小さい頃、クリスマスの晩にうっすらと目を開くと、そこには不思議なサンタさんがいた。
もちろん、ただの夢かもしれないし、見間違いかもしれない。
だってそのサンタさんは、赤い服じゃなくて紫のウェアを着て、黄色いニット帽をかぶってて、ゴーグルを付けてたんだから。
その人に「サンタさん?」って尋ねたら、「……おぅ」って言ってくれた。
おかしなサンタさんだったけど、それでも私を見てくれている人がいるんだって思ったら、嬉しくなった。
その時に何か貰った気がするけど、それが何かは覚えていない。
大事にしてた筈なのに、なくしちゃった。
でも、覚えてる事が一つ。
サンタさんが帰り際に私の頭をぽんと撫でて、
「大河が良い子にしてたらまた会えるよ」
そう言ったのを聞いた。
そんなことがあってから、私はクリスマス限定で良い子になるよう勤めた。
馬鹿らしい、子供っぽい、散々そんな風に言われても、私はクリスマスだけは良い子でいた。
約束だから。
また会えるっていう、約束だから。
だから私は竜児を送り出した。
私はエンジェル大河。
竜児のためのキューピット。
これもクリスマスの良い子の一環。
竜児がこれで幸せになれるんだ。
私は良い子になったんだ。
竜児が喜ぶんだ。
これでいつかサンタさんが会いにきてくれんるんだ。
竜児が報われるんだ。
私は間違ってないんだ。
きっと竜児が私に感謝するんだ。
これで良いよね、サンタさん?
これで竜児の役にたてたよね?
そう思いながら、何度も何度も竜児が……とそう言いながらさっき落としたマフラーを拾おうとして、濡れる。
ポタリと、液体がこぼれ落ちる。




「あれ……?どうし、て……」
瞳から流れ出る液体。
人はそれを……涙と呼ぶ。
とどまるということを知らないその本流は、次から次へと流れ出る。
「ああ……そうか……」
一人、納得したように涙に触れる。
「私……竜児に縋ってたんだ……」
思い出される日常の光景。
「でも、もう終わりになった……」
隣に立って、大河、と呼んでくれたあの日。
「みのりんはきっと竜児に惹かれてる」
鋭い三白眼を隠そうともせず、私の元に全力で走って来てくたあの日。
「竜児も、みのりんのことが本当に好きだ」
竜児と二人、誰もいない広い部屋でくっつきながらカレーを食べたあの日。
「つまり」
私はもう、
「二人は両想いってコト」
竜児の隣にはいられない。
竜児の横を歩いちゃいけない。
竜児の傍にいるのは、私じゃ、ない。
「それが……嫌……なんだ」
涙が、一層強く溢れかえる。
ポタポタと流れ落ちる涙は、想い人がいつも綺麗にしてくれているフローリングに跳ね返る。
「っ!!」
勢い良く駆け出す。
ドアを無理矢理に開け放ち、上着も羽織らず、クリスマスの夜空の下に、裸足のままでマンションから飛び出る。
右を見る。誰もいない。
左を見る。誰もいない。
「っ!!……りゅうじ……」
溢れる涙が、もうどうにも出来ない。
顔面を両手で覆い、近所の事など考える余裕も無い。
「りゅうじぃーーーーっ!!!」
泣き叫ぶ。
恐らくは人生で初めて。
父親にマンションに放り込まれた時も、学校のほとんどの人間に恐がられても泣かなかったこの小さな高校生は、たった一人の少年がいないために泣き叫ぶ。
「りゅうじ……りゅ……??」
ふと、人の気配を感じる。
慌てて涙を拭う。
「みの、りん……?」
辺りを見回しても誰もいないが、その気配は確かに実乃梨のもの。
自分の親友にして、これから自分の想い人と結ばれるであろう人間の気配だと、鋭敏な自分の感覚が告げる。
そう感じた時、自分の肩にぱふっと暖かいものがかけられた。




どうしてここにいるの?
そう思う。
みのりんは今頃パーティ会場にいるはずで。
竜児と上手く結ばれるはずで。
でも、お礼を言わなきゃ。
この暖かい、緑のコー……緑?
「全く、何て格好で外にいるんだ、お前は」
どうして、ここにいるの?
先程とは同じで違った驚愕。
「な、んで……アンタここに……」
目の前にいるのは、
「全く、お前風邪引きたいのか?あーあーあー!!裸足じゃねぇか」
目の前にいるのは、
「しかもその格好、外に出るならせめて上着くらい着ろ!!」
目の前にいるのは……!!
「りゅうじ」
「おう、何だ?」
「何だ、じゃなくて……何で」
どうしてここにいるの?
同じ問いが頭を駆け巡る。
「ああ、服装か?流石に動きにくいから着替えた」
「そうじゃなくて」
「ああ、手に持ってるこれか?腹減ってると思って作っておいたの持ってきた」
「……そうじゃなくて」
「ああ、安心しろ。会場にいる奴に電話して、もし櫛枝が来たら俺は帰ったって……」
「そうじゃなくて!!アンタはみのりんのとこに行ったんじゃなかったの!?」
そう、竜児はここにいちゃいけない。
「……俺は家に着替えと携帯取りに行っただけだ。あ、あとコレか」
「何で!?アンタ、みのりんが待ってんだよ?」
なんのために私が……。
「お前はもう行かないのかよ」
「はぁ?」
この期に及んで何を言い出すのか。
「俺は、お前が行かないのなら行かない」
「ちょっ!?アンタ何言って……」
「お前が一緒にいないなら、彼女なんて作らない」
「っ!!」
どうしてコイツはこう「きゃっ!?」……何でも急なのか。
考える間もなく、抱き上げられる。
「ちょ、ちょっと……」
「お前その足じゃ歩けねぇだろ」
竜児は確かな足取りで、大河を抱き上げたままマンションの中へと入っていく。
同時に、そこからゆっくりと離れる満足げな足音には二人とも気付かずに。



***

「ほら大河、足だせ。濡れタオル持ってきたぞ」
竜児は常時と変わらない態度で語りかけてくる。
「………………」
「黙ってないで足出せって」
仕方なく椅子に座り、足を竜児に向けながら、
「……アンタ、パーティ間に合わなくなるわよ」
言う事だけは言っておく。
「だから、お前が行かないなら行かねぇって」
竜児は、優しく綺麗に足をタオルで拭きながら応える。
「……なんでよ。意味わかんない」
本当に意味がわからない。
聖なる夜、クリスマスイヴの晩に結ばれなくていつ結ばれるのか。
一体自分がどんな気持ちで送り出したと思ってるのか。
「……お前は北村と付き合いだしたら俺とは一切話さなくなるのか?」
「……何の話?」
首を傾げる。
竜児の言いたい事がわからない。
「お前は北村と付き合い出したら俺のことなどどうでもいいと考えてるのか?」
「いや、どうでもいいって……何でそんな話になるわけ?」
「お前が俺に言ってんのはそういうことだ。俺は櫛枝と上手くいくために何処かおかしいお前をほっとくなんて出来ない」
「……でもイヴだよ?」
「イヴでもだ。逆に言えば、お前はもうそれだけ他人じゃねぇってこった。泰子も言ってんだろ?ウチは三人家族だって」
竜児はタオルを一度パンッと伸ばすと、洗濯機へと放り込む。
「……おかしいよ、そんなの。アンタ絶対おかしい。絶対後悔する」
「良いよ別に。後悔なんてもう、何度したかわからねぇくらいしてる。ほっとけないからほっとかない。それで良いんだ」
良くない、即座にそう言い返したかった。
アンタは今すぐにでもみのりんに会いに行くの、そう言いたくとももう言えない。
さっきので、全部勇気使っちゃった。
また、縋っちゃいそうだ、竜児の優しさに。
それは、私だけに向けられる私の欲しいものじゃないのに。
「知らないわよ、私。これ以上のお膳立てなんてそうそう出来ないから」
だから、言えるのはこれが限界。
「おう。まぁ一つだけ解決策が無い事も無いんだがな」
「解決策?この状況でどんなものがあるってのよ」
そんなものがあるなら、こっちが聞きたいと思う。
「そうだな……例えば俺がお前を好きになる、とか」
は……?今竜児は何と言った?
「あと、お前が俺を好きになる、とか。そしたらこの場もそれなりにいい雰囲気になる、なんつってな」
冗談だよ、とばかりに竜児は笑う。
テーブルの上に、先程持ってきた料理をのせていく。
『俺がお前を好きなる、とか』
冗談?冗談でもそんなこと言わないで。
「おい大河、お前大丈夫か?顔色悪くないか?やっぱ風邪でも……」
竜児の顔が近い。
『お前が俺を好きなる、とか』
コツン、と竜児のおでこが私のおでこに触れる。
もう、我慢できない。
「アンタが、悪いんだからね……」
「は?何言って……んっ!?ちょっ!?たい……んんっんん〜っ!!????」
思い切り竜児の唇に吸い付く。
「んっんんっんんんんっ!!??」
首も抱いてやる。どれだけ苦しかろうと離してなんかやるものか。
「あっんっ、んんっ!!?」
もうしばらくはこうさせてもらうからね、竜児。




***

「ぷはっ」
それからたっぷり五分。
無限とも思える300秒を終え、竜児はようやく口から息をすることを許される。
「おまっ、いきなり何して……」
わかってる。そんな目で見ないでよ。
「……アンタが悪いのよ。今の私に解決策とやらを出すから」
竜児は目を丸くしている。
まさか本気にするとは思ってもみなかったのだろう。
すぐに意味に気付いて顔を真っ赤にした。
コイツ、こんな顔もするんだ。
「……初めてだったのに」
女々しく竜児は呟く。まるで夢見る少女のようだ。
「……私だって初めてよ」
「なっ!?」
鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔。竜児が相当動揺してる。
面白い。少しからかってやろう。
「ほら、アンタも私を好きにならないと解決策にならないわよ?ぎゅーって抱きしめてくれたりとかしないワケ?」
あ、竜児が立ち上がった。やっぱいくら自分で言った事とはいえ、もう付き合いきれなくなったのかな、と思い、すぐに驚愕に満ち溢れる。
優しい竜児のことだ。
私からの突然の行為を跳ね除けられないだけだと思っていた。
だから、キスなんてさっきのあれが最初で最後、そう思っていたのに。
今、私は確かに竜児から唇を塞がれている。
腕が体に回されている。
「んっ……りゅうじ、アン……んっんん……」
会話をさせてくれない。
先程とは攻守交替といわんばかりのMOUTH TO MOUTH。
「んっ……はぁ……んんっ……」
重ね合わせるだけのそれから、だんだんとお互いの口腔を埋めるまでになっていく。
「……んっ……んっ……んっ……」
いつしか、竜児は規則的な吐息を繰り返してる。
何だろう?何か、言ってる?
「……んっ……んっ……んっ……」
……たっ……いっ……がっ……?
ぼっと火がついたように顔に熱がさす。
でも、離れられない。離れる気が起きない。

***

そうして、どれだけの時間が過ぎただろう。
気付けば私は眠っていたらしい。
一瞬、今までのが全て夢、という不安にかられたが、そういう訳ではなかった。
唇に残る竜児の感触と、かけられた毛布がそれを物語る。
「竜児……」
竜児は見当たらない。一瞬寒気が背中をよぎる。
ふと、テーブルの上のメモに気付いた。
『お前が眠ってしまったから今日は帰る。今日のことは、その……俺が悪かった。もし、お前が気の迷いか何かで俺にあんなことをしたのなら俺は今日のことを忘れる』
なんだそれは。ふざけるな。気の迷い、なんかじゃ……
『でも、もしそうじゃないのなら、俺は明日の朝もいつもの時間に朝食付きでお前を待っている。お前が本当にその気なら会いに来て欲しい。もし違うなら、一日でいいから俺の家に来るのは待ってくれ』
ビリィッ!!
メモを破る。
「いつもの時間?そんなに待てない」
私は、まだ白ずんだばかりの空に身を投げ出し、隣のボロアパートに向かう。
そこで朝食付き(まだ作ってないかな?)のアイツに会って言ってやる。
責任とってよね、って。
勢い良くドアを開け放ち、竜児!!と呼ぼうとして声が固まる。

――赤い顔をした竜児が、荒い息で床に倒れていた。




***

「逢坂……?」
神社にいた私は、後ろから声をかけられる。
「あ……北村君」
声をかけてきたのは北村君だった。
「あけましておめでとう」
「お、おめでとう」
「高須は一緒じゃないのか?」
北村君が周りをキョロキョロと確認する。
「あ……」
思い出す、クリスマスのあの日。
竜児はとても苦しそうだった。
額に触れると凄い熱があった。
すぐに救急車を呼んで、入院が決まった。
病名は、
「竜児は年末にインフルエンザで入院しちゃって、年明けてからもまだ寝込んでるみたい」
そう、あれからもう、年まで変わったのにまだまともに竜児と会話をしていない。
「えぇ!?大変じゃないか!!これからでもお見舞いにいって……」
私は北村君の腕を掴む。
「だめ。竜児がだめだって言うの。インフルエンザは感染力が強いからうつったら悪いって」
それが、年があけてからようやく話せた竜児との会話。
「そうか……高須は人一倍気を使うからな。本人がそう言うなら仕方ない。あとで泰子さんに果物でも持っていこう。よかったら一緒に買いにいかないか、逢坂」

***

「ほら、逢坂」
「ありがとう」
須藤コーヒースタンドバー、通称スドバ。
そこで買い物を終えた私と北村君は休む事にした。
「しかし、高須も年末年始にインフルエンザとは大変だな」
「うん。やっちゃんも普段あんまり風邪もひかない竜児のために、心配してお仕事をお休みしようか迷ったみたい」
こうやって、北村君と二人で会話するのが、もっと前だったら私は天にも昇る気持ちだったのだろう。
でも、今頭にあるのは竜児のことばかり。
きっと今も竜児が苦しんでると思ったら、胸が痛くなる。
お参りして、竜児の快復祈願もしてきたけど、何より早く竜児の声が聞きたい。
「……でよー、なんつったっけ?その大橋高校のヤンキー?」
そんな事を思ってると、私たちとは少し離れたところにいる男子グループからの声が聞こえてきた。
「ああ、えっと高須……だっけ?あれヤバいって絶対。中学の時同じ学校だった奴に聞いたら父親はマジモンのヤクザらしいぞ」
ピク。何勝手なこと言ってんの?
「うぇーっ。それマジ恐い。俺は去年の文化祭で福男レースとかいうので勝つために何人も病院送りにしたとか聞いたけど、それも本当っぽいな」
何も知らない奴が、何を勝手に竜児の悪口言ってんの?
「それによぉ、確かその時の生徒会長に殴り込みまでして停学くらったらしいぜ?」
キレた。
私は立ち上がり、ずんずんとそいつらの前まで歩く。
「何?君何か用?」
不思議そうな顔で私を見る男共。
「アンタら、勝手な事言ってんじゃ……?」
そう言って腕を振り上げた瞬間、北村君に腕を掴まれた。
喧嘩はダメだ、という眼差しで。
「君たち、俺はその大橋高校の生徒会長をしているもので、高須とも親友の仲の者だ。そのような根も葉も無い彼の名誉を傷つけるような噂を広げるのは止めてもらえないか」
代わりに、学校では見たことも無い憤怒を撒き散らしながら頭の悪そうな男子グループに告げる。
北村君は返事を待たずに、私に一言「出よう」とだけ言ってスドバを後にした。




「すまん、逢坂」
スドバを出て、すぐに北村君に謝られた。
「えっ!?いや北村君が謝ることなんて……」
そう、謝ることなんて無い。
むしろ、謝るのは私のほうだ。
あそこで騒ぎを起こせば今頃どうなっていたかわからない。
「しかし、高須の誤解を解くことが出来なかった」
「それは……仕方ないよ」
きっと竜児ならそう言うだろう。
「……変わったな逢坂。高須みたいなことを言うんだな」
少し、微笑みながら北村君が私の心情を指摘する。
「うん、そうかもね」
竜児のことを良く知らない人たちがいくら竜児を悪く言おうとも、私たちは竜児の良さを知っている。
今は、それでいいと思う。
「それじゃあ逢坂、この果物を高須に届けてやってくれないか?」
ポン、とフルーツの籠を渡される。
「え?北村君は竜児に会ってかないの?」
「いや、変な気遣いかもしれんが俺がいないほうがいいと思って」
「……ありがとう」
私は、今日何度目かのお礼を北村君に言った。

***

「竜児」
竜児は眠っている。
呼吸が柔らかい。随分と良くなってきているようだ。
これなら新学期からの学校は大丈夫だろう。
とん、と果物の籠を枕元に置いてやる。
ぼーっと竜児の寝顔を見つめる。
穏やかなその寝顔からは、『ヤンキー』なんて言葉は出てこない。
「竜児」
早くよくなってよ。
私の気の迷いなんかじゃなかったって、早く伝えたいよ。
「竜児」
スッと顔を近づける。
今はこれで我慢するから。
竜児の額に、唇が触れる。
「待ってるからね、竜児」
私は竜児の部屋を後しようと、立ち上がった。

***

うっすらと目を開く。
右手の甲を、額に持っていく。
随分と熱は下がったようだ。
たった今目覚めたような、少し前から起きていたような、そんな不思議な感覚に襲われながら枕元を見ると、果物が詰まった籠が置いてあった。
「……これ、高そうだな、オイ」
熱が下がるのと同時、MOTTAINAI精神が蘇る竜児。
「……竜児?」
声が聞こえる。
どうやら自分はまだ思ったよりも熱があるらしい。
目の前には、身の丈に合わない俺愛用のエプロンを纏い、小皿に不恰好に切り並べられた林檎を持つ大河が立っていた。




目を閉じる。
闇が広がる。
目を開ける。
大河がいる。
目を閉じる。
闇が広がる。
目を開ける。
大河がいる。
どうやら、間違いでは無いらしい。
いや、これが夢か幻という線も否定できない。
「竜児、起きられる?」
そうだ、大河はこんなに優しそうに俺に話しかけてなんてこない。
「竜児?聞いてんの?ちょっと竜児?」
そうだ、これは夢に違いな……んぐっ!?
口の中に異物を放り込まれる。
シャリシャリ。
それは林檎だった
「起きたなら反応くらいしなさいよ」
少し膨れっ面の大河。
これはもう、疑う余地は無い。
「……悪い。夢でも見てたかと」
「はぁ?どういう意味?」
こういう事だけにはやたら鋭敏な動物的勘が働くのだろう。
「いや、この林檎美味いな」
ここはゴマカシモードしかない。
「まったく……」
ブツブツと何事か言いながら大河は、恐らくは俺へのお見舞い品のリンゴを自らも頬張る。
しばらくぶりに見た大河の顔は、一見何も変わらない。
確か、感染するかもしれないからあまり来るな、と言ったはずだが。
「お前、何でここに?」
「はぁ?まだ寝てんの?このお見舞い品を持って来たからに決まってんでしょ」
「それを何故お前が食べている?」
「アンタにもさっきあげたでしょ」
「一つだけな」
いつもと変わらない空気。
クリスマスイヴの晩の事が夢であったように何一つとして変わらない。
「なぁ……」
聞こうと思って、躊躇う。
俺の朦朧とした意識の中で、救急車を呼んでくれたのは大河だった……はず。
ということは、コイツは本気で俺のことを好きになろうとしてるのだろうか。
聞きたいけど聞けない。
ああ、何とでも言うがいいさ。俺はインコちゃんよりもチキンだ。
見た目と違って度胸なんてさらさら無いんだよ、畜生。
「何よ?」
「……いや、林檎もっとくれ」
「ん」
ん、と言いながら大河は、自らの口から抜いた爪楊枝で刺した林檎を一切れさし出す。
何か、稲妻が全身を駆け巡った。
これは……これはまさか!?いや、いいのか?あの晩のことを考えるとむしろ問題なしか?
俺がそう悩んでいるのが目に入ったのだろうか。
大河は急に俯き、爪楊枝の林檎を咥え、こちらに顔を……、
りゅうじはみのきけんをかんじた。
りゅうじのせんせいこうげき、さらのなかのりんごをがつがつとてづかみでたべだした!!
「あ……」
大河の何処か驚いた声が聞こえる。
驚いたのはこっちだ!!一体お前今何しようとしやがった!?
大河は何処か不機嫌そうに咥えた林檎を飲み込む。いや、噛めよ。
シャリ、と音を立てながら竜児の腹の中に消える林檎は、何処までも甘かった。



***

「先生、時には人生って上手くいかないなって時があると思うの」
新学期早々、我らが独神(30)はワケのわからない事を言い出した。
竜児は、全快した次の日が学校とあって、全然休んだ気がしなかった。
いや、ある意味ずっと休んでいたんだが。
「そう、恋愛に失敗したり、恋人出来なかったり、独身三十路に突入しちゃったり……でも大丈夫、中止にはならないから……予定通り、ね?」
可愛げのあるような声でみんなに愛嬌振りまく三十路は、今だ状況の説明をしてくれない。
「先生!!意味がわからないのですが!?」
こんな時こそ我らが学級委員、北村祐作。
挙手してから起立、質問と完璧なる優等生ぶりを発揮しつつ核心を尋ねる。
「沖縄で泊まる筈だったホテルが火災で無くなってしまって、修学旅行は二泊三日、雪山スキーに変更になりまーす。わーい良かったねぇ♪」
手を合わしながら笑う独神。一拍の間があり、一斉に、
「「「「えーーーっ!!??」」」」
ブーイングの嵐。
「なにそれー!?超最悪なんですけどー!?」「断固抗議する!!ナンセンス!!」「あー!!何でこんな日に限って亜美ちゃん遅刻してんだよ?亜美ちゃんならきっと何とかしてくれるのに!!」
数々のブーイングに恋ヶ窪さんちのお嬢さん(独身)は、額にビキ!!と四つ角を作り、手入れを怠らない睫毛を吊り上げながら(三十路)黒板にチョークで殴り書きを始め……ガンッ!!と最後に叩きつける。
『人生思いどおりにはなんねーぞ!』
心に染みる先達の言葉(自称お買い得の私、貴方の告白お待ちしてます)に、黙る2年C組一同だった。

***

大河と二人、夕焼けの空を背景に帰途につく。
修学旅行先が変わったからといって、日常に変化があるわけじゃ……。
「ね、ねぇ……竜児」
あるわけじゃ……。
「あの、この前の、林檎食べてた時に言ったこと、覚えてる?」
あるわけ……あるんだよな。
「……おぅ」
「そっか。ならいいんだ。実はまだ熱が酷くて覚えてません、なんて言われたらどうしようかと思った」
大河は俺の方は見ないで、ずっと視線は真っ直ぐ前を向いている。
大河は今、何処を見ているのだろうか。
あの日、あの時、あの場所で、大河は口にした。
『私……気の迷いなんかじゃないから。でも、アンタがみのりんがいいって言うなら諦める。だから私の事は気にしないで』
危うく、新たに手を伸ばした林檎を取り落とすところだった。
その日大河は、俺が何を言う間もなく帰ってしまった。
俺はメモに『お前が気の迷いか何かで俺にあんなことをしたのなら俺は今日のことを忘れる』と書いた。
でも、大河は気の迷いじゃないと言った。
俺はあの晩、どうしても大河を放っておけなかった。
大河に言った言葉は全部本当の気持ちだ。
『お前が一緒にいないなら、彼女なんて作らない』
実際問題、この言葉についてよく考えてみれば、俺は大河以外の女と一緒にいるつもりが無いんじゃねぇか。
解決策、なんて逃げるような言葉を使って自分の気持ちを隠しただけだ。
今でも、柔らかくて甘い大河の唇の感触を思い出す。
大河は一歩を踏み出してきた。北村という好きな奴がいたはずなのに。
そんな大河に、俺がこのままでいい訳がない。
そっと、手を伸ばす。背の違いなんて関係ねぇ。
「……!?」
大河は驚いて手を震わせ、握り返す事で応えてくれた。
「……修学旅行、楽しくなるといいな」
上手く伝わったかはわからない。
そのままの意味に取ったかもしれないし、俺の言いたいことがわかったかもしれない。
大河と繋がった掌は、じんわりと熱を帯びていた。

***

その姿を、たまたま目撃しているクラスメイトがいた。
「ふ〜ん、とうとうくっついちゃった、って奴?」
今日欠席していたモデル稼業の川嶋亜美は、面白く無そうな声とは裏腹に、晴れ渡った表情をしていた。



***

「よーし、これで修学旅行の班は決定だ」
我らがまるおこと北村が黒板から振り返り、手についたチョークの粉を払う。
「ちょっと、ちょーっと待って!!いや、この班割りちょっとおかしくね?」
しかし、クラスの中でただ一人、抗議の声をあげるものがいた。
「お前と亜美と香椎、逢坂と櫛枝、高須と能登、春田と俺、男女混合で九人。ウチのクラスは女子が多いし丁度の割り振りだと思うが……」
「でも、これじゃまるおとタイガー……じゃなかった、だってこれじゃあさぁ!!」
幾分染めた長い髪を揺らし、その細身で長身な体を隠そうともせず立ち上がった木原麻耶は自分の思惑と違う班割りに抗議を続ける。
その声に、跳ねた髪に眼鏡をかけた能登は、「嫌なら余所の班に行けばいいじゃん」などとさらに麻耶の思惑とズレることを言い出し口論になる。
「どうだ、高須は?」
キリが無いと思ったのか、比較的中立の立場にいるであろう竜児に、北村は発言を求めた。
「い、良いんじゃねぇか」
ちらりと、大河に視線を送ると、その視線に気付いた大河は挑発的な視線を返してくる。
それだけが、何か嬉しい。
「ちょっ!?高須君も!?」
竜児は自分の味方をすると思っていたのか、麻耶は驚く。
「そんなに嫌なら木原だけ別の班に……」
北村は精一杯の気配りを見せるが、木原はなかなか納得せず、結局、当初の予定通りの班割りとなった。

***

「え?しおりなんて作んの?」
肩近くまである髪の毛と、馬鹿の代名詞たる春田が尋ねる。
修学旅行へ行くのに、各班別にしおりなどを作ることになっていた。
「それなら、日曜日に私の家に来る?私んち割と広いし」
大河の一言で、集まる場所が決まる。

***

「ちょっ!?凄くないこのマンション?」
口々に大河の部屋の広さに驚きの言葉を漏らす。
「適当に座って。竜児」
「おぅ」
勝手知ったるなんとやら。
竜児はそれだけでキッチンへと向かい、紅茶を用意し始める。
「あ、じゃあ私手伝うよ」
竜児のいるキッチンに実乃梨も向かう。
「あ……わた「逢坂、パソコン使いたいんだが電源は……」あ、テレビの裏だよ」
大河は、自分も手伝うために立とうとしたが、タイミングを逃してしまった。
キッチンを覗くと、竜児と実乃梨が並んで紅茶を用意している。
―――ズキン―――
胸が痛い。竜児は、本当はまだみのりんが好きかもしれない。
そんな恐怖が心を埋めつくす。
二人は楽しそうに笑って、私が入る隙なんか無いように見える。
みのりんが怪獣を模したキャラクターの鍋つかみを竜児に向けながら何か言っている。
―――ズキン―――
見れば見るほど楽しそうに見える。
二人に壁なんか無いように。
みのりんもきっと竜児が好き。
もし、みのりんが竜児に気持ちを明かしたら、どうしよう。
私は、潔く身を引けるだろうか。



***

「ねぇ、今日みのりんと何を話してたの?」
しおりを作り終わってみんな帰って一息ついて、これから晩御飯だ、という頃になってから竜児に尋ねる。
「ん……お前のこと、かな」
「私……?」
これはちょっと予想外。
あの雰囲気で私の話が出ているとは。
「ああ、櫛枝はお前を気にしてたよ。親父さんの事があってからこの部屋に来てなかったって」
「あ……」
思い出す。
一年前、みのりんは割りと私の部屋に来てくれていた。
でも、あの父親のことがあってから私を気遣ってかあまりこの部屋には来ていなかった。
「グッジョブ、だとさ」
「???」
「櫛枝が言ってたんだよ。お前の部屋に使えるお皿があるなんて、とかな」
妙に嬉しそうに竜児は話す。
なんか、気に食わない。
「ふ〜ん、随分と仲が良くなったのね」
「そうか?まぁ話しやすくはなったな」
これ以上はその事を話したくない。
「ねぇ、今日の晩御飯何?」
「おぅ、イキナリだな。んーとコロッケとキャベツ、それに……」
妙に機嫌がいい竜児が、私の胸の痛みを強くする。
「出来たら呼んで」
それだけ言って、私はベッドに向かった。

***

「出来たら呼んで」
それだけ言って大河は居間を後にした。
「?どうしたんだ、アイツ?」
首を傾げながらも手を動かす。
今日は泰子も早出なことだし、ここで飯作って大河といる時間を増やそうと思ってたのに。
じゃがいもを剥いて、茹でる。
今のうちにキャベツを切ってラップしておこう。
テキパキと動いてるうち、昼間見た怪獣の鍋つかみが出てくる。
今日、これを持った櫛枝に言われたのだ。
『つまり君はグッジョブって事だよ高須君』
嬉しかった。大河のことで褒められる自分が。それに、
『大河のこと、宜しく頼むよ』
小さく、聞こえないように言ったつもりだろうが、確かに聞いた。
櫛枝はきっと俺たちのことを気付いてる。
もしかしたら、最初の頃の俺の気持ちも気付いていたのかもしれない。
それでも、若干俺と距離を取ったのは、勝手な俺の考えだけど俺の大河への気持ちの移り変わりに気付いたのかもしれない。
木原にも言われた。大河が他の奴とくっつくのが面白くないよね?と。
正直に言えば、相手が北村なら諦めがついていた、とは思う。
でも、面白くないのは事実だった。
だから今、ようやく俺は自分のために動けると思う。
この修学旅行で、必ず大河に、『あの言葉』を言おう。
ああ、修学旅行が楽しみだ。



***

辺りは一面白銀の世界。
日差しに反射した銀の輝きが眩しいくらいに瞳に焼きつく。
「うわぁ雪だよ雪!!」「ちょ〜きれ〜い」
口々に雪山の壮大な景色と美しさを言い合う大橋高校2年C組の面子たち。
胸に2−Cと大きく書かれたださいウェアに悪態をつくものもいるが、概ねこの修学旅行を楽しもうという気持ちが広がっているようだ。
「まぁまぁみんな、折角の修学旅行、楽しまなきゃ損ですよー、それじゃあみんな、せーの……ヤッホー!!」
「「「「………………」」」」
ヤッホー……ッホー……ホー……ー……。
独り身担任の声が木霊する。
一緒に叫ぶ生徒は残念ながらいない。
もしかすると、修学旅行を一番楽しみにしていたのはこの担任なのかもしれなかった。

***

スキーとは、簡単に言えばスキー板を履いて雪山の斜面を滑るだけのこと。
「おっおっおおっ!?」
それだけのはずだ。
「こ、これどうしたらいいんだ?」
しかし、竜児が思うほど事は簡単ではなかった。
隣を滑っている北村が竜児にアドバイスをしてくれる。
「いいか、斜面に対して横向きなれ」
「よ、よこ……うわぁ!?」
こけた。盛大に。
「全っ然おもしろくねぇ」
悪態を吐く。生まれてこの方スキーなんかやった事など無い。
上手く出来ないのは当たり前かもしれないが、上手く滑れないのではつまらないだけだ。
「……て!!」
ん?声が……あれは大河?
「……いて!!」
何だ大河。猛スピードのソリで俺に突進してきて。そんなに俺の傍にいたかったのか?
「どいてぇ!!」
って、
「うぉわぁぁぁぁぁっぁぁああああぁあぁ!!???」

***

「ってー……」
鼻が赤い。先程思い切り大河の乗るソリがぶつかってきたのだ。
「ご、ごめん竜児。大丈夫?」
「ああ、なんとか。っつうか何でお前ソリなんだよ?」
「別に、好きでソリに乗ったわけじゃ……」
ピン!と髪の毛の代わりに目が逆立つ。泰子、妖気が!!とか思っているわけでは無い。
「ひょっとして、お前もスキーできないんだな?」
「……何で急に嬉しそうなワケ?」
「ウチの班スキー出来ないの俺だけだと思ったんだよ〜、そうかぁお前も出来ないのかぁ。良かった良かった」
「何で良いのよ?」
「いや、そりゃ、その……お前だけビュンビュン滑ってたらカッコつかないっていうか……寂しいっていうか……」
ええい、何をいわせるかこの野郎。
大河は、はぁ?という顔から一転、徐々に頬をピンクに染め、いや赤に染め、まさに今気付きました的なアレ、そうアレだ、その、恥ずかしがって……ああもう可愛いなくそ!!
そんな、プチ幸せ空間に浸っていると、何やらリフト乗り場から喧騒が聞こえてきた。
「だからなんでアンタがしゃしゃってくんの?マジウザイ!!」
木原の本気で怒ったような顔。
楽しくなる筈の、竜児が決めた大河への「あの言葉」を言うための修学旅行の雲行きに、暗雲が立ち込みはじめていた。


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