あれから1年が過ぎている。

 賃貸契約を済ませたばかりのワンルームマンションに、逢坂大河はいた。
 がらんとした、まだ何もないフローリングの床に旅行バッグを置いて、ふうと息を継ぎなが
ら部屋を見渡してみる。本当の引越し予定は数日先で、家具から荷物から後追いで届くように
準備を済ませてある。
 ソックスの裏に床の冷たさを感じながら、鼓動がしっかりと脈を打ち、小柄ながら代謝能力
抜群の身体が隅々にまで温度を運んでくれるのを感じている。色白の頬が上気して、薄く桜色
に染まって、鳶色の大きな瞳に朝の光を映し込み、そして長かった離別の時を思いながら、抑
えようもなく笑みを浮かべている。

 帰って来たのだ。この街を旅立った夜と同じように手荷物ひとつだけで。もちろん竜児にも、
友だちにも引越しの予定は知らせてある。けれども、今日来てしまった事は内緒だった。

 去年産まれたばかりの乳児がいる親元は、それでなくとも勤め先の都合などもあって、一家
そろっての転居などとてもできる相談ではなかった。だから転校して高校生活最後の一年を過
ごした間、大河は真剣に卒業後の進路を考えて、そして答えを出した。

 母は渋々な態度を貫きながら、でもどこか諦めたような弾むような声で、進学のための上京
と独り暮らしを認めてくれた。むしろ抵抗を示したのは、大河を気に入ってしまい、実の娘の
ように思い始めたら一年ちょっとで手放すはめになってしまった義父の方だった。
 その予定をひそかに前倒し、地元で通った女子高の卒業式を終えてすぐ。したくを整えて、
バイトで貯めた旅費をはたいて飛んできた。理由は、今日が大橋高校の卒業式だから。付け加
えればそれがサプライズってものだから。

 卒業式に出席するのは、大橋高校の卒業生でない以上、もちろんかなわない事ではあった。
けれどもその日その場所に居たいと、ずいぶん前から願って、卒業式の日程や式次第を泰子に
教えてもらってすぐ、この計画を立てた。

 やっちゃんはきっと内緒にしてくれてるはず。
 卒業式が終わった後に……竜児と逢える。みんなと再会できる。ぜったいまたね!と約束し
たんだもの。ぎりぎりにはなったけど、ようやくほんとうに果たせる!

 大河は女子高の制服に着替えた。気分はフォーマルだから私服で向かうつもりはなかった。
地元では黒ストッキングでないと校則違反だったけれど、ちょっと悩んでから素足にニーソッ
クスを履いてみた。おかしくないかな?
 セーラー服に合わせると、ひょっとしたら毘沙門天国業界の人に見えてしまうかも知れない
と細かい心配をしてみて、まあいいかと思った。少しでもここにいたときの装いを再現できる
方が気分どおり。
 腰近くまである淡くけぶって波うつ長い髪もそのままで、1年分だけ伸びていた。

 扉を開ける。
 オートロックでもない、それなりに年季の入ったマンションだった。今日から何年かを過ご
すであろう自分のうちだから、しっかりと戸締りを済ませて歩き出す。
 ここ数日の寒波が明けて、春の訪れを感じさせるうららかな日になっていた。
 大河は目をつぶっても行き着ける通学路を歩いて、だんだん早足になる。ついには白いタイ
をなびかせて小走りに。住宅街の小路を抜けて、長く続く坂を駈け上がれば、緩いカーブの向
こうに懐かしい校舎が見えてくる。
 校庭には誰もおらず、体育館では式進行中のよう。
 通用門から入って、事務の受付に声を掛ける。事情を話して式の終了まで校内で待たせてほ
しいと願い出た。事務の人は大河の顔を覚えていて、それでも、名前は忘れていたようだ。あ
ーえーと、〜さんだっけ?とごまかしているのを見て、大河は“手乗りタイガー”と呼ばれて
た元生徒よ、と薄い胸をくいっと反らして両手を腰に。傲岸に構えてみた。
 ああそうそう、そうだったよね。一発で来客バッジを渡してくれた。

 しんと静まった校内。
 スリッパをぱたぱた鳴らしながら、懐かしい場所をたずね歩いてみる。
 朝に夕に通った昇降口。北村くんを見つめたネット裏。非常階段の脇は……告白の場所で。
そして竜児に初めて名前で呼ばれたところ。思いが湧きあがってきてしばしの間佇む。
 まだ案外とトラウマなプールはちらりと横目でやりすごし。砂糖と塩を間違えた家庭科調理
室。未来が見えなくて気分がささくれていた進路指導室の前を通る。階段を登った踊り場には、
中の商品は入れ替わっていても変わらずに自販機が並んでいた。
 ちょっとずつ足を止めて、それぞれの場所で過ごした日の思い出を記憶から紡ぐ。
 廊下を進んでいくと、2−Cの教室。後扉を開けて、今は無人の教室に入った。歩み寄って、
窓を開け放つと微風が流れ込んでくる。大河は振り返って、ゆっくりと机の間を歩く。ここが
私の席だった。みのりんの席だった。
 自分の席に腰を下ろし頬杖をついて、ちょうど目線がいく所に竜児と北村くんの席。つと立
ち上がって再び窓際に。ここがばかちーの席。へへ、座ってやれ、と。ぽすんと机の上に。
 目の前にある掃除用具を収めたロッカーに視線が止まる。
 あれから、もう二年近く経った。

 式が終わるのはまだ先よね。足をぶらぶらさせて、暖かな風に吹かれて、旅立った日から思
い出していく。




 ちょっと着替えてくる、とだけ竜児に告げた。
 昨日の雪化粧がいまだ消えぬまま、日が傾いてまもなく夜になろうとする頃に、私はママが
待つはずのマンションに帰ってみた。けど、もういなかった。
 留守電を聞いて、子供だとうそぶいてみた。
 赤いマフラーを巻いたままで部屋を片づけ、荷造りをし直し始める。もそもそと手を動かし
ているうちに、持って行くものが駆け落ちの時と違う本格的な冬物ばかりになると気づいて、
改めてまなじりに雫がたまってくる。

 ふと、開け放した寝室へと通じる扉ごしに、北向きの窓を振り返った。あのカーテンを開け
れば、長いときを過ごした家がある。ずっといて良いんだよと許されたうちがそこにはある。
 いま扉を出て走り出せば数十秒であそこに行ける。
 ううん、窓を開けて名を呼んで、差しのべられた両手に向かって、気合いを入れて跳ぶだけ
でいいの。少し驚いて、無茶するなと怒り、全力で抱きとめてもらえるはず。
 そうしたい。今すぐに。
 でも、と思う。
 そこはやっちゃんが作って竜児が守ってきた家。守って支える手伝いくらいは、できるよう
になれるだろう。けれども自分が棄て子のままという現実は変わらない。10年後、20年後
になってもそれはまったく変わらない。
 あいつの傍らで、そんなみすぼらしい自分を見ないようにして生きて行けるのだろうか。見
ないようにしてきたものが、今では見えてしまったのに。
 だからこそ。
 私はもう逃げたくない。私は変わりたい。総てを受け入れられるように。
 ぐすっと、にじみかけた涙を拭って立ち上がる。
 2年間を過ごした部屋や家具のひとつひとつを眺めて、少なからず愛着が湧く事にも驚いて、
そうして自ら隠れていた迷宮の扉を開ける。

 マンションを出て、路地の角。見やれば慣れ親しんだ家。そういえば夕食は黒豚にすると言
ってた。お腹がぐぅと情けない音を立てる。いつしか暮れた街路を踏みしめるように、大河は
ゆっくりと歩き出した。
 自分に誇りを持って、竜児を愛したい。
 分かってよ。りゅうじ。

「行くよ。これから。うん、最終便に乗れるから」
「いい。住所知ってる。行き方も分かる」
「遅くなるけどちゃんと今日のうちに着ける。大事な時期だし、行ったり来たりしないでよ」
「……うん、うん。いっぺんには無理だと思うけど着いたらちゃんと話す」

 空港に着いてチェックインを済ませ、搭乗案内に従って機内へと歩み入る。アップグレード
席でなくてもシートが余裕っていうのは、ちびの得なとこよね。などと。出張か、帰りか、隣
のメタボサラリーマンが苦しそうに腰を収めているのを見てちょっと思う。

 定刻を10分ほど過ぎて機は駐機場を離れた。ベルトを締めて、目を閉じて、上を向いて。
タクシーウェイから滑走路へ、いったん止まって、フルパワー。加速のGでシートに押しつけ
られると、たまった雫が小さな耳に向けてひとつ線を描く。飛行機の中は乾燥しているから、
これはすぐに乾くだろう。
 ――あのカシミヤのマフラー、貰ってきちゃえば良かったかな
 もうほとんど自分の匂いしか付いていない。だから、あれは竜児のだ。

 1時間ほど過ぎた。
シートベルトサインが灯って徐々に高度が下がるにつれ耳にツンと痛みが走ってくる。やがて
足下に着陸のショックが響いて、逆噴射の轟音を聞く。
 空港の地下からJRに乗って40分ほどで親元の駅に降り立つと、頬に触れる空気がピリピ
リと痛くて茫然とした。瞼や鼻にまで少々痛みを感じる。
 近くのビルに大きく掲げられた電光の文字が氷点下だと教えてくれている。
 タクシープールの一台に乗り込み、携帯を取り出して母のメールを探り、読みを間違えなが
らも住所を告げる。
 愛想の良い運転手さんがカーナビで行き先を探り、当たり障りのない世間話をしながらクル
マを走らせて行く。話によれば、私は観光客に見えるのだそうだ。この街で有名な冬の一大イ
ベント雪まつりが終わったいまの時期に訪れるのは珍しいのだそうだ。ジンギスカン美味しい
のだそうだ。
 そして、15分ほどで着くらしい。


 時刻は半日ほど遡る。

「う……うぅうく……うえっ……」

 旅支度を解く間もなく、リビングのテーブルに突っ伏して低く嗚咽を上げている。明日から
は出勤せねばならない。ただでさえ近いうちに産休を取る事になっている。
 自分はしくじって、連れ帰る事がかなわなかった。

「もういいわよ!あなたが何しようがどこに行こうがもうっ知らないっ!お母さん帰るからっ!
 好きにすればいいじゃないっ!!」
 駄々っ子のような留守電を残してしまった。臨月を間近に控えたお腹をそっと両手で抱え込
んでみる。

「たいが……」

 かつて、どうしようもなく壊れてしまった夫との関係。巡り会ってしまった最愛のひと。三
十路などとうに過ぎ去ろうとしているのに惹かれあった。14歳の娘は、2番目の事だった。
 ただ目の前にある幸せが何より大事で、それを見ないようにした。だから見えなかった。
 穏やかな愛を得て暮らしも落ち着いて。その結晶たる二番目の子を授かって。そうして初め
て、大河を思う事ができた。あの子が産まれて嬉しかった気持ち、育っていくのを楽しみに眺
めたころの温度を思い出せて、ようやく向き合えるようになったというのに、今は思い知らさ
れている。
 自分があの子とどんなに遠く離れたのかを。

 親権を持たない自分に、怪我をして入院したと連絡があったのは異常な事だったろう。迎え
に行くまでの僅かな時間で心当たりに問い合わせ、大体の事情は把握できた。
 別れた元夫には憤りを覚えもしたけれど、そこで反面チャンスと思ってしまった。なし崩し
に、迷う暇も与えぬまま、できるだけ短期間で今の自分の家庭に引きずり込む。そして新しい
生活を始めさせる。普通の家庭で暮らす方が良いに決まっているのだから、そのぐらいはすぐ
に受け入れる子だとも知っていた。
 なのに。
 あの子は、東京のホテルで粘った。頑強に、必死に、今は行けないと言い張り、触れたら噛
み殺すと言わんばかりの目をしていた。
 一週間、途切れながらの対話の中で、ともかくも付き合ってる相手がいるらしいと分かり、
分かったもののそれをどうしようもない。独りでほったらかしにされていた、という初めて自
分が知った事実の前では、そんなのは瑣末な事でしかなかった。まず保護しなくてはならない
のだ。常識的に。
 でも、3年も独りでほったからしにされていた。
 その間、大河が何をしていても、今さら自分がどうこう言える立場ではない。そんな資格を
既に失ったと分かっていても、なお譲るわけには行かなかった。転居や編入の都合もあるのだ
からと強引に2月一週目までと切った期限を平然と無視して独り暮らしを続けていたあの子を
迎えに行って、力ずくで手を取ろうとした。
 だって、母親なのだから。

 あの子は……つかもうとする私の手を払い。すがるような瞳で傍らの男の子の手を取って、
そして行ってしまった。そう、詰まるところまたやらかしてしまったのだ。あんたの彼氏や友
だちなんて2番目のこと、と。
 棄てたから、棄てられるということ。これが……報いということ。

 テーブルに涙がぽたぽたと落ちる。
 悲しくて悲しくてやりきれない。どうすればうまくやれたのか。こんな齢になっても未熟な
自分には分からない。肘をついても止まらない震えにただただ耐え続けるしかない。もう二度
と逢えないのか。大河に。これで。自分のせいか。自分のせいだ。凍結したリビングの窓から
見える空は鉛色に染まり、風はほとんどなく、大量の新雪を落とし続けている。
 やがて帰宅した夫が妻の様子を慮り、暖房を入れ、なにも言わずに夕食の支度を半ば済ます
まで、気づかずに彼女は泣き続けた。凍るほど冷え切った足許に吹き付けた暖気にはっと気づ
いて顔を上げ、自らのつとめを思い出した彼女がキッチンの夫と代わる頃には、雪はやんで雲
が切れ初めていた。
 夜空は晴れ渡るようだ。今夜は痛いほど冷え込むのだろう。

 そんな夜に電話が鳴った。

「お金は足りるの?じゃあキャッシングであんたの口座に振り込むから」
「即時反映だから空港でおろして」
「こっちはバス終わってる頃だから。タクシーをひろいなさい」
「そう。すごく冷える。探しながら歩いてくるなんて無理。いいわね」

 つい先刻までの泣きっ面と、この毅然とした仕切りの落差はどうだ?見ていた夫はほっとす
る。この感情と理性の瞬発力にはいつも恐れ入って憧れをいだいてきた。
 傍らでずっと見ていたい気にさせるのだ。
 聞けば、彼女の娘もそうした性質をより鮮明に受け継いでいるとか。会えるのが楽しみだ。
 3時間ほどで着くみたい。前々から言ってあるようにあの子はものすごくわがままで気難し
いの。だから悪いけど今夜は顔を見せないで。刺激しないでくれる。指図する妻に、夫は頷く。

 夜も更けて、家の前にクルマが止まったような気配がした。
 ぼんやりと待っていた母は、灯をつけっぱなしにしておいた玄関へと急ぎ、インターフォン
を押されるより早く扉を開けて迎える。
 と。

「おわぁっっ?!」
うちの娘は、降りたタクシーから僅か数メートル先の玄関にたどり着く前に、盛大にすっ転ん
でいた。

「大丈夫?相変わらず迂闊ね」
「いたたたたた……遺憾だわよ……」


 はうーーーっあったかい。まるで焚火にあたるふうでファンヒーターの前にちぢこまる娘。
大げさな。ぶちまけた荷物を拾い集めるのは屈めないので手伝えなかったが、ともかくも芯ま
で冷え切る前にうちの中へ退避できた。全室に灯油暖房システム完備が普通で人が居る時間は
常時運転。窓や出入り口は二重。外は氷点下ふたけたでも屋内はどこも20℃以上。それがこ
こでの冬の過ごし方。
 大河は戸惑っていた。
 家にあがり込み、灯りの下で母の顔を見たらびっくりしたのだ。目を真っ赤に泣き腫らして
いた。逢坂のうちに居た頃のように、気に入らないから泣き叫んだのだろうか。
 ……それとも、ひょっとして、万が一に、別の理由で?
 そんなこと。この人に期待しちゃいけない。私は浮かれちゃいけない。嬉しいと思ってはい
けない。熱風に顔を晒したので赤くなっていなくちゃいけない。

「ごはん……食べてないわよね?いま温めるから」
「うん」
 コートを脱がせて、切れ切れにぐぅとかきゅぅとか聞こえてくる小さな身体をテーブルに着
かせて、母は表情も変えずに仕切る。

「お茶が欲しければ自分でいれなさい。あんたの湯のみはそれ使っていい。紅茶やコーヒーが
 良いならそこの戸棚」
「ありがと」
 リビングとひとつながりのキッチンで、娘の遅い夕食のしたくを始める。娘は慣れた手つき
で急須を扱い、熱いお茶をすすっている。

「なーに?とんかつ?」
 水滴で曇ったラップがかかる皿を電子レンジに入れようとしている手元を見つめて、はした
なくもおかずを訊いてくる。

「あんた、ブタ肉好きでしょ。十勝豚の脂身がサシではいっているところ。美味しいわよ」
「あ……えーと、あの。とんかつはちょっと。ダメ……なの」
 ん?涎がタラーっと垂れてるように見えるけど?

 こんなに食べる子だったかしら。成長期?それはいくらなんでも過ぎてたはず。小さく痩せ
っぽちで大きな瞳だけが印象的だった。という娘の容姿に関する記憶を、この短時間で改めざ
るを得なかった。東京で一週間過ごした時にはそんなことは全然分からずに、ただ憎しみのこ
もった目ばかり見ていた気がする。
 頬も腕もずいぶんふっくらとし、肩から脇腹へ。腰にかけても柔らかな線を描いていて、化
粧っ気もないのにそこはかとなく女っぽさを漂わせていると思う。17歳にもなればそういう
ものか。
 とんかつを食べられないという娘に、ベーコンの欠片で炒め物を作ってやり、後は常備菜を
並べたら、まあ食べること食べること。炊いておいたご飯では足りなくて、冷凍庫のひやめし
まで在庫一掃された。いまは食後のお茶をすすりながら、押し黙っている。
 今日はもう遅いし、眠そうだし。明日からゆっくり話をしようと思った。じゃ、あんたの部
屋へ……、と立ち上がりかけた。

「ん、まだ大丈夫。最初にね、ママには言っておかなくちゃならない」
 そう言い出すので、尋問みたいにならないようななめ向かいに座り直してみた。

 私ね。ここに囚われに来たわけじゃないの。そんなふうには思わない。ここんちの……。
「ママと、ママの旦那の子供になる」

 眠気を払いながら、嫌々でもなく、気負うでなく、耽々と言い切った。
 耳を疑う。先日の言い分とまるっきり違うじゃない。

「そ、それは願ってもないことだけど。でもあんた彼氏とか、友だちとか言って……」
「それはちゃんとあるよ。これからもある」
 きっ、と瞳を光らせる。棄てるとかそういうんじゃないんだよ。ちゃんと、母たるわたしに
分かってもらいたいのだと。

「私ね。普通のうちで普通のいいこになりたい。そうすれば、竜児にも他の大切な友だちにも
 まっすぐ目を見て会える。ううん、今のままでも竜児はまっすぐ見てくれる。……でも私が
 それじゃだめなの。苦しいの。ちゃんとなりたいの」
 ……だから、手を貸してほしい、と。

 ママには責任感があるから私のこと良かれと思ってくれてるのは分かるよ。それだけじゃ足
りないなんて言わない……足りないけど。じゃなくて、その範囲内でいいんだ。具体的な事は
……いまはまだ分かんないけど。これから考えていく。
 いま持つ思いをぜんぶ一息に喋って、もうそれしかなくて、伝えられたかどうか自信を持て
ずに俯きかけている。

 それは、ふざけているんでも嘘をついているんでも、もちろん甘えているのでもなく。自分
が欲しいものが分かって、その距離を見て困難さに惑い、援けを求める顔だった。
 いろいろな不安がすっと消えて行くのをわたしは感じ取っていた。母親としてなすべき事を
しなかった罪は残っても、被害が残ることはないのだ。抑圧と強制をもって躾ける必要はすで
になく、ただ倍生きた人生をこの子に伝えられば、多分それでいい。
 そんなふうに受け止めることができた。

 同時に、ひとりの女として理解を求められている事にも気がついた。つい先日、わたしに向
けた、怯えと怒りと恨み憎しみを映していたあの瞳の面影が、今はもうない。
 それは、間違いなく小さな駆け落ちを間にはさんでこの子に起きた変化。
 そういう事なのか。
 この子は、あの付き合っている男の子から力を授かったのだろうか。もちろんこの身にも覚
えはある。そうした決意のみなもとに考えがめぐりもする。
 でも、今はよそう。

「だいたいのところは分かったわ。今日は遅いし、あんたはもう寝なさい」
 舟を漕ぎ始めた娘を急かし、用意した部屋に連れて行く。問題が表に出てくるような事がも
しあっても、それが分かるのは当面は先だ。いまはこの娘に、不安に耐える小さな女にでき得
る限り手を貸してやろうか。そんなふうにも思えた。
 それに、わたしは。
 一度手を離してしまったけど、大河になんの屈託もなく笑ってほしいのだ。
 今度こそ間違えることなく。




 また、朝が来ていた。
 まどろみから覚めかけて、力いっぱい抱きしめていたものが真新しい掛け布団だった事に気
づく。言いあらわしようもない寂しさを覚えて、大河は起き上がる。どうりでふかふかに柔ら
かかったわけだ。
 既に日は高い。
 二重サッシの窓からは、雪化粧の街が光を反射させて天井を眩しく照らし出しており、遠く
に真っ白な山の影が見える。部屋には新品の机と空の戸棚、本棚が置かれ、壁際にベッド。
一方の壁際に暖房機。小さいながらドア裏に姿見の付いたクロゼットもある。
 長い髪に寝癖をつけたまま、大河はベットを降りて部屋を出た。パジャマ姿のまま階段を下
りてリビングに入ると朝食とメモが置いてある。母も旦那も出勤してしまって、この家にいま
や一人きりだ。メモには夫婦の帰宅予定や連絡先、調度品の置き場や取扱、近場のコンビニや
ドラッグストアの場所も書いてある。脇に地図も合鍵も置いてあった。
 とりあえずは逃げ出すと疑われていない事にも気づいて、ほっとする。

 顔を洗って朝ご飯を済ました。おかずは昨日のとんかつの卵とじ。これなら、すでにとんか
つじゃないわけよね。と心に棚をつくって食べる。おいしい。柔らかくて、大きくて苦手な脂
身のかたまりはなくて、衣に甘いダシがしみていてご飯によく合う。覚えている、小さい頃に
味わったママの手料理。
 でも食べたかった。
たぶん今は冷え切ってしまった黒豚のとんかつ。こんど逢えたら作ってと頼もう。

 食事が済めばとりあえずする事もなくなって、家の中をうろついてみる。一階にはキッチン
とリビングと水回り、夫婦の寝室とあと一部屋。おそらくは産まれてくる赤ちゃんのための部
屋になるのだろう。二階に大河に与えられた洋室と空き部屋の和室。おなかいっぱいになった
らここでゴロ寝をしてやると決める。どうにもプライバシーを守りきれなさそうな小さな一戸
建てではあるが、それは嫌ではなかった。2DKの距離感にすっかり慣れてしまっている。こ
こにも欲しかったものがあるような気がしてくる。

「さ、さぁて、お掃除お掃除ぃ〜♪」
 竜児が聞いたら何を企んでるんだお前は、とでも言うであろう台詞を誰にともなく呟いて、
大河は掃除機をかけ始めた。四角い部屋を丸く……。次にバケツに給湯からぬるま湯を汲んで
きて雑巾がけ。まずは二階の廊下から階段、一階の床と片付けて行く予定で。

 ――まあ少し予定と違ったけど、問題ないね
 動線の途中に置いたバケツに蹴っつまづき湯をぶちまけたのは遺憾だった。乾いた雑巾を総
動員して吸い取り、余計な手間はかかったけど午後には原状復帰にこぎつけた。
 現代家屋のお掃除事情ではなんちゃらワイパーとかハンディモップなどの利器があり、当然
ながらこの家にも常備されていて、埃を取るのに水拭きは必須ではないのだが、もちろんそん
な事は知る由もない。差しあたって、住環境を快くする目的で床と桟が家事能力皆無な大河の
手で拭われたのは何と言っても事実だった。

 ああそうだ。おふろ入らなくちゃだった。
 キッチンを漁って見つけた冷凍チャーハンとカップスープで軽く昼食を食べたあと、大河は
思いだした。バタバタしていてすっかり忘れていた。埃をかぶって汗かいたんだから食事の前
に入れば良かったのよねと呟きながら浴室の暖房を入れ、バスタブに湯を注ぐ。あらかた湯が
たまって来たところで、部屋から着替えを持ってきて脱衣所に入った。

 パジャマを脱いで下着を外そうとしたとき、それは突然に、大河の皮膚に広がって行く感覚
があった。それは纏っていた自らの体温を脱いで、冷たい空気に触れた刺激で呼び覚まされる。
 手でそっと唇に触れてからゆっくりと撫でてみる。ここも……、ここにも触れられた。鏡に
映る白い頬に朱がさしていくのが見てとれる。やがて熱でもあるみたいに染まる。
 触れられて嬉しかった。
 嬉しいのだろうと、ずっと想像していた。
 いつの間にか触れてみたいと思っていた。触れてもらいたいとも思っていた。だって纏った
自分の体温ごしに触れ合えたときも、あんなに嬉しかったのだから。
 夏のプール。
 旅行のとき。
 北村くんを思って星を見上げたときも。
 サンタの腕にしっかりと抱かれたときも。
 そんなことを望んではいけないと、いつも思っていながら。

 でも、じかに触れ合うのは大違い。比べようもないほどすごい事だった。頭が、心が嬉しが
るだけじゃない。触れられたところが勝手に嬉しがって大騒ぎを始める。堪らなくくすぐった
くて、痺れているようで。痛みにも似て。ものすごく熱い。蝋のように、チョコレートのよう
に、その熱で溶かされてしまう気がした。違う固まりが溶けて、やがて混ざり合っていくよう
にも感じた。
 いま記憶をよみがえらせるだけで、身体じゅうその感覚が呼び覚まされてくる。あの熱さ、
さ――ぅえ……っぶしょいっ!!

 浴室暖房が利いているといえ、そうはまっぱで立ち尽くしてもいられない。
 さぶい。
 とりあえず、いまはさぶいわ。洟を垂らしたまま、ざぶんとバスタブに飛び込んだ。

 ふぇぇぇぇ、極楽、極楽ぅ。
 時々おっさんくさいと自分でも思うが、誰に見られているわけでもない。温かい湯に長い髪
を漂わせながら包まれて、皮膚の感覚がゆっくり元に戻って行くのがわかる。充分温まって洗
い場に降り、髪を湿らせてしまってから自分用のシャンプーが無かった事に気づいた。
 ようするに、先に買い物に出かけておくべきだった。どうも混乱しているのかいろいろ順序
がおかしい。まあいいわ。別に大してこだわりがあるわけじゃなし。母のものを使わせてもら
おうと思い浴室内を物色する。

「あ。」
 見覚えのあるシャンプー。
 蓋を開けて匂いを確かめて……間違いない。これがいいや。すかすかのねこっけとは言って
も腰まで伸びる大河の髪、量は男性なら何人前になることか。当然ながらこの後シャンプーの
消費ペースがハネ上がり、本来の所有者たる義父に不審がられるのは別の話。
 その香りがまた先刻の感覚を呼び覚ましそうになる。


 着替えて、髪を乾かしながらに携帯を開けてみたら何十件もメールが届いているのに驚く。
ああそうか、もう大橋高校には退学の届けが提出されていたんだ。これも、忘れていた。正直
そんなには親しくないと思っていたクラスメートからも届いていて、自分はなんてばかだった
のかと、くじけそうになる。

 立ちのぼる竜児の香りに包まれて俯いているうち、少しずつ癒えてきた。ここへ来て最初に
竜児に連絡するときには、落ち着いたから心配するような事はなに一つないと。そう、しっか
り間違えずに伝えたかった。
 でも今はすがってみたい。
 きゅっと唇をかみしめながらメールを打つ。
 同時に告白するつもりでいたのに、あまりの急展開に一杯一杯で、すっかり後回しになって
いた。嫁に来いと言われた時点で心はひとつだったから、正直なところ告白の言葉などどうで
も良いと思っている。移ろいがちな言葉よりも確かに結ばれた今だからこそなのだろうけど、
そう思ってる。
 でも竜児はどうだろう?あんたのことを好きだと、私が言ってないと気にしてはいないだろ
うか。何十行も言葉を費やして打ったけど、これじゃかえって心配になるんじゃないか。
 消す。

 ああ……そうじゃないのよ。
 私が告白されてないと不安になっているんじゃないかって、あいつは気にするんだ。ちょっ
と迷って、だから簡単に書いた。

 ――そういや、好きって言われてなかった。
 ほんっとに無愛想すぎて自分でも呆れてしまう。でも、きっと竜児なら分かってくれる。私
が伝えたい事を間違えずに見つけてくれる……はず。
 ぽちっと、送信。
 それでも何か足りてない気がしてならない。電話して話そうか。……でも、いま声を聞いた
らきっとやばい。グダグダに甘ったれる自分が見えるようだから。

 ――そうだ。
 この画像を送ろう。昨日撮った、夜空に浮かぶへっぽこな星。

 送信を終えたらすぐに、電話がかかってきた。
 あわててとる。

「大河っ!?大河か?今どこにいる?大丈夫か?腹へってないか?」

 耳を貫く声にぞくぞくとした。まだ1日も経っていないのにものすごく長い間離れていたよ
うな気がしてすがっただけなのに、声を聞けたとたん、すぐ傍らにいてくれる感覚に包まれた。
 や、やばいなんて思って、悪かったわよ……。こんなにも顔も胸も肩も温かくなってる。
 昨日からの事を落ち着いて話せた。
 竜児も今日の出来事を話してくれた。ついでに黒豚の行方を訊ねたらスタッフが美味しくい
ただいたらしい。

「そんでよ、大河。お前が好っ」
「ちょっと待て!……あんたぁそんな大事な話を電話で済まそうってっ?!」
「だってお前が!いやそうじゃねえ」
 そうじゃないんだ。お前が言えと言うから機嫌を取るんじゃねえよ。俺は、本当はずっとお
前に言いたかったんだよ。

「ず、ずずっとっ?!」
 いつからっ?
 くっと息を呑む声がしたのは、こっち?あっち?

「あ、あの、はっきり言えるのは、その……文化祭の後くらいだ」
「へ、へえ?」
 ううう嘘でしょっ?!あの頃にもう?……何でよっ!

「じゃあ私の方が先っ!夏休み!!」
 夏には私もうあんたが好きでっ好きで好きで好きで!本気でやばかったんだからっ。

「え?ええっ!なんだよっ、あんな頃まで遡るのかよ?!」
「そうだよ!」
 毎日毎日なんの邪魔もされずにあんたといっしょで……どんだけ嬉しかったか分かるっ?
 嘘じゃない、本当の事だけど。

「うそこけ。お前は北村、俺は櫛枝が好きだっただろうが!そこを無視すんなら俺だって」
「『俺だって』?!なにっ???」
「ぷ、プールで、溺れかけたとき、ぜってーこいつを離さねーって思ってたからな!」
「へーん!へーん!へーん!遅いね鈍いねグズだねっ!」
 こっちゃああんたがばかちーとつがってるときにはもう……あぅぅ。これは嘘かも。
 たぶん竜児も向こうで真っ赤になってる。確信できる。顔が熱くてたまんない。

「なに言ってんだ!じゃじゃあ俺はおまえが北村に告白したときっ」
「はぁぁ?じゃあタッチの差だけどあたしの勝ち!あんたがチャーハン作ってくれたときっ」
 なんだとー!じゃあ俺は廊下でぶつかったときっあたしゃ生まれた時っ!はぁ、はぁ、はぁ。
肩で息をしていると、お互いに無言のときが訪れた。

 そのしじまで竜児は思う。最初の出会いからすぐにいろんな大河を見た。不機嫌に見下ろさ
れて、涙目で襲われた。貪るように食って作り物のように眠っていた。可愛いやつだと思い守
りたいと思った。とにかく、そばに居たいと思っていた。
 大河も思う。襲われたというのに、チャーハンを貪る自分を見つめる顔が優しかった、元気
づけてくれた。とっくに用は済んでいた。なのに帰れと言われてどうしても去りたくなかった。
そばに居てほしい、と思っていた。
 互いに、出会った頃にはすでに近すぎて見えなくなっていた。戸惑いながらも、離れたくな
いと思っていたのだ。
 でも今なら言える。この胸の高鳴りはあのときにもう始まっていた、と。

「ね、竜児。電話でいいからまた言ってよ。私も言う。何度でも言いたいから」
 竜児が……好きだよ。

「ああ、何度でも言ってやる。大河が、好きだっ」
 熱があるんだろう、私たち。なにかの熱病に罹ってる。熱で死なないように、でも熱から醒
めないように。願ってる。

 いつまでも話していたい気持ちをやっとのことで抑えて話を終えた。大河は、窓から遠くを
見て、そしてさっきの画像を友達みんなにも送ってみた。まだ返せる言葉を見つけていないけ
ど、今すぐにではなくてもきっと伝わると信じる。
 いつの間にか街の景色が夕映えに染まっている。




 何日かが過ぎて、さしたるトラブルも起きないまま大河は暮らしに馴染んでいった。
 こちらの女子高への編入を手続きし、試験と面接の日も決まった。暇なので、頼まれた買い
物のついでに近場だけでなく足を延ばしたりもしてみた。
 地下街を中心にいろんな場所へ行けるのは便利よねと感心しつつ気になるお店をチェック。
根雪の上で軽く転んだりもしつつ、独りでお茶して帰宅してみると不在配達票が着いている。
大橋に残してきた荷物が届いたようで、連絡して再配達をしてもらった。
 届いた荷物をほどいて整理するのは、けっこうな時間がかかった。本や参考書を取りだして
並べ、服や小物を整理はできてないけれどもまあ収納して。パソコンをつないで。地味ではあ
るけれどようやく高校生の部屋らしくなった。
 あ、そうだ。

 携帯に着信していたメールをPCに転送。添付ファイルを保存しビューワで開いて拡大して
みる。やっと大きな画面で見る事ができた、クラスの皆の集合写真。竜児がクリスタルの星を
持って中央にいて横にみのりんとばかちーがいて、裸族の北村くんが宙を舞って、クラスのみ
んなが笑顔を贈ってくれている。
 ありがとう、とひとりひとりの顔を見ながら思う。
 黙って消えた逢坂大河を元気づけようと撮ってくれた友だちの気持ちを嬉しく受け取って、
でも彼らに何から話せば良いのかはまだ思いつけないまま、今日も携帯に手をのばす。

 竜児につながった。
 簡単に事情を説明して、残ったもので気に入ったものがあるならあんたにあげると付け加え
る。この部屋にとても入りきらないからそのままにしてきた家具は、中古品でしかないけど父
が残した負債の、僅かな足しになるだろう。その前にと。

 ただね、引き渡し日以降は家宅侵入になるからそれだけ気を付けてよ。あそこは警備システ
ムってものがあるんだから
「おう分かった。てかお前が住んでるときはどうしてたんだよ」
「あんたが出入りしそうなときは全部切ってたよ。つまり常時」
 不用心な高級マンションもあったもんだなあ。う、うるさいな。私がそこに関してドジ踏ん
だ事が一度もないからあんたが警備員に捕まる事もなかったんでしょーが。あ、そういやそう
だよな、ありがとうな。

「合鍵も処分してよ。本当は勝手に作っちゃいけないものなんだから」
「……なあ」
「なに?」
「持っていちゃ、ダメか?」
「なにあんた?」
 忍び込んで夜な夜な私の残り香でも求めてうろつこうっての?くすくすくすと笑みがもれて、
多少の冗談も言えるくらいには落ち着いている自分を確認。

「おうっその手が!じゃなくてよ。記念品だよ。お前が隣に住んでいたっていう思い出な」
「いいわよ。どうせ次の入居者が入れば鍵は交換されるしね」
「うちのいつもの場所にずっと下げておくよ」
「私の象徴として朝に夕にエロい視線でねぶるように眺めまわす事も許可するわ」
 一緒におふろ入ったり同衾したりしてもいい。はーーっなんて私ったら博愛的なのかしら?

「座布団に置いて尻に敷いたりもしていいか?」
「うっ、それはなんか屈辱的かも……」
 軽口を叩けてる。巧くいってる。けど。

「あのね、竜児」
 このまんま絵に描いたような遠距離恋愛を重ねて行ければいいと思っている途中で、大河は
ここへ来た翌日に浴室で思いだした事を話し始めた。

「俺だって同じだよ……辛えよ。眠れなくてさ。なんでお前がいねえんだよって思った」
「前に、どっちが先に好きになってたかって話したよね?」
「おう」

「私はさ、あんたがばかちーを連れ込んで良い事してるのを見たとき……」
「人聞きの悪い事を言うんじゃねえ。それにあれは円満に和解に至っただろうが」
「蒸し返すつもりじゃない。最後まできけ」
 ……そうじゃなくてさ、あのとき初めて、私はあんたに触りたいって思ったのよ。
 エロい意味で?もちろんエロエロな意味も含めてね。この話はあんたには余計な心配をかけ
るかもしれない。けど巧く遠恋をこなしてるって安心し始めている自分が怖いの。

 あの頃ばかちーは軽い気持ちでちょっかい掛けてた。そんな事は私にも分かってた。大人の
態度でガン無視してやるぅぁ!っていうのは正直なところ。

「でも毎晩イライラして、むかついてさ。眠れなくてさ」
 その気持ちをたどるとそういう結論になってた。いつも。で、そう思ってること自体は、驚
いたけど嫌じゃなかったんだ。

「そうだったのか。……じゃああの頃マジ触っても良かったんだ?」
「え?なにそれ?あんな頃にあんたもそう思ってた?!」
「お……おう。まあな……」
 時々な。少しだけな。
 お前が警戒してうちでゴロゴロしなくなったら嫌だとばかり思っていたから、絶対にそうい
う目で見ないようにしてたけど、本当はな。

「私は割とあんたを挑発してた気がする。たぶん意識してね」
「俺は……お前がくつろいでるだけと思い込んでたな。なんて無防備な女だと思ってた」
 そこなんだよね、と大河。
 別にあんたがばかちーのエロさに淫らな欲望を蠢かせていた、なんてことは思ってないよ。
ただ、それで私の何かのスイッチが入っちゃって、いろいろ試してみたのに思ったような反応
がなくてさ。

「なんか酷い言い草が懐かしくも混じったが……水着のことだろ?」
「そう。水着のことよ」
 私は触りたい、触られたいと思い始めてた。けれど竜児にはそのつもりがない。それはこの
哀れな身体のせいなんだろうな。だから大好きでも恋しくならないのかなってね。
 それは違う!と竜児が強い調子で遮る。

「俺がどんだけお前との間に変な空気を漂わせないよう努力したと……」
「分かってるよ」
 そのときは分からなくてイラついたけどね。でも今は分かってる。傍らに居るっていうのは
そういう意味でもあったんだよね。

 竜児にもようやくこの間からの対話の意味が呑み込めてきた。これは大河と結ばれる前に何
があったかの、ただの絵解きでしかない。結ばれた今はそんなことお互いが分かってればいい
事じゃねえか、というのはたぶん男だけの理屈なのだろう。
 何と言っても、つい数日前に結ばれてそのまま離れ離れになってしまったのだ。あれは思春
期によくみる類の夢だったんだよと思えば思えてしまう。
 自分がそうなんだから、大河も?
 いや、それでも俺とお前は分かりあってるだろう?俺には確信があるぞ?

「うん分かっているよ、今はね。でも前は分からなかったし、この先はどうなのかな?」

「そうか……そうだ。離れているんだもんな。ちゃんと言葉にしねえと」
「私は竜児の声を聞いていればなんとなく分かるけど……」
 同じようにあんたが分かってくれるのか、そこが、ね?……怖いよ。

 目に見えるところにいるのなら、大河の様子は分かるという自信が竜児にはあった。もとよ
り大河は感情を隠さない女だから顔を覗き込むだけで、それはもう手に取るように思っている
事が分かる。
 そして、それは大河も同じだと思い込んでいた。

「あんたは……表情からだけじゃよく分かんないときがある」
 私が分かるのは声を聞いて、触ってもらえて、それで。
 そうか。
 だからあんなに近くで同じように思い合っていたのに、最後が分からないでいたのか。
 竜は空にいて視覚で大地を見通す。
 虎は地にあって聴覚で狩りをする。
 傍らで並び立っているうちはその違いを無視できた。だけどそれ以上を望んだ時にははもは
や足りなくなっていた。黙って目を見れば分かるでしょ、分かってよ!と言えなくなった大河
の、これが救いを求める声ならば応えてやりたい。

「俺は……お前が停学になったときにはお前を欲しいと思っていた」
 言えなかったけど、それはもう自分では分かっていたよ。

「……そうなんだ」
 もっと前からきっと少しずつ思っていた。けれど俺たちにはまだまだ時間があると思いこん
でいた。

「そんな事を言って、少しでも壊れるのは嫌だったんだ。櫛枝の事を口実にして」
 それは私も同じだよ。明日言おう、来週言おう、今度言おうって。あんたの近くに居続けて、
もっと近づきたい気持ちが増えていって。

「ううん、同じじゃないね。私はそれを重くて持っていられなくなっちゃったんだ」
 なら告白すれば良かったのにできなかった。あんたをみのりんの方へ押しやれば全部動き出
してくれる。たぶん、あわよくば。それで元の関係に戻れるかもなんて都合の良いこと、どこ
かで考えていたよ。

「何て卑怯なんだろうね。私ってさ……」
「それを卑怯って言うなら俺だっていつまでもグズグズしてたしな」
 櫛枝の事を口実にして大河に向きあわなかっただけじゃねえ。お前が背中を押してくれるの
を口実に櫛枝にも……。殴られて当たり前だ。

「むしろ殴ったくらいで済ましてくれる櫛枝には頭が上がんねえ」
「……済んでないと思うよ。みのりんは私なんかよりずっと女の子だもん」
 手が届くところにいたら本当は私を殴りたいはずだもん。ね。りゅうじ。お願い。みのりん
には前と同じに接してあげて。なにか変でも無視されても。
 ……おう、分かった。

 竜児との通話を終えて、大河は携帯をぼんやり見つめる。やがて意を決して電話をかける。
コールが続いて……。相手が出る。

「あ、み……みのりん?」
 大切な人に分かってもらいたいなら、自分でも言葉を尽くして伝えないと。


 電話を終えてリビングに降りると、しばらくして母が帰宅した。大きなお腹をして荷物を置
いて、手すりにつかまりながら靴をぬいで。玄関先でふーっと息を継いでいる。出迎えた大河
がおかえりなさいと言うと、立ったまま抱きしめられた。

「???」
 顔をぽふっと張りの大きくなった胸に埋めてぽかんとしていると、頭を包んでいた腕が背中
に回され、軽く叩くように、撫でるように肩や背中やお尻を巡回する。頭に顔を突っ込まれて
むーと匂いをかがれ、髪を撫でた指で梳かれて、頬っぺたを両手で挟まれ、ぐりぐりとされた
あと、ついでにむにっと掴まれ、頬ずりされ。仕上げにでこにちゅっちゅと口づけされた。

「な、なななななにを」
 こうまで念入りにモフモフしてもらった体験くらいは、それはとても小さな頃にはあった。
だから全く嫌ではなかったが、なぜ今なのか。大河には分からず当惑してしまう。

 母は身体を離すと、ふーどっこいしょと買い物袋を取り、答えず奥に向かった。キッチンに
荷物を置いて、買って来たものを冷蔵庫や戸棚に仕舞って。それからリビングに移動。立って
いるうちに用を全部済ましてしまおうとするかのように、座る前に紅茶をいれる。
 大河はなんとなくそのまま去り難い思いでいちいち後をくっついて歩き、最後にはいっしょ
のテーブルに着く。母がちらっと大河を見て紅茶をもう一杯いれてくれる。
 キッチンに取って返した大河は牛乳を持ってきた。
 冷えた牛乳で、香りの立たないぬるいミルクティーを二人で飲む。
「なによ。変な顔して」
 母が眼鏡の奥から睨みつける。夕暮れの薄暗がりの中。ようやくその口元に微かな笑みを浮
かべている事に気づいて、大河の緊張が解けかける。
「スキンシップよ」
 つ、と視線をそらして、テレビを点ける母。暗がりに少しの明かりが生まれたがその表情は
もうよく見えない。

 なら、なんでそんなに機嫌悪そうなのよ。




 編入試験を無事にクリアして来月から高校三年生になれる事が決まった日。
 この大きな街に住んでそろそろ三週間となり、根雪の上で転ばずに歩けるスキルも身につけ
つつあった。お祝いに食事に行こうと誘われて大河は義父と待合せている。
 今日は寿司を御馳走してくれると言う。
「ウニおいしー、イクラおいしー」
「定番ネタもいいけど、やっぱり地方ネタを食べなきゃ」
「そうなんですかー」
「冬場は並ぶネタが多くないけどねーメヌケにハッカク」
「脂がのってるー」
「軍艦巻きはマダチ」
「とろーって、とろーって!」
「ヤリイカどう?」
「こりこりと、あ、あとから甘みが」
「ボタンエビ行っちゃおうか」
「わ、生だ。甘ーい」
「大助があるよ、天然サーモン。出物だよ大河!珍しいんだよ!」
「それはぜひいただかないと!」
 黙って会話だけ聞いていれば同伴キャバクラ嬢との会話に聞こえてしまうかも知れないが、
要するにこの辺りが現状認識にもとづく距離感というやつなのだった。
 二人で軽ーく30貫ほど平らげた。

 帰宅してみたら、母の機嫌が良くなかった。外食して帰ると連絡を済ましておいたが、どこ
の家庭でもそうであるように独りご飯となった者は面白くないものだ。見れば家族三人分の夕
食の卓を揃えられるようには準備をしてある。怒ってるのかな、と大河は気をきかせて食卓に
着いた。
 空腹ではないが、元々大喰らいである。この小さな身体のどこに消えて行くのかと竜児には
呆れられていたが、自分としてはたくさん食べれば成長すると思っているので問題はない。
 母の料理もそれなりに好みだったし。

「食べてきたんでしょう?」
「育ち盛りだからね。まだ食べられるよ」
 なんだ、足りなかったのならもっと注文すれば良かったのにと部屋に戻りかける義父を目で
追いながら、いーえお義父さんごちそうさまー。というわけで。私はいいこなので。
 変な子ねと言いながら、母は大河の分もおかずを盛り付ける。まあ、あんたがお義父さんに
遠慮してろくに食べて来ないかもしれないからね。
 そんなことないよ?イクラにー、マダチにーエビもサーモンも。

「食べすぎでしょ、それは」
「竜児のとこではいつも二合半は食べてたもん」
「食費は納めてたと言っても、毎日あんたの食事を。竜……高須さんだっけ?」
「そう……」

 そろそろ教えてくれるくらいには気を許しているかしら。もくもくと食事をしながら、相変
わらず不機嫌そうな顔でそう問う。
 母が知りたい事はうすうす分かっていた。ごまかしたり、先延ばしにしたりしない。機会が
明日もあるとは限らない。それはもうとっくに大河は決めていた。

「私がね。竜児を好きで。竜児も私を好きで。いつも一緒に居たかったの」
 でもね。長い間、付き合っていたわけじゃなかったの。
 大河は答えて、ゆっくりと、整理して話し始めた。さほどお腹がへってないからか。ご飯、
おかず、汁と珍しく基本通りに、よくかんで食べながら。

「だからね……いっしょに居るためのいろんな理由を探しながら、いっしょに居たの」
「前の話だと、ずっと付き合っているんだと思ってた。独り暮らしにつけこんで……」
 やめてよ。何度も言ったようにそんな事はなかったのよ。竜児は私がなにひとつ家事が出来
ないでいるのを見て助けてくれてただけ。それに……。

「付き合うって……よく分かんないもの」
 そう。実際、何も考えていなかった。竜児が相手だからってことじゃなく、北村くんに恋し
てたときだってそうだった。好きだと伝えて、その気持ちを受け入れてもらえたとして。
 じゃあその後は?
 何が望み?

「あんたの話の通り、毎日一緒に買い物して、夕食をはさんで同じ部屋で過ごして」
 夏休みに一緒に旅行に行くようなのは付き合ってると言うのよ。

 大河は……俯いて。じわじわと真っ赤に染まっていった。照れ隠しなのか漬けものばかりは
むはむ噛んで。どうやら、本当に自覚と言うものがなかったらしい。
 誰に言うともない調子で、母が続けた。

「何でそんなに長い間一緒に過ごしていて付き合おうって言い出さなかったのかしらね?」
 その問いは竜児に対してか。大河に対してか。疑問は当然のものだ。でも大河にとっては、
……おそらく竜児にとっても、今は明らかなこと。それは自分の思いには気が付いても、相手
がどう思っているのかが……。

「ついこないだまでね、分からなかったんだ。協力関係だって始めちゃったから……」
「なるほどね」
 箸が止まって、娘の顔を見やるその顔はあまり不機嫌そうでもないように見えた。分かって
もらえたのだろうかと、大河は少しだけ気が軽くなる。

「ねえ」
「なに?」
「思いが通じ合わなかったから、ここへ来たわけ……じゃないんでしょ?」
 大河の箸も止まり、母の顔を見上げる。いまごろ気づくのはやっぱり自分が子供だからだと
も理解した。さっきから“付き合う”という曖昧な言い方に乗ってごまかしてきた。でも、ご
まかせてると思っていたのは自分だけ。
 じっと見つめられてる。
 大河はその問いの裏にある意味を分かっていた。それは小さい事かもしれないけれど、正直
に答えるには覚悟が要る。
 なんて言ったらいいのか。結構な時間、目を泳がせながら考えて。怒らせたくなくて、分か
ってもらいたくて。やがて顔を上げて口を開いた。それは、自分が望んで、竜児も望んでくれ
て、やっと訪れた一度きりの機会だったから。

「……うん。かなったよ」
「そう」
 やっぱり不機嫌そうだ。嬉しそうな顔になってはいけなかったのか。辛そうに、あんたのせ
いで追い込まれてそうなったと、ひと芝居打った方が得だったのか。分からない。分からない
けど、この短い人生でもっとも寂しく辛かった数年間は、竜児とめぐり逢うために支払った対
価に十分に値するという思いに疑いはなかった。嬉しい、以外に伝えようもない。
 すると、母は突き放すような口調で言うのだ。

「ならゆっくりと。でも真剣に。あんたがどうしたいか考えればいい」
 思い合った男がダメな奴とはお母さんには言い切れないわ。そんな顔されちゃ。
 それが初めてでもね。

 分かってもらうにはやっぱり時間がかかるようだ。また出直そうと決め、ごちそうさまと言
って大河は立つ。すると、母は慌てたようにちょっとちょっとと留めた。なに?と座っている
母の横に立つと、前と同じように無言で抱かれた。
 すでに身重で急に立ち上がるのは無理。座ったまま大河の背中に腕を回す。大河の胸に頬を
埋めて、ぎゅっと。母の淡い色の髪が懐にある事に少し驚いて、そして大河も肩を抱いてみる。
少し触れてみて、やがて自然と腕に力が入っていく。
 胸元から母の声が聞こえてくる。

「ごめんね」
「……」
「でもあんたの事は心配してる。ほんとよ」
「……うん」
「もう何があっても無茶はしなくて良いからね」
「うん」
 身を寄せあい強く抱き合っていた。失った時を取り戻し、未来を失わないよう込められた願
いが、いま確かに伝わってきた。

 大河は部屋に戻って、胸に涙の染みを見つけた。さっき母が顔を埋めた時に付いたのだろう。
そっと手で押さえてみる。
 母の気持ちが分かった。想像してもいなかった。……嬉しかった。
 いらないと切り捨てなくて本当に良かった。
 自分とどこか似ている母が、自分がいて嬉しいと、愛おしいと思ってくれてるのが抗いよう
もなく伝わった。幼いころに受けた記憶どおりのその気持ちが、小さな身体に満たされて一杯
になっていく。

 ――思いっきり甘えちゃった、と竜児に嘘をついたとき。どう甘えてきたのか、スラスラと
流れるようにつけた嘘。嘘じゃなければ良い、母に囚われていた一週間が本当にそうだったら
良かったのにと、本当は思っていた。

 なんてことはなかった。手を伸ばしさえすれば握ってもらえたのだ。

 だから、大河は涙がこぼれそうになる。
 もしも自分がそうしていたとしたら?もしも母の手を払いのけなかったら。竜児の手を握っ
て逃げ出さなかったなら?それよりも前に、竜児の気持ちを確かめようと大橋に戻れた?
 ……おそらく、いまの母の気持ちをあのときに得たと思えたなら、それ以上を望んではいけ
ないと思い込んでいたかも知れない。大橋でバレンタインを迎える事なく、そのままここに来
ていたかも知れない。みのりんにも北村くんにもばかちーにも、分かってもらえなくて仕方な
いと諦めたままで。
 今頃はもう一歩も進めない竜児への思いを抱えて、この部屋で涙をこぼしていたのかも。

 母の手も竜児も両方つかめる。つかんで良いと知ったのは竜児の手を取ったあとだ。それは
迷うことなく取った手だった。あのとき、意識しようがしまいが、母との絆を断ち切ることを
瞬時に選んでいた。そうせずにいられなかったから。
 竜児の手を取らずにここへ来ることはあり得なかった。

 竜児が繋ぎ直したやっちゃんとの絆、やっちゃんが繋ぎ直した実家との絆を、確かに見てき
た。そして竜児は私の身体にも約束を記してくれた。それを感じて、信じられて、臆病な私で
も今は分かるようになれた。
 これは望んで、手を伸ばして。ようやく見えた『うち』へ帰るための旅なのだと。

 大河はベッドに寝転んで、胸を押さえていた手でお腹に触れてみて、猫のようにくるんと丸
まる。幸せな夢でも見ているような気分になって。優しい表情になって。
 だから。
 これから。
 もしも、もしもそうなったら――私はどうしたい?


 また一週間ほどが何事もなく過ぎた。日曜日は昼間から竜児と長電話できる。

「そういやさ、竜児。あのマンションから何を持ち出したの?」
「おう、まだ言ってなかったな。ツリーをもらった」
 お前がクリスマスイブに自慢してた、あのツリー型のランタンな。あれを。

「へ、……へえ。何でよ?」
「お前がクリスマス好きな意味をあの時に分かってやれなかったし」
 ……俺にとってもあの日は特別だからな。
 大河の胸にずきんとした感覚がよみがえってきた。あ、特別つってもいま言ってるのは櫛枝
に振られた話じゃねえぞ?と竜児。あのときな、俺、お前をひとりにさせねえって口実を使っ
てた。けど本当は分かってたんだ。

「俺、お前と一緒に居たかった。ふたりだけで。あの日に」
 いや……いまだからそう言えるのかもしんねえけど。そう思うよ。
 嬉しいね……と大河。

「私も、なんとなくそう分かっちゃってた」
 だから……あんなに馬鹿みたいに笑ってはしゃいでた……んだよ。
 だから私、あんたに抱きついちゃった。きっと、これが最初で、最後だって思ってた。
 他に何の理由もねえのに、お前に触れたくて触れたのはあんときが初めてだったよ、俺。

「クマの着ぐるみを間に挟んでだけどね」
「あれがなかったら……自分が抑えられねえ。何度思い返してみても。たぶんな」
「……ね。あのときさ」
 あのとき、どうにかなっちゃってたら。私たちどうなっていたのかな?あんまり変わらずに
いたかな。いられたのかな。

 訊かれてみると、竜児には答えることができなかった。絶対に大丈夫だと思うし全力で守っ
ていくつもりはあった。今もある。だけど結果として守りきれるのか。今、曲がりなりにも落
ち着けているのは自分たちの力でなく多分に偶然なのかもしれない。
 駆け落ちして良かった。知りたかった事がみんな分かったもん、と。言い淀む竜児に答えを
催促もせず大河は続ける。いつどうにかなってたって、竜児となら間違えずに選ぶことができ
たはず。たぶん。

「普通の家で普通のいいこに育って恋がしたいって言ったよね?」
「説教部屋でな」
「そうだったら、普通にあんたと恋ができたのにってそれしか。あの時は」
「そうか。あんときはやっぱりそう思ってたんだ?」
「うん。でも、お祖父さんちであ、あ、ああんたとああいう事になって……」
「お、おう」
 やはり口に出すのは恥ずかしくて、少したたらを踏んでしまう。ふう……ああなって、普通
の家で育たなくても、いいこでなくても、普通にできるって思えたよ。
 ちょっと分かり難い?

「つまり。私にとっては竜児を好きになったのがたったひとつの正解だったよ、ってこと」
 間違えても、戻って選び直せるなら簡単だけどね。そんなことは誰にもできない。いろんな
ことに考えをめぐらせて、本当に望むことを自分に訊いてね。選びとるの。それしかないの。
びくびくしながらだったけど、そうして私、竜児にたどり着けたよ。だから……。

「あんたにもそうであってほしいって。思ってるのよ」
 こんなやつ嫁にしてまちがったー、しくじったーなんて。私は絶対にあんたに思われたくな
い。そのためにこれからを懸命に生きていく。竜児にも私を間違いなく選んだって思っていて
ほしい。あの夜ああなったのも勢いばっかりじゃなくてさ、どこかではそう思っていてほしい
って思うのよ。

 大河。その答えなら、間違いなく思ってる。お前が傍らに居る人生が俺にとってもたったひ
とつの正解だ。結果を保証はできねえけど、そのために精一杯生きる。

「それだけは信じろ。お前の思いも信じてる」
「うん。信じるよ」
 りゅうじ大好き。お、おう。いきなりだな……俺も。

「でもよ、いまこんな話って。何か隠してる事あるな?」
「なに?なんでそう思うわけ?」
「なんとなくだ。話題も、声の調子も」
「なにもないよ」
 ……とも言えないよね。なかった事にできるとは思わないしね。

「おう言え。なんでも。なんか予想がつく流れだけどな。聞くぞ」
 そうかエロ犬め。聞いて驚け。などと大河は思うことなく、竜児にも話そうと決めた。いや
本当はちょっと思っていた。何て言うのだろう?聞きたい。

「あのね。今月、まだ、来ないの」
「マジか?!うわやべえ」
 やばいやばいと言いながらも、でもその声は半ばは嬉しそうで、あっけないほど緊張感が足
りない。そ。予想通りのそれが確認できればいいのよ。

「できるだけ早くそっちに行くからな?無茶すんなよ?」
「そんなに慌てなくても……」
 ていうかさ。あんた何か責任を感じるような覚えがあるわけー?

「は、はあ?覚えって……。つい今しがたのの話題じゃねえかよ」
 話の流れから言って告知ってやつじゃねえかよ。別に逃げも隠れもしねえよ!……ま、まさ
かお前、また独りで抱え込むつもりじゃねえだろうな!

「聞いてみたかっただけよ。えへ」
「あ、あああなんか落ち込んでるわけじゃなさそうだな。それなら良かったけどよ」
「ん。まあ予行練習?みたいなもんね」
 なんだか可笑しくなってくるが、大河は懸命にこらえる。いくら緊迫していない空気とは言
えさすがにふざけながら話せることじゃない。けれども、その僅かな沈黙に珍しく竜児がキレ
かける。
 何だー?独りじゃどうにもなんねえだろ!つか俺だって当事者なんだからお前の親に会って
だなー!と喚く声も、いまの大河には嬉しくてたまらない。

「だから慌てないでって」
 まだ来てないってだけ。遅れてるだけかも。分かるとしてもまだ先よ。でも、そういう事に
なっても一緒に考えてよね。
 おうそんなのは当たり前だ。
 竜児にだけ負担がかかるのはいやだよ。私も自分独りでは抱え込まないから。

「そうか。そうだよな。独りじゃなく二人でも、今はどうにかできる事じゃねえもんな」
「私はママに、竜児はやっちゃんに手を貸してもらわないとね」
「ああ。そんでいつか借りを返さないとな」
「そうね。ただ貸し借りというより、一緒に喜んでもらいたいよ」
 ああ。早く分かんねえかな。そうなったら不安だけど。大変だけど。
 でもきっと、それは俺にはいま一番やる気が出ることだな。いつかはお前とそうなるつもり
だからさ。それが今すぐだって……。

「大丈夫……だよね?」
「ああ、大丈夫だ……多分。たぶんじゃねえっ、絶対な!」
「ふふっ♪なんだかいろいろ順序がおかしい。私たち」
 告白の前にいろいろしちゃうしさ……。大河が可愛く含み笑い。家族のように兄妹のように
過ごした日々があって、夫婦のように喧嘩をしたときもあったしさ。自立と称して離れてみた
ら、寂しくて不安で仕方がなかったしさ。

 おかしくてもいいんだと竜児が言う。
 そうだよね。と大河も言う。


 二日後。
 結局はあっさりとしるしが訪れて、いくつかの心配は杞憂に終わった。大河の母もこれには
すぐ気がついて、特に何も言わないけれど胸をなでおろしていた。
 竜児にも連絡して安心してもらう。ほっとしてる方が大きいな、と竜児は男の気持ちを正直
に答えていた。

 あ、そうなのか。と大河は思った。ほっとするの半分、残念なの半分。愛おしかったからひ
とつになっただけなのに、結果としては二つに三つに増えていくと自然に思える不思議な感覚。
それを感じて、好きという気持ちは途切れないでこんなとこにまでつながってると知った。
 これは女にしか本当には分からないことなのかも。ま、本当に手に入れるのはおまえにはま
だ早いと、神様にも思われたんでしょうよ。へへっ。

 うちに帰るということは、竜児とふたりきり、手を携えて生きて行くばかりではなかった。
きっと、そう遠くない未来には本当に出逢えるのだろう。
 最後に私が帰る『うち』でね。

 そしてこの家も、やっちゃんと竜児のところも確かに私の『うち』だと思えるようになって
いく。竜児に、やっちゃんに、ママに、友だちに、……おまけして独身(30)にも。いろんな人
に支えられながらここまで来れたと思えてくる。私は、ひとりでは生きていけないへっぽこな
存在のひとつでしかない。でもそれは、こんなにも愛おしいと。あらためて。寒気がゆるんで
きたとはいえ、春まだ遠い町で思っている。
 もうすぐ新しい学校生活が始まる。今日は仕立て上がった制服を受け取りに行く。たくさん
の準備が待っている。少しでも大人になって、うちへ帰るための。
 遠く離れている寂しさも大切なものと抱えていける。いけるだろうか。
 いまは行こう。

 大河は窓辺に立って、カーテンを引いて、雪化粧で眩しい街並みを眺めてみる。目の前に、
ひょいと跳び移れるような近さで建つあの『うち』の幻が思い起こされてくる。
 まず、あそこに帰ろう。

 大橋では、もう桜がふくらんでいるだろうか。




 あれから1年が過ぎた。
 思い出から今に飛んで戻れば、視界には掃除用具を収めたロッカーがある。そういえばここ
で、と記憶が赤い夕景を再生しかけたその時、窓の外がにわかに騒がしくなった。どうやら卒
業式が終了し、みんな校庭に出てくるようだ。

 大河は首を伸ばして、教室の窓から見下ろしてみる。みのりんがいる。ばかちーがいる。木
原と香椎が手を振ってる。能登はまだ意識してんのね。相変わらずアホロン毛と仲いいじゃん。
北村くんもいる。生徒会のメンバーに囲まれて。あ、誰かを呼んだ。

 ……竜児!

「竜児。うあっ、こっち見上げた?!」

 別に隠れることなんかないのに。
 ていうか、気づいてもらえなかったらどうすんの私。
 あのまんま友達と繰り出してどっかでコンパに流れるかも知れない。いま出ていった方が。

 そう思いながら、どうしても浮かんだいたずら心が止められない。胸の鼓動が止まらない。
ひょんと机を降りて。だって……ここが私と竜児との。

 静まり返った校舎を誰かが駈けてくる足音が聞こえる。
 もう嬉しくて。
 暗がりの中で、大河の頬がほころぶ。きっと、見つけてくれる。
 開け放した窓から、暖かな風が吹き込んできているのを感じている。
 今日から季節が移り変わっていく。


「ふあー、みんな離してくれなかったな」
「もう大変、……けど嬉しかった。約束を果たせたし」

 竜児が血相を変えて校舎に駈けこんでいくのを見て、なにかある!とばかり旧2−Cのクラ
スメートが続いて上がってきた。その後かつての“手乗りタイガー”ファンも噂を聞きつけて
集まって来て。さらには伝説でしかその存在を知らない一年生までもがひと目見ようと大挙し
て押しかける騒ぎとなってしまい、そのためなぜか正規ルートで来客の身分である大河までも
が独身(31)に説教を食らうはめとなって、ついでに再会を果たして泣かれた。

 物見高いイベント好きが伝統としてしみついた大橋高生のこと。野次馬の一年生を除いた集
団でファミレスに流れ。いつぞやの打ち上げよりも派手な大宴会となってしまった。高須竜児
と手乗りタイガーが婚約済みであるという噂も半分伝説としていつの間にやら広く知れ渡って
おり、そのせいか触ろうとする者はほとんどいなかった。
 やがて1人帰り2人帰り、ほとんどが旧2-Cのクラスメートだけになったところで、やっと
落ち着いて再会を祝すことができた。
 いつもの5人になったところでスドバに移動。じっくりと旧交を温める事ができたのだった。
 すでに日は暮れかけていた。
 昼間の陽気が一転して肌寒く、大河は竜児にマンションまで送ってもらっている。

「相変わらず櫛枝は意味不明なとこがあるな」
「うーん」
 いままではね、みんながいたからね、ずずずっとガマンを……していたんだけどね?
 櫛枝実乃梨はそう言うなり、ぷしっと鼻血をひと吹き。落ち着いて拭ったあと、たいがぁ!
とハグってモフってグリまくった。
 世界征服せえらあ服〜とか未だにネタの出どころもよく分からない。

「みのりんはね、……単にふつうにじゃれてるだけだよ」
「川嶋もじゃれてたのか?なんかああいう事をしねえ女だと思ってたけどな」
 まあまあまあまあ落ち着いてみのりちゃーん♪とか言いながら実乃梨の狼藉に相乗りするよ
うに割って入って、川嶋亜美も大河をグリまくった。あれは確かに、あいつにしては不思議な
テンションだったと、竜児も大河も思う。

「……あれは殺意がこもってたね。ハグとモフがなかったし、ちょっと首絞められたしっ」
 はっ!あたしから竜児を奪えると思うならやってみろってのよ!
 そんなつもりはねえだろよ。あったらお前がいないうちに俺がもっと迫られているだろ常識
的に考えて。
 なぁにぃ?そういうイイコトしてたのかあんたはっ。婚約者の不在中に?ふふ不義?密通?
 ないないないってマジで。威嚇するのやめろ。

 は、私としたことが。そうよねえ?持つ者が持たざる者に腹を立てるってないよね。だって
竜児みたいないい男にはとびきりの偶然でもないと巡りあえないもの。
 お。なんか褒められてる?俺。
 お菓子が手に入らないならパンを食べればいいのに、って言ってやれば良かったのよね。
 お前ね……逆だしそれ。

「ともかく女同士で密着したい気持ちはよく分かんね」
「そう?男子には分からないのかもね」
 お前分かんの?
 分かるよ?見ての通り女の子ですから♪住宅地を通る静かな道すがら、スカートのすそをつ
まんでくるりと回る。

「やべえな。可愛い……と竜児は改めて思っていた」
「クチに出してるじゃんよ。もっと言ってもっと言って、おら」
「濃紺サージで三本ラインのセーラー服にはクラクラくるな」
「う……それから?」
「おう純白のタイには目眩すら覚える」
 服かよ。と大河が頬をふくらます。
 服だけじゃねえよ?と竜児。

 触ると幸福になれる手乗りタイガーが今日は気易く触られなかったろ?
「セクハラかもと思わせるくらいには落ち着いて、綺麗になったって事だろうよ」
「あー褒められてるのかね私。一部に何の遠慮もなく触りまくられたけどさ」

 本来の引っ越し日が過ぎた後で、また友人たちとは改めて会う約束をした。卒業して進路は
様々になったけど、当分はまだ住所が変わらない。北村くんは留学決めたんだね?ああ、渡米
までの間に何回か会えるさ。

 大河はふと足を止めた。傍らの竜児を見上げてニコッと笑った。
 教室でふたりきりの再会を果たしてからすぐにバタバタとしていて、ちゃんと全部済んだよ
と伝えていなかった。竜児の目をしっかりと見て、笑顔ひとつで分かってもらえると大河は知
っている。
 嬉しくて、楽しくて、心配事がもうなくなって向けられる笑顔。嬉しいこと、楽しいことを
いっしょに分かち合いたいという屈託のない笑顔。それを竜児はもうずっと見たいと思ってい
た。夢にまで見て。自分が大河に与えてやりたいと願ってきた。
 それがいま、ここにある。

「よかったな。ほんとにな」
「うん」

 どちらからともなく指を絡ませあって、寄り添って夕暮れの街路を歩く。
 ほどなくして大河の新居に着いた。


「何にもねえ!」
 部屋に入るなり竜児が棒立ちで驚く。フローリングのワンルーム東向き。ベッドも机もタン
スもない。テーブルもなければ洗濯機も炊飯器もない。ん?置いていた荷物を取りにきただけ
よ?と大河は涼しい顔。

「引越しの日は前もって連絡してあるでしょ?荷物が着くのは来週よ」
 じゃあ一旦帰るのか?との落胆を含んだ問いに、ううん、と嬉しそうに頭を振る。もうずっ
とここにいるよ。これからはずっと竜児のそばにいるよ。

 その、なにやら企んでいるらしいふたりだけの再会イベントのため抑えているつもりでも、
胸の奥からあふれ出すような声の調子。それに竜児も引き込まれそうになるけれども、とりあ
えず訊くべきことを先に訊く。

「じゃ来週までどこで寝泊まりするつもりだよMOTTAINAI!」
「うん、MOTTAINAIよね?ホテル住まいなんてとんでもないよね」

 竜児の問いに、がらんとした部屋の床に置いた旅行用のバッグを取り上げ、肩からななめが
けにした大河が意外にも殊勝に答えた。
 親に無理言って、押し切ってここで暮らすんだから、倹約しなきゃ。
 ね?と向き直って、そしてまたニコッと可愛く笑う。ゆっくり一歩ずつ近づいて真っすぐに
見上げて。それから腰の辺りのバッグを後ろ手にして、とす、と竜児の胸に額を埋めた。

 竜児は学校での再会から、大河を抱きしめたくてたまらなかった。離れている間に、自分が
面倒をみてやらねばならないという義務感はそれなりに治まっていたが、その代わりを占めた
のは思慕と独占欲。見たい聞きたい抱きしめたい触りたいキスしたい……あんまり大きな声で
は言えないが、もちろんその先も。
 そんな気持ちも、大河の友だちとの再会を邪魔しないようコントロール済みのはずだった。
この街では実は初めてした、ふたりで手を繋いで歩くというついさっきの体験も快くて、でも
それはそれとして嬉しく完結していたはずだった。

 そんなときに、見慣れたつむじが久しぶりに目の前にあらわれる。淡い天然茶髪の隙間から
見える耳がほんのり染まっている。この春休み中は大河が我が家に入り浸るのだろうと楽しみ
にしてはいたが、まさか逗留させろと言い出すとは思っていなかった。もっとも、困る理由は
なにひとつとしてない。大河がまた大河らしく、自分の予想もしなかったやり方で懐に飛び込
んできた。ただそれだけ。
 そして心なし遠慮しいな、甘えたような声でささやく。

「とりあえず……来週までタダで泊めてくれるところ、竜児知らないかなあ?」
「お……おう。ひとつ、心当たりがないでもないぞ?」

 竜児がこらえようもなくどぎまぎし始めたのを知ってか、知らずか。良かった。この寒空に
野宿はつらいものねえ。などと心にもないことを大河はほざく。さっきまで安っぽくキレたり
威嚇していたくせにこの変わりよう。こういうところも好きでたまらない。

 あのね?狭くてもいいから。2DKくらいで。和室で。ゴロ寝なんかできたりするのが希望
なの。ブサイクな鳥を飼ってたりするとなおいい。

「私ってわがまま?」
「あーそりゃわがままだな」
 でもその条件にぴったりの優良物件知ってるぞ。おまけに賄いがついて食事も出る。
「じゃ、そこにする……」

 大河は背伸びをして、竜児の首に腕を回して顔を上げた。
 本当は身長差があって手首くらいまでしか回せてはいないけど、定型表現てやつ。実務的に
はなんら問題ない。

 竜児はちょっとだけ屈んで、大河の背中をそっと抱く。華奢な背中のかたちも、こぼれる髪
の手触りも、あんなに離れていたのにこの両手は忘れずに覚えていた。大河も竜児の手を覚え
ている。忘れたときなんかあるわけがない。
 背伸びをする脚が疲れないよう、背中を包む腕を少し吊り上げて力を込める。それを感じた
大河は、思わず優しいねと呟く。そうか?お前軽いから何でもねえよ、と優しい答え。

 他人には分かりにくい竜児の表情も、こうしていれば手に取るように分かる。それがたとえ
ようもなく嬉しい。もう誰も私たちを引き離そうとはしないから、今日からずっとこうしてい
ける。私がここにいる理由。大きな手の感触、視線の優しさ、温度、私をほしいと思ってるり
ゅうじのぜんぶ。
 互いの腕に力がこもって、顔が近付いて、息を感じあう。頬に、額に、耳に、竜児が思いを
込めた唇を丁寧に触れさせる。大河のくすぐったそうな様子を確かめて次、確かめては次へと。

 もっと我慢も限界!というような激しさを大河は想像していた。こんど逢えたら互いにそう
いうふうに求めるのだろうと。
 でもこれからずっといっしょなのだから、こんなにゆっくりと確かめ合うのもいやではない。
頭が真っ白になるようなのも素敵と思うけど、弾けそうになりながら熱を大事に持っているこ
ういうの。きもちいい。頬に、額に、耳にとついばまれる感触をこんなふうに思える私ってか
なりなオトナかも?などと考えられるわずかな余裕もたのしい。
 同じようにして挨拶を返していく。

 それでも大河の方からがまんできなくなる。
 のませて、と水を求めた。
 いとしいひと、という言葉が頭をかすめて、乾いた不毛の地に久しぶりの慈雨を降らせよう
と近づく。胸の鼓動が次第に強く、高くなっていき、その身の温度がすうっと上がる。竜児が
目を閉じて、応えようとしてるのを見る。あ、りゅうじの顔。少しずつ赤くなってきてる。
 エロ竜児……。
 そんなにキス……したいの?
 ……ねえ?

 ん……ふ……と切なげな水の音を響かせて、互いの喉が鳴るのを心地よく聞いて、ふたりは
長いキスをゆっくりと交わしていく。

 え?
 あ……うそ?
 大河の頭は真っ白になり、なにも考えられなくなる。


「ね……優良物件にはこういうオプションも、あの……付くのよね?」

 肩で息をしながら、消え入りそうな声で、首筋から上を真っ赤にテンパらせた大河が訊いて
くる。その内容を理解すると竜児にじわじわと幸福感が湧いてきた。だって、これは世間で言
う“おねだり”ってやつだ。表現が回りくどいところが大河らしくて、たまらなく可愛らしい。

「お、オプションじゃねえよ?入居者にもれなく付いてくる……権利?みたいなもん」
 言ってて恥ずかしくなってきたらしく、竜児の目の周りもいっそう染まっている。
「そ、それはやばいよね」
 自分で要求しといてこう言うのはなんだけど。いろいろと気を付けなきゃ。

「ふふん♪でもやっぱママにハグされるのとは大違い」
 照れ隠しなのだろう。背伸びをやめた大河は竜児の背中に両手を回してぎゅっと抱きつく。
この小さな身体からどうしてそんな力を発することができるのか。ちょっと苦しいが竜児はな
すがままに任せる。
 体勢から言って大河の髪を弄るくらいしかすることがないから、ちっちゃな頭を腕で包み込
み、髪の手触りを愉しむ。
 ていうかさ、何でそんなに……巧すぎなのよ?ねえ?どっかで練習、とか?などとブツブツ
言ってるが気を利かせて無視する。これはおそらく孔明の罠だ。別にやましい事はねえ。さら
に気を利かせて話題を逸らしてみた。

「ん?大河。やっぱりちょっとだけデカくなったんじゃねえの?」
「背伸びしてたからで――あっ!」
 意味が分かった大河は急に身体を離し、背中を丸め両手で胸を隠した。お、驚かそうと思っ
て黙っていたのに……見たわけでも触ったわけでもないのに分かっちゃうの?あんたって……。
は、はぅぅ恐ろしい子!エロ犬めーと再び真っ赤になる。
 悪い悪かった。気を利かせて黙ってりゃ良かった。でもさ。

「お前の事が何か分かるのは嬉しいからさ、黙ってられないんだよ。許してくれよ。な?」
「……いいわよ。べつに怒ってるわけじゃないし。恥ずかしいけど」
 なんか台無し感で一杯になっちゃったけど。

「でもそんだけ覚えていてもらえたのなら……光栄よね。……けっ!」
 けっ!って……。驚かそうとって……お前どの局面でそのカードを切るか想定済みなのかよ。
うちに泰子がいるの忘れてねえ?つか、そうか。こっちが孔明の罠だったか。と竜児は思った
が気を利かして突っ込むのはやめる。

「まあいいか。じゃあお宿の方へ案内するぞ。戸締り忘れんなよ」
「ん。じゃとりあえずの締めに、も一回」
ちゅ

 外に出て通りを歩く。大河は竜児の左手を両手で握りしめて、腕に頭を預けて、歩様を合わ
せて。合わせているのは大河じゃなく竜児ではあったけど。

「結構近いところに部屋借りられたんだな。うちまで3分くらいか」
「竜児のとこで眠くなっても、ねむけが覚める前に帰れる範囲にしたかったからね」
 他の条件はいろいろ目をつぶったわ。東向きだから日当たりが午前中だけでしょー?寝坊し
たら布団も干せないわ、洗濯物も乾かないわ。指折り数えて不満点をあげてみる。

「キッチンも狭すぎて、IHひと口じゃ料理もできない。ガスコンロも置けないし」
 でもさ。そういうのはあんたのとこで教えてほしい。とまたも殊勝なことを言ったタイミン
グで、ぐう〜〜きゅるるるんと派手な腹音。あらやだ。がまんしてたのに。

「やっちゃんと三人で夕ご飯食べるからと思ってね。ファミレスではセーブしてたのよ」
「おう、任せとけ。最速で作ってやる。何が食べたい?大河」
「うん!とんかつ!一年ぶりの!」
「黒豚の買いおき、あるぞ。……って。一年ぶり?」
 そうよ。ずっと断ってたの。おかげでうちのママにはとんかつが食べられない娘って思われ
てるよ。何でって?それはね……。

 角を曲がると、かつて住んでいた高級マンションが見えた。
 話を中断して、大河は駈け出した。
 もちろん両手でしっかりと握った竜児の手を離しはしない。竜児も付き合って走る。マンシ
ョンの下で立ち止まり、二階を見上げた。明かりがついていて、新しい住人が住んでいる事を
知らせてくれる。
 エントランスを見る。ここで、裸足で泣き叫んだ事もあった。総てが切なくて、でもここへ
とわが身を運んでくれた懐かしくも大切な思い出だった。ここへ……つかんだ手を見て、竜児
を見上げると、自然と笑みが浮かぶ。竜児が優しい顔で見返してくれている。

「行こう」
「おう」

 りゅうじ、覚えてる?
 わたしが旅にでた日の夕ご飯がとんかつだったこと。それを食べに戻って来たんだよ。

 角を曲がって、懐かしい家に着くまでのほんの短い間、大河は夢想する。

 りゅうじが支度をして、私は卓袱台にひじをついて急かすの。まぁ〜だぁ〜?って。甘った
れた声をして。そのうち待ち切れなくなって、りゅうじの周りをウロウロするの。くだらない
事を喋って、りゅうじはいちいち相手してくれて。で、私はりゅうじの背中に軽く頭突きをし
てみたりする。揚げ物してんだから危ねえだろ!って怒られるの。でも顔は別に怒ってないの。
 揚げ油からおいしい匂いが立つ頃に、お皿を出せとか、小鉢を並べろって指図されて。私は
りゅうじの思い通りに動く。

 夢にまで見た光景はすぐそこで待っている。

 おーい、揚がったぞって言われたら、じゅうじゅう音を立ててるとんかつをお皿に受けて、
卓袱台に運ぶ。刻みキャベツとプチトマトとポテトサラダを脇に盛ってね。
 そしてやっちゃんと三人で食べるんだよ。ご飯をおかわりして、脂身を一切れりゅうじに押
しつけて。お腹が一杯になったらそのまま後ろへ寝転がって。

 でも、今日から後片付けは私がしてあげる。洗い物をすまして、飛び散った水をきれいに拭
って卓袱台に戻れば、りゅうじが入れてくれていたお茶がぬるくなってて、猫舌の私にちょう
どいい。
 その後は、テレビを見ているりゅうじに寄りかかったりしよう。眠くなって落ちるまでりゅ
うじに触れていよう。

 こんな妄想を聞いたら竜児は子供っぽいと言うだろうか。無防備に寝転がっていたあの頃の
ままかと呆れるのだろうか。
 でもそれでいいの。それが私のもらった幸せの形なんだから。
 私たちはあの日の続きからまた始める。
 明日、目覚めて。隣にいてくれるのはやっちゃんなのかな。それとも?

 カンカンカンと勢いよく足音を立てて階段を駈け上がる。鍵のかかってない扉を勢いよく開
けて、やっちゃんが居る事を確かめる。
「あれえ〜、大河ちゃーん♪」

わたしのうち。

「お帰りなさぁぃ〜♪……早かったねえ」
 竜児が扉をしめる。私は靴を脱ぐのももどかしくて蹴散らして上がり込む。後ろで竜児が靴
を揃えてくれている。前のまま。何ひとつ変わっていない。やっちゃんに飛びついて、帰って
きたよ!と言おうとしたのに。途端に涙があふれる。
 あとから、あとから、流れ出して床に落ちる。

 あーどうしたのー?
 やっちゃんが肩に手を置いてくれる。大丈夫と伝えようとするけど、止まらない。うまく口
を開けない。ぜんぜん悲しいことなんかない、いやなんかじゃないのに。嬉しいのに。

 竜児が入ってきて、そんな私を黙って見てくれる。
 どうしよう?と見るわたしを変わらない優しい目で見つめてくれる。
 私とやっちゃんの肩を温かい大きな手で包んで、居間に押し込む。

 大河、と。
 力強く名前を呼ばれて、私の気持ちもようやく落ち着きを取り戻す。
 
「お帰り。大河」

 帰ってきたんだ。

「ただいま!」




 ――END


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