恋にとどめを刺すあらゆる手段の中で、最も確かなのはその恋を満足させること
である。
                          ―――マリヴォー





『好きです』
自分は将来に響く恥を残してしまった。
『俺もだ』
彼も将来に響く恥を残してしまった。
いや、これは恥の定義には当て嵌まらないのかもしれない。手紙に書かれたたっ
た二文のやりとりを見るたびに幸慶に満たされ、思い起こす度に嬉しさで顔が綻
んでしまうからだ。恥とは、思い起こせば顔が赤らみ、逃げ出したくなるような
後悔に迫られる物を言う。それに当て嵌めるのには少々苦心する必要が有りそう
だ。
その手紙も何時までも眺めている訳にはいかない。思い出に浸るのも時として大
事だが、今は前を見て進みたかった。
「どうした?」
後ろから抱き着いた竜児の背中は大きく頼もしく温かい。こうしているだけで幸
せだった。今純愛のような想いを抱いているのは、今までが散々濁っていただろ
うか。
二人の恋は目茶苦茶だった。届かぬと思いながらも期待を抱き、叶わぬと思いな
がらも温もりを欲し、治まらぬ気持ちは二人を狂わした。
そういえば竜児の告白も中々の目茶苦茶ぶりであった。色んな過程を振り飛ばし、
いきなり結婚を押し付けて来たのだから。自分はその目茶苦茶ぶりが堪らなく
嬉しく、二言でそれを認めてしまったのだから何とも巫山戯た話だ。
「ねぇ、竜児。私、今こうやって竜児の好きな人として横に居るだけで幸せなん
だ」
「俺もお前の好きな人として側に居れるだけで幸せだ」
恋とはどうにも漠然として捕らえがたい。それが成就した今でも、大きな謎を残
している。
「でもね竜児。私、竜児に触れたら自分が狂うと思ってたの」
「俺だってそうだ。既に狂気に駆られてたのかもしれねーけどな」



竜児は大河に全てを話していた。それを聞いた大河は軽蔑も嘲笑もしなかった。
そればかりか、竜児がそれ程までに自分を想っていたという事が嬉しくなったほ
どだ。自分も似た境遇だった故に判る物が有り、人間らしい行動だと思えたから
かもしれない。
「ねぇ、どうしてこんなに晴れやかなんだと思う?」
これが恋という憎めない奴が残していった謎。狂おしい程欲していた存在が手に
入った瞬間、大時化の心は掌を返すように穏やかな気候へと変貌した。それでは
相手への愛しさが無くなったのかと問えば、答えは否だ。先程お互いが言ったよ
うに、二人はお互いを感じるだけで幸せなのだ。愛しさは寧ろ増していると言っ
ても良い。
「俺もそれは思ってた。ちょっと前の自分からは考えられねぇ変化だからな」
しばしの間、二人で思索してみたが片鱗を掴む事さえ出来なかった。やはり、漠
然としたものを掴むにはこちらも漠然としたイメージで以って探らなければなら
ないといけないのだろうか。だが、少し頭が冴えるだけの普通の高校生二人にそ
んな哲学を持てと言うのは無理な話であった。
結論として、知りたいが知らなくても幸せでなくなる事はないとして、これ以上
の探求を止めた。
「そういや、俺、お前に言葉で伝えなきゃいけない事が有る」
「ん?なに?」
「聞きたきゃ、俺の前に来い」
竜児の背中の温もりは名残惜しいが、今回は好奇心が勝った。ゆるゆると背中か
ら離れ、竜児の前に座り、顔を真っ直ぐに見つめる。
「好きだ!」
心臓が跳ね、血が激流となりて身体を巡り、体温が上昇してゆく。特に顔はじん
わりと汗が浮かぶ程に熱くなっている。
恐らく、自分は食べ頃のトマトのように真っ赤に染まり、嬉々とした表情と乞驚
とした表情とが混ざっているみっともない顔なのだろう。それに対し、竜児は顔
は赤いが表情は真剣だ。
自分だけが驚喜狼狽せねばならぬ状況が悔しく、その額をバチンと叩く。そして、
痛みに顔を歪ませた竜児が不平を言う前に唇を頬に付けた。
「あ…たい…が…」
実際、そんな事をしてもお互いに恥ずかしさが増すだけで、それは冷静に考えら
れれば単純な事なのだが、狼狽する人の考えとはかくも愚かである。だが、愚か
故に鮮やかだ。
「私の方が好きだもん!」
もう勢いに任せてしまえと大河は思い、生の感情をぶつける。それに打たれた竜
児は、顔を浚に赤くしながらも愛する人に笑顔を向けた。
「そいつは参ったな」
「何がよ」
「対等じゃなきゃ、嫉妬しちまう」
竜児の手が大河を引き寄せる。胸の内に抱かれた大河は、ちょと驚いた後、自ら
も竜児に抱き着いた。
「嫉妬って、あんたちっさいわね」
「だってよ、一番になりたいと思っちまうじゃねぇか」
「好きの度合いで?」
「好きの度合いで」
どちらからとも言わず、二人は顔を近づけて赤くなった相手の顔を見て小さな笑
顔を零した。その笑みがお互いから離れると、二人は視線を情熱的に絡ませ、そ
してゆっくりと唇を重ねた。
澄み渡った蒼い空が印象的な日だった。


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