月の光に蒼く。
 純白のシーツを頭からまとうだけで、大河は竜児の花嫁になる。
 窓から射し込み大河の足元までを照らす、月影のウェディングロード。
 美しくて。美しくて。
 だから竜児はここが、大河との逃避行の末のかりそめの宿、祖父の家の二階だということをほとんど見失う。永遠を、望んでしまう。
「ちょっとだけ……」
 練習ね、と、幻のケープの奥で大河が微笑んでみせる。


  〜竜虎並び寝る〜


  1

「もういちど」
 竜児は大河にキスをする。
「もういちど……」
 キスをする。それが答えだから。
「もういちど……」
 ずきん、とする。大河と口づけをするたびに走る、この、甘いくせに、毒のような。
 脳をとろけさせ、腹の芯の知らない臓器を満たし、ふたたび身体の端までかけめぐり、指の先まで甘くする、この、伝わるものは何だ、と竜児は思う。それは稲妻のように強く、だけど蜜のようにしみいる。身体が甘い、そんなことがあることを初めて知る。甘さで気が狂いそうになる、そんなことがあることを。教えてくれたのはこの女だ。俺の初めての女。
 大河。
 涙すら出てくる。
 涙となって出てくる。だから竜児にはわかってしまう。
 大河のふるえる睫毛のはた、降り落ちた月の光をふたたび凝らしたように光る美しい雫に、このいとしい女もまた、竜児と同じ甘美な毒に身体の端まで苛まれているのだと。
 二人とも。だから。
「だっ、だめだ! これ以上はもう……っ!」
 力も溶けて消えかけた両腕にありったけの強い意志をこめて、竜児は大河から身体をもぎはなす。
 踏みとどまる。
 歯をくいしばる。
 自分はどんな顔をしているのだろうと竜児は思う。伏せた目に血を走らせ、涙すら浮かべて、俺はきっとひどい顔だ。こわい顔だ。
 だが知ったことか、とも竜児は思うのだ。俺の顔を見て、誰がこわがろうが知ったことか、と。
 ただ一人、たったひとりでいい。目の前にいるこの女に、大河にだけ伝われば。
 大河にだけわかってもらえれば――それでいい。
 竜児は願う。
 わかってくれ、大河。おまえから唇を、身体を、引き剥がしたのは拒絶じゃない。その逆だ。その逆に、おまえを……だからこそ……大河、わかってくれるな? 大河――そう、竜児が、畏れと、願いとともに顔を上げると、大河は、
「竜児、これあげるわ」
 その小さな手のひらに、小さな箱をのせて差し出していた。きゃ☆、とか言って、もう片方の手は熱くした頬に添えて、大河はこっちを見てさえいなかった。てか目つぶってる。



「おう……な、なんだこれ?」
「プレゼント」
「おう! そ、そうか。まいったな、俺の方はなんにも……て、おまっ!?」
 窓から射し込んでくる清らかな月の光の下に手をひきよせて、竜児が確かめたそれは、
「な、なんでこんなモンを!?」
 どう見てもコンドームです、ありがとうございました。プレゼントだけにありがとう……じゃねえ、って!
「さっき買ってきたの。ほら、下着とか買いにいった時に、一緒に。コンビニで」
「ぜ、ぜんぜん気づかなかったぞ。そうか、おまえがアホみたいに買った菓子の山にまぎれて……じゃねえ! おまえっ、これっ、だから……」
 そして竜児は絶句する。だから、って。だからなんだと言うんだ俺は?
 その、だからをひきついだのは大河だった。
「ん。だから、練習しよ?」
「練習?」
「そう、練習の続き」
「続き?」
「そ、そう。続き、だから……そ、その、だから、ね?」
 わかるでしょ?、なんて言いながら。両手を頬にあてて大河はなにやらクネクネする。
 竜児だって、もちろんそんなの、わかるに決まっている。この状況で、これを、大河が、これなのだ。いくら竜児だって、大河の言いたいことはわかっている。わかってはいるが、それをなんと言えばいいのかはまた別だった。
 わかっているとも大河、それはえがつくものだ……えがつくものだよな? あとせとか? とか言うのかバカか俺は? だいいち、えだろうとせだろうと、そんな言葉、他人に――まして、好きな女になんか、竜児は言ったためしがない。
 しかしこの沈黙をどうとったものか、大河はその、今はまだ世界遺産に指定したいほどにも珍しい、竜児のためだけに向けたはにかみの表情のまま――その愛らしさのままに、瞬間、眉根に苛立ちの小さな雷光を走らせて、
「このグズ鈍感スケベ椅子!」
 ひと息に犬から椅子へ。竜児をとうとうモノにして下さった。
 告白したからといって、婚約したからといって。犬からヒトへと、いきなり昇格できるとは竜児も思ってはいなかった。けれど、ここでまさかの無生物への降格、しかもエロいモノに堕ちてしまうとは……。
 そんな竜児を呆然とさせたのは、しかし、ソープの備品にまで身をやつしたショックなどではなく。
 癇癪をすっとひっこめて、ふたたび上目遣いに恥じらって甘えた声を出す、凶暴な婚約者の豹変ぶり。
「……だから! え、えええ、えっちの練習、しよ?」
「お、おう。だけどそれ……これ使っちゃあ、それはもう練習とは言わねえんじゃねえか……?」
「うるさいわね……いちいち細かいのよあんたは。どうせしたいくせにこのエロ犬」
 めでたく竜児は犬に返り咲いた。





  2

「あっち向いてて」
「おう」
「離れなくていいから……離れないで」
「お、おう……」
 背中に大河の頭があたる。背中に大河の体温を感じる。背中ごしに、大河がパジャマのボタンをはずしていくのを感じる。なぜか湧き出した唾を口の中にためてしまい、竜児は困って、気づかれないようにそろそろと飲み下す。
 大河が小さな尻を突き出して、竜児の太ももにえいっと当ててくる。ふふ、とやつは笑ったかもしれない。唾を飲んだことがバレたのかも。
 そうして大河は脱いだパジャマを、ぽいっと布団のわきに放る。竜児はそれを目で追わずにいられない。後できちんとたたむためだ。そう、たたむためだとも。もちろん。
「いいよ、こっちむいて。竜児」
「おう……」
 返事をしたはいいが、すぐ振り向いていいのだろうか? 振り向くタイミングとかあるのか? 竜児にはわからない。わからないことだらけで、確かなことは、このままではとても心臓がもちそうにないことだけだった。どくんどくんどころじゃない。どどどど、って、おまえ。何か出るのか、出ちまうのか? どどどどどどど。
 鼓動の早さになにやら生命の危機さえおぼえた竜児が、ようやく振り向くのと入れ違い。
「寒い寒い……」
 大河はふとんにくるまって、ちょこんと可愛く頭だけをのぞかせていた。
 うわーっ!と、声には出さず心の中で竜児は叫んだ。心の中の頭を両手でかかえた。俺はなんというもったいないことを! 一糸まとわぬ大河の可愛い身体はどこだ!? ふとんの中ですMOTTAINAI!! ていうかもうこれ、大河の意地悪なんじゃないだろうか?
「なによ、そんな顔して。……MOTTAINAI、とか、思ってる?」
 意地悪な上にエスパーになった大河は、あごをしゃくってふふん、と。なんだろう、すごく見下されている感じがする。寝ているのは大河なのに、立っているのは竜児なのに。下からなのにまっすぐと。
「見たいの?」
 そんな大河は言うこともまっすぐ。
「お、おう……」
「なーんか、気の抜けた返事ねぇ。見たいの? どうなの?」
 おっかねえ。竜児はこわくてたまらない。何がこわいって、大河が不機嫌になることもこわいが、その当然の結果として訪れるだろう中断が、今の竜児にはたまらなくこわい。中断とか、マジで勘弁だ。てかそんなの無理だ。だから、
「見たい」
 と、竜児はつい、うわごとのような声をもらしてしまう。それに気づいて、そしてそれが勇気になる。そうだ、俺は見たい。今こそ言おう、大河の裸がすごく見たい! そうさ、言えるとも。何度でも言ってやるとも! 聞け大河。いや世界中のすべての耳のあるものよ聞け! 俺は大河の裸が見た
「いいよ」
 い、いよ、って。
 何度でも欲望を口にする勇気と決意をかためた竜児の前で。
 見たい、と竜児がもらした、たった一つのかすかな返事にこたえて、大河は頬に紅を散らして。そしてふとんが、
「おう!?」
 ふとんが、ふっとんだ。



 ほんとうに、ふっとんだのだった。竜児の顔の前をかすめるほどに舞い上がったふとんはスローモーション、くたりふわりとしわを寄せてノックアウト、もういちど大河の下半身を隠すようにかぶさる。なんだこれは、大河がふとんに食らわしたのは掌底なのか蹴りなのか……そうじゃない。なんだ下はまだパジャマなのか……そうじゃない。大事なのはふとんじゃないし、パジャマの下でもない。大事なのは――
 幻のようだ、と竜児は思う。
 広がる淡色の髪が作り出した小さな海に、ミルク色の肌を月光に蒼く染めて、けれど頬と耳ばかりは月明かりのなかでもわかるほどに朱に染めて、大河が浮かんでいた。
 浮かんで、そして大河は竜児から目をそらす。
 薄い胸は交差したふるえる小さな両手でいまだ隠され、腰からしたたる雫のような曲線を描く腹は、さらに小さな雫のようなヘソだけをのぞかせてパジャマの下へと消えていく、けれど。
 けれど、なんて、綺麗な。
「なに……なによ? なにか言うことないわけ? なによ、ぼーっと突っ立って……」
 大河は星の散る瞳をついと眇めて竜児に向け、けれどまたすぐにそらしてしまう。
「なにか言うこと……」
 竜児はほんとうに馬鹿になったみたいに、大河の言った言葉を繰り返す。
「そ、そうよ」
「俺、ぼーっと突っ立って……大河、おまえに」
 おまえに見惚れていたよ……と、そう竜児は言ったのだった。そして竜児は、見惚れるという言葉の意味をはじめて本当に知る。気づいて、綺麗だよ、と言えばよかったかと悔やむ。可愛いよ、と言ってあげられればよかったのかと。なんて俺は気が利かない、口が下手でだめなやつなんだ。だから、
「うぐ〜っ!」
「おう! た、大河!」
 見ろ、大河が泣き出しちまったじゃないか。寝巻きのポケットにも用意してあるポケットティッシュを取り出して、大河の涙を拭こうと竜児はあわててそばにひざまづく。
「い、痛てて……っ」
「おう! なんだ、そっちか。って痛いのか? どこがだ? 大丈夫か?」
「竜児、髪、踏んでる」
「おうわあ! すまんっっ!」
 竜児のひざが大河の髪を踏んで、にわかにひっぱられて痛かったらしい。竜児はひざをどかし、大河の髪をかきわけて二度と事故が起こらないようにして。
 そしてようやく、うぐうぐ泣いている大河の瞳からこぼれる涙にティッシュをあててやる。右目も左目もあててやり、ついでに鼻もチーンさせる。よかった、それで大河はおちついたみたいだった。
 竜児は努めてやさしい声を出す。
「ごめんな、大河。俺、おまえを泣かせるほど口下手で……」
「竜児……」
「おまえがあんまり綺麗で、可愛くて、驚いちまって、ぼーっとして……だから、そう言えばよかったのに、見惚れてたなんて。だめだな、気の利いたこと、どうにも言えねえ。おまえがいうとおり、俺はバカ犬なのかも……言うべきときに、言うべきことが言えたためしがねえ。今だって、そうだ。泣かしたからあやまってるのに、あやまんなきゃいけねえのに、バカな俺は、おまえの濡れた瞳はなんて素敵なんだ……とか思ってる。あれ? おう? どうした、なんでまた涙がフゴモ……っ!」
 大河は腕を振り上げて瞬殺。竜児の鼻の穴になにかがずぼおと突き刺さる。
「ああああんたまた私を泣かす気かっ! この変態天然ジゴロ犬っ!」
「お、おまえまたなんてことを……おおおおう……っ?!」
 非難もそこそこに、ともかく竜児は鼻の穴に突っ込まれたものをつまんでびろーんとひっぱり出す。そいつの思わぬ長さに痛み混じりの感嘆の声が出てしまう。それはティッシュまるまる一枚、正確にいえば一組(二枚)だった。しかもそれが鼻の片穴から。竜児は驚いて、痛みに涙もぴゅっと。
「まあきたない」
「まあじゃねえ! しかもおまえこれ、さっきおまえが鼻かんだやつじゃないか!?」
「涙も吸ってるんだからいいじゃない」
「まったく何がいいのかわからんぞ俺は」
「嬉しくて泣いたんだもん」
「だから何が嬉しくて……お、う?」
「竜児、私に見惚れてた、って言ってくれたから」
 だから嬉しくて泣いちゃったんだもん……と、大河は照れたようにほほえむ。こぼれ忘れた涙の名残が細めた瞳にいっそうのきらめきを集めて散らす。




  3

 こういう時、自分はどこにいればいいのかが、またわからない。何がエロ犬だ、と竜児は思う。あんなに、数え切れない夜ごと、これはいかがなものかと自分でも心配になるほどに、大河とのことを妄想して、おのれを慰めていたというのに。何も想像できてなかったんじゃねえか、と。
 別にステイを命じられたわけでもないのに、
「なんで正座してるの?」
「お、おう」
 半裸の大河の横に、竜児は正座していた。大河になんでと言われても、自分でもなんでだかさっぱりわからない。正確にいえば、正座からどうすればいいのかが、まったくもってさっぱりだ。
 大河に寄り添うように、横になるといいのだろうか。しかしそうするには、この正座の姿勢からだと、かなりのアクションを起こさないといけない。腰を浮かせて、手をついて、足をおもむろにふとんの方に伸ばし――そうするしかないが、そんな動きがどうにも竜児にはわざとらしく不自然に思えてならない。それではまるで、よっこらせっと、さて、ちょっと横にでもなりますかね、なあ大河さんや……とでもいうようなものではないか。いやいっそ、そう口に出して横になればいいのか? ないない、それはない。
 そんなふうにあれやこれやと悩みながら、大河を見下ろす竜児の凶眼は月光を帯びて、いやさかにスパークする。我は地獄の淫獣アザゼルの化身、へひひひっ、この可愛い娘っこを永遠の性奴へと堕とすべく、さてどう手込めにしてくれようか……とか思っているように見えるが、実際かなりライトに似たようなことを思っている。
 それにしてもこう座って見下ろしていると、竜児にはどうにも大河の裸が眩しくてたまらないのだった。とりあえずとばかり、大河の顔に視線を逃して、
「寒くないか?」
 そう訊ねた竜児はというと、むしろ暑いくらいだった。夜の部屋の空気はわずかに肌寒いほどだが、身体の内からの熱が皮膚をほてらせている。
「うん。平気……」
 大河はそう言うけれど、竜児はストーブのところまで膝歩き、二つ強くする。大河の小さな身体は自分よりも冷えやすいことを知っているから。
 そして戻ってきてまた正座。
 ……しまった、と気づく。今のコレすごいチャンスだったんじゃないか? せっかく腰を上げた状態だったのに、なぜ俺はそこで横にならない!? あやうくリアルに頭をかかえかけた手を下ろし、竜児は、ああそれにしても、どうして……と、じっと手を見る。
 どうしてこんなにも自然であることに苦労しなければいけないんだ、と竜児は思う。虎と竜は並び立つ、それが自然というものじゃなかったのか。だから、なあ大河、並び立つのだから、虎と竜は並び寝るのも自然じゃないか……そうかあ? すげえ聞いたことない。立つが寝るになるだけで、一挙にえらい違いだ。
 そもそも、こんなに悠長に悩んでいる暇など無いはずであった。こんなに不自然な間、いいかげんいつ大河の大河サイズの極小堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない――と、竜児が焦りを通り越して本気で怯えかけた、その時。
 まさに虫の知らせか、大河が口を開く。
「見るだけで、いいの?」
 見てすごく興奮してくれるのは嬉しいんだけど……なんて言って、大河は伏せる目蓋も赤くする。いつもの口汚い面罵を予期した竜児はほっとひと安心。おう、そうか。そういうとり方もあるか、ナイス大河、助かった――いや、実際のところ、竜児はすごく興奮してもいるのだけど。
「……触りたいの?」
 おう、とこれは竜児には渡りに船。そう大河に訊ねられれば、竜児はもう間違えない。それならさっきやったからわかるとも。準備万端、覚悟も完了。即座に答えられるぜ聞け大河、お、
「ううん、だめ」
 おおおおおううう……返事すらさせてもらえないとは。
「そんな言い方だから、だめなんだ。私もうしない」
 私も悪かったんだ、うん、もうやめる……などと、大河は天井を見上げてなにやらぶつぶつと。
 そんな、しないなんて、やめるなんて――来てしまった。大河のきまぐれ、わがまま。つまりは竜児がもっともおそれていた中断が。



 竜児の視界は真っ暗になった。きっとギラつく瞳孔は閉店ガラガラ、シャッターが降りたに違いない。あるいは蒸発するマイクロブラックホールのように爆縮、消滅。そうして心に突如広がった暗闇の深淵を竜児はさまよう。どうすればいいんだ……どうすれば。さっきからさりげなく片手で交互におさえて隠している、俺の股間のこのいきりたった手乗りドラゴンもどうすれば。
「なんて顔してんの、あんた」
「おう! だ、だって。だってえ〜ン……っ」
「なに変な声出してんのキモい」
 そんな絶望をさらにえぐるようなヒドい言葉とうらはらに。だけど、クスッと、大河は竜児に優しく微笑んでくれるのだ。微笑んで、そうして、大河は竜児に両手をひろげてさしのべる。
「来て、竜児」
 そこにいたのはほんとうの天使。
 嘘か幻かと、つい竜児は目をこすって。
「おう!? いいのか? だって、おまえ今、やめる、って」
「やめる? ああ、うん、やめるよ。竜児を試すような言い方。もういいの、わかったから。私、もう知ってるから」
 竜児が、本当にほんとうに私を求めていること――そう、大河は言うのだ。さしのべられた手と手の向こう、綺麗な顔を真っ赤にして、それでも視線もそらさずまっすぐ竜児を見つめて。
「大河……」
「バカなあんたのことだから、私に何をしたらいけないのか、わかんなくて困ってたんでしょ? 何をしたら私が怒るのか、私が不機嫌になるのか、私が嫌がるのか……ううん、何をしたら、私が、喜ぶのか。わかんなくて、固まってたんでしょ?」
「まいった……そんなことまで、わかるのか?」
 当然でしょ、バカね……と、大河は笑って。それは竜児が愛する笑顔で。だから、竜児はほんとうに安らかな気持ちになる。
「だから、私ももう、触りたい? なんて訊ねたりしない……ね、竜児」
「おう」
「竜児、ね……触って?」
 安らかな気持ちになれたのは一瞬だけだった。こんなことを言われて、安らかでいられる男なんて、興奮しない男なんていようものかと。
 しかしここでもさすがに大河は虎、獲物を追い詰めるのに容赦はないのだ。
「来て、竜児……触って。竜児の、好きにして。私を、竜児の好きにして。私に、竜児のしたいこと、ぜんぶして。私、嫌がらないから。怒ったりしないから。だから私に、私のカラダに、竜児がしたいこと、ぜんぶしてね? 私のぜんぶ、あげるから。私は竜児のものだから。私はぜんぶ、竜児のものだから」
 だから竜児のしたいこと、私のカラダにぜんぶしてね……と。
 大河は、ほんとうに、容赦が、ない。
 くらくらと、竜児はめまいがしそうだった。からだじゅうが熱くなる。とりわけなんだか鼻の奥が熱い。やばい、鼻血を出すんじゃないか、俺は――すると大河はさしのべた手で竜児の手をとって、
「私、あやまらないから」
 そう言って、裸になった自分の胸へと押し付ける。





  4

「私、あやまらないから」
「おう。って、な、何をだ?」
「だから、あやまらないから。これが私だから」
 だから、命令するの……と、大河は言うのだ。命令という、その言葉の強さにはとても似つかわしくない、儚くて甘い声音で。
 そうして大河は指先までほてらせた手と手で、竜児の手と手をとって、自分の薄い胸へと導く。その驚くほど柔らかで、小鳥のように熱く、竜児の手のひらに痺れるような初めての快感をもたらす肉を、大河は、これ、と。
「これ……ちいさな胸、好きになって」
「お、おう」
「違うの。私だから……私の胸だから好きになるんじゃあ、だめ」
 すぐさまの返事を用意していた竜児は、しかし、大河のその言葉の意味の見えなさを前に、思わず声を呑むほかない。
 不意を突かれてまぶたをかすかに開いた竜児のために、竜児の心に自分の言葉がすとんと落ちるのを待つように、間を置いてから、
「ちいさな胸が好きなひとになって、竜児」
 大河は薔薇の唇をふるわせて言った。
 手のひらの下、そのちいさな胸の奥に、竜児は大河のちいさな心臓を感じていた。自分よりも早く、きっと強く。その早鐘のような鼓動が竜児にはたまらなく愛しい。
 その血が薔薇の唇を染めるのだと思う。
 その血が大河に語る力を与えるのだと思う。だから。
 竜児は、大河の言葉を決してとりこぼすまいと耳を傾ける。
「私。私、ね。竜児の目が好き……だけど、それは、竜児の目だから好きなんじゃあ、ないの……ううん、初めはそうだったのかもしれない。でも、でもね、今は、その……鋭い、おっかない、目が好き。かっこいい、って、そう思う。だから、それだから、そんな目の竜児が、ずっと、もっと、好き……」
 はっきりと、しっかりと、確かめるように。
 竜児の目だから好きなのではない。竜児が好きだから、そのおまけで、その目が好きなのではない――そう、大河は言うのだった。そうではなく、もう、その目が好きなのだ、と。竜児のその目はもう魅力で、だからいっそう、その目を持つ竜児のことが好きになるのだ、と。
 その目は竜児の魅力なのだ、と。
 だからね、と、大河はふりしぼった勇気で睫毛を震わせて、重ねた手の指先を震わせて言うのだ。だからね、と。
「ちいさな胸が好きなひとになって、竜児。そうして、それだから、もっと、ずっと、そんな私のことを好きになって……」
 だからまた、応える竜児の声がふるい立ったのは。きっと、大河を心から安心させたいという思いのためだけではなくて。
「……おう!」
 竜児は感動していたのだ。



 大河は、その薄い胸をこそ魅力だと感じて欲しいと願うこの女は、その願いを竜児に伝えるために、そしてそれと一緒に、竜児が自分の目つきに抱き続けてきた苦くて複雑な思いすら、吹き飛ばそうとするかのようだった。まるでついでのようにして。
「おう!」
 この目は魅力なのだと言う。そう言うのは、ほかの誰でもない。自分ですらない。
 大切な女がそう言うのだ。竜児にとってさえ嘘のように、自分よりも大切だと思える、この女が、大河がそう言うのだ。
 だからそれは自分を越えた本当に、真実になる。
「おう!」
 そして竜児は思う。大河、お前は最高だ、と。
 俺はほんとうに、最高の女をつかまえたのだと。
 そんなに何度も返事しなくていいわよ、と大河は言う。嬉しそうに、満足そうに、目を細めてみせる。
「よし、おっぱい触ってよし!」
「おう……てかもう、触ってるぞ……?」
「うう……い、いじってよし……」
「俺もおまえのその、ドジなところが好きだぞ?」
「うるさい。それは直す。いいからあんたはとっととそのエロ犬脳みそで日夜あたためてきたどエロい妄想をぞんぶんに私のカラダにぶちまけるがいい」
「……そのひどい口ぶりも好きだぞ……た、たぶん」
「うるさいってば、だから……あっ」
 手のひらで大河のちいさな胸の先をころがすようにする。すぐに硬くしこったそれは、きっと真珠のようだ。だから竜児はそのままに、もう迷うことなく言う。
「真珠……みたいだな?」
「はっ、ち、違うもん。そ、そんなんじゃないもん……あっ、あっ!」
「あんまり可愛い声出すなよ……俺が溶けちまう」
「か、かかか可愛くなんかないもんっ! はっ、はっ」
 薔薇色の唇から桜色の舌を出して、大河は子犬のようにあえぐ。身をよじる。匂わずにはおれない花のような大河の匂いが立ちのぼり、竜児の脳を痺れさせる。
「だめだね。おまえは可愛い。可愛いよ、大河」
「お、おかしくなるってばっ、そんな……っ」
 長い睫毛を甘い涙に濡らした瞳で、大河はくやしそうに竜児を睨みつける。
「だめだよ。……睨んでたって、もうおまえは可愛い」
 それに、こうしたかったんだ、ずっと……と、竜児は微笑んで、そして言葉をつなぐ。
「ずっとだ、大河……初めておまえと廊下で出逢ったあの時に、俺はおまえを可愛いと思った。その時からずっと……俺は、おまえを、ずっと……ずっと可愛いと思っていた」
 驚いて、大河の瞳が大きく見開かれる。
「……う、嘘っ!」
「ずっと可愛いと思って、でも言うことができなかった」
「う、そっ……」
「だから、いつかこうして……おまえは可愛い、可愛いって言いながら、こうしたいって、思っていたんだ……大河。俺の、したいようにしていいんだろ? 俺の妄想どおりに。だからそうする。これが俺の妄想だ。だから」
 大河、可愛いよ、大河……と、竜児は。
 くうっ、と、大河は白いのどから声をもらす。わずかに開いた唇から、小さく綺麗にならんだ歯を食いしばるのが覗く。身体じゅうを弄られているかのように、身をよじる。くやしくて、必死で毒づこうとする。
「そ、そんなにやさしい顔するなあ……っ」
「俺のこの顔がやさしい顔だなんて、わかるのもおまえだけだよ。大河、手をどけて」
 竜児の手の甲に重ねられた、桜色の爪までもがちいさな大河の手を持ち上げるようにする。
 そこにあるのは、プールでも、まして夢でも、はっきりと見ることが叶わなかった大河の乳と、そして……
「おう……ほら、やっぱり真珠じゃないか」
「……っ! し、知らない……っ!」
 大河は息もたえだえ、こんどは両手で顔をおおい隠す。




  5


 自由になった手で、竜児は大河の身体を撫でる。
 少し手首を浮かせて、指たちだけで。胸から腹へ、月の光の影に導かれるように。
 可愛らしい雫形のへそを指先でやさしくくじると、吐息よりも早く腰を跳ねさせて大河のカラダが答える。
 それが物であれ布であれ、知る限り竜児の指はすでにそれらを優しく扱うすべを覚えていた。そんな竜児の指がすべりゆくのは、今やこの世で一番大切なもの。
 生きたシルクか、それとも。
「……おまえは何で出来ているんだ? 大河」
 月に蒼く照らされた大河の華奢な肢体は、まるで精緻な人形か塑像のような陰影に包まれていて、しかも指の下で熱く息づいている。
 竜児はこんな美しい生き物を知らなかった。
 シーツから浮いた驚くほど細い腰弓の下にも、そっと手を差し入れる。壊れそうだとおののく。
 大河は喘いで身をよじる。くすぐったいのか、それとも。
 虎だというのに、この大河は子犬みたいに喘ぐと竜児は思う。
「俺はこんな気持ちのいいものを触ったことがない」
「りゅ、竜児だってっ! 竜児の手だっておかしいもんっ!」
 大河の顔は両手で隠されていて、その間から、ちいさくて形の良い鼻と、はっ、はっ、と喘ぐばかりの開かれた唇だけがのぞいている。
「竜児の手だって……気持ちよくて、おかしい……っ」
「おう、そうか……よかった」
 腰から腹へ、そして大河の胸へと、竜児は指をゆっくりと鍵盤をすべらせるようにして戻していく。そのたびに、大河は小さく腰を跳ねさせる。
「そんなにビクビクするなよ」
「か、勝手になるの! 気にすんなスケベっ!」
 そして竜児の指は、大河の胸のちいさなふくらみのはたで止まってしまう。じっくりと見ずにはいられない。
 薄くうすく、ふくらませて仕上げた、二つのミルクのプリンのようだった。
 唇よりも淡い桜色の先端が、そのプリンの上にちょこんとのせられて。そしてそのまわりへと、桜色は儚くしてミルクの色にすっと溶けてゆく。それは神の細工。
 桜色の先端は、片方は真珠のようにつんと丸く、そしてもう片方はまだ――
「なぁ大河。おまえの胸はプリンみたいで……美味しそうだぞ?」
「プリンじゃないっ!」
「食べていいか?」
「食べるなっ!」
「じゃあ舐めるだけ」
「……えーっ」
「キス」
「……っ!」
 淡色の髪からのぞく耳までたっぷり赤くしてから、大河はコクコクとうなずいた。これは……キスならいいってことか?
 広がりうねる大河の髪を踏まないように手をついて、竜児はすっと大河の胸におおいかぶさって。
 薄い唇を少しだけ開いて、唇の肉でふくめるように。
 真珠の方に。
「はあ……っ!」
 大河の腰がひときわ大きく跳ねる。
 竜児は顔を上げて、つい確認してしまう。唾液に濡れてちいさく輝く先端を見て。それは本当に、真珠のような。
「もうひとつの方も、キスするぞ?」
「い、いちいち訊くんじゃないっ! か、勝手にすれば……っ」
「おう」
 だめだ、楽しい。竜児にも大河が自分を質問責めにした気持ちがわかってしまう。



 竜児はふたたび大河の胸に顔をうずめて。
 今度はもうひとつの方。
「あっ、あっ!」
 すぐには口を離さず、唇ではさむようにして、ちゅ、ちゅ、と吸いたてる。
 唇の間でそれはすぐに硬く勃起して、はさむ唇の圧力にも負けなくなる。
 たまらなくなって、竜児は唇をミルクのあわいまで拡げて吸いたて、舌でもうひとつの真珠の仕上がりを確認する。コロコロと。
「わーっ、舐めてるうっ!」
 わーっ、ってね、おまえ……。
 逃れるように身をよじる大河をつかまえようと、浮かんだ細い腰に左腕をまわして抱きしめる。大河の肌はいつしか汗でしっとりとしていて、竜児の手が好きとばかりに吸い付いてくる。あまった右手で大河の左の乳房を大きくつまむようにする。ぷるぷると。なんだ、やっぱ胸あるんじゃん、大河のやつ。
 大河は足までばたつかせて、ふとんも蹴り殺す勢い。声こそ殺して大騒ぎ。顔を隠すために両手がふさがっていなければ、竜児の身もどうなったことかと。おおこれはなんという虎。
「わーっ、わーっ!」
 それでも押し殺された悲鳴は甘い響きを帯びていて、竜児はたまらなく愛しくなって。
 唇をめいっぱい拡げて、大河のミルクプリンで口の中をいっぱいにするようにして、先を飾る真珠ごと舌で舐めつくす。
「た、食べられちゃう! 食べられちゃうっ!」
 食べねえよ。
「食べないでね? 食べないでね? 竜児……っ」
 おまえが可愛いからいけねえんだ。
 ふと、大河は足をばたつかせるのを止めて、かわりにつっぱるように伸ばす。
 哀願する。
「りゅ、りゅうじっ、はっ、はっ……あのね、もっ、もう……っ、いいでしょ……っ?」
 駄目と答えるかわりに、竜児は今知った大河がいちばん可愛く喘ぐやり方で真珠をくるりと舐める。
「あーっ! も、もういっぱい……っ、いっぱいっ、舐めたよね? いっぱい……いっぱいっ!」
 大河は頭と足で支えるようにして、ひときわ弓なりに腰を浮かせてくる。竜児に乳を吸いたてられて、いっぱいっ、いっぱいっ……と、大河は熱にうかされたようにくり返す。
「あーっ! あーっ! りゅうじっ、ひどいっ、……も、もう、だ、だめだよ……だめ……あーっ!」
 竜児は右手でぷるりとつまんだ、もう片方の真珠も浮かした指でくじりだす。
「だ、だめだってば……っ!!」
 大河の肢体がビクンとひときわ大きく跳ねた。知らない跳ね方。
 玉を結んでいた汗が飛ぶ。全身をつっぱらせる。小さく華奢な大河の身体が竜児の腕の中で驚くほど硬くなる。痙攣する。
 虎が、と竜児は思う。
 大河の顔を覆い隠していた両手がはなれて、何かつかむものを求めるように震えながら空をかく。空に爪を立てる。
 竜児は反射的に顔を上げた。
 甘い涙でぐしょぐしょの大河の瞳は、宙に向けて驚いたかように見開かれて、星を散らして。いや、これは驚いているのだ、大河も。竜児はそう確信する。
 瞳を見開いたまま、大河は竜児が見ていることに気づく。痙攣のさなかで顎を引き、竜児を見ようときらめく瞳孔を動かす。
「りゅ……じ……っ」
 だが痙攣がその瞳を竜児に向けられる前にふたたび虚空へとさらう。
 大河の身体がふたたびひときわ大きく跳ねる。



 大河が壊れてしまう! 
 そう、ほとんど竜児は恐怖すら覚えて、いまだ安らぐことなく宙へと跳ねようとする大河の腰を力強く抱いて支える。
「……っ! ……っ!」
 空をかく大河の両手が竜児を掴もうと近づいては、肢体を硬くする痙攣にはばまれてとどまる。大河の爪が虚空を引き裂く。
 あれに掴まれた者は引き裂かれる。
 俺を引き裂け! 大河!
 迷わず竜児は心に叫んで、大河の腰から背中に腕を上らせて、胸に胸をあわせるように抱きしめる。こするようにして額に額をくっつける。
 大河の瞳の自由が利かなくなったのなら、俺がそこに飛び込んでやる!
「りゅ、りゅう、じ……っ」
 大河の両腕がガクガクと背にまわされても、竜児の背中に覚悟していた痛みは爆ぜない。その背中を掴もうとする力すら、痙攣が奪っているようだった。
「りゅ、う、じ……」
 襲い来る硬直に抗って、大河は必死に瞳を細めて、嬉しそうに……ほほえもうとして……!
「愛している!」
 竜児は叫ばずにはいられない。
 大河の瞳は見開かれ、目からあふれた涙が頬にひとすじ。
「わ、わた、し……も……あい、し、て……っ!」
 ふたたび大きな痙攣が言葉をさらい、そして大河は瞳を閉じた。
 静かに痙攣する大河の身体。
「……う、嘘だろ……なあ、おい……大河……」
 その痙攣も、収まって。
 なのに大河は瞳を開けない。
 忍び寄って来た焦りが、竜児を捕まえる。
「嘘だろ……なあ、おい、大河……起きろよ……はは……」
 やがてそれは恐慌になる。
「なあ、からかうのはやめてくれよ、大河……嘘だろ……? はは……目を開けてくれよ……大河! 大河っ! たい、がはっ!」
 肺からしぼられる最後の叫びは苦痛の叫び。
 竜児の胴に腕を回して、身体のコントロールを取り戻した大河の渾身のベアハッグが決まっていた。
「うるっさいっ、てば、あんた。大声出すんじゃないっ」
 可愛い唇から罵声を浴びせて、大河は大きな瞳もぱちりと。怒るのも忘れて、竜児はそれはもう安心のあまり。
「おう! た、たいがぁ〜ン……っ」
「キモいってのよ、だからその声」
 まさかこの期に及んであんたの新しいキモポイントを発見することになるとは思わなかったわ……なんて、大河は平気でひどいことを言う。そんないつもどおりの罵りに、竜児はますます安心だと喜びを深くしてしまう。染み付いた犬根性? なんとでもいえ。だって、だってなあ?
「だ、だってお前……俺はてっきりお前が死んだかどうかしたのかと」
「いや〜すごかったね! 私も死ぬかと思ったわ」
 いや〜すごかったすごかった、あはははは……なんて、他人事みたいに笑っている大河を見て、ようやく竜児にも多少の憤りのようなものが、こう、ふつふつと。


 なにか一言ってやらねば気がすまない。よし、と決意し口を開いた竜児は、
「怖かったんだぞ……ほんとに」
 唇をとがらせ拗ねていた。
「ごめんごめん☆」
 そんな竜児の怒る気も何も一発で失せてしまう、この素直に転じた大河の卑怯なほどの可愛さ。この虎の新たな牙がこれだ。だめだこいつ、早くなんとかしないと……てか俺がだめなのか?
「だって私も初めてだったんだもん……あんなにすごいの」
「おう……てことは、やっぱりさっきのあれは……あれか? つまりその……」
 イク、とかいう。
 真っ赤になって口ごもる竜児を、大河は目を眇めて見返して。
「竜児またなんかスケベなこと言おうとしてる」
「おう? っておまえの身に起きたことだろ!?」
「……うん、たぶん、そう。私……私ね? たぶん……あれで……」
 今度は大河が真っ赤になる番だった。仲良し信号機か俺たちは。しかし、そうか、つまり、やっぱり。
 つまり、だから、その、やっぱり。
 大河はイったのだ。
 わあ恥ずかしい。
 そんな心の中の言葉に羞恥のあまり身悶える竜児には、しかし、まだいくつかの初心者的というか童貞的な疑問が。
「む、胸、だけで?」
「えっ!? そ、そう。だと、思う、たぶん……あああなんかあんたを殺したい」
「なんで!?」
「だから! 私も初めてだったって言ってるでしょ?」
「初めて……イった?」
「わーもうやっぱあんたぶっ殺すっ!」
「おう!? だから、ベアハッグやめっ! おま、えの、本物……だ、だめへぇっ」
「胸だけでイったのなんか初めてなの! てかあんなにすごいの……初めてなの……っ!」
 竜児の背骨をミシミシと軋ませていた両腕も解いて、大河は恥ずかしさのあまりとうとう俯いてしまう。淡く豊かな髪間からちょこっと覗かせた耳も真っ赤。
 肺に酸素を取り戻した生還者の竜児は、そんな大河の頭をやさしく撫でてやる。ちんまい頭を眺めるそのギラつく邪眼で伝えたい思いは、俺もキリストより齢古い地獄開闢以来の魔神だが、天使のベアハッグで仏が見えそうになったのは初めてだ、そんな天使のつむじに喝をくれてやろう……とかというものでは、もちろんなくて。
 やっぱりどうにも愛しくて。
 だから竜児は愛しい名前を呼んで、
「大河……」
「な、なによ……っ!」
 顔を上げたその娘の唇にキスをする。


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