!」
「なら野菜とか豆腐とかワカメとか」
「や!」

 有無を言わせぬわがままっぷりだが、とくに険があるわけではない。また級友に会話の内容
を聞かれて誤解されぬよう声をひそめて早口な配慮がある分だけ、むしろ機嫌は良いままと言
えよう。ならこの平穏を維持するための出費としてはそれほど悪くない。

「じゃあ、ヨントクとかのう屋と回って安い方探すけどいいか?」
「っしっっ!」

 ヨッシ!と拳を握る手乗りタイガーを見て竜児も真剣に献立を考えだした。特売日ではない
が旬のものだから、タイムセールの対象品になってる可能性は充分にある。他の食材を買いつ
つ早めにモノを見ておいて時間になったらサッと……。

「高須くーん、恋ヶ窪せんせが呼んでるー」
「えっ?あ、そうか?ありがとな」

 せっかく妄想的に働き出した主婦脳は女生徒の声に強制シャットダウンされた。

「なによ呼びだし?あんた何かした?」
「いや、別に心当たりは……ああ、進路調査かもしんねえ。そういやほったらかしだった」

 お前は先に帰ってろよ。ううん、ここで待ってる。というやり取りもそこそこに竜児は教室
を出て行く。あ、どこに呼びだされたのか聞いてなかったと思いつつも、取り合えず英語科準
備室へと向かう。

 そうして、惨劇の幕は開いたのだった。



 春の進路希望調査は生徒に意識を持ってもらうのが目的だからどんな荒唐無稽なことでもい
いので書いて出してね♪という、担任(29)の呼びだしは案の定ただの催促だった。とは言え性
格的にいい加減な事など書けない竜児は、ここでテキトーに書いてってと迫る担任に猶予をも
らい家で書いてくることに。
 なにしろ連れ立って買い物に行く約束をした虎が待っているのだ。空腹感に焦れて一転風向
きが変わることなど容易にあり得る。せっかく手に入れた平穏を一日も経たずにに失ってたま
るものかと思えば、次第に小走りになる。階段を二段飛ばしで駆け上がったらほとんど全力で
教室に向かって走っていた。
 そのとき。

 ボンッッ!!!!
「ひゃんっっ!!!!」

 爆発!?何だっ?あの声っ!?

「た大河っっ!?」ガラッ!

 引き戸を開けるのと呼びかけがほとんど同時に。

「う…………」

 暮色が混じり始めた教室には大河しかおらず、グラウンドから運動部の掛け声がやけに鮮明
に聞こえた。竜児はじんじんするような耳鳴りを覚えながら一歩、二歩、中に入る。

「あっ、りゅ」
「動くなバカっっ」
「なにぃ?」
「動くなっつってんだろがっ!クチ開けんなっ!まばたきもすんなよっっ!!」

 教室の後ろの方のスペースで、白く雪化粧をまとったような逢坂大河が立ち尽くしていて、
言われた通り固まった。いや、それは雪ではなくガラスの破片、蛍光灯の。

「いいか動くなよ、いまはたき落とすから」
「……」

 竜児は飛び付くようにして自席の鞄からマイ掃除道具を取り出すなり、頭のてっぺんからブ
ラシをかけ始めて念入りにガラス片を落としていった。落としながらどこか怪我していないか
見ていくと耳鳴りどころか自分のこめかみや首の辺りにも動悸が激しくなってきた。ジャリッ
と上履きが立てる音にもいちいちビクつく。

(細かい方のブラシは窓の桟なんかを掃いたけど……)

 ためらってはいられない。目を閉じた大河の瞼から頬を掠るように刷毛を掛けながら、睫毛
にキラキラとラメっぽい光を認めてまた恐ろしくなってくる気持ちをようやく抑えて素早くは
たき落とした。
 両手を水平に伸ばさせてえんじ色の制服の上下をはたいて、片足ずつ脚と上履きをはたき終
わる頃には見える怪我もないのが分かってきた竜児もすこし落ち着いてきて、手を引き、席に
座らせた。

「目にじゃりじゃり感しねえか?ゆっくりな!」
「……大丈夫…………みたい」
「他には?」
「分かんない、けど大丈夫。………………みたい」
「じゃゆっくり目を開けてみろ。ちょっとでもジャリっときたら言え。洗い場に連れてくから」
「うん…………平気。…………みたい」
「よし。じゃあ掃除してくるから座ってろよ」


 憮然とする大河を置いて、竜児は手早く教室の後ろで蛍光灯が飛び散ったと思われる範囲を
掃いた。机や椅子を拭き、掃き切れない細かなガラス粉を取るためモップがけの水を汲みに出
て行った。

「バカって言った……」

 独り残された大河が涙目でぶすったくれてぽつん、呟いた。

「犬……」


 戻って来た竜児がモップを掛けてると、床に黒光りした棒が落ちている。ああ、これはあれ
だ。昨日大河のロッカーを掃除してるときに見たヌンチャクだ。つまりこの手乗りタイガー様
は待ちくたびれて『演武♪』なんかを始めて、真上にスッポ抜けて……なるほどなるほど。
 しかしそんなことを突っ込んでみて今さらどうなるものでもない。第一、こんなドジは本人
こそがいまヒシヒシと悔いているはずだ。ほら見てみろ、見事なぶすったくれじゃねえか。そ
う思った竜児は掃除の流れのまま素早く拾ったヌンチャクを持って廊下に出ると、大河のロッ
カーに仕舞いこんでまたすぐ戻る。
 これで平穏な日も終わってしまった。だけど不機嫌くらいが何だという。憮然と口をへの字
にして俺にいくらでも八つ当たればいいさ。それがいつもの事だし怪我がなかった代償なら安
いもんだろう。

「よし終わった。帰りがけに担任のとこ出頭してくから買い物はその後だ」
「え?何言ってんのよ。私が割ったんだから私が行く」
「だめだ。お前が割ったとなると事情を正直に言う他にねえ。俺なら掃除中の過失で済む」
「何でよふざけんな!犬に咎を押しつつ付けるほど落ちぶれれてないっ」
「お前の性格だとそれはもっともだな……じゃ、報酬で解決ってのはどうだ?」
「ホ、報酬ぅ?」
「……エジプト綿のリネン……くふっふふっふ……シーツ、枕カバー、布団カバー、あの手触り……」
「あんたね……」
「お前が誤解を上積みされるのは俺がいやなんだよ。偶々の粗忽だろうが」
「タマタマのソコツ……」

 大河は小難しい顔で鸚鵡返しする他になくなって、いっそうぶすったくれる。代わってやっ
たところでこの顔が笑えるようになるわけじゃないのだろう。ふと竜児はそう思ったのだけど
今さら退けるものでもなかった。並び立つって約束したんだしと続けた考えが、どこか言い訳
めいてるのも気にはなる。
 なったけど……その思考は大河が小さく頷いたことで遮られた。

 な。と促すように押して歩きだすとき、肩を落とした大河が普段より一層小さく見えてしま
った。竜児はどこかにつまらない忘れ物でもしたような気分に襲われつつも、他にしょうがな
くバッグを背負い直しながら階段を降りた。


「蛍光灯、割っちゃったんですか?どういう状況で?」
「すいません。俺が箒持った腕を振りあげたら偶々下から突いてしまって。片付けは済ませました」

 大河が一瞬びっくりしたような顔をして竜児を見た。竜児なら過失で自分なら故意だと思わ
れるっていうのはこういう事だったかとやっと得心した。たしかに自分が箒持ってバンザイし
たって届きはしない。
 だけどまだ英語科準備室に残っていた担任の恋ヶ窪ゆり(29)は別に故意か過失かなど追及す
るつもりは無いみたいだった。

「それは分かりました。怪我とかは……」
「頭から浴びちゃったけど大丈夫……みたい……」


「逢坂さんが!?ちょ、ちょっとほんとに大丈夫なの?」
「竜児がはたいてくれたから」
「斜めに突き上げちゃって、偶々その下に大河がいたんです。申し訳ありませんでした」
「それはもういいから。逢坂さん、一応保健室に」
「大丈夫、竜児が」
「高須くんの前で服脱いではたき落としたわけないでしょう?」

 担任教諭はぴしゃりと制した。

「それは……そう……」

 いつものヘロヘロキャラとは打って変わって心なしか眼光まで鋭い。ちらっと竜児に視線を
走らせ、また大河に戻して言い聞かせる。

「逢坂さん独り暮らしよね。帰ってシャワー浴びても背中に入りこんだ欠片とかあったら丁寧に取れないでしょう」
「…………」
「ね。学校で安全確認済ませて。保健医の高倉せんせもまだいらっしゃるはずだから」

 担任は大河の返答も待たずに保健室に内線をかけ、手短に事情を説明すると、さ?と大河を
促し並んで出て行った。高須くんは帰ってもいいし心配ならここで待っててねと言い置いて。


 ぽつねん、というのはこういう時の形容だったろうか。
 そうだった。掃除なんかしてる場合じゃなかった。あんなに細かかった破片なのだから制服
の隙間から入りこんでる可能性なんかよく考えるまでもなく心配しなくちゃいけなかった。何
を得意げに、あんな不十分な処置をしておいてドジの肩代わりをしてやる、なんて。よくも思
えたものだ。

 分かってる。それは大河の服を脱がして全身はたき落とすなんて行為が自分には到底できな
いからだ。でも、たとえば親だったら、兄弟姉妹だったらするだろう。できるだろう。大河が
家族と不仲らしくても、こんな場面に遭遇すれば当たり前に身体が先に動くんだろう。

(くそ……)

 どうして腹が立ってくるのか竜児にはよく分からなかった。誰に腹を立てているのかも。
 ただ握った拳に目を落として見れば、そこかしこが長くなった夕日を受けてキラキラ光って
いて、粉のガラスが手の甲から袖口に付いているのに気づくばかりで。洗い場で流さないとい
けねえな。ぼんやりと思った。気づかずに目をこすったりしてたら大変だった。
 いっそのこと、もっとはっきりと打ちのめされたかった。


 担任と大河は、竜児が手洗いを済ませてから10分ほどで戻って来た。もう大丈夫、帰って
いいですよとにこやかに送りだされ、二人は連れだって帰途につく。

「やっぱちょっと出た。ガラス」

 押し黙ったままの竜児を見上げて大河が口を開く。

「おまけにたんこぶ出来てたよ。ここ」
「……たんこぶ?なんで?」
「その。スッポぬけの前にぶつけてたみたい。……大したことない。湿布もいらないって」
「そっか。じゃ買い物済ませてるからお前はシャワー浴びて来いよ」
「ううん一緒に行く」
「あれ?機嫌……」
「はあ?機嫌?私の機嫌がどうだって?」

 先に立って歩こうとする大河を見れば、先刻のぶすったれが消えていた。


「あんたに買い物まかせるとやっすいサーモン選ぶかもしんないじゃん。見張らないと」
「おまっ、俺の選別眼に文句があんのかよ!?」
「しみったれ犬が特売日でもない時に何買っちゃうか信用できないしねー」

 何か言い返そうとして、言い返すべき憎まれ口を思い付けずに竜児は。

「なにそのパクパク。金魚?フナ?ピラルク?犬から魚類にまで堕ちるわけ?あんた」
「ピラルクとはまたマニアックな……まあいいわ。大して怪我もなかったしな」
「当然でしょ。……あんたがはたいてくれた…ンダカr」
「は?」
「何でもないっ。早く行こ竜児!タイムセール始まっちゃう」
「ん……お、おう」

 竜児はバッグから折りたたんだエコバッグを取り出して広げながら、小走りに駈け出した彼
女を追う。一旦帰ってから買い物に出かける間はなさそうだし、このままスーパー立ち寄りを
して帰ろう。旨い刺身が安く買えたらいいが。


 いろいろあって、夕めし時。

「お刺身だぁ〜☆ 豪勢だぁ〜☆ 贅沢だぁ〜☆ だぁだぁだぁ〜〜」

 泰子が目を丸くして喜んでいた。やっちゃんシャケ好き!とはしゃいでいるところを見ると
この母にとってサーモンも鮭も同じ食べ物らしい。ねえねえ今日はなんか特別な日〜?と大ボ
ケの連打に、値段がどんだけ違うと思ってんだよと、虚ろ目の息子。実は真剣に初鰹の品定め
をしている隙に、かごに大河がこっそりと『極上トロサーモン:サク』なるブツを忍ばせてし
まっており、迂闊にもそれにレジまで気づかなかったのだ。

「うすーーく切って、って言ったのに!鰹!」
「初鰹は脂っけないから大ぶりの方が旨いんだよ!サーモンはうっす〜〜く切ってやったろ!」

 見ろこの脂テッカテカなごごご極上トロサーモン!味わって食えぇ〜!涙目で吠えるヤンキ
ー高須竜児の凶相にびびることもない女ふたりは「おいひーっ!」「とろけるぅ〜☆」などと
お気楽極楽に飽食の限りを尽くす。

「ぐぬぅぅぅ、太れ、食い過ぎて太ってしまえ!メシも4合炊いてやったからな!」
「望むところよ!おかわりっ!……あ、太るって言えば思い出した」
「何をだよ?」
「かわしまあみ」
「おう……そう言えば」
「うん。そうね、うんうん。明日決行しよ。みのりんと打合せしとかないと」
「箸くわえてメル打ちはやめろ。行儀悪りぃ」

 何を企んでいるのやら、やっぱり教えてくれる気はないらしいが、できるだけ平穏な日々が
伸びて欲しいものだと思わざるをえない竜児であった。

「竜ちゃぁ〜〜ん、やっちゃんもおっかわりぃ〜☆」
「……そろそろ出ねえと遅れっぞ?」


 ちなみに夕方の出来事が誰にも目撃されていないと思うのは素人の浅はかさで、ちゃぁーん
と級友の誰かには見られていたらしい。曰く、『昨日の放課後、手乗りタイガーがヌンチャク
ぶん回してヤンキー高須と決闘してた。見た』という噂が翌日には流れるのだが、それ以上に
耳目を集める事件が起きたせいで、意外なほど今に伝えられていない。


〜おしまい〜


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