施主への引き渡しを明日に控え、竜児は引き渡し前の最終的なチェックをしていた。
専門業者による引き渡し清掃は終わったが、シンクを舐められるほど拭き上げてこそ、真の完成と考える竜児にとっては、この程度の清掃では我慢出来なかった。夕方から既に3時間、手には高須棒、腰には雑巾を装着して、死体安置所に置かれたの死者の屍肉を漁る悪鬼の様な表情で、厨房の隅々まで、一片の汚れもないよう確認していた。
「竜児君、いい加減になさい。」
厨房に響く凛とした声に振り返ると、竜児の師匠であり、大切な妻の実母である、女性が立っていた。
「あなた、昨日から全然眠ってないでしょう? 明日の引き渡しは13時。すぐに帰って身体を休めなさい。」
苛立ちが含まれた声には、地獄の獄卒さえも従うであろう響きがあった。
「先生、ですが後もう少しだけ・・・・。」
「黙れ。早くしろ。」
「はい。」
竜児はおとなしく従い、厨房の照明を落として店を出た。

1年前から進めてきたレストランの設計・施工は明日の引き渡しを持って完了する。
発注者である有名シェフも、実際に腕を振るう厨房スタッフも、先日下見に来て、料理人の導線や調味料置き場、冷蔵庫の使いやすさ等を褒めていた。
実際に使う立場の人達に賞賛されるのは、建築雑誌のデザイン賞を貰うより嬉しい。竜児には一仕事やり終えた充実感があった。

水平対向エンジンの独特の響き、身体を固定するシート。先生の車に乗る時は、未だに緊張してしまう。大河をつれて逃げた2月の寒空。まさか、あの時、自分から大河を奪おうとした人の設計事務所のスタッフとして、働くことになるとは思いもしなかった。
あれから12年か・・・。ふと時の流れを感じてしまう。

「竜児君。あの話の結論はでたかしら?」
寝不足の頭に問いかける声。
「いえ、まだ迷っています。」
「そう。確かに、この業界で30歳と言ったら、ひよっこだけど、大学の頃から手伝ってくれている事を考えると、キャリアとしては充分だと思うの。人気の料理研究家の台所。カリスマと呼ばれるフランス人シェフの店の厨房。独立するには充分なキャリアだわ。」
「・・・・・。」
「うちの事務所には、どんどん貴方を指名した仕事も来ている。独立しても、仕事上のパートナーで有ることは変わりません。いい加減に覚悟を決めなさい。」
あなたも疲れている。明日の引き渡しが終わったら有給休暇を取りなさい。母虎は、そう言って命令を下した。

竜児が、大河の母親の建築設計事務所に入社したのは、大学を卒業した年だった。
元々、インテリア雑誌を買って、セレブな暮らしを想像して楽しむような男だ。大河が母親と暮らす家に遊びに行く度、リビングに置かれた建築設計の専門雑誌を借りて帰り、読んでいるうちに、建築士の仕事に進む決意を固めたのだ。
大学受験は、大河の母に勧められた美大系の建築学科で学んだ。奨学金と祖父からの援助はあったものの、課題制作や専門書などの購入に金がかかる。
困っていた竜児に手をさしのべたのが、大河の父だった。


設計事務所の経営と営業は大河の父親が、実際の設計と施工管理は母親が。事務所はそんな風に分業されていた。竜児に与えられた仕事は、依頼された仕事の模型を作る事。
手間は掛かるが、割のよいバイトだった。
 大学を卒業すると、大河の母に弟子入りする形で、建築設計事務所に入社する事になった。
 竜児の計画では、25歳までに2級建築士の資格を取得。30歳までに一級建築士を取得する事だった。
 大河と結婚したのは、25歳の春だった。大河は、大学卒業後、幼稚園の先生になった。
高校3年から弟の面倒を見てきた大河は、大学時代に弟を幼稚園に送り迎えしている間に、その幼稚園の園長先生と仲良くなった。園児達に慕われ、園児達を慈愛に満ちた眼差しで見つめる園長。その姿に理想の姿を見いだしたのだ。


 走り去るポルシェ。竜児はマンションの階段を上がる。部屋の灯りは既に消えている。大河は寝てしまったかも知れない。
 鍵をあけて家に入る。リビングにつづく廊下も、リビングの灯りも点いていない。大河はどこへ行ったんだ?
 「遅いんじゃ〜、この馬鹿犬!」
叫び声とともに振り下ろされる木刀は、竜児の鼻先を掠めて、床にぶち当たる。
 「こっ殺す気か〜!」
見ると、浴室の扉が開け放たれていて、手乗りタイガーと化した嫁が血走った眼で己を見つめていた。
 「大丈夫。殺さないわよ。ただ、2・3日動けないようにするだけじゃ〜。」
 「まて、それは明日の引き渡しが終わってからにしてくれー!」
 「問答無用!」
大河が落ち着くまで、竜児は30分、家の中を逃げ回った。
目が覚めたのは午前8時だった。昨日、大河に殴られたり蹴られたりしたところが痛むが、何とか引き渡しに出かけられる程度のダメージですんだ。
今日は平日。大河は既に出かけたらしい。
リビングのテーブルの上には、茶碗とお椀が伏せられ、目玉焼きとキャベツの油炒めが乗せられた皿が置いてあった。添えられたメモ書きを読む。

竜児へ。
トドメをさせなくて残念だったわ。今日は弟が来るから、すき焼きの予定。
早く帰って来い。駄犬。

 引き渡しの後には打ち上げがあるのだが、参加したら木刀の餌食になりそうだ。

 出かけるまで時間があるので、久しぶりにキッチンの掃除をする。大河の掃除の腕も上がってきているが、達人の域にはまだまだだ。充分に堪能する事が出来た。

 引き渡し物件には電車で向かう。車内はがらがらだ。昨日の夜の、先生との会話を思い出す。独立に踏み切れないのは、資金不足の懸念が拭えないからだ。

 一級建築士は取得済み。仕事の依頼も内容も充分。だが、独立するにもスタッフと事務所は必要だ。
 スタッフについては目処が付いている。同じ大学の後輩が手を挙げてくれている。だが事務所については、条件に合うような物件が無いのだ。
 自宅のアパートの家賃。必要な広さの貸事務所。独立の為の資金は潤沢ではないから、不動産に関連する経費は抑えたいのだ。
 大河の通勤の事を考えると、大橋市内からは、そう遠くに引っ越しも出来ない。悩みところだ。


「高っちゃん、元気〜。」振り返ると春田がいた。
学生の頃の長髪はバッサリ切り、少し長めのオールバックにバンダナが、今の春田のスタイルになっている。
「よお、お疲れ。」
「いや〜、参ったよ。さっき大河の母ちゃんに捕まっちゃてさ、南側の廊下の壁紙、注文 と違うとか言われちゃったんだよね〜。ちゃんと指定された色使ったんだよ。」
「ああ、あれは、最初の設計と違う照明器具を取り付けたからだろう、電気設備屋さんに LEDの色味を変えてみて貰え。」
「了解。あとでやってもらうよ。」
「おう。」
春田とは、高校以来ずっとつるんでいる。特に、竜児が施工管理する物件の内装は、春田の親父さんが経営する工務店が担当する場合が多い。親父さんも堅実な経営をする人だったが、今、経営を実質的に切り盛りしているのは、春田の奥さん。口元に黒子のある女性だった。まあ、この奥さんがいるからこそ、春田は仕事が出来ていると言えなくもない。「そういえば、高っちゃんの住んでたアパート、来週中に取り壊されるよ。」
思い出したように春田が言った一言に、竜児は軽いショックを受けた。
「取り壊し? なんで? 」
「相続税が払えなくて、あの土地を売るんだってさ。」
「そうか。」
小学校から、大河と結婚するまで、あのアパートには20年近く住んだ。大河との思い出深い場所が取り壊されてしまう・・・・。そう思ったら、身体の一部を無くしてしまったような喪失感があった。
引き渡しが始まってからも、その感覚は拭い去ることが出来ずなかった。

「 It is thanks to you. We wish to express our gratitude 」
施主が握手を求めてきた。
「 We wish to express our gratitude for only here 」
竜児も手を差し出して、固い握手を交わす。一つの仕事が終わった。
肩をポンと叩かれて、振り返ると社長がいた。
「おつかれさん。シェフは君に感謝していたよ。友人に、この厨房を自慢すると息巻いていた。」これから依頼が一段と増えるぞ。社長はそう言って笑った。
「ありがとうございます。さっき先生に、明日から7日間の休暇を命じられました。」
「そりゃそうだろう。この半年は、まともに休んでないだろう。ゆっくりしたまえ。」
「はい。休み中にトラブルが発生した時には、携帯に連絡を・・・・。」
「休むときには、仕事を忘れろ。君のフォローぐらいは、スタッフでも十分出来る。」
「はい。」
「今日は、大河達とすき焼きパーティーなんだろ。もう帰りなさい。」
今朝、大河からビデオメールが届いて、竜児を夕飯迄に返さないと親子の縁を切ると脅かされたんだよ・・・。社長はそう言って笑った。

明るいうちに、自宅に帰るのは何ヶ月ぶりだろう。内装工事が始まってからは、夜中近くまで現場にいる事が多かったから、4ヶ月ぶりか。回らない頭で考えた。
玄関を開けると、黒い運動靴。大河の弟は、すでに来ているようだった。
洗面台で手を洗い、うがいをする。鏡の中の自分は、頬がこけていた。ゆっくり休もう。仕事が終わった実感が湧いた。

「お帰り。竜児。」
洗面所の入り口から、大河が覗き込んでいた。
「おう、ただいま。レストランの仕事終わったぞ。明日からは7日間休みだ。」
「へー良かったじゃない。お疲れさまでした。もうじきご飯よ。」
昨日の夜、俺をモルグに葬り去ろうとした妻は笑っていた。

大河の弟は、既に中学1年生になっていた。身長は165センチ。大河と20センチの差がある。
中学男児の食欲は旺盛だ。しかし大河も負けてはいない。100グラム 630円 確か700グラム用意されていた筈なのだが、既に跡形もなく消え去り、鍋に残った肉片を掠う始末だった。
「ふ〜、食べた、食べた。」
「食べてすぐに横になるんじゃありません。」
久しぶりに、突っ込んだ気がする。



「みんな幸せ」
 暑い。重い。寝苦しい。不快感に目を覚ますと、三重苦の原因が目の前にあった。
ナツメ球の微かな光源に照らされて、大河の七分袖のパジャマが見える。
竜児の腕を枕にして横向きになり、胴にまわされた腕。小振りだが形の良い胸が、竜児の右脇腹に当たっている。大河、お前ブラしてないだろう。
 枕元の時計を見ると午前5時30分。室温表示は29℃を示している。
只でさえ高い室温と隣で寝息をたてる熱源。そりゃ寝苦しいはずだ。しかも右腕は痺れている。
 大河を起こさないよう、細心の注意を払って、腕を引き抜く。上布団はすべて大河に掛けてやった。

 久しぶりに朝食を作る。大根を10センチ程輪切りにして、皮をむく。それを半分に切って、一方は短冊切りに、もう一方は食感が残るように乱切りにする。
 冷蔵庫から、鰹節と昆布で取った出汁がたっぷり入ったペットボトルを取り出し、小鍋に注ぐ。煮立ったところで大根の乱切りを投入し弱火で煮る。
 残った大根の短冊切りは、ボウルに入れてゴマ油を少しとスリ胡麻とシラス干しを投入して和風ドレッシングであえる。
 大根に火が通ったあたりで油揚げと豆腐を投入して、軽く一煮立ちさせたら火を消して味噌を少量加える。味噌汁で余った豆腐半丁にネギとゴマにポン酢を掛ける。
今日の朝食はこれにて完成。調理時間は25分だ。

 大河が起きてきたのは午前7時。竜児の家で、半居候のように暮らしていた頃は、竜児がお越しに行かない限りは、絶対に目を覚まさなかった大河も、幼稚園の先生になって以来、休みの日でも、普段通りに起きるようになっていた。

「あんた、何を勝手にベッドを抜け出してんのよ。」
「暑くて目が覚めちまったんだよ。仕方ねえだろう。」
「うるさい。久しぶりにゆっくり寝ようと思ったのに・・・・。」
「大河。ブラはして寝た方がいいぞ。年取ると崩れるって、泰子が言ってた。」
「うるさい。余計なお世話だ。」
何ヶ月ぶりかの、大河と2人の朝食。会話は相変わらずだが、穏やかな朝だ。

「大河。あのアパート。今週中に建て壊されるんだってさ。」
「竜児のアパートが?」
「ああ。去年、大家のおばあちゃん亡くなっただろ。相続税の関係で土地を売るから、更地にするらしい。」
「うそ。」
「春田が言ってた。天気も良いし、散歩がてらにお別れしに行かないか?」
「・・・・・・。」
「・・・・・大河?」
「嫌だ。竜児とやっちゃんとの思い出が消えちゃう!」
大河が突然泣き崩れた。大河の涙を見たのは、2人の結婚式以来だった。
「思い出は消えねえよ。だけど、最後を看取ってやろうぜ・・・。」
大河の肩を抱く。こいつにとっては、あのアパートこそが本当の家だったんだろう。

 竜児が大橋駅に降りたのは1年ぶりだった。高校時代より駅前は発展していて、見違えるよう発展していた。
 大河と一緒に買い物に行っていたスーパーも健在。スドバも本家に訴えられることなく営業していた。
 この角を曲がるとアパートがある。7年前に引っ越して以来見ていないアパート。どんな風に変わっているか不安だった。
「・・・・竜児。」
不意に立ち止まってしまった竜児を、大河が不思議そうに見つめた。
「悪い。久しぶりだからよ。」
大河が手を差し伸べてきた。小さな手を竜児もにぎる。2人で歩き出した。

アパートは何も変わっていなかった。既に築40年を超えているが、長年風雨にさらされた壁面は、良い色合いになっていた。
「変わってないね。」
「ああ。変わってない。」
全てが懐かしかった。



 敷地の入り口には有刺鉄線が張り巡らされ、工事を知らせる看板が立っていた。
この跡地には、新しくワンルームマンションが建つらしい。
「入れなっかたね。」
有刺鉄線が張られた門扉を見て、大河が寂しそうにつぶやく。
「ああ。残念だったな。」
淡い期待は裏切られてしまった。
「竜児は、ここに何年住んだんだっけ?」
「19年だったかな・・・・。」
「私は、7年しかいられなかった・・・。」
「最初の1年は、半分同居だったしな。」
でも、濃密な時間を過ごせたよ・・・・・。」
「竜児がいて、私がいて、やっちゃんがいて、ブサ鳥がいて・・・。」
「インコちゃんを悪く言うな。」
「私は、ここで家族になれた・・・。ここが私の生まれた場所なんだ・・・。」
小さな身体を震わせて、大河は泣いていた。
並び立つ虎が悲しみに鳴くとき、竜は何が出来るのだろう。
ふと足下を見る。アパートの入り口のブロック塀の陰に、1本の小さな木が生えていた。竜児と大河が出会った年の台風の翌日、風で折れてしまったケヤキの枝を、大家が接ぎ木して、根付かせたものだった。
「大河。あれ。」
むせび泣く大河の肩を抱き、小さなケヤキの木を指し示す。
「高須農場の芋ほりの時の台風を覚えているか?」
「・・・う・・うん・・・覚え・・・てる。」
「あの小っちゃい木は、あの台風の時に折れた枝を接ぎ木した木なんだ。このアパートに住んだ証に、うちで育てないか?」
「育てられるの?」
大河は半信半疑だった。
「ああ、育つ。植木鉢を買って、窓際の日当たりの良い場所に置いとけばいい。」
「でも、勝手に引っこ抜くわけにいかない・・・。」
「看板に書いてある連絡先に電話して、解体工事を始める前にもらいに来るさ。」
そういって竜児は、携帯電話に連絡先を登録した。

せっかくここまで来たのだから、大河の実家に寄っていこうという事になり、2人は久しぶりに実家のマンションのインターフォンを押した。
社長である親父さんは不在だったが、母親は家にいた。

「まったく、貴方という人は、1日ぐらい朝寝坊が出来ないのかしらね・・・。」
せっかく7日間の有給をあげたのに・・・・。
ぶつぶつ言っている義母に、昔住んでいたアパートが取り壊される事を伝えた。
「あら、あと10年もしたら近代産業遺産にでも登録出来たのに残念ね。」
お義母さん。あの建物は明治・大正期の建物じゃありません。声に出せない突っ込みを入れた。

「ついでに隣の建物も壊して更地にすれば良いのよ・・・。」
不機嫌そうに手渡されたのは、この地域の不動産業者がまいたチラシだった。
「31畳のリビングなのに寝室は2つしかない。私が設計したなら、もっと使い易い作りにするわよ。建築家なんて崇め奉られた馬鹿の設計なんでしょうけどね。」
チラシの図面を見てみると、2LDKの1世帯がマンションの2階フロアをぶち抜いている作りになっている。たしかに一般人が住むには無駄の多い設計だ。しかし、この部屋の配置どこかで見たことが・・・・。
「逢坂が購入した時は一億円ちかくしたけど、使い勝手が悪くて住む人がいないから、今となっては3500万以下よ。」
そうだ、これは大河の部屋の間取り図だ・・・。3500万以下か・・・。
「竜児君。有給期間中の宿題よ。あなたならこの部屋、どうリフォームする?」
うちの事務所の卒業試験だと思いなさい。
母虎は、ニヤリと笑った。


「で、あんたは何をやってる訳?」
リビングのテーブルにチラシを広げて、三角スケールと電卓を片手に、何かしら書き込んでいる竜児をみて大河が言った。
せっかくの日曜日。しかも久しぶりに2人で迎えた休日なのに、竜児は、実家から帰って以来、チラシを前にして悩んでいるのだ。
本来なら、2人で甘まーい時間を過ごせる筈なのに。馬鹿犬と来たら・・・・。
「おう、お義母さんから、宿題出されたんだ。」
「どんな宿題?」
「いや、企業秘密に関わる事だから内緒だ。大河にも言えねえ。」
「へ〜。愛する妻にさえ言えない事なんだ。へ〜。企業秘密なんだ。」
「おう、守秘義務って奴があってな・・・。」
「そんなに大切な秘密なら、外でやれ!」
手にしていたダスキンのモップを、カンフースターのように振り回す大河。命の危険を感じて、竜児は道具だけ持って家から逃げ出した。

「・・・・また、やっちまった。」
マンション前の道路から、2人が暮らす部屋のベランダを見つめる。
竜児の作業着の横には、大河のエプロンが並んで干されている。本当なら、今日は1日、大河の隣で過ごすつもりだったのに。自然と溜息が出た。

 大河にとって、父親に買い与えられたあのマンションは、ひとりぼっちだった頃の象徴だ。孤独。父親への怒り。自分を捨てた実母への憎しみ。そして悲しみ・・・。
例えチラシでも、大河にあのマンションの事を思い出させたくなかった。
ちゃんと理由を話せば、大河も理解してくれていたのに・・・・。

虎と竜は並び立つもの。対等のはずなのに。俺はどうしても、大河に悲しい思いをさせたくないと思って、独りよがりの行動をして、結果的に大河を傷つけてしまう。
高2の文化祭以来、何度それを繰り返して来たのだろう。
ミス大橋コンテストの時の、孤独だった大河の顔を思い出す。
やっぱり俺は、大河の隣にいないといけねえ。
竜児は、今出てきたばかりのエントランスに戻った。

「なぁ、大河聞いてくれ。さっきの事。お前に謝って、全部話したいんだ。」
大河は、寝室から出てこない。返事もしてくれない。
「さっきのチラシは。大河が暮らしていたマンションの、あの部屋の売り出しチラシなんだ。お義母さんに、アパートが壊されるって話をした時に、これを渡されて、リフォームプランを考えるように言われたんだ。」
大河の反応はないが、扉のむこうにいる気配はある。すべて語って謝る以外に、竜児に出来る事はなかった。
「なぜ、お義母さんがこのチラシを渡したかはわからねぇ。ただ、大河にはあの部屋の事を思い出して欲しくなかったから、隠したんだ。大河にとっては、あの部屋は良い思い出がないと思ったんだ・・・・。」
扉の中から微かな気配がした。
「子供扱いするな。私がいつ、あの部屋には良い思いでがないって言った・・・。」
小さな声だが、大河の声だ。
「あのマンションは、嫌な思い出も沢山ある。でも竜児が朝起こしに来てくれた。掃除しに来てくれた。選択も。熊のサンタで来てくれた事もあった。私にとっては、あのマンションも、竜児の部屋と同じくらい思い出が詰まっているのよ!」
大河・・・・・、ごめん。俺は、何度おなじ過ちを繰り返せばいいんだろう。


寝室から大河が出てきたのは、日もとっぷりと暮れてからだった。
竜児は寝室前の廊下に座り、大河が出てくるのを待っていた。自分に出来る事はこれだけだと。

「竜児。チャーハン食べたい。」
竜児を見つめる大河の瞳は、泣きはらして真っ赤だった。
「具は何にする?」
「あの時のチャーハンがいい。あの時の味が再現できたら、許してあげる。」


あのチャーハンの材料は、カブの葉と茎を除けば揃っていた。カブの代わりとなるようなものはホウレンソウくらいか・・・。
ニンニクと玉葱・ホウレンソウ・浅葱をスライス。その間に冷凍ごはんを解凍する。フライパンは、あの襲撃の夜にチャーハンを作ったもの。竜児と共に戦をくぐり抜けた友だ。
 中華鍋を充分に熱して、軽く煙が出始めたら、ゴマ油を入れて全体になじませる。玉葱を投入して透明になるまで炒め、卵を投入。ここから先は時間との戦い。冷や飯と残った具材を入れる。おたまの腹を使い、飯粒をほぐし、鍋をあおる。味付けは塩胡椒と中華味の素・隠し味のオイスターソース。完成した。
 大皿に盛りつけてリビングに行くと、大河が臭いにつられてこちらを見た。
「おまたせ。蕪がなかったからホウレンソウをいれた、それ以外は、あの時と同じだ。」大河の前に大盛りチャーハンとスプーンを置く。
「腹へったんだろ。食えよ。」
「・・・・・・食べさせて。」
「えっ?」
「あの時と同じように、食べさせてって言ったの。」
大河は、パプリカのように頬を染め上げて言った。
「おっ、おう。」
 スプーンにチャーハンを山盛りに乗せる。それを大河の口元に運ぶ。スプーンの先端が大河の唇にあたる柔らかな感触を感じた。
大河が口を開ける。大口でスプーンにかぶりついた〜?
竜の手からスプーンを奪い取り、親の敵とばかりに大盛りチャーハンを攻撃する大河。これはあれが必要だな。竜児はキッチンに戻り、湯飲みを手にして、温めの茶を淹れた。
 茶を淹れた竜児が食卓に戻ると、すでにチャーハンは3分の1以下。フライパンの中にはお代わり分が控えている。
「お代わり!」「おうっ!」中華鍋の中身を全部さらえてやった。
「あれ、これ?」
「おう、お前の湯飲みだ。」
白磁器のなめらかな白にピンクの肉球のイラスト。大河が高須家で食事をとるようになってすぐ、泰子が大河の為に、買ってきた食器のなかの最後の生き残りだった。
茶碗は、結婚してすぐに、大河が割ってしまった。この湯飲みも、縁が欠けているので普段は水屋の奥にしまってある。
「そうか、まだ思い出残っていたね。」大河がしみじみと言った。

「なあ、大河。お前、あの部屋でもう一度暮らしてみる気ないか?」
「あの部屋で? この部屋でも竜児がいないと寂しいのに、あんな広い部屋だと・・。」「俺が独立する話は、この前したよな。どこかに事務所を借りる必要があるんだが、金がそんなにない。有ると言えばあるが、無理して借金するより、自分の身の丈にあった場所からスタートしたいんだ。」
「それと、あのマンションと関係があるの?」
「職住合体なんてどうかなって考えてる。あの広いリビングの半分を事務所に使い、もう半分は、俺達のリビングにする。そうすれば最小限の金で済む・・・。」
「つまり、竜児が一日中家にいるってこと?」
大河の声が弾んだ。
「おう、もちろん現場に出る時間もあるから、ずっとと言う訳にはいかねえが、朝飯と夕飯は一緒に食べられるぞ。」
勿論、居住スペースと、事務所スペースを分けるためのリフォームをしなければならないが、独立して経営が軌道に乗ったら、事務所を別にすればいい。
「それが出来るなら、あの部屋に住みたい。出来ればやっちゃんも一緒に。」
そうすれば、もう一度家族全員が揃う。大河が笑った。




「で、これがリフォームプランなの? 図面見た限り、変わった点はあまりないけど?」義母である師匠は、竜児が徹夜して書き上げた図面を見ていった。
「ええ、リフォームの中心は、31畳のリビングダイニングを2部屋に分け、既存の納戸部分にトイレを設置するだけです。そして18畳の新しい部屋は事務所として使用し、もう1部屋は、13畳のダイニングキッチンとします。」
「俗に言う、SOHOにするの?」
「いえ、事務所への入り口は、屋内階段を使用します。つまり1軒の家でありながら、同じ敷地内に独立した事務所を持つようにするのです。」
「マンションの管理会社がそれを認めるかしら?」
「居住者と、事務所の使用者が同一の所有者であれば問題ないという事です。」
「でも、家族としては、職住合体は嫌がるんじゃないかしら。」
「大河は、職住合体を喜んでいます。」
「・・・・・。もうすでに購入者も決まっている訳ね。」
「ええ。」
「まあ、独立したての建築士の事務所としては充分ね。」
「はい。」
「銀行の保証人は、うちの社長がなってくれるわ。安心しなさい。卒業試験合格よ。」
竜児は、何も言わずに頭をさげた。

半年後
18時になると、高須一級建築士事務所の終業時間を告げるメロディーが流れる。
「お先に。」社長である竜児は、メロディーが鳴り止むと同時に、居住スペースへと消えた。
パテーションの向こうからは味噌汁の香しい臭い。スタッフの嗅覚を刺激する。
「社長は今日も、残業なしっと。」
「高須さん、先生の事務所にいた頃は、月の残業150時間超えはザラだったのに。」
2人のスタッフは、声を揃えて笑った。

大皿に盛りつけられた豚キムチ、飴色に煮込まれた大根。豆腐のサラダ。
食卓には3人分の食器が並べられた。
竜児は、仕事から帰って来たばかりの2人に声をかける。
「大河、泰子。メシができたぞ〜。」
竜児にとって、この瞬間が一番幸せだった。
「遅いのよ、駄犬。」
言葉とは裏腹に、大河は満面の笑みだ。やっと家族がそろった。



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