【これまでのあらすじ】春は三月。親元で高校を卒業した逢坂大河は懐かしい大橋の町に帰っ
てきた!本来の転居予定を前倒して単身上京。荷物が届くその日まで。大河と竜児が繰り広げ
るパートタイム同棲コメディ(相変わらず泰子付き)。甘酸っぱいその3!

****

 逢坂大河が大橋へ帰ってきて3日目の朝。

 竜児は傍らに眠る少女を飽きもせず眺めていた。
 カーテン越しに差し入る朝日に柔らかく照らし出されて眠っている。今朝は先に目覚めたか
ら、竜児は彼女の寝顔を存分に眺めていられた。目つきが怖いと言われていても、こんなに優
しい表情にだってなれる。
 ガラス細工……人形……精緻な美貌。そのすがたかたちを何度も形容してきたけれど、いま
は幼子のようにも見える。長い睫毛がかすかに影を落としている色白の頬から顎にかけての線
が美しい。でもこの近さだと輝くうぶ毛がたくさん生えているのが分かり輪郭を柔らな印象に
してしまう。小ぶりな耳や唇も、よく見るとある薄い雀斑も、そうした可愛らしさを感じさせ
ている。

 ずっと近くで見てきたつもりでいたのに、知らない貌がまだたくさん隠されていると竜児は
気づいた。そのひとつひとつを見つけるたび新たに好きになっていくのだろうと思う。

 光の加減で亜麻色にも見える長い髪が絡まって散らばるのを、起こさないよう静かに集めて
背に落としてみた。まとっていた髪を奪われ、肩や胸元が冷気に晒されて、これで目覚めてし
まうのかも知れない。起きるまで静かに見ていようと決めていたのに。
 夕暮れにここを旅立って夕暮れにここに帰ってきた……大河。
 ゆっくりと規則正しい寝息が変わっていって、やがて、んふーと長く継いで薄目をあけた。
そろそろか。目を覚ませばあふれる思いに動かされ、身を寄せる。

「……おはよう。大河」と。

 声をかけるなり、その小さな身体をかかえこんで抱きしめた。今度はふたりで長い旅に出
よう。朝に。ずっといっしょに。

 んにゅ、おはよー、りゅーじ。
 夢をみてたよー。とまだ眠そうな声。窓の外に隣接する建物。もう一年以上も前に住んでい
た部屋の方を指す。あそこからここに忍び込んでねー?傍らに潜り込んでみたのね。そうした
らりゅうじが寝ぼけてさ、わたしにとんでもない事をしたんだよ。
 竜児は可笑しくなってきて、へえ、そうか。と笑いだしてしまう。大河も少しぼーっとした
ままで、後を追ってくすくす笑い出す。ふたりとも可笑しくてたまらない。
 なぜって?もしもあの頃そんなことになっていたとしても、今日の朝は変わらずに迎えられ
たと思うから。


 起き出して、午前中だけ浅い角度で当たる日差しを無駄にはできないと、竜児はさっそく布
団を干しにベランダに出た。明るくなっていて気づかなかったが、机の上に仲良く並べて置い
ていた携帯が瞬いている。

「あ。着信してる。りゅうじー、あんたのもー!」

 開いてメールを読む。

「「お。」」

 逢坂大河に告ぐ。
 お前が我々友人をたばかって高須邸に潜伏している事は既に分かっている。
 おとなしく悔い改めて、彼氏ともども投降せよ。
 本日(ランチタイム後の)13:00、Jonny'sで待つ。ちなみに他の2人も来る。
 待っているぞ!
                               北村祐作
 P.S. 審問に備えて口裏合わせを推奨しておく

 同報で5人に宛てた投降勧告、というか会おうぜアポ?が昨夜おそく着信していたようだ。
その頃には大河も竜児も夢の中だったし、起きていたとしても携帯は机上にあったから気づか
なかったかもしれない。

「……なんで北村くんに分かっちゃったんだろうね?」
「お前な。昨日だれに俺たちのバカポー振りを見られたよ?」
「え?木原と香椎……あ!そっかぁ」
「川嶋→北原→櫛枝と捜査線が形成されるには充分だな。どうする?」
「もちろん行くよ?せっかく忙しいのに集まってくれるみたいだしね」
「審問とか言ってるからけっこう聞かれるぞ。お前が。メシ食って対策会議といくか」
「うん。……あ、もうひとつ来てる」

 大河にだけ来ていたもう一通のメールは親友の櫛枝実乃梨からだった。
 読んで、大河は八の字眉の困り顔になる。やがて八の字の間にもう一本シワが入って、少し
泣きそうな顔にも見えた。竜児は覗きこんだりしなかったけど、その表情を見ていた。

 指定時刻に投降する、と全員に返信を済ませる。
 まだ時間はたっぷりあるので、朝食・洗濯・掃除と高須家の日常生活に支障は来たさない。
友人たちと長時間つるむことになるかもしれず、泰子のおかずを2食分用意しておく事も忘れ
ない。
 さて対策会議という口実で単なる食後のお茶をのんびり喫する。微妙な困り顔を続けている
大河に竜児は気を利かして。

「俺はあいつらになら何を訊かれてもありのままで構わねえが。お前は?」
「う……うん。私も。ただね?木原や香椎とは違って北村くんたちは巻きこんじゃったから」
「そこだ。俺らがあんまり浮かれて万が一にでも傷つけるのはな」
「そう。……でもね」
 神妙な顔で竜児を見る。迷いはなくなったようだ。

「みのりんも、北村くんも、ばかちーも、私は信頼してる。なんでも答えるよ」
「そうか。じゃそれでいい」
「うん」

 あっさりと対策会議は終わった。大河はもう一度メールを読み返す。

 わたしの大河へ
 きのう会ったばかりだけどまた行くよ。
 もう卒業だからね。わたしは『あのこと』をみんなにも話したい。
 あんたがそれを許すならば返信くれ。なければやめる。byみのりん

 ――わたしの大河。
 もう長い間そう呼ばれてはいない、みのりんだけの特別な呼び方。竜児とも未だ出逢わぬ頃
にあの葡萄色の瞳と見つめあった記憶。
 懐かしくて嬉しくて甘く。そして少し涙がでてくる記憶。


****

 それはまだ私が誰も信じられなかった、高校に入学したばかりの春。とある木曜日の午後に
温かな雨が降り出して。傘を忘れた私は、昇降口で大粒の雫が落ちるのを不機嫌ツラで眺めて
いた。悩んだところで結局は走って、ずぶぬれでマンションに帰りつくしかないのだけど。
 寒くてだだっ広い、独りの家。ともかくはシャワーも浴びれるし、制服は乾燥機で明日まで
に乾かせる。でも面倒くさい目に遭うのはいや。
 そんな、つまらない理由でグズグズと佇んでいた。

 そこに、名前も知らなかったみのりんが傘をさしかけてくれた。

「逢坂さん?入って行きなよ」
 驚いて見上げた時のみのりんの顔。それは今でも忘れた事がない。
 同じクラスの櫛枝ってんだよ。家まで送って行くからさあ。屈託のない笑顔に釣られて、あ
りがたく相合傘で送ってもらった。
 人懐っこい笑顔。クラスメート。私は彼女がなんていう人なのかも関心がなくて知らなかっ
た。なのに彼女は私を逢坂だって知っている。ささやかに嬉しかったけど、無愛想に短く答え
ることしかできなくて。
 マンションまでの僅かな道のりで何を話したのか。もう覚えてはいない。

「わお。ここなんだ。近いじゃん。全然まわり道じゃなかったよー」
 あたしん家はこの先5分くらい。
 ねっ!朝も一緒に登校しない?坂下の曲がりっぱな。分かるっしょ?あそこで待合せしてさ。

「あ、うん。いいよ」
「じゃあまた明日ねー」
 こんなふうにみのりんと出逢った。

 それから携番も交換し、朝も帰りもわりと一緒で、教室でもつるむようになった。仲良くし
てもらい嬉しかったのに。それをどう表現したらいいのか分からなかった私。でもそんな事を
気にもせず、彼女は明るく踏み込んで来てくれた。
 やがてひと月もたたないうちに大河、みのりんと呼び合う距離になっていった。

 ある日、何度も朝の待合せに私が遅れるので、みのりんが言った。
「もー。お母さんにちゃんと起こしてもらえよー大河ぁ」
「ご、ごめん。……私、独り暮らしでさ。朝に弱くて……」
「え?あんな大っきなマンションで、独り……なの?」
「う、うん。事情があってさ」

 みのりんは葡萄色の大きな瞳をしていた。ワインレッド、と言うよりえびいろって呼んだ方
が私にはしっくり来る。いろんなことを透かして見るような、それでいていつも優しい笑みを
湛えているその瞳が綺麗ですごく好き。
 その瞳をくりくりっと動かして、驚いたような、困ったような顔になって言ってくれた。

「そーなのかー。……じゃさ、これからはわたしがモーニングコールしてやんよ」
「ほんと?」
「こんくらい任せとけよ、大河」

 たぶんこのとき。みのりんが扉を開けてくれたのは。

 朝は待合せて一緒だからいいけど、みのりんは部活をしていたから、帰りはいつも私が終わ
るのを待つようになっていた。
 たいていは図書室。
 ひまつぶしの読書をしたり宿題を済ませたりしていた。この頃はたくさん本を読んだ。
 だから手乗りタイガー実はガリ勉!ていう伝説が残ってないのは写真部か生徒会の陰謀なの
だと思っている。ひとを文学少女かなんかと勘違いして、付き合えって言うおポンチを何度か
撃退しただけなのに。
 ともかくも、たった数分間だけれど、心を許せる友だちとふたりきり。時には寄り道や買い
食いをして過ごす時間というのは、私にとって何より大切だった。

「ねえ。みのりんは何で私と友だちになろうと思ったの?」
「ん。大河がめっちゃ綺麗だったからさあ」
 みのりんねえ、可愛い女の子が三度のご飯より好きなのよ。

 言ってることはポンチ連中と同じなのに、みのりんに言われたら嬉しかった。自分の距離感
ていうのが、あの頃はすごく近い、以外になかったんだろうね。そしてたしか、夏服に変わる
前の頃。珍しく遠慮がちにみのりんに訊かれた。

「ねえ。大河んちに行ってもいいかなあ?」

 学校帰りにモスで食べ物買ってご招待したマンションの惨状は言うまでもなかった。料理は
全然できなかったけど、掃除はわざとしなかったから。こんな……三世代でも住めそうなうち
に独りで放り込まれている事実を認めたくなくて。

 使ってない部屋は汚れてない。だからそこでいいと思っていたのだけど。必ず通るLDKが
こうではどうしようもない。入ってしまってからそんな事に気がついた。

「本当に独り暮らしなんだねえ……こんなに広いうちなのに……」
「うん……気持ち悪かったね。ごめんね」
 こっち汚してない部屋あるからさ、と案内しようとした。そしたら。いいんだよ、あたしに
気ぃ使うなよ。おまえだよ。

「大河……かわいそう……」みのりんは涙ぐんでた。

 哀れみを買うなんてまっぴら。その頃も、今でも私はそう思うようなやつだけど。でもその
ときは、みのりんに悲しい思いをさせたのがどうしても許し難かった。そして私の家庭の事情
を察して泣いてくれたのが本当に嬉しかった。
 私も耐えてた思いを抑えきれなくなって。いっぺんに。
 みのりんは私の頭を抱えこんで、背中を撫でていっしょに泣いてくれた。

 ふたり、瞼を泣き腫らしたまま簡単にリビングを片付けて。汚れていないカップを探してお
茶をいれて、並んでモス食べた。遅くまで私たちはぽつぽつと身の上話をした。いつも明るい
みのりんが、みのりんの家で受けてる扱いを聞いて驚いた。分かってくれない家族に、一緒に
呪いの言葉を吐いて、負けないでいこうと誓い合った。
 そうして、その日から親友になった。

****

 携帯を見つめながらあの頃をぼんやりと思い出していたら、竜児が、どうした?と聞いてく
れる。なんでもない。考え事していると答えたら、そうかと放っといてくれる。
 ありがとう。
 ごめん。せっかくの一週間なのに。居間のテレビ台の横に移動して、ちぢこまるように壁に
もたれて。また思い出す。
 大河は実乃梨に返信メールを送る。イエスと。
 出かける時刻までは、まだ。


 大河のレスをベッドに腰掛けて読んだ。
 短く“いいよ”とだけ記されたメール。
 離れてしまってからの一年、わたしたちは何度かこの話をしてきた。そして置きっぱなしの
気持ちを一緒に回収できた。大河とは。
 これは大河とだけ分かり合えていればいいこと、と分かってる。わたしが、わたしの大河を
大切に思い出して、大河がそれを知っていてくれれば、それでいい。
 けど。

 いま大河には高須くんがいるように、わたしにはあーみんがいるんだ。恋人じゃなくても、
同じように大切だから。本当を分かち合いたくて止まらない。まだ高校生の気分でいられるこ
の数日間のうちにそうしないと、生涯そんな機会は来ない気がしてる。

 “いいよ”か。
 もう一度メールに目を落とす。あんたは変わらないでいるんだね?大河。実乃梨は顔をあげ
て、初めて大河の部屋に行って誓い合った日の続きを思い出す。

****

 ――夏。
 部活と大河だけで過ごした高一のひと夏。
 わたしは練習が終わると図書室へ迎えに行った。そうでなければ、ネット裏で大河が待って
いてくれた。仲良くなって、よくつるんでた男子部の北村くんが意外なほど大河に愛想よくて
ちょっと疑ったっけな。あとでポンチの1人なのよと聞かされて、へえと思ったもんさ。

 そうしてわたしらは大河のマンションに帰って、遅くまで一緒に過ごした。掃除をして、洗
濯をして。一緒に食事して、宿題して。たくさんダベって、ふざけて。得意ってわけじゃなか
ったけど、わたしはひととおり家事ができたから、大河のためにやれることが一杯あった。
 忙しくて、疲れて。そして楽しく充実した毎日。本当の家には帰ったら寝るだけ。家族も、
女友達のマンションで引っかかってると知ると、連日の深夜帰りに何にも云わなかった。
 その関心のなさにも、いっそう反発していたかも知れない。

 お気に入りのカップや着替えも持ちこんで。半調理レトルトや中食や冷食ばかりの手抜き料
理でも、大河は手作りと喜んでくれた。おままごとのようでも大河の暮らしを支えているのが
なにより幸福だった。同棲……って言うんだよね。こういうの。って、何度か思った。
 それは夏休みに入っても続いていく。部活はあったけど、圧倒的に大河の側にいられる時間
が長くなっていって、それで。
 わたしは――。

****

 ベッドに腰かけたまま、再び実乃梨は俯いて、いっそう短くしたサイドをかき上げる。けれ
ども、どこにも引っかからない髪は何度も垂れてきてうざったく、そのうち掛かるに任せた。
これが自分の髪形なのだから仕方ないと思う。頬に垂れかかる髪がいやなら、禿げヅラにでも
するしかない。

****

 わたしは、わたしの大河を守ってやれると思い込んでいた。
 最初に声をかけたのも小さくて可愛かったから。悪い噂を聞くようにもなってはいたけど、
あんなに可愛いんならそれはみんなの勘違いだろって。わたしだけが彼女を分かってやれると
思っていた。
 仲良くなって、それは本当だと知ることができた。感じやすく傷つきやすくて大事にしなく
ちゃいけない女の子なのに。みんな何で大河を怖れ遠ざけるのだろうといつも思ってた。
 わたしだけが大河の不機嫌ツラの理由を分かっている選ばれし存在。
 だから。
 夏休みの終わり近く。
 練習を終えて、いつものように大河のマンションを訪ねた日。

「あぢいなー、くそ。ほーら大河、アイス買ってきたよん♪」
「ひゃほーぅ♪買いに出なくて良かったっ。みのりんは期待を裏切らないね。大好きー」
 アイス大好きー。
 アイスばんざーい。
 ダンススタジオのようにだだっ広いリビングで猫のようにはしゃぐ。こんな大河を、わたし
しか知らないでいる。

「なんだとー?エアコンの効いた部屋で昼寝ざんまいしやがってよー。この茶虎がぁ」
 シャワー借りるぜぇ。
 うん、アイスはみのりんが出るまで待ってる。おうそうか。先に食ってもいいのに。愛いや
つよのう……。

「大河ぁ?」
「んー?」
 このところいつもいつも思うようになっていた。でもそんなの変だと思って言えなかった。
でも、意を決して誘ってみた。
 いっしょにシャワー浴びないかー?

 なんでそんなこと思ったのか。
 わたしは大河が可愛い、好き、守ってやる。そう思うだけでは足りなくなっていた。好きす
ぎて、もっと。もっと大河の近くに行きたいと。いつの間にかそう思うようになっていた。ど
うしたら行けるのか見えなくて、考え続けてた。

 たぶんこのとき、はしゃぐ大河をめちゃめちゃ可愛く感じて、そういうふうになったんだ。
 きっと大河は無邪気にうんいいよ♪と応えてくれる。部活の経験あるらしいから、練習後に
チームメイトと裸のつきあいくらい?経験済みだろ?って計算もあった。

「え……?」

 でもそれは浅はかな計算でしかなかったと思い知らされる。わたしの思いはすぐに伝わって
大河を惑わせていた。表情で分かってしまった。変だと思われた。

 急に恥ずかしくなる。
 照れくさい、ではなく邪な気持ちがあからさまになった気持ち。あ、いいんだいいんだ。そ
りゃよー外出なけりゃ汗もかかんよなー。
 でも、ごまかしてバスルームに歩みを進めたら……。大河はパタパタついてきたんだ。

「うん。練習後のシャワー気分も懐かしいかも。ゴロ寝してたけどっ♪」
「おーそうかい。じゃ隅々までおいちゃんが洗ってやるぜー」
「えへ♪」
 大河はちっちゃい。大河はかわいい。繰り返し呪文のように唱えて、恥、の感情を押しこめ
ながら、ハダカの大河の傍らに行ける喜びだけを思う。

「前ならえしてみ?おーやっぱ効き腕が指関節ひとつぶん長いもんだね」
「成長期だとねー。テニスラケットは重いからさ、かなりね」
 へー成長期ってー?たいがにいつ訪れるのー?さ来年あたりかー?
 みのりんひどいー!

「たいがは肌きれーだな。赤ちゃんみてえ」
 わったしっのたいがっ♪ぷにぷにっと。
 ひゃ、ひゃあぁ!くすぐったいよっ。

「み、みのりんだってー腹筋締まってるし。腕だって。それに〜」
 う、うらやましーーっ
 ぎゅーーっとハグされてムネに直接カオ埋められる。超セクハラ。うぉーー、やめろやー!
恥ずい恥ずい。恥ずいじゃねーかー、とクネクネ逃げた。でも許す。許す、どころじゃない。
幸せな気持ちでいっぱい。

「胸小さくてもさ。たいがはたいがでスタイルいーじゃねーの。はなぢ出そう」
「そ、そうかな?……痩せっぽちで、わたし……嫌い」
「このウエストの細さはちょっとないね。ちゃんと筋肉付いてるし、かっこ良いよ?」
 大河と洗いっこをして、細い身体を見て、自分のも見られて、ちょっとだけ触ったりなんか
して、もやもやしていたものが急に凝縮してくるのをどうしたらいいのかと悩んだ。

 ともかくも延々じゃれていればこの時間にもとりあえずの終わりはくる。終わりが来たら、
また出直せばいい。わたしたちの時間はたっぷりとあるんだから。
 そう思っていたら、ふいに大河がわたしを見上げたんだ。あの大きくて宝石のような瞳で。
いいんだよ、いいよ、と。
 ――みのりんが望むなら、何でもするよ

 初めて見た大河のその表情。そのときにわたしは近くにいて良いと赦された。邪だと思って
いた気持ちも持ったままいて良いと。

 湯あがりに、はいと渡されたバスローブを着た。高級品ですばらしい肌触り。同じボディソ
ープの香りを心地よく感じながら、大河と寄り添ってアイスを食べた。この嬉しさがいつまで
も続くことを欠片も疑わず。もっと、今よりもっともっと大切にして行くんだとか思っていた。
できると信じられた。

 わたしが望むなら、大河は大河の望まないこともするという。そんな生き物を、どうして愛
さずにいられるだろう?生まれて初めて。愛してる。とわたしは言葉にした。寄り添った大河
が飲みものを取りに離れた隙に。小さく、聞こえないよう。一言だけ。

 でも残暑の秋になって、わたしも、わたしの大河も想像しなかったくらい。幸福な時間は、
あっけなく壊れてしまったんだ。


****

「そろそろ何着ていくか決めといた方がいいんじゃねえか」
 けっこう長い間ぼんやりしていた私に、りゅうじがまた気を使ってくれていた。まだ時間は
あるけど、こうも固まってばかりはいられない。

「ありがと。ごめんぼーっとしてて。りゅうじつまんないよね」
 パジャマのままりゅうじの首にぶら下がって、ほんの少しの罪悪感を抱えて、身体を預けて
みる。りゅうじが抱き返してくれて熱が生まれる。今どうこうしないけど、これを大切に持っ
ていたい。私にもあるって教えてくれたのは、りゅうじ。そして……みのりん。
 身体を離して、寝たふりをしているに決まってるやっちゃんにも声をかけて起こす。

 おはよー☆と部屋から出てきた泰子がシャワーに行ったあと、大河はなにを着て行ったもの
か悩んでいた。あまり数持ってきてないからなーと呟くのを聞きとめて、竜児が言う。

「おう。じゃこれどうだ?」
 泰子部屋のクローゼットから出してきたのは大橋高校の制服だった。クリーニング済みで丁
寧にカバーもかけられてあった。

「あんたが持ってたんだ?あっちに送られた中になかったから、処分されたと思ってたよ」
「お前がせっかくきれいに畳んでいったモンだからな」
 クローゼットに入れておけば届くのは分かっていたけど。その……持っていたくなってよ。

 ふうん。変なシミとか付けてないでしょうね?んー?
 ……ねえよ。シワは……つけたけど。
 シワって……そ、そう言えば……そうよね。これ着て……なんかって……なかったよね。
 お、おう……。ま、まあともかくさ。

「これなら何も悩みはねえだろ?」
「そうね。じゃありゅーじも一緒に学ラン着てね?」
 おうっ?俺もかよ。あったりまえでしょ、卒業した後なんだから、これは一種の羞恥プレイ
みたいなもんじゃない。サイズがいまだぴったりな事に少しだけコンプレックスを刺激されな
がら、袖を通して大河は軽口を叩く。

 あ、内ポケットに生徒手帳。写真も挟みっぱなし。自分のメモさえ懐かしくページを繰る。
所々にある天地逆さの悪戯書きは、みのりんの字。余白がまだまだたくさん残っている。何か
書き込めるだろうか。
 竜児が早めのお昼を作りに台所へ立った。
 そうして、また元の思い出に還っていく。

****

 永遠に続くとさえ思えた親友との幸福な日々。それは私がパパのもとへ帰ることになって、
呆れるくらい簡単に壊れてしまった。
 一緒に転居先に行くという待合せの日にパパは来ず。あの野郎はそんなやつだと。どこかで
醒めてもいたのは事実だけど、またかという絶望はそれなりに重かった。その日、遅くに訪ね
て来てくれたみのりんと思い切り泣いた。

「たいがぁ……わたしの大河……」
「みのりん……」
「あんたを絶対に守ってやる……絶対にだ。あたしは……あたしはっ」

 パパと暮らす事になったときには、良かったじゃんと喜んでくれた。パパが私を裏切ったい
までは、あのクソジジイめがと怒り狂っている。でも、喜びの裏には悲しさ。怒りの裏に喜び。
それを私は感じ取ってもいた。
 力のこもったみのりんの腕に押しつぶされそうになりながら、親に裏切られたって絶望とい
っしょに、こんなにも私をほしいと思ってくれてるみのりんの気持ちが、心から嬉しい。

 それなのに。みのりんは泣いている。どうして?
 みのりんの胸に顔を埋めて、ほんの少しの気持ちも見逃さないように聞いて、私は分かって
しまった。抱きとめてくれよわたしのたいが。みのりんの声がリフレイン。抱きとめられてる
のは私の方なのに。
 優しい気持ちに遠慮なくもたれて、本当のみのりんに気づけなかった。こんなにきれいで、
柔らかくて、むき出しのみのりんが私のせいで泣いている……。

 どうしてこうなった?パパと暮らしてみのりんとも仲良く過ごす。ちっぽけな私が望みすぎ
たから?分不相応であると?なら。だったら、どうしてその罰は私に向かわない?!
 みのりんの胸にぱっくりと開いた傷が見えるような気がした。望むことを何でもする。その
傷は私しか塞げないと分かったから何でもできる。

 あの頃は、みのりんの熱がどういうものか、実を言えば私には分からないでいた。分からな
いままでも応えずにはいられなかった。同じものを私も持っていると信じながらも感じた、ほ
んの少しだけの違和感を。
 それを持ち続けたままで。ともかくも。


 大河に抱きとめられながら、ようやく気づけた。わたしの大河が側にいれば嬉しい。いなく
なったら悲しい。クソジジイをこんなにも憎むのはわたしの嫉妬でしかなかった。やつが大河
を裏切ればこそわたしは。――こそ?
 そう。『こそ』。わたしは、わたしの思いを大河にぶつけ続けられる……。
 ――それが、本当の願い?!……だった。……って?
 だって、こんなにも愛してやまない大河がいなくなってしまったら、わたし空っぽだよ。
 ――そんなこと。
 知りたくもなかった。気づきたくなかった。

 いま腕の中に捕まえている、わたしの可愛い大河。大切に守ってきた茶虎。細い腕に、もの
すごい力を込めてわたしの背中を抱いてくれている。いいんだよ……いいよ……と。

「なんでもするよ」

 不意に実乃梨は力を失ってしまった。見上げる大河と目が合った。大河のマンションの、だ
だっ広いリビングの、一人用のソファのうえで。
 長い時間、鳶色と葡萄色の瞳を驚いたように開いて見つめあった。思考が回り始めて、けど
それはすぐに止まる。
 どうして?どうして大河?
 どうしてもだよ。大丈夫だから。

 葡萄の瞳の端から、やがて、堪え切れずに涙があふれ出した。やり切れなくて、どうしよう
もなくて、途切れないで頬をつたい落ちていく。

 大事なことに気づいてしまったのだ。
 こんなにも今すぐ必要というのに。今ごろになって。初めて。

 わたし、女じゃん。なにができる――の?

 目の前にいるのは、わたしのものじゃない逢坂大河。
 大河はわたしの致命傷を押さえて、大丈夫、大丈夫だよと懸命だ。自分の背中にも痛い刀傷
を負っているくせに。
 わたしが女だからそれをどうしようもない。大河を救えない。自分も救うことができない。
このままなにも――できない。ただ、何の役にも立たない涙を流し続けるだけ。
 鳶色の瞳が困ったように瞬いて、それから優しい光を浮かべて、――みのりん、と。あとか
ら、あとから頬をつたい落ちる雫に口を寄せて吸い取ってくれる。
 たいが――ぁっ!
 たいがぁ……。たいが……。
 ……。

「たいがは……優しい」
「みのりんだって……」
 落ち着けたわたしは思っていた。大河は……こんなふうに献身?……をするのか。わたしだ
けに?ひょっとして、心をつないでくれた相手にはみんな?
 一瞬で、躊躇うこともなく?

「それにさ……」
「なに?たいが」
「みのりんはね。すごく女の子なんだよ。きっと」
 私、分かっちゃった。

「う……それは」
 知りたくなかった。
 大河を守れないわたし。大河をどうにかすることもできないわたし。それなのに大河がいな
ければ立っていられない、今のわたし。どうしようもなくなって、ただ泣き喚いて、大河にす
がりついて、救ってもらった……わたし。
 だから。

「もう少しでたいがをモノにできたのによ」
 軽口を叩いてみる。
 ふふん♪と可笑しそうだった。もうバレバレか。とわたしは苦笑い。笑うたび、胸にずきず
きとした痛み。

「モノにしたかったら、いつでもどぉ〜ぞ」
 おーよく言ったなあ〜。なら遠慮なく……襲うぞぐぉら!えーっ!?きゃーん!みみみみの
りぃーーんぬっ!目が血走ってるぅ!タップタップタップ!いつものように、ハグってモフっ
てグリまくる。

 あんたは、そういうやつなのかな……?わたしの、であっても。なくても。思いを込めて、
最後の。最初の。どさくさのキスを奪う。
 さよなら……わたしの大河。心から愛してた。
 ありがとう大河。
 みのりん、おまえが大好きだよ。

 一日なにも食べていなかったことを思い出し、ふたりでJonny's へ行った。馬鹿みたいに喋
って、食べたいものをお腹いっぱい食べて。バイトの募集を見つけてその場で応募。書類はあ
とで持ってくることにして即決。
 ……空っぽのままでなんかいられない。
 わたしが、わたしでいる事が、この茶虎めを愛する資格。この胸に置き去られた大河への熱
はそのまま残す。ずっと大切に持ち続けていく。


 秋が深まるごとに、実乃梨が大河のマンションを訪れる機会は減っていった。出逢った頃の
ように、登下校と学校でつるむだけの関係に戻る。大河は、実乃梨の側に現れる北村を意識し
はじめ、実乃梨はバイトを増やして部活に熱中。わたしはもう泣かないから。と宣言して。

 初冬に入ったある日の学校帰り、大河が図書室で借りてきた小説に実乃梨が興味を示した。
ふと目に入ったタイトルが気になり、自分も読んでみたいと思ったのだ。あと少しで読み終わ
るから借りてきた。すぐ回せるよと大河は言う。どうする?と誘う大河に甘えて、実乃梨は久
しぶりにマンションを訪ねてみた。

 多少散らかってはいたものの、以前ほど酷くはない。それなりに自分で片付けているのだろ
うと実乃梨は安心する。お茶を入れ終わったらすぐに大河から回してもらって、その場で読み
始める。
 以前の様に、実乃梨は大河の傍らで深夜まで本を読んだ。
大河は嬉しそうにお茶を代えて、食べ物を買ってきて。そしてふたりは変わらずに寄り添う。

「ちょっと私たちみたいだよね?」
「そうだなー。途中はじわじわ苦しくなるけどさ、ラストも不安を残すけどさ」
「ふふっ、それじゃなんにも救いがないように聞こえちゃうよ」
 そんなことないんだよ。みのりん。大丈夫だよ。
 分かっていれば、大丈夫なのかもな?

『あんたの自我は、わたしの自我じゃない』っていうのがね。気づけたらね。
 読み終えた本を閉じて実乃梨が言う。内容は痛くてつらいけど、タイトルがすごく気に入っ
た。あんたにもこう言いたい気分でいっぱいになったよ。
 うん私もだよ。それで読み始めたんだもん。

「たいが、好きだよ。いつまでも大好きだよ」
「うん。……ありがとう」
 私もみのりんが好き。ずっとね。
「……うん」

 その日から1年経って、実乃梨は再びここを訪れる。それぞれに言いたい相手が増えている
ことを、このときのふたりはまだ知らない。

『あなたに、ここに、いて欲しい――』


****


「おーい!ここだここだ!……なんだ、お前たち?」

 大河と竜児が定刻チョイ前にJonny's を訪れると、隅の6人がけボックスから眼鏡男子が手
を振っている。北村祐作。元生徒会長にして竜児の親友。大河の親友でもある。ランチタイム
が終了して空いた店内。ツレが先に来ているから、と店員に断ってふたりは歩み寄る。

「何で制服着てるんだ?お、逢坂も。……いまさらだけど『逢坂』のままでいいんだよな?」
「こんにちは、北村くん。名字は変えてないよ。制服は、まだ高校生気分でいたいから♪」
「おお、そうかあ。亜美がまだだけどまあ、すわれ」
 よおくしえだ。
 よおーたきゃすきゅん。
 みのりーん。
 たいがー。

「制服の大河がまた見られるなんてな!サービス嬉しいぜよ!……たきゃすきゅんはどうでも
 いいけど」
「うわぁ。冷てーじゃねーかよ」
「高須くんのは見慣れてるからいーんだよ。さあさあ大河、隣こい!」
 じゃあ高須も奥行け。お前たちを逃がすわけには行かんからな。あーっはっはっはっは♪
 お前のハイテンションはなんか怖えよ。
 席につくと、店内の暖房が効きすぎているようだった。それに今日は平日。窓際で制服だと
サボリ在校生かと誤解を招きかねず、大河も竜児も上着を脱いで胸元を緩める。

 そうこうしているうちに、亜美が来店した。北村が呼ぶと、気づいて小走りで走り寄る。
「おっ待たせー。ちょぉーっとだけ遅れちゃったあ?やっぱしたくに時間かかるからぁー♪」
 普段着の分際でこのいいぐさ。性悪チワワ健在!川嶋亜美の入場だぁー!!などと全選手入
場アナウンスみたいな北村のツッコミをガン無視で、大河をはさんで通路側にすわる。

「よっ♪」竜児にお愛想。
「よお。一日ぶり。仕事じゃなかったのかよ?」
「んーん?あ、麻耶に聞いたのか。あいつらにはちょっと嘘ついたの☆ヒッマヒマ!」
「へー。まあつるむのをサボりたい時もあるんだな」
「まあね。独りで高校生活を思い返してしんみりとひたりたい気分?みたいな?」
「川嶋が普通の女子みたいなコメント吐くなんて珍しいな。面白え」
「ホント?高須くんにウケるなんて方が珍しいよ。亜美ちゃん感動っ♪」
 テーブルを斜めに横切って、大河の目前で、竜児の手をしっか!と握る。

「おい」
 無視すんな。即座に低っくい声で威嚇のツッコミ。
 おおっ!老雄十八歳にしていまだピークは去らず!虎のふたつ名は伊達じゃない!逢坂タイ
ガーだぁ!!

 うざいよ祐作。
 ノリノリだあ北村くん!
 老雄って……。
 ガーン北村くんにタイガーって発音された。北村くんに……。はっそうじゃねえわ!

「くぉらばかちー……ひとのダンナになに愛想振りまいてんだ。喧嘩売ってるの!?」

「あーらタイガーいたんだぁ?小ぃっちゃくて全っ然っ見えなかったよー」
 ……え?ダンナ?もしかして籍入れた?

「上っ等じゃないよ!また蚊ぁとか蠅ぇが飛びまわるかもよ?ここなら!」
 あ、ちなみに籍はまだだよ。

「おーぅ。行っけ行けぇ大河ぁ。タダで見れるにしちゃ豪華すぎるカードだよ!」
 ファイッ!

 実乃梨が挙げた両手を空中でクロスさせたのを合図に、それぞれの手をガッと組んで……!
いや取っ組み合いまではしないけど。

「名勝負数え唄ってやつかな。はーっはっはっ♪」
「やぁーん。高須くぅーん。みのりちゃんと小っこくて見えないのがいじめるぅ〜☆」
「いやあ、俺止めねえぞ?懐かしすぎるしなー」
 変なテンションではあっても、5人にとってこれは離別の間の空気を埋めようとする大事な
儀式みたいなものだった。


 じゃれ合いはそのくらいにして、注文とるぞー。みんなドリバーでいいか?適当なところで
北村が仕切る。バタバタとメニューを開いて。私フレッシュミルクプリンサンデー。とドリバ
ーね。わたし付き合ってストロベリースペシャルザサンデー。とドリバー。
「はあ?あんたたち相変わらず好きなもん食うのね。まーた太るよー?」
 あたしドリバーだけ〜。男2人はどのみちいつもの。注文を済ますと、北村と竜児でドリン
クを取りに行く。

あーん。
あーん。
大河と実乃梨はそれはもう美味しそうに互いのパフェを交換しつつ。やっぱり春はイチゴだよ
ねー。いやいやあんたは年中乳製品だろー。
 シュガー抜きアイスティーの氷をストローでつまんなさそうにかき混ぜて聞いていた亜美が
もの欲しそうに口をはさむ。

「ねえ……亜美ちゃんにもひとくち」
「なんか地獄の底から餓鬼の声が聞こえるね、みのりん」
「食べたきゃ注文すればいいのにね。変な人だねっ」
「あたしゃ契約条項に体型維持とかあんだよ!スイーツとか欲望のまま食えねえんだよ!」

「ふーん。ダイエット戦士に加入する?」
「へーえ?ああほっぺ落ちそう〜」

 あー!ちきしょーっ!!そんでも友だちかよっ。もういいっ。すいませーんと店員を呼び、
ストロベリーガレットを注文してしまう。や〜いブタブタぁ〜。あんたらが言うなっ。
「やっぱ仲いいよな。お前ら」
 コーヒーをすすりながら竜児が無責任なボケを。
「どこがだよ?」
 我慢できずにイチゴスイーツのヤケ喰いに出た現役モデルさんが的確に受ける。


「卒業してしまったな。お前たちともそう会えなくなるけどこれからも付き合ってくれな」
「ゆーさくは留学じゃーん。ヘタしたらこのあと人生で何回会えるかだし」
 やっぱ兄貴かい?あーみん。
 そ。こいつ兄貴バカ一代だもん。ひそめ声でさくっと意思疎通できる2人を見て、ずいぶん
親密になったと大河は感心する。一年て長い。

「え?そんな事ないだろう。たぶん。とりあえず行ってみるだけだしな」
「まずは行ってみねえと何も分からないからな」
「北村くんはのう……そうだな?」
 行ったらとりあえず道場破り修行するの『それ、もしかすると兄貴?』ってさ。
 なにそれ?
 ネタ振ったのあーみんだろが。

「いやいや『兄貴に先手なし』だから」
 北村の受けも分かり難い。おまけに解説まで始めるのが痛い。相手に先手を取らせるという
意味でなく、生死の限界まですみれさんへの思いを耐え忍んでだな……。

「そうそう、北村くん。押忍の心だよね」
 梶○一騎に造詣があるとは逢坂も意外だな。ほんとに十八歳なのか?い、いやあ。時々なん
か言わないとここに居ないように思われちゃうし。ははっ。

「はははははっ。なんと片思いの人間の顔の珍妙なことよ!」と実乃梨。
「バカの顔だっ!」と北村の前に手鏡を差しだして、亜美。
「おこがましくもMITに対抗せんとする兄貴バカの顔だーっ!!」と北村がセルフで締める。
 なんだかなーオチがセルフだったよ。緊張感ねぇーわ〜さすが祐作。乗せたくせに退いて落
とす酷い女ふたり。

「でー?兄貴とは連絡してんの?」
「まあ……それなりに。いろいろとアドバイスもらったりな」
 心なしか少し顔を伏せる北村の様子を見るとそれなりにそれなりらしい。この男はいよいよ
ダメになると大声で援けを求める性格だから、こうならむしろ安心といえる。

「行ったらHAHAHAHAHA!って彼氏紹介されたりしてなっ♪」
「むごいよみのりん……」
 いや、そんなことは想定済みだっ!イメトレはもう何度も済ませた。
「吾、ことにおいて後悔せず!!」

 それは宮本武蔵だろっ。と。裏拳のツッコミ4本が同時に北村の顔面を襲う。

 おっかしいなあ。ちゃんと梶原○騎つながりだったのに。眼鏡の食い込みがよほど痛かった
のか押さえながらぼやく。一時期はやった目潰しよりは安全だろう。
 かけ直して真顔になる。

「あれだな、おれに何ができるのか腕試しだ。逃げ帰るかもしれん。永住するかもしれん」
 やれるだけは、やってみる。それはみんなも一緒だろ?
「まあな……」
 なにか気のきいた激励を言ってやろうと竜児が口を開きかけた。すると女子三人が揃って胸
前に腕をバッテンに組む。顔にマジウザイと書いてある。

「なんだ?お前ら?」
「クサいかも?」
「クサいのやだっ」
「モグ……モルグに放り込むぞおら」
 大河……お前まで酷え……。う、うるさいっ。つ付き合いってもんがあるわーっ。
 まあまあ。
「高須のセリフがここ一番と言う時だけクサ過ぎて台無しなのは仕様だ。あまり責めるな」
 それに……な?
 それは逢坂だけが人柱になって聞けばいいんだ。


「と言う事で。おれの話はこれぐらいだ。じゃ次は亜美な。進学するとは意外だった」
「まぁーねぇー?」
 正直、芸能界一本で行こうって熱意がね。ちょっと足りないって思ってる。モデル仲間には
もっと目の色変えてこれしかないって、キッツくやってる子が何人もいてね?結局はどこかで
そういう子たちと競り合うことになるわけ。そのとき蹴落としてガッツリ勝負できるのかはま
だ疑問あるのよ。

「だから、片足は普通に就職しやすい方に突っ込んでおく。それだけよ」
 あーみん他にも言うことあんじゃねーのー。
 うーん。やっぱやめとくかな。

「なんだよ。言いたい事があるなら言えばいいじゃねえか」
「あたしがねー?高須くんをどう思ってたか、の話でも?」
 へー?高須くんは今ごろになってもそーいう事言うんだー?というような顔で答える亜美に、
おう……そうか。と竜児が黙る。そのやりとりを見て大河の目つきがキッと変わる。瞳が逆さ
蒲鉾の断面のよう、いわゆる釣り目に。チッと舌打ちしたりもするが、もはやそんなので怖が
るやつはここには1人もいない。
 亜美も当然そんな威嚇は無視。

 やっぱ三年になってクラスが分かれてさ。好きな時にいつも話できない距離になるとさ。こ
ういう気持ちって増えもしないし減りもしないわけ。それに、分かっていてくれると思えれば
恋じゃなくても良いって話は前にしたよね?

「ばかちー、あんたって……」
「別にあんたに気ぃ使ってるわけじゃないよ?タイガー」
 竜児に話していたのに、大河に向き直る。あたしはね、あんたが失踪して連絡がくるまでの
一日、高須くんのことすっかり忘れてた。あんたともう一度逢いたい。ずっと友だちでいたか
ったのにってそればかり。そっちの方が少しだけでもさ、大きかったのよ。だから、あんたが
約束を守って帰ってきたなら、それでいい。

「あたしのこと友だちと、思ってくれてるんでしょう?タイガー」
「ばかち……。も、もちろんだよ」
 亜美はうふんと嬉しそうに頷く。それにさ?

 スイーツ用の長いスプーンで、んっと。大河の喉元、竜児の胸元……と続けて指した。ん?
何かついてる?とふたりは訝しがるが、鏡がないと自分では見えない。それでお互いのその場
所を同時に見て、驚愕。

「こんなの見ちゃったら亜美ちゃんもぉ何ーんにも言えねーしぃー☆」
 竜児は鎖骨の辺り、大河は耳の下に紫色の刻印。そんなには濃くないが、医学的には鬱血と
いうやつ。ベタに表現すれば、キスマーク。
 おおう!と残りの2人が興奮する。見つけた手柄はあたしのもん!とでも言いたげで亜美は
ドヤ顔になる。

「ちゃーんと朝見て、熱い蒸しタオルで目立たなくしてー、ファンデで隠さないとぉー☆」
 な、なんだ川嶋。お前もしかして経験……あるのか?まっさかぁ。常識でしょこんなのぉ。
「すごいなー高須。歯型まで……。逢坂って激しいんだなあ」
 空気を読む事を知らない。というか意図的に無視した北村のエロコメントに、大河の顔が真
っ赤に染まってくる。湯気まで出ている。それはうそだが。竜児も迂闊さに焦りまくる。

「あ。アイスティーなくなっちゃった。祐作持ってきてー」
「おう待ってろ。ついでにみんなのドリンクも代えてくる」

「たいがたいがー!見せてみっ見せてみっ!」
「やーんやん、こんなの恥ずかしいよっ」
「うはぁ!キャラ違うよ大河ぁ!おめぇいつの間にそんなエロカワ女に?!ははなぢ出そう」
えー。CM行きまーす(棒)。とでも言いたい竜児だった。

 というわけだからさ?高須くん。
 三年になってから何度か奈々子が言ってくれたんだ。略奪しちゃえばぁ?って。あの子やさ
しいから、あたしの迷いが浮かぶと見つけてくれるんだよ。
 それでいっつも安心できたいた。
 ほんとはね?……ほんとはもう最後だから記念に……とかも思ってた。でもね。あたしがず
っと見てきたのは、さっき言ったとおり。たぶん、あの素敵なちびを分かってる高須くんなん
だよね。

「そんなわけであたしは告白しないから。今日は」
 バレバレだろうと関係ねーし。直接本人に言って初めて告白だからね☆

 たぶんそれは現在のところ、亜美の人生で最高に魅力的なウインクであったろう。それが伝
わったのかどうなのかは高須竜児にしか分からない。
「……おう」

 いいのかい?あーみん。
 あたしはね。
 ドリンク持ってきたぞー。


「失踪と言えば……。そうだな。丸一日にも満たなかったけど」
 北村が眼鏡をかけ直して呟く。おれたちは高須と逢坂の駆け落ちを支援して、吉報を待つ身
だった。ふたりいっしょに逃げてるなら希望をつなげて待つこともできると思っていた。それ
が一夜明けてみたら壊れかけの高須だけが学校に来たんだよな。

「いや、逢坂を責めているわけじゃない。ただ、知っててもらいたいんだ」
 うなだれ始めた大河を優しく見て言葉を継ぐ。離れ離れの一年間、限られた通話ではどうし
ても語り合えなかったこと。でも、再会できた今なら、やっと言える。
 ほんの半日なのに。おれは永訣という言葉が浮かんで仕方なかった。

「宮沢賢治の詩……にある言葉だね」
 少し間を置いて大河が受ける。続けて、あめゆじゅとてちてけんじゃ。と呪文のように。
 その様子をみて北村は静かに頷いた。

「このまま会えなくなってしまったら。……それは永訣と同じじゃないか、と思えてな」
 逢坂からメールが来るまで僅かな間だけでしかなかったけど。おれは大切な友達と……。

 まだ思い出すと胸に迫るのか、目に光るものが浮かんでいる。
「ごめんね。北村くん」
 みのりん。ばかちー。……りゅうじ。
 ごめんね。

 いま振り返ってみれば、結局は家庭の都合で遠くへ転校する。という出来事でしかなかった
と思う。それはちゃんと説明して、離れても友だちでいてと伝えるだけのこと。ただそれだけ
のことが、あの頃の大河には難しかった。

 子供であるゆえに、いよいよとなれば親に従う他に何もできないと分かったとき。大切な人
のために自分がここにいた痕跡をすべて消し去るしかないと、一度は選んでしまった。それが
永訣とまで思われるなど、考えが及びもせず。
 自分にそう思われる価値があるなどと、これっぽっちも信じられずにいたから。

 ここにいて欲しいって。りゅうじが、みのりんが。北村くんが、ばかちーが。みんなが。私
に教えてくれたんだよ。だから必ず帰ろうって思えた。大河はひとりずつを真っすぐに見据え
て、心からの感謝。
「だから。待っていてくれて、ありがとうね」
 愛してくれて、ありがとうね。

「……あたしはさ、あのとき高須くんを殴ったよね」
「おう。櫛枝の腕力だからな。強烈だった」
 ちょっと5人の間に漂った沈黙の空気を破って、目を伏せていたた実乃梨が押し出すような
声で言った。竜児はちゃんと見返しながら応える。

 大河と離されて悲しいって、確かにあったけどさ。それよりもさ、独りにさせたくないと心
から思ってるのに何で手放したっ!?ってキレたんだよ。あたしには確信があって、高須くん
にもあったはずだよ。

 実乃梨は、傍らの大河を抱え込んだ。視線を宙に投げて、静かに話し続ける。
 こいつはさ、誰にもすがらないで、自分だけで決めて身を投げ出すやつなんだって。だから、
それを間違いなく見つけて、手を離さないようにしなくちゃいけないのに、って。

「その最後の最後を、高須くんは手に入れたはずなのに……ってな」

「手に……入れたから。だな?大河」
「うん。りゅうじに全部あげて。全部をもらったから」

 それを聞いて、実乃梨の視線がようやくふたりを捉える。向き合った大河と竜児が、互いに
絡ませ合っている視線を見る。そうして、それが自分へと向けられるのも、見た。

「そっ……か。大河。高須くん」
 たいがは、手を離しても戻って来れると思えるだけの力、を、もらった、のか。
 言うとおり。本当に。
 何度も何度も何度も思い描いてきた大河だけのやり方。高須竜児には無償で渡さなかった、
大河の全部。

 想像もできていた、ほんの半歩先に大河が踏み出せた理由。もう胸は痛まないけど、答え合
わせだけが引っかかっていたんだ。それはいまあんたの耳の下に刻まれている。それは……わ
たしには永遠に踏み出せなかった半歩。

 とっくに分かったつもりでいた。誰にも言えはしなかったけど、そうなんだろうと信じられ
た。そうして一年を過ごしてこれた。でもどこかで信じきってなかったのかも知れない。実際
にも見たら初めて湧き上がってくる、この感じは何?
 見えないものじゃなくて、見えるじゃないか。あるじゃないか。わたしにも。
 この世界には本当にUFOがいる。

「ねえ。あーみん?わたしはあんただけに聞いてほしい」
「え?みんないるのに?」
「うん。聞かれても大丈夫。今どうしても言いたい」
 本当の友だちになるためにあんたが知りたがっていたあのこと。
 みのりちゃん……。

「わたしね。あのとき『大河に』振られたの」
 聞いてはっとした顔は、女子ふたりだけ。

 亜美はそれだけで総てを理解した。
「そうなんだ……」
 最後の最後であんたが欲しかったのは……高須くんじゃなかったんだ?んふ。全部分かっち
ゃった。めちゃめちゃプライド高いね……みのりちゃん。
 大河も理解する。電話では「この話、墓場まで持ってく」と言ってたみのりん。急に話した
くなったのは、そうか。ばかちーに聞かせたくて。

 りゅうじの顔をそっと盗み見てみる。分かってか分からないでか、優しい顔をしている。


「櫛枝が逢坂に振られた?ってのは初耳だな。ケンカでもしてたのか?」
「いーの、祐作は。これは女同士の話しなんだから」
「そうか……すまんな」
 あんたのガチマッチョ心は同じ心を持つ兄貴に理解してもらえよ。そ、それが意外なことに
時々しおらしいと言うか。そういう手紙が。文通してんのっ?!今時じゃねーな、北村くん。
とりあえずローコストだったからな。日本語に飢えてるらしいし。

「まあ、わたしの話はそんなとこ。……そうだ大河」
 覚えているかなあ?
 なに?
「わたしは『あんたに、ここに、いて欲しい』もう一回言っとくよ」
「あ。覚えてるよ。うん」

「これからも。いつもじゃなくても。ね?大河」
「うん。みのりんにもね。『ここに、いて欲しい』」
 あーみんも。たきゃすきゅんにもな。贈るよ。北村くんはどっちでもいいけど。おい、冷た
いだろ!あはは!……みんなにここにいてほしいな。そういう気持ちをずっと持っていたい。
また会いたいよ。
 うん!
 ん。
 もちろん!
 おう。
 櫛枝の笑顔は眩しい。竜児はまたそう思った。


 さて、じゃあ今日の集まりのメインディッシュと行きまっしょいーっ!櫛枝実乃梨はポケッ
トティッシュを取り出してテーブルの上に置く。びっと引っ張って一枚立てて。はなぢ対策、
かんりょー♪
 シートの真ん中で挟まれた大河に向かってはすに構えて。それはまあ〜いじめっこな顔で。

「……コラ。いっしょにお風呂入って気持ち良かったそうじゃなイカ?」
「へ……?」
 北村も亜美もまるで打合せ済みかのように、ぐいっと半身を乗り出した。平静を装って、他
人顔で、冷めたコーヒーを含みながら、青ざめた竜児が十字を切る。ここへ来て生贄が自分だ
けに絞られたことに気づいた大河は遅れて蒼白になる。
 どっちを問い詰めたら面白いのか、考えればすぐ分かることだった。は、はは。

「は、はめられたっ!」
 違うだろう逢坂。いきなり結論を言えば済むとは思わない方がいいぞ?北村の屈託のない笑
顔がうらめしい……。


「うあーぃ!騒いだ騒いだぁ!面白かったなあ!高須、逢坂」
「ほんと!北村くんが相変わらず裸族なのも分かったし。でも北米では止めた方がいいかも」
「そうだな。兄貴じゃないマッチョに勘違いされてもかなわんからな!」
 ファミレスで小一時間続いた異端審問がひと段落したところで、5人は北村の提案でカラオ
ケに流れたのだった。

 4月からの新生活に備えて、それぞれにやる事はそれとしてあったけど。ヒマだろ?お前た
ち。場所変えて遊ぶか!と言われれば異存があるはずもなかった。
 いつまでも騒いでいたい宴。

 けど建て前ではカラオケ屋のルームチャージがハネ上がるからという理由。本音ではカップ
ルを2人きりにしてやらんと、という温情で早めのお開きとなった。

「でも裸はいいんだぞラは!うっ屈したものがパァッっと飛ぶ!逢坂もやってみろ」
「うん!うちに帰ったらね☆りゅーうじっ☆」
「お?そうだったな!今夜も仲良くしろよ!」
「任せろ北村くん!こいつは眠らせねえっ」
 店先の路上で。大河は傍らの竜児を見上げてなんちゃってインビな表情をつくったりもして
いる。いろいろ白状させられて、エロ虎、などと呼ばれて。もうヤケなのかもしれない。

「お、おう。なんか身の危険を感じるけどよ。まあ、いいか」
 遅れて、実乃梨と亜美が出てくる。
「恥じいから大騒ぎやーめてくんなーい?」
「あと1回か2回しかできねーよこんなこと。大目に見てくだせーよあーみん殿」

「元々の予定は開けてくれてるんだろ?エロ虎の引っ越し祝いのさ」
 えええっ?あんたがえろとら言うのっ?他人事っ!なんてこと!!さっきも裏切ったしっ!
軽く暴行を受けるがみんなスルー。

「まあねぇ〜。じゃ次は来週ね。あ、来れたら麻耶と奈々子も呼んでいい?」
「もちろん!あ、じゃあ能登も呼んでやらないとね。アホロン毛も」
「春田は彼女さんとイロイロかもしんねえけど、連絡してみっか」

 ね、ばかちー。能登と木原ってどうなの?
 なーに、興味ある?うん。私煽ったことあるし。
「あんたと高須くんよりグズグズしてるよ」
 でも卒業しちゃったしさ。そろそろ根性入ってどうにかなるんじゃなーい?ま、来週くるな
ら見てみれば?煽れ煽れ♪
 そうだよね!仲良くなってればいいのになあ。

「それから、その次は……北村くんが渡米する前に一度遊べるかな。どうだい?」
「ね!だったら日帰りでもう一度うちの別荘行かね?」
 おお!それいいな!
 わぁお!でも大丈夫なの?
「うん、春は使わないはず。朝イチで行って」
 泳げはしないけど足つけて。お昼食べて。ダベってさ。

「さすがばかちー!あんた最高だ!褒めてやるっ」
「よーっし!食材用意してって腕ふるってやる!」
「シェフがやる気だあー!わっせろーいっ」
わぁぅ!こんなとこで筋トレやめてーっ。みのりーん。

 限られた時間の中で、たくさんの思い出を作ろう。駅前を歩きながら楽しい計画を練って、
5人の気持ちはまたひとつに。じゃあここで。まったねー。と北村と亜美が別れた。
 だいたいの方向が同じ3人はもう少し。


「じゃあ。高須くん、大河」
 住宅街の辻で実乃梨が別れる。
「高須くん、ジャンピング土下座はしねえけど。大河のこと宜しくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる。あの屋上での壮大な勘違いを再現しようと。この子は私の大事な大河
です。気難しいところがあって心根の優しい子です。

「大河!幸せにしてもらえ!この優しくて強いやつに!」
 葡萄色の瞳に夜空の月を映して、両の手をふたりに託す。竜児も大河も言葉を発さず、でも
大きく頷いて実乃梨の手を握る。

「高須くんも支えてもらいなよ?」
「おう。もちろん」
 ああ、勘違いはもう。してないんだな、と。そして実乃梨は、大河と竜児ふたりの肩をいっ
ぱいに広げた手でしっかりと抱いた。

「よし!じゃあな!また来週!!」
「おう!」
「またね!みのりん!」

 ふたりと別れて、実乃梨はやがて小走りに家路を急ぐ。急ぐ用はない。ただ、自らを走らせ
る喜びに身を任せて。
 どうしようもなくからっぽになった心に、見えるものをしっかりと詰め込んできた。それは
代わりではあったけれど、頑張ったから、確かな価値を持たせることができて、今ここにある。
 亜美にはもっと。今よりもっと本当の自分を見せられる。じょうずに近くへ行ける。
 もう転ばないだろう。

 湧きあがってくる熱に突き動かされて、全力で走る。
 恋していた。
 愛している。


****

 少し散歩しねえ?と誘われて、大河は竜児と歩きだした。
 暖かい日が続いていたせいか日が暮れても妙に生ぬるい。えらく遠回りをする。竜児がポケ
ットに両手を突っ込んでいるから、大河には手を預ける場所がない。

「北村……にさ?」
「ん?」
 北村に兄貴が見つからなくて、お前の告白を受け入れていた。……としたら?
 付き合っていただろうね。何をしたら良いのか、その先は分からなくても。

「そうなっていたら……櫛枝は……」
 俺は……どうしていただろうな。
 竜児を見上げて、竜児の気持ちをひとつも見誤らないで答えようとする。……同じだったろ
うね。と期待どおりに答えようとする。黙したまま大通りを通り、昼間いたJonny's の前を過
ぎて。街路には桜の樹が並び、このところの陽気にふくらんだ蕾がいくつか綻び始めている。
 春まだ遠い自宅の窓辺で想った桜を大河は見上げて。

「言わない」
 ぴたっと歩みを止めた竜児がこっちを見下ろして困ったような顔で私を眺め、またすぐに歩
き始めた。機嫌悪くさせた?と心配になるけどそれは一瞬のこと。全然機嫌なんか悪くない。
変わらずに思ってくれている。

 私がママに引き取られるって事だけは変わらなかったから。それをいっしょに乗り越えてく
れるのは、きっと、りゅうじしかいなかった。北村くんでなく。みのりんでなく。
 でもりゅうじが言うようになっていたら……ここにたどり着けただろうか。たどり着けたか
らこそ初めて言えることなのに。言ってもいいのだろうか。
 わたしりゅうじを……って。

「俺……ちょっと拗ねてるのかも」
 ぽつりと言う。
 やっぱり感づいていたんだ?

 後をついてみたり、先を歩いてみたり。住宅街の中を通って、見覚えのある角。立つ電柱に
は内科医院の看板。
「まだ傾いてるよ。ははっ♪」
「覚えていたか」
 そりゃあね。……もう2年も前なんだね。

「あんたが、もしかしてと思ってるようなことはなかったよ」
 言わない。と告げたのにゆっくりと言ってみる。黙って電柱に手を伸ばして触って、少し撫
でて。竜児を見上げて、さっきの実乃梨のように街灯の明かりと月とを瞳に映し出す。

「……そっか」
「そんなつもりはなかったし、みのりんも踏みとどまってくれたよ」
「そうか。じゃあいい。悪りぃ」
「いいんだよ。ただひとつだけ……」
 つもりはなかったけど、向けられた気持ちは私……嬉しかったんだ。本当に。りゅうじがそ
れも気に入らないのは分かってる。けど私、恥じるつもりは……ないよ。

「おう。……そんなの大丈夫だ」

「だ、大丈夫って何?」
 ここが一番大事なとこでしょ!りゅうじにとって。私にとっても。あんたは出逢う前の私の
過去も俺のもんだって。思ってくれない……わけ?

「は?だってお前いま居直ったばかりじゃ」
「居直る!?」
 いい居直るって。ま、まるでわた、私が浮気者みたいに!い、い、やそれはその通りかもだ
けどさ。なにそのしょうがねえな風な。あー。遺憾だわー。私悪くないもーん。あ、これもう
言ったことあるわ。とにかくっ、りゅうじだけがいっつもモノ分かり良く飲み込むなんて。
そ、そ。そんなの嫌なのっ。

「こういう場合、ふざけんなそんな過去は俺が消してやるっ!とかじゃないのっ?」
「だってなあ。お前自身が消したいって思ってねえことだろ?」
 そもそも相手は櫛枝だし。いくら俺が潔癖だからってそんなとこまではなあ?お前と櫛枝が
普通よりも仲良いのにちょっと嫉妬しただけなんだから。

「あーもう何だろ私?りゅーじのやきもち嬉しいのに足りないって思っちゃう」
 もうっ、分かってよ!!

 ああ。分かるとも。
 お前が自分の分を負担させろ。寄越せって思ってるのはな。そうは言っても、これは分け合
うほど大した何かがある話じゃねえ。
 電柱脇、街灯と月に照らされて。竜児はじたじたする大河の肩を押さえる。

「……こういうときは。たぶん、こうやって流すんだよな?」
 もう俺たち子供じゃないからさ。芸はあるんだよ。大河。
 見つめて、そしてキスを。

 けど、大橋高校のブレザー。ひもタイ。ブラウスは自前でも竜児には忘れ得ない高二の大河
がそこにはいた。何度もこうしたいと思って、そのたびに抑えつけてきた記憶。それが。

 んむ……。
 いっぺんに。
 ちゅっと。軽ーく唇を合わせて両頬を掌で優しく包んで。ちょっとだけ大河を落ち着かせる
つもりで始めたことだったのに。春の宵に渡る微風はやはり夢のよう。撫でられた肌がくすぐ
ったく、竜児は思いっきり固く抱きしめて没頭していた。

「だいじょうぶりゅうじ?この陽気だもんね。うちまでがまんできる?リードつける?」
「……そ、そういう言い方は……やめろ」
 せめてもっと冷たく言い放ってくれないと。ああっ……恥ずかしい。

 人が通らなくて良かった。まさか自分だけが大河を置き去りに盛り上がるとは予想もしてい
なかった。相手が櫛枝であっても嫉妬というものは恐ろしい。
 それに、たぶん。同じときを過ごした制服の大河にこんなことをするのは初めてだった。と
いうのもあろう。思い出の場所で季節もほぼ同じ。今がいつなのか勘違いを招くに充分すぎる
光景でもあったろう。

「なんかね、すーーっと。余計な考えが落ちたよ」
 今ごろ熱が移ってきちゃった、うちまで我慢できないかも、などと大河は慰めかネタっぽく
呟いて。ポケットから出した竜児の左腕に絡みついて。ふたりで夜の住宅街を帰途についた。

「ご、ごめんな?……お前の気持ちに関係なく……その、サカっちまって」
「ん?いいよ。私がいつもやってることじゃん」
 どんな気持ちになるか分かったであろうっ!と得意げ。ああ、すっげえ分かった。

 回り道のようでも、これが最短距離だったのだろう。


「ただいまー。あ、泰子もう出かけたか」
 しょうがねえな。灯りつけっぱで行きやがって、だらしねえ。MOTTAINAI。ついで
に上着を脱ぎ捨てる大河にも小言。ちゃんとハンガー持ってきて掛けねえと……お。
 拾い上げたブレザーの内ポケットから落ちたのは生徒手帳。

「ああ、入れっぱなしか。……何だまだ写真2枚挟んだままだな」
「うん。え?あ?ちょ、ちょっとっ」
 急に血相を変えて大河は手帳を取り返そうとする。なんだよ?北村の写真持ってたって別に
気分悪くしねえよ。俺だって……櫛枝の写真捨てる気ねえし。

「そ、そうだよね。ははは……は。わっ?!」
 竜児がページをぱらぱら繰りだしたのを見て慌てる。
「なんだ?これ」

 縦軸に日付が並ぶ。上京してからの日付だな。じゃあこれは今日書いたもんか?横軸にはみ
みず?のようなヘタな絵、その隣に虎縞猫の顔が並んで描いてある。ああこれが虎か。という
ことは、みみずは竜。竜と虎だな。そんでもってタテとヨコに囲まれた余白に、○△×が記さ
れていて……。

 ふと見ると大河の頬がぷくっとふくれて、でも桜色に染まっていて、眉は八の字、瞳はらん
らん。誰が見ても明らかなほど恥ずかしがっている。見る間に俯いていって。消え入りそうな
声で言う。

「……た、対戦成績……」
「何でテレて……は?勝敗?ゲームなんかしたっけか?」

 竜に白星はなく、一昨日が△同士のドロー。昨日までの通算が△××。大河は△△○。いつ
の間にかふたりは卓袱台の脇、泰子部屋の前に向き合って座っていた。

 おうっ!これって……?もしかして……?
「なあ?ひょっとしてこれ……俺の二勝一分け?」

「りゅ、りゅうじの……一勝二分けで、しょうよ……」
 大河は正座のままでぴょこぴょこ近づき、胡座の脛を膝小僧でつんとつついた。そのあと身
を乗り出して胸にごん!と頭突き。

「わ……わたしも一勝……二分け……かな。ははっ……はっ……」
「そ、そおなのか。どの辺が対戦なのか……もはや分からねえが」
 い、一勝できて……良かった……じゃ、ねえか。お互い。竜児も俯いているつむじに向かっ
てごちん……と軽い頭突きをかます。

「……きょ、今日は……勝ち越せた……らいい……ね?」
「お、お、おう……」
 負けゲームがない以上は、現時点で既に勝ち越せてるわけだが。などと考える余裕もない。
相変わらず大河は回りくどい。そもそも、勝利条件はなんとなく想像つくが、敗退条件は何な
のだろう?

 いやいやいや、知りたいが。追求するのは危険な気がするぞ。とくに今夜は。俺が一方的に
サカることもあると知られてしまった以上、どんな無理難題を嬉しそうに要求するか……。

「ま、またどうしてこんなマメな記録を……?」
「き、記録しとけば後々役に立つ……んだって。……浮気の状況証拠とか」
「誰がそんなことを?!」
「……ばかち」
 お前か川嶋ぁ〜〜。
 んべっ、と憎まれ顔が浮かんだ。


 ――うぁ〜ん☆どおしよ〜?やっちゃん遅刻しちゃう〜
 出勤の支度に忙しく、うっかりただいまに返事し忘れていたらこの始末。まあ結局のところ
は物音でも立てて、間をとってからふすまを開ければ済む。母親とはいえやっぱり泰子にもこ
んな雰囲気は楽しすぎる。

 ――今日はちょっと遅れようーっと☆
 ぽちぽち勤務先にメールを打って、ふすま越しに1mにも満たない距離で続くイチャつきに
聞き耳を立てニヤケてみる。さ〜たいがちゃんはどんな浮かれ方すんのかなぁ?


「勝ち越すにはさ……やっぱ出場回数というか……大事だよね?ふへへ……へ」
「まあ……そうかも……知れねえな」
 どこへ話題を流れ着かそうとしているのか。少々不気味に感じながらも、興味のある竜児は
つきあってしまう。

「りゅうじって、先発はアレかもだけど……抑えの守護神だよね?」
「アレとか言うなよ。他で練習つむわけにもいかねえんだから」
 だんだん乗ってくるとネタがはしたなくなるのは仕方がない。北村がバカ兄貴。おっと。兄
貴バカ一代なら間違いなく大河も竜児もお互いのバカ一代だから。

「ねえ……その……。あのね。りゅうじローテって……どれくらいなの?」
 いきなりだな。中三日とかのあれか?
 うん中一日要らないのはわかったけど。
 は?ああそういうこと。

「そうだなあ……んー。1時間くらい?……かな?」
 昨夜の1回戦から2回戦までの実績をバカ正直に答える。


 ――りゅ、りゅーちゃん!
 聞いた泰子がふすまの陰で母親の顔に戻り青ざめる。
 だ、だ、ダメでヤンス!!もっとサバよまないと!死んじゃうっす〜よぉ☆


「1時間……そうなの?ふ〜〜ん?」
 じゃ〜ひと晩4ゲームはできる計算……なのか。
 そうすると守護神で3回戦6勝くらい?……ぐふふ。え?6勝?

 だ、大勝利?まさにパ、パコパコカーニバルぅ〜☆指折り数えてニヤついて、大河は急に上
機嫌。かあああぁ〜っと顔が桜色に染まっていく。身体、もつのかにゃあ〜わたし。
 もう一度ごん!と頭突き。これは機嫌よく甘えるのに加えて、とっととプレイボールを宣せ
よという竜児に向けた催促。
 そのとき、がたん!と物音。

「きゃんっ☆寝っ過っごっ、したんすっ!」
 ばたばたばたばた……と泰子部屋の中から。大河と竜児は座ったままの場所で予備動作なし
に10センチは飛び上がる!という。とうてい人間わざとは思えない芸を披露してわたわたわ
たわた。

「き、着替えてくるっ」と竜児は神速で自室に走り込む。
 逃げ遅れた大河は、仕方なくぴうぴう鳴らない口笛でテレビリモコンに手を伸ばし、窓側の
定位置に素早く移動。同時にふすまがばぁんっ!と開いて、フルアーマー泰子の登場。

「準備完了ッス!行ってくるっス☆」
「うん。やっちゃん。行ってらっしゃーい」と玄関まで見送りに立つ。
 さすがは元手乗りタイガー。クールな常態に戻る速さは未だに他の追随を許さない。桜色に
染まった顔だけは戻しきれなかったけど。

「おるすばん宜しくねー☆たいがちゃん。じゃましてごめぇん。にゃはっ☆」
 きゅんと柔らかくハグして、泰子出撃。

「あぁ〜びっくりした。聞かれたなぁあれは」
 部屋着に着替えた竜児がふすまを開けて戻ってくる。
「……そんなことより」
 ん?うわあ目が逆さ蒲鉾型に釣り上がってる。怒ってる?見れる?むしろ今では希少種とな
ってしまい、滅多に見られぬ手乗りタイガー。

「逃っげったっわね?……この私を置いて……」


「りゅーじがやっちゃんにあからさまには知られたくないって。まあ、分かるよ」
 お腹がいっぱいになったら完全に機嫌が直っていた。怒る→腹がへる→鳴る→食事の提案→
わっほいという余りにも慣れ親しんだコンボ。希少な獣に逢いたい気分もあったが、機嫌を直
せるのなら直す、というのが竜児には当然の選択であった。だって、こいつは好きで虎やって
るわけじゃないのだし。

 買い物に行ってなくて食材は乏しかったけれど、こんなときにはチャーハンだ。カブとにん
にくを切らしていたが、春キャベツの残りに玉ねぎ、ベーコンで。甘すぎるのは紅ショウガで
アクセントを付けてやる。
 居間で待っていればいいのに、大河は脇に立って調理を眺めた。

「ゴロ寝してりゃいいのに」
「ううん見学する。りゅうじが料理する手元を見たいの」

 そういや昼からメシ食ってなかったしな。と思いつつ。見学者のために手元を見せ、わざと
ゆっくり野菜を刻みベーコンを刻み。炒めて取り置き。
 合間にスープをつくる。やらせろと言うのでスープの実を刻ませたら手返しは遅いがまあま
あ形にはなっていた。大河の作業が終わるまで待って、卵を溶く。中華鍋に油を敷く。

「ここからは一気にやる。ペース落とせねえからよく見ろよ?」
「ふんふん」
 炒めた卵が半熟で冷飯に絡んで飯から出た水分がほかほかし出して、それが飛んでパラリ。
仕上げに香り付けのオイスターソースと醤油。流れるような技のご家庭厨師。うん。りゅうじ
はやっぱりかっこいいぃ。と大河が感心する。

 とまあふたりでチャーハン食い終わって、くつろいでいるのである。
「いくらもうバレバレってもね。顔合わせるのは恥ずかしいよね」
 カルネアデスの舟板ってやつよね。私を見捨てたのはオトナになって赦してあげる。
 うん。済まねえな。サンキューな。もっと盛り上がる前で良かったよな。

「話は違うけど、ちゃんと観察してみれば料理は手順の組合せなのね」
「そうだな。効率よくすれば詰め詰めでできるけど。手が離せない作業はそうは多くねえな」
 毎日の家庭の料理なら、10分で出来ることを15分かけても別にいいのよね。

「台所に立ってる間じゅう緊張してなきゃいけないと思っていたよ」
「大事なとこだけ気合い入れて、他は気楽にやればいいな。俺も始めはそうだった」
「うん。できそうな気がしてきたわ」
 りゅうじが私の料理を食べて旨いっ!って言ったらどんな気分になるかな。
 おう、それは俺も楽しみにしてる。ちょっとずつ練習しようぜ。

 ところでこんな流れにつなげて言うのもどうか……とは思うんだけど、さ。
 ん?
「おふろ……入る時間よ……ね?」
「なんか……1日おきにかわるがわる誘ってるな。じゃ、入るか」
「う、うん。お湯ためてくるっ」
 だっしゅ!

 なんだな。
 機嫌は直ったし、カーニバルな空気も回避したようだし。夫婦っていうのはこんな感じなの
かなと、平穏に慣れ過ぎて図々しくも竜児は思っている。でも湯が張られた頃には、上機嫌な
エロ虎がちゃあんと期待を外さない課題を用意してくれていた。

「んー。抑えの守護神にも、サービスエースを期待しとくわ」
「……テニスになってる」
 大河が想定したゲーム数自体には、なんら変更ないらしい。
「そうよ。Loveから始めるんだもん♪」


****


「……2年の……秋にはお前とこうなってれば」
 そうすれば……。もっと。

 誰に聞かせようということもない静かな声で、竜児が呟いた。竜児の部屋の中、ひとつ布団
にふたり包まって。胸に愛おしい者を抱え込んで、そのつむじに顎をのせて。
 楽しかったり、激しかったり、切なかったりきもちよかったりの、ふたりだけの時間を過ご
して、もう深夜になろうとしている。互いに快く疲れを感じているけど、まだ眠くなる前で、
素肌をぺったり触れ合わせている幸せな時間帯。

 大きな手で髪を梳かれる心地よさを感じながら竜児の胸に頬を付けていた大河は、それを聞
いて目を開く。驚いたようで、でもすぐに微かな笑み。

「みのりんのことは?」
「関係ねえ……」
「北村くんが好きな私を?」
「それも……関係ねえ」
 めちゃくちゃ言ってるね。
 分かってる。

 竜児が大河の顔を見たいと覗きこめば同時に大河も見たくて顔を上げる。竜児の肘をつかん
でいた両手を伸ばして、愛おしい者の耳をふさぐように頬に触れる。……でも聞いていてほし
いから当てた指の間を閉じはしない。

「だったら……秋じゃ遅いよ。夏休み……かな。旅行に行く前」
 みのりんが、りゅうじを好きになる前。
 お前の方は?

 私は……そうだね?4月にもう友だちになれるって言われて……振られ済み。りゅうじにほ
しいって言われてたら……どうかな。やっぱり、わかんない。
 そうか……無茶言ってんな。……私もめちゃくちゃ言ってるだけよ。こうしていると心から
思うの。もっと早くこうなりたかったって。
 それでもね。ひとつだけ確かなこと。

「年が明ければ、ママに引き取られるっていうのは……変わらなかったんだよ」
 もし、りゅうじにここまでの気持ちを持ってたら、私……ママのところに行けなかった。そ
したら。きっと……りゅうじは。ぜんぶ棄てても一緒にいてくれたよね。

 怖かったこと。向き合えなかったこと。今でもすこし怖い。そういう気持ちを瞳に映して見
つめる。真っすぐ見つめれば、言葉にもできる。

「そう……?ああ、そうしていたな。そうしてた」
「一か月くらいかな?逃げ切れるの。そして捕まってね」
 やっちゃんもママも二度と私たちを逢わせてはくれなかったよ。だから二十歳になったら家
を飛び出して一緒になってる。私たち。きっとね。

「同じようなこと考えるんだな。俺は……それも悪くねえって気もしてる」
「うん……私も」

 高校生活の真ん中で半年だけ結びついて。そのあと無理やりに引き離されて。耐えて、壊し
て、呼び合って、また逢う。それもまた、あり得たかも知れなかったやり方。りゅうじといっ
しょなら。
 りゅうじの思いに何も返さなくて良いと思い続けていられたなら。

「でもね。今の方が守れたものがずっと大きい。ずっと、幸せって思ってるの」
「……そうだよな。うん、そうだ」

 お前のことを大切にしてきて良かった。さっきは思いっきりな独り芝居になったけど、あの
頃にはちゃんと抑えられていたんだもんな。今はお前がいてくれる、今のお前をちゃんと見て
いたいよ。
 ふふっ♪ありがと。ちゃんとうちまでがまんできて偉いね。EIY。
 エロ犬野郎ってか。そうそう♪

 嬉しそうな表情を浮かべたまま、大河は続けた。細い指で竜児の耳を弄りだす。

「親元でね。ママに言われたのよ」
 初めて思い合った男がダメなやつとはママにも言い切れないって。あとになって、どうして
そう思ったのか訊いたの。あの頃は私がママを遠く感じていたように、ママも私のこと信用し
てなかったからね。

「うん、そういう話をすんのは初めてだな。で?」
「自分が他に男つくって家出て行った女だから、っていうのが表向き」
 本当にそう思った理由はね、私があんたと結ばれたことを正直に言ったときのね、顔が良か
ったから、だって。

「どんな顔して伝えたんだよ?」
「嬉しい顔……してたはず。もう、わかんない。いまやってみろって言われても無理」
 ただ気持ちはずっと覚えてる。親に棄てられてつらかった何年かは、りゅうじに選んでもら
えるための対価、代償?みたいなものって思ってた。

 でもさ。それはりゅうじに支払われてないものなの。あんたが私に注いでくれた気持ちに見
合ってるだけの価値を……私は全然持ってなかった。今もまだ持ってないって思ってる。私の
方が債務者。借りっぱなしだって思いがいつもある。
 だからね……。と、大河は手を竜児の肩に添えて熱を帯びた身体を寄せる。

「こうしてると……こうしてりゅうじがはぁはぁしてくれると。救われる思いがする」
「……その顔……だったんじゃねえかな?」
「いま、そんなふうな顔してた?」
 うん。初めて見るような、柔らかい感じに笑ってた。俺いま見ていて、一緒にお前の気持ち
になれたと思うよ。そんで。
 お前がそんな引け目を感じていたのも……分かったよ。

「俺さ。お前を妹のように家族のように思ってる気持ちも全然なくならないんだ」
「そうなの?帰ってきてからずっと、彼女あつかいしてくれてるのに?」

 ああ。
 それは半分はさ。大切なお前の望みをかなえたいからなんだ。もっと正確に言おうか?小さ
な事でもお前が喜んでると俺は幸せな気持ちになる。
 最初からそうだった。お前がいつも不機嫌で、泣いて、怒って、めちゃくちゃなわけを知っ
てからずっとな。
 お前が寂しかったり辛かったりしてると俺も胸をえぐられていた。まるで自分がちっこくて
ドジな生き物に分かれてそんな目に遭ってるみたいに思えていた。いつもすぐそばにいたくて
目を離せなかった。

 いつかお前がなんの心配もなくなって、ただ幸せだから笑えるんなら。笑うならさ。それを
見たくて。そばで見ていたくてよ。
 だから……。と、竜児は優しい顔になって見つめ、白い頬を両手で包む。

「お前が今みたいに笑いかけてくれると……おれはお前より幸せだよ」

 うぐっ、と。大河が背中から変な音を立てた。びっくりしたのか。よほど息を飲んだのだろ
うか。竜児の胸に顔を埋めて丸まってしまう。

「お前は俺の傍らにいてちゃんと俺に幸せをくれてる。支払いとかじゃねえんだよ」
 な、なんだ?おい……泣いてんのか?どうした?ちゃ、ちゃんとこういう関係になったのだ
って前より本当に嬉しいと思ってるぞおれ。……お前には不満かも知れねえけど、半分は本気
でハァハァしてるし。あ、半分じゃねえ8割な、8割。帰りみたいに空回りでサカったりもするし
よ。ぜんぶ、本気で彼女だと思うようにちゃんとすっからよ。
 ……時間を……くれよ。

「ち、違ゃぁうよ。不満にゃんかにゃひ。あんたの気持ひの両方ほも、嬉ひいにょよ」
 噛んでる噛んでる。私。盛大に。大事なとこで。ちょぉぃ待っれ、ハナひゃむから。


 ぐずっ。はあ。ほんとにあんたって私を泣かすの得意なんだから。
 でも家族のように思う気持ちも、恋したと思う気持ちも、なんかもうわたしにも区別がつか
なくなっちゃったのよね。
 大河は戻ってきて、布団に滑り込み、今度は竜児と同じ枕に頭を乗せ、同じ目線になる。
「あんたの今の心配は的外れ。分かってね?」
「お、おう。そうなのか?」

 私たちさ。ずっといっしょにいたいのよね。おう、そうだよ。
 だから家族みたいな気持ちになるのよね。おう。そうか?そうだ。
 でも、私は逢坂さんちの娘で、竜児は高須さんちの息子で、他人。家族じゃない。あんたは
わたしの兄さんでも弟でもない。パパでもママでもない。なのに家族みたいにずっといっしょ
にいたいの。あんたと逢ってから、ずっと、そう思い続けてるの。どうしたらこの望みはかな
うのでしょう?

「だからね?わたし……あんたに恋したのよ」
「俺も……そうだよ。タイミングは違ったけどな」
 うん。まあそれで死にそうに切なかったとかあるけど、そんなのもういい。間に合っていっ
しょに橋を渡れたから。同じ熱病に罹れたから。
「いま聞いてほしいのはね?わたし、すっかり目的と手段を取り違えていたってこと」

 ずっといっしょにいたいんだから。
 りゅうじからパパのように大事にされたい。まだ無理だけどいずれ弟やこどものように世話
を焼いてあげたい。悩んでいたら親友のように同じ気持ちになって支えてもあげたい。
 それで喜んでくれたら、救われてくれたら、わたし弾けてしまいそうになる。この気持ちを
知るために生まれてきたって思える。そうなれるわたしが好き。わたしをここまで連れてきて
くれたりゅうじがめちゃめちゃ大好き。
 ――そして、りゅうじも同じように思ってくれてる!

「ね……。そういうさ。りゅうじが持ってる気持ちをなんて言うか、知ってるよ」
「おう……何て?」

 一息に語られた思いを聞いた。曙光を浴びて開きゆく花のようだと感じ、見開かれた綺麗な
瞳の端にたまりゆく雫を見た。長い夜の間に大事にたくわえた露のようだった。竜児はその清
冽な水がこの身も、心も潤してくれると知っている。

「同じ気持ちをわたしもりゅうじに持ってるから。それをいま言うよ?」

 大河は小さな両の掌をもう一度伸ばして竜児の頬を捉え、まるでキスでもするみたいに顔を
寄せた。数センチの近さから竜児の目を真っすぐに見つめている。
 竜児も脇から腕を差し入れて大河の身体をもう一度引き寄せる。大河のなにひとつとして見
逃したくなくて、開きゆく花のようと感じた笑顔を見つめる。まなじりにあふれる水が今にも
零れそうになっている。
 やがて大河の唇が開き、生まれて初めて口にする言葉が紡がれる。

「りゅうじを愛してる……わたしのぜんぶで」

 雫がぽろっとこぼれ落ちた。竜児はそうするのが当然のように口を寄せて余さず吸いとり、
ためらうことなく飲みほす。
 水が身体を流れていくまでの間に、力の限りを込めて大河を抱きしめた。くふぅと肺から空
気が絞り出される音が聞こえ、きっと息が出来なくて苦しいだろうと思ってはいても、その動
きを止められない。絞められた女は必死に堪えてはいたが暴れ出し、意識を飛ばしそうになる
直前にようやく緩められる。

 大河が息を継いでいる間、竜児は頬を合わせて無言だった。落ち着くと頬を離し、やっぱり
数センチの近さで潤んでいる瞳を覗きこむ。応えなきゃ。しっかり受け取ったんだからのぼせ
あがる気分なんか脇に置いて応えなきゃ。ただそれだけを思う。
 ひとつだけ大河と違ったのは、顔が真っ赤に染まっていることだった。

 その驚いたような表情を見て、あれ?とっくに知っていたんじゃないの?と大河は思い、そ
うして、一年前の告白から今日までに重ねた思いの分を、帰ってきてから何日も経ったいまに
なって初めて伝えたという驚愕の事実に思い至った。
 パ、パコパコカ〜ニバル♪まで済ました後でー?と。

 いろいろ順序がおかしい、とは何度も思っていた。もしかしたらこれは自分だけでなく竜児
も相当に同じくらい、へたしたら自分より、ドジ、なんじゃないだろうか?
 それはともかく、これは二度目の告白ってこと。私が先に言った。さあ!私を愛してるあん
たは何て応える?
 言いなさいよ、と。鳶色の大きな瞳で促す。
 顔から赤味は消えていないが驚きは消えて、凶眼をギラつかせて口元が釣り上がった、至福
の表情(「そうなのよ」逢坂大河:談)の竜児をあらためてじっと見つめてみた。

 竜児の口が開いて、同じように生まれて初めての言葉が紡ぎ出された。
「たいぎゃ……ああいしてりゅ」……噛んだよ。ノーカウント。お、おうすまねえ。えへん、
と咳払いひとつ、仕切り直す。
 ついに大河の清冽な水が、劇薬が、猛毒が。竜児の身体をめぐり始めた。

「たいが、お前を、おれのすべてで。本気で……あ、あ、愛してる」

 愛してる。愛してるから家族のようでも兄妹や姉弟のようでも友だちでも構わない。もちろ
ん彼氏彼女でも。夫婦でも。親子でも良かった。
 りゅうじを愛している。愛されている。
 たいがを愛している。愛されている。
 言葉にしてしまえば、こんなにも自然に自分たちの絆を言い表している。別々の身体で生ま
れたのに、満たして、笑いあいたい。満たしていくためにともに生きていきたい。

 背伸びをして肩肘を張って、恋人同士と意識する必要はもうなかった。出逢った日からふた
りの間に生まれ、育ってきたのは、ただ互いを愛おしい思いひとつ。いま恋しければ好きなだ
けするがいい。
 恋が冷めることはあっても、この絆はなくならないから大丈夫。


「私ね。そう言えば考えられる限りの最短期間で帰って来たんだよ」
「ああ!よくやったよな、お前は」
 ちゃんとおふくろさんと仲直りして、受験して、上京独り暮らしまで認めてもらって帰って
くるなんてさ。すげえよ。
 くしゃくしゃと頭を撫でてやると、大河は嬉しそうに照れ笑いをする。

 4月になったら別々に進学だね。その前に引っ越し日のあとは寝るのも別々……。毎日こう
してられるのもあと何日かしか残ってない。でも慣れないと。でも慣れるのかな?

「そろそろこうしている方が当たり前に思えてきちゃって……ね。ちょっと寂しい」
「慣れるしかないんだからさ。慣れろ。俺も慣れるからさ」
「そうだよね。……そう」
 とーこーろーでー?
 にぎっ!おうっ?

「まだやる気あるの?」
「け、喧嘩売られてるみたいだな。まあ……お前がその気なら、その、なんだ」
「さすがはりゅうじ。約束を違えない男だね☆」
「約束?……なんかしたっけか?……6ゲームなんて無理だぞ。あれはお前が勝手に」
「ちがうよ『傍らに立つ』っていう」
 下・品!とつむじに手刀を叩きこむ。

「うぅ〜。まありゅうじの体調もあるだろうし。今日はもうやめとく。手刀痛いし」
「そうか、そんなら……寝よ『でも!』

「どうしても!どう〜しても襲いたくなるって言うならしょうがない。……拒否しない」
「……」

「期限は眠くなっちゃうまでね。ちゅっちゅ」
「……」

「黙りこんじゃったよ……。眠いんだ?じゃあ眠るがいい。わたし落ちるまで見てる」
「……お前なあ、そーゆう」

 ふわぁ〜あふっ、と。わざとらしく欠伸をかまして笑みを浮かべる。竜児が大好きな、幸せ
に満たされた笑顔。この顔を見たくて俺は……。
 わがまま大河の可愛らしい唇が開いて、声を立てずに「あ・い・し・て・る」と。
 ややあって、竜児はもぞもぞっ、と。
 もー。しょーがないねえりゅーじはぁ♪などと弾んだ声で囁かれて。騙されてる気がする!
うまいこと操縦されてる!とどこかで思いながらも。

 でもまあ、愛しているなら仕方ない。そんな事はずっと前から分かっている。


****

 逢坂大河が、手荷物だけで大橋に帰って来てからの一週間は夢のように過ぎた。

 手をつないで、寄り添って出かけ。買い物をし、食事を作り、作り方を教わり、笑いあって
食べた。
 独り暮らし用の家電を選ぶのを手伝ってもらった。
 お互いの進学先をチェックしに行こうという口実で都心にもデートに行った。大河も竜児に
お返しのプレゼントを贈った。ほとんどこだわりのない彼氏のために通学用の靴を選んであげ
た。都心まで出たのだからと有名な厨房器具専門店街にも足を延ばしてみた。このふたりにと
ってデートというのはカレー用の重い寸胴鍋をいっしょに提げて歩くものらしい。

 あのメタリックブルーの、お菓子のようなパッケージはいつしか空になって。新たに二箱目
を買ってきた。どちらのうちに置くかでちょっと悩んでいる。
 対戦成績はどうやら勝ち越し気配と思うのだが……大河が記録を見せないので、竜児には本
当のところは分からない。
 ほら、こういうのは主観でしょ。
 と言われてみれば気を使って演技をしているのかもしれない。……などと。竜児は多少びく
ついて、あるあるなコンプレックスを刺激されてもいる。

 そんなこんなで七日間が過ぎ、今日は大河の引っ越し荷物が到着する。

「セッティングまで業者さんがやってくれるから手伝いは要らないのに」
「なにか男手がいるかも知れないだろ」

 それに掃除もなー♪と道具もひと揃い持参で変態的な笑みも凛々しく竜児は大河についてき
た。……まあ、実際に出番はなかった。入居者と作業者の計3人が入れ替わり立ち替わり出入
りして狭いワンルームは一杯。うろうろしてると邪魔だから出てろと言われて、玄関先の通路
に追い出された。
 所在無げに突っ立ってるのも退屈なので、玄関まわりをぴっかぴかにする。
 その頃。


「おっはよ〜☆インコちゃぁ〜ん」
「インコチャン。オハヨー」
「昨日はどんなカンジだったぁ?」
「ン。ラヴラヴ」
「そ〜お?良かったぁ〜☆ あ、りゅーちゃんやっちゃんのご飯作ってくれてなぁい☆」
 まあ、たいがちゃんの引っ越しお手伝いだもんねえ〜。しょーがないかぁ。

 日が高くなってから起き出してきた泰子は、今日も鳥類と意思疎通をしたあと遅い朝食をつ
くって済ませて、あとはヒマ。次の労働まで英気を養うくつろぎタイム。

 昼間の退屈なテレビを見ながら同伴出勤のお誘いメールをぽちぽち打つのもお仕事のうち。
お料理番組を見て美味しそうだと思えばサラサラっとメモをとる。卓袱台に置いておけば目に
とめた竜児がたいてい作ってくれた。馴染んだ習慣でオフを心安らかに過ごしている。
 でも今日はメモをとる手が止まる。

 そっかー。そうだよねえ。
 たいがちゃんの部屋と、うちと。これからは……ねえ。

 自分のうち。竜児とふたりのうち。そして、これからはまた自分のうちに戻るのだ。
 自分が保護者で、ここで三人家族でというのはやっぱり無理。嬉しい夢をみたけど、それは
やっぱり夢。じぶんだけの夢。
 ふたり暮らしの息子には好きな女の子ができたから、彼は独り暮らしのその子の部屋と行っ
たり来たりする。普通にそれだけで、普通にそういうもの。
 ふう、とため息をついて、泰子は今まで夢を見られたことに感謝する。

「インコちゃーん、どう思うー☆」
「ア、ア、アイシテリュ」

 自分か竜児の声真似しかできないインコちゃんの鳥かごをみて、泰子はふうんと思った。
 見てれば分かることだから、わざわざ言わないと思っていた。そんなことを言ってしまった
あとで気が変わったら大変、そんなのはたくさん見てきたから。思っても言わずに黙ってるの
が、言われなくても感じとって振る舞うのがオ・ト・ナ♪
 でも……言いたくなったのかぁ。竜ちゃんは。

 否応なく思ってしまう。愛してる。って、自分は言われたことがない。誰かに言ったことも、
ない。思っているだけでなく感じとるだけでなく、言ったら、言われたら。どんな気持ちにな
るのだろう?何が始まるだろう?
 知りたくなってくる。
 泰子が言える相手はただひとり竜児だけ。お母さんがこどもを愛してるのは当たり前だから
言う必要もなかった。
 やっちゃん奇跡のスーパーお母さんだもん。鳥かごに向かって、にまっと相好を崩して、大
輪のひまわりのように笑いかける。

 今からでも言おーっと☆
 りゅーちゃんがたいがちゃんをもらって、ここを出て行くまで。きっとまだ何年かあるもん
ね。何度も。たいがちゃんにも言ってみよ。

 あ・い・し・て・りゅ。にゃはあー♪
 ぽち・ぽち・ぽちと。メール打ちを続ける。
 エイギョーメール!とインコちゃんの声が聞こえて慌てて消した。


 大河の部屋では引っ越し業者が作業を終えて帰り、やっと竜児が上がりこんでいた。

「お待たせ〜。じゃあ、りゅうじ。お掃除してくれる?私、お昼を買ってくるから」
「おう。この広さなら……15分もあれば」
 じゃ頼むわー。おおっなんじゃこりゃあ!玄関がぴっかぴかだあ!靴をつっかけて買い物に
出る大河を見送って、やっと竜児の腕まくり。

「どうよ?」
「ホントに15分で塵ひとつないなんて……りゅうじすごい!かっこいいっ!」

 コンビニで買ってきた引っ越しソバをふたりでずぞぞぞ、とすすりながら暮らせるようにな
った部屋を眺める。ベッドが入って、ライティングデスクが入って。姿見と大きめのハンガー
ラックでほぼ一杯だ。
 でもこだわりで、3畳大のラグに小さなローテーブルを置いた床生活を送るらしい。ふたり
で寄り添ったらちょうどぴったりなスペースで、居心地もわるくない。

「服とかあんまり持ってこなかったのか?」
「ううん。これでほとんど全部だよ」
 地元で整理して、大半はオクで売っちゃった。どうせあんな大量に運んで来ても吊るす場所
はないもの。わりと引っ越しの足しになったんだよ。落札者がいい齢のおばさん多くて、こん
なフリフリ着るの?って思ってたんだけど。……実はこども用に買ってくれてたんだよね。

「それはそれは複雑な気分だったわ」
「うーん。コメントしづらいが。新しく似合うものを選べると思えば……」
「ん?別にそこは気にしてないよ。買えるから買ってただけだしね」
 ……もう、買い物で寂しいのを紛らす必要なんかないし。これからは竜児の好みを聞いて揃
える楽しみもあるんだから。
「ほら、プレゼントしてもらったブレザーも」
 見るとしっかりカバーをかけてハンガーラックに下げてある。
 
 はいコーヒー。インスタントだけど。おう、もらう。
 当分の間はさ、朝夕のご飯は竜児のところでお世話になるよ?ここのIHひと口でも作れそ
うなレパートリーを覚えるまでね。

「そうだなー。ここのキッチン狭いから煮込み料理かな」
 カレーやシチュー、ポトフ。トン汁。具たくさんで一品でおいしく栄養取れるやつな。
「でもよ、ずっとうちでメシ食っていいんだぞ?」
 弁当だって作ってやる。必要になったら言えよ。
 うん、半分にはなるけど、やっちゃんとあんたと三人家族でいるのはやめたくないよ。それ
はそれとしてもさ。

「そのうちに……その。ここで……さ?」
 大河はもじもじ身体をよじって絞り出すように語る。りゅうじぃ今日うちでご飯食べてく?
ってのもさ。やりたいわけよ。これは、あんたのうちでお手伝いでつくるのとはまた別なわけ
よ。結局はなにが出てくるのかバレてても、気分てものがあるじゃない?

「おう。そ、そうか。……想像したらなんか緊張してきたな。俺、お招ばれ体験ないからさ」
「ポトフなんかいいかもね。ワインとバケット添えてさ。キャンドル置いて」
 あ、サラダとかチキンとか一部はお店で買ってきたものを合わせてもいいよね。
 ……なにその顔。もしかして……て、手作り料理をお腹いっぱい食べたら続いて私を食べて
やるぜゲッヘッヘとか油断ならないもも妄想を?それはお前の妄想だろうが。え?興味ない?
い、いや……あるといえばある……けどよ。

「よし。クリスマスは高須家と逢坂家のダブルヘッダーでやろう、りゅうじ」
「気が早いな。じゃあ鶏ドーンはこっちでな」

 まあともかく、この小さな部屋が今は私の身の丈にあってるってことよね。そのうちバイト
始めて、少しずつ好きなものを揃えて。
 そしていずれはりゅうじと、新しいうちへ引っ越す。
 想像すると自然と笑みが湧いてくる。風通しで開け放した窓から、微風と光が入ってくるの
を、大河は楽しそうに眺めている。その様子を竜児が眺めている。
「今日も暖かいね」
「そうだな。ここんとこずっと暖かいし桜咲きそうかな」

 しばらくぼーっとしていると、デザートにアイスが食べたくなったけど買い忘れた。と大河
が言い出して連れだって出かけた。散歩に行く口実なのが分かりきってはいても竜児は突っ込
まない。いろいろ忘れて、そのつどいっしょに歩けばいい。
 コンビニでアイスを買って、帰ろうとすると途中で食べて行こうと大河が誘う。高須家の近
く、旧大河マンションの向かいにある児童公園で。


 ベンチに並んで腰かけた。
 そういえば、ずいぶん前にここでアイス食べたな、と大河に振ってみる。

「真夏だったよね」
「おう。すごく日射しが強くて、昼前でな」

 覚えてる。あれが、私からあんたを誘った初めてのデート……だったのかも。そのときと同
じようにぱかんと蓋を外すと、まだ暑い時期ではないだけに中身はほとんど溶けていなかった。
まわりにも水滴があまり付いてなく飛沫も弾けない。

「俺は、傍らにお前がいるからこういうのいいなって思ったよ」
「そう?ふふっ♪」
 家族みたいなもんなんだから、どんなに好きになっていっても恋じゃない……か。

 陽気に誘われてか、昼下がりの公園は近所の母子連れでそこそこ賑やかだった。陽だまりで
母親と遊ぶ子供を楽しそうに眺めては、大河は固めのアイスをつついている。

「ねえりゅうじ。私、こどもほしい。りゅうじの」
「え?今……か?」
「うん。いますぐほしい……と思ってる。っていう話」
「ああ、そうか。そういうもん?なんだよな女は」

 うん。と頷いて大河は続ける。
 りゅうじといっぱいして。きもちよくなりたくてさ。そのたびにほしいなって思うの。
 あ……りゅうじが、じゃなくてこどもの話だよ?い、いやりゅうじもほしいけどさ。とりあ
えずこれはそうじゃない話ね。

「来月、来ないといいなあ。なんてね。思うのよ」
「お、おい?」
 分かってるよ?分かってる。ぜんぶ守り続けてちゃんと家族になるためには、いまは無理。

「俺はさ。……いつか欲しいと思ってるけど。先にお前ともっと……って思う」
 男だからさ。ずるいけど。そう思っちまうな。

「あー。そうか。そうなんだよね。気持ち移っちゃうもんね女親って。どうしてもさ」
 そこ考えないで無神経に言ったのは悪かったよ。忘れて?
 なにも今こども産まなきゃ絶対いやなんてことは思ってない。できるだけ早くっていうんで
もない。そこは私も自然に普通にでいい。
 ただ……。

「私がそういう気持ちになっちゃうって……どっかで覚えていてほしいな」
「おう、覚えとくさ。……早くお母さんになりたいって感じなのか?」
「うーん、そうかも。そうじゃないかも。まだもやもやっとしていて、わかんない」

 アイスを食べ終わって、カップをコンビニ袋に片づける。辺りを見回せば、公園の桜が弾け
たポップコーンのようにいっそう開きかけている。五分咲き、といったところか。
 あれは春を迎えた人の嬉しさが花の姿を借りている、と大河は思う。

「そうね、どう言ったら……ママがね?去年弟を産んだのね」
「ああ、聞いたな。可愛いんだってな」

 ぽふっと竜児に寄り掛かって、大河は夢見ごこちの顔で続ける。いまはもう可愛いばかりな
んだけどね。産まれた直後は、私には全然そう思えなかったの。でもママもお義父さんも、そ
れは見たこともないようなえびす顔しちゃってさ。驚いちゃった。ママのグズグズデレデレな
顔なんて見た覚えが一度もなかったから。

「好きな人との間にこどもをつくればあんなに嬉しいのか……って。そのとき寂しかった」
 でもね、あとで聞けたんだよ。
 私を産んだ時も同じ顔したよって。そうなんだ、私もあんな顔で眺めてもらえたんだって。

 大河は、酔ったように少し上気した顔を向けて竜児の手をとる。白く細い指で少し家事荒れ
の大きな手を何度もいじる。そう聞いたらさ……。私はどんな顔をするんだろ?りゅうじは?
ってね?すごく見たいと思ったのよ。
 そうかあ。……今のお前のような顔になんのかな。でも実際だったらもっと幸せな顔なんだ
ろうな。どんだけヘラヘラするんだろうな?

「それなら俺も見たいなあ。いますぐにでもさ」
 へえ?とニヤつく大河に慌てて訂正。あ、あくまでも男のエロ心はそれとして、別の話とし
て……な?
 いいのよ別に。じゃあそれ満たしてやるか。とこれも大河は口実にするよう。

「りゅうじ。……ん?」
「な。こんな近所でか?子供だって見てるのに。……通報されるかもしんねえし」
「……あんたの誹謗中傷は不問に付すわ」
 ま、恥ずかしいよね。やっちゃんにも恥ずかしいくらいだもんね。

 私ね。一週間もいっしょにいて。ご飯もお出かけも寝るのもいっしょでいたら。りゅうじに
対してはあんまりテンパらなくなってきたの。こんなに近くでいっしょにいられるのは滅多に
ないことだもの。恥ずかしがって時間を無駄にするより、りゅうじとしたいことをたくさん出
来た方がいいものね。
 こんな自分がいたのか、とも思うけど。なんだか嫌いじゃないの。

「なんて言うか……そうね?りゅうじにイカされるたび変わっていくわたし」
 下・品!お約束の手刀をつむじに振りおろそうとしたが、竜児の手はしっかりと膝の上で握
られ済み。手乗りタイガーの腕力は健在で、ぴくりとも動かせない。

「ふっふっふ。まあ、オトナになるってのはこういうことよね?」
 瞳をキッと怒ったかたちにしながらも頬は緩んで得意げな笑みを浮かべている。

 そしてあらためて。んーーと顎を突き出して目を閉じる。
 柔らかい日射しを浴び淡く光る髪が微風に遊ばれていて、その隙間から薄桃色の耳が見え隠
れし、頬はいま咲いていく桜の色に染まっている。小さく整った鼻のかたちも、長く密に揃っ
た睫毛も綺麗で、朝に昼に夜に、うちで外で見ても、大河は愛すべき美しい少女だった。
 ただし綻びかけた蕾のように可愛いらしい唇の端に、さっきまで食ってたアイスクリーム。

「ほーお。オトナねえ?」
 それに前々から気づいていた竜児はティッシュを取りだして、こどもの世話をするような手
つきで拭ってやる。ゆっくりと、丁寧に。やがて可笑しくなってきて、くっくく、と笑いだし
てしまう。

「あ!なに?だだ台無し?なんだ私っ!こんなにキメたとこなのにさっ」
「別によ。恥ずかしいことを言えるようになったからって大人になるわけじゃねえだろ?」

 ドジ!ああなんてドジ!と嘆く大河の肩を、竜児は笑いながら抱いてやる。
 大河はさ。ずいぶん変わったよ。出逢ったころに比べたらすげえ大人だよ。けどよ、別人に
なったわけじゃねえんだよな。風に遊ばれて解れかける髪を掬ってまとめて押さえてやる。

「前のまま、甘ったれでドジなお前だって、ここにちゃんといただろ?」
 俺もかなり変わったと思うよ。でもさ、俺はそういう大河もさ、ずっと変わらずに好きでい
るよ。……愛してるよ。

 しゅしゅしゅ〜んと空気が抜けていくふうに、それを聞いた大河は小さな身体を一段とちぢ
こませた。桜の艶が完熟トマトの色に染めあげられていって、こくんと頷く。

「そ、そう……よね……」
 小学生のように、ちんまりとなってしまって。う、嬉しいわ……と。

 そして竜児は、そんな大河に、突然にキスをしたくなってしまった。もっとなんかイイコト
言って照れさせてやろうか、ぐらいの余裕でいたのに。
 自分の顔が熱くなっていくのが分かる。なぜだ?なんの前触れもなしにか?しかも、こんな
にこどもっぽくなった時を選んでか?
 俺、大丈夫か?

 その様子を感じ取って、大河が顔をあげた。鳶色の大きな瞳に少しばかり不安の光を湛えて
見つめている。りゅうじ?と。
 どうも、なんて言うか。それがトドメになったような。ここは公園で。子供も見ていて。ど
うする?ええい!来いよアグネス!!
 負けた竜児が、桜の下で奪った唇はアイスクリームの味がした。


 結局は、大河も。竜児も。まだまだ大人の真似ごとをして浮かれていただけと知る。熱に浮
かされながら、一瞬でも離れたくないと思う幸福に包まれていた七日間が終わる。

 望んだすべてを諦めないで手に入れて、守り切る。
 それは決意の果てになお人生をまるごと賭けて挑まねばならない大勝負だ。自分たちはその
スタートを切ったばかり、と。同じ思いにまた至る。
 傍らにつないだ手に力を込めてみれば、同じ強さで握り返してくる。この絆が続く限りは、
何だってできるだろう。どこへでもいけるだろう。いけるだろうか。
 いまは行こう。
 長く続く旅の疲れを癒してまた歩き出すために借りた、大河の最初の部屋まで。わずかな道
のりを歩きながら。竜児も、大河も、同じ思い。

「神、枝に這い、かたつむり空に知ろしめす。すべて世は事も無し。……ね?」
 いい陽気だねと言ったあと、大河は暗唱を始めた。

「赤毛のアン、と言ってしまいそうだが、上田敏訳のブラウニングだ。海潮音」
「さすがはりゅうじ。理系の分際でよく知ってること」

「ちなみに神と蝸牛が逆じゃねえか。枝に這わせてどうするつもりだ」
「はははっ、バレた〜?」


 ワンルームマンションに帰りついた。

 荷物の整理、特に服を片付けるか?とうきうき提案する竜児に、先にやる事があると伝えた。
私は買っておいた白いプレートとマジックを出してきて。キュキュッキュ、と丸っこい字で書
き始める。そう、表札を出さなきゃね。いつやってもいいんだけど、まあイベントだし。

 逢坂竜児
   大河

 胡座をかいて座っていた竜児が驚いたようにそっくり返ってる。そんなに驚く事じゃないよ
うに思うけど。まあこいつにもドジなところはあるんだし、いちいち気にしてられない。

「連名なのかよ。てかこれじゃ俺、なんか入り婿みてえだな……まあ、防犯としてはいいのか」
「そうね。管理会社になんか言われたらそう言っとく。気分もあるし、練習だし」
 男のふたり暮らしって疑われねえかな?それはなおさら防犯上は有利よね?そうか?まあお
前がいいんなら俺はいいよ。

 ほうら、やっぱりね。
 私だって日々新たにあんたを驚かすようになって行くんだから。あんたの後ろをくっついて
行くばかりじゃないんだから。傍らに立ってみたり先に行ってみたりするんだから。
 ……とりあえず今日は答えを教えてやるわ。

「名字を高須に書き換える日が楽しみ。でしょ?願掛けみたいだよね」
「お?……おう!それはいいな!そうかあ」

 書き終わって、ふたり立って。玄関先につっかけで出た。

 扉の上辺近くの高さに付いたネームホルダーは、きれいに掃除を済ませてくれていた。
竜児はふつうに。私はちょっと背伸びをして。プレートに手を重ねて添えて、せーのでいっし
ょに差し込んだ。
 ずっといっしょにいてね。ずっと見ていてね。私は思いを込めて見上げる。
 竜児は微笑んで。私の前髪をはね上げて、軽く口づけて応えてくれる。

 胸の奥がくすぐったくなってしまって、小鳩のように笑い出した大河を竜児は優しく見る。
この世界でただひとりだけがそれを見ることができる。

 そうしてふたりは扉を開けて。笑いあって部屋に入っていった。




――END





※作中にて、以下の一部を引用させていただきました
新井素子『あなたにここにいて欲しい』
宮沢賢治『永訣の朝』
ロバート・ブラウニング『春の朝』上田敏 訳



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