「で、ヤクザ対策って、これかよ…」
翌土曜日の夕方、ライトバンの荷室に積まれたものを見て、竜児は顔が引きつるのを抑えられなかった。

そこには、どこかで見たような大きな茶色のクマの着ぐるみがドーンと鎮座していたのだ。
サンタクロースの帽子、ベスト、手袋付きで。

「万一ヤクザがどこかにいたとしても、これ着ていけば、高須君だっていうのがバレないでしょ?
今日はこの恰好をしていても誰も怪しまないし、バッチリだよ!」
実乃梨は竜児に向かって、また親指をグッと突き出して見せる。

「まぁ、確かに姿を隠すには申し分ないけど… まさか、またこれを着ることになるとはなぁ… 
しかし、良くあったな。高2ん時のとそっくりじゃねぇか?」
「春田君が探して来てくれたんだよ」
「え? 春田が?」
「うん。あ、悪いけど、すぐ出発するから車の中で着替えてくれる? 走りながら話すよ。
昨日大河に話したことも伝えなきゃいけないし。着替えを覗いたりしないから、安心して!」
「あ、あぁ…」

車の中で竜児が着替えている間、実乃梨は、春田が彼女の母校の美大でこの着ぐるみを見つけて、
今日わざわざ大橋から車で運んでくれたことを話した。

「大橋から? 半日はかかるだろうに…」
「うん。でもおっきくて宅配便じゃ送れないから、彼女さんとのデート代わりだーってさ、嬉しいね。
これで仕掛けは揃ったよ。大河もこのクマを見たら、きっとあの日のことがフラッシュバックするよ」
「…フラッシュバックって、トラウマやPTSDじゃ無いんだから、それを言うならプレイバックだろ? 
あの時、これ見て凄く喜んでくれたんだよな。あいつ…」
「…その後の大河にとっては、トラウマだったかも知れないよ…」
実乃梨はハンドルを片手で操りながら、自分の胸の前でもう一方の手をギュッと固く握りしめた…


* * * * *


実乃梨から教わった通りに、路地の角を2回曲がって、大河が住んでいるアパートにたどり着く。
着ぐるみの歩きにくい足で、外階段をよたよたと上がりながら、ついさっき、車を降りた時の
実乃梨の様子を思い返していた。

「高須君、頼んだよ」
運転席から降りた実乃梨はそう言って、きっちり90度、直角のおじぎで見送ってくれた。
自分は大河のところに一緒に行かず、周囲の見張りを兼ねて、車の中で待機しているという。

結局、大河の“トラウマ”が何だったのか、実乃梨は答えてくれなかった。
だが、あの頃の自分自身と大河、実乃梨、亜美、北村、それぞれの言動を考えあわせると、
竜児の胸の中に積み重なって見えてくるものがある。
「また俺だけ、何も気付いていなかったって訳か…」

外廊下を進み、奥の部屋の前に着く。戸口に表札や呼鈴はなく、ひっそりとしているが、
灯りが点いているのが横の窓から見える。
竜児は迷い無く、玄関のドアを2回強くノックした。

少し間があってから、ドア越しに人の気配が伝わって来た。ドアが目の前で静かに薄く開かれる。
無意識に身に付いた視線の高さは、大河の大きな瞳の位置とぴったり重なった。
一瞬、息を飲むような気配があり、ドアが閉じられてしまう。

「待っ…」
慌てて手を出そうとしたが、すぐにチェーンロックを外す音が聞こえてきた。
ゆっくりと再びドアが開かれていき、パーカーとスエットパンツを着た大河の姿が現われる。



「大河、俺だ。竜児だ」
着ぐるみの中から、くぐもった声で告げた。
「分かってる。入るんならさっさと入れ」
怒気を含んだ大河の声が耳に届く。
「お、おう…」

竜児は玄関の中に入ると後ろ手でドアを閉め、クマの頭を取る。
大河は竜児の顔をじかに見ても、顔色ひとつ変えず、ただ竜児を見上げている。
クマの頭を足元に置きながら、竜児は大河の部屋を見回した。

殺風景な部屋だった。
テーブル以外に家具らしい物は無い。異様なのは、本がうずたかく積まれ、いくつもの山ができて
いることだった。いずれも法律関係の専門書のようだ。

大河に視線を戻すと、前にバーで会った時と変わらない警戒感を浮かべた瞳で、相変わらず
竜児の顔をじっと見ていた。まるで視線を逸らすと負けとでも思っているかのように。

「たい…」
「何しにきた。そんな恰好で」
「いきなりケンカ腰かよ。落ち着けよ」
「言ったでしょ。アンタには関係ないんだから、何もしなくていい。ていうか、するな」

その声は冷たく、平板だった。
クマの着ぐるみを着ていったからって、前のように喜んで抱きついてきてくれるとは思っていなかった。
だが、これほどまでに変わらないとは…

「おい… 勝手なこと言うなよ。関係無いなんて言うなよな? 竜虎は並び立つんだろ?」
「今の私にはそんな資格無いの」
「資格ってなんだよ、馬鹿じゃねぇのか?」

ダメだ。冷静にならなきゃ。2人きりになったら、どうしてキツく言ってしまうんだ…
喧嘩しにきたんじゃねぇだろ… なんとか、なんとか話をしなければ…

「はぁ? あたしが頑張ってるのに、アンタそんなことしか言えないの?」
「お前だって、昔、泰子が貧血で倒れて、俺が落ち込んだ時、励ましてくれただろ!
あの時、お前が俺に触れてくれなかったら、壊れてたんだぞ。俺はお前に救われたんだ。
お前が窮地の時に、力になろうとして何が悪い?」

「でもあの時、アンタは自力で這い上がってきた。負けなかった、飲み込まれなかった。
だから私も自分で立ち上がらなきゃいけないの。どうして分かってくれないの? 
どうして頑張らせてくれないの? そうでなきゃ、私は竜児の横には立てない。
それに今、私には守るべき人がいる。ママと弟。この2人は私が守るの、守りたいの。
ちょっとそこ、どいて!」

大河は竜児を軽く横に押しのけて手を伸ばすと、ドアを僅かに開けて竜児の前に戻った。

こいつ、俺を追い出すつもりか? 何か無いのか、話し合うきっかけは?

「なんで、たった1人でやろうとするんだよ、俺にもやらせてくれよ、一緒に戦いたいんだよ」
「アンタに迷惑を掛けるわけにはいかないでしょ! 分かってよ! 帰ってよ! そして何もしないで!」
「昨日櫛枝と、俺と話すって約束したろ? まだ何も話してねぇじゃねぇか!」
「もう話した。何もしないで、それだけ」

そう言うと大河は、全身全霊の力で竜児の身体を着ぐるみの上から押し、ドアの外へ追い出そうとした。

「おまっ、ふっざけん…」
竜児は必死に押し返しながら、同じ状況、あのクリスマスイブの夜を思い出していた。
あの時より気持ちは通じ合っているはずなのに、何故? なぜ届かない? 



「アンタはここにいちゃいけない、帰って、帰ってよ!」

だめだ……
こうなったら、大河は差し出された手を決して掴まない。また大河が離れていく。
そこにいるのに届かない。無理矢理抱き締めても、きっと激しく拒絶するだろう。

結局、この前と同じなのか…? 

………。

違う… 同じじゃない。

大河を見た。
その頬、そして瞳の周りがうっすら赤みを帯びている。
櫛枝の言葉は届いている。きっとこのクマの意味も分かっている。そして今日はクリスマスイブ。
大河は今、決して平板じゃない。そこに迷いが、熱が、行き場を無くした心が見える。
気持ちを必死で押さえつけようともがいている。

力で押し返すんじゃない。寄り添って、道を指し示すんだ。
大河に気付かせなければだめだ。考えさせなければだめだ。
大河の心の底にある想いを。俺と大河がどういう人間かを。

どうすればいい? 大河の進むべき方向を示す灯りは? 道標はなんだ?


押し合いながら必死に考え続けていたその時、視界の中にある1冊の薄い本が目に留まった。
うずたかく積み上げられた法律書の茶色や灰色のくすんだ本の中で、趣の異なる黒い光沢の装丁が見える。
背表紙にはこう書かれていた… “星をさがす本” 

その瞬間、脳裏にイルミネーションに囲まれたクリスマスイブの光景が次々と浮かんで来た。
回転寿司で発した大河のたわいもない言葉。 指輪をプレゼントする前、小さな手のひらを一杯に広げ、
夕暮れの空に向かって、真っすぐ右手を伸ばす大河の姿が鮮やかに甦った。


竜児は、押し合っていた手をゆっくりと下ろした。


「分かったよ大河。お前の気持ち。頑張ってるんだもんな、自分でしっかりやろうとしてるんだもんな。
押し付けちゃ、いけないよな…」
「…………」
「俺はこれで帰るよ。でも大河、その前に少し別の話をしていいか?」
「な、なによ」

竜児は自分でドアを大きく開き、玄関の外に出る。そして廊下から夜空を見上げた後、
部屋の中にいる大河に振り返って言った。

「なぁ大河。お前、夜にさ、空見上げて、星に話しかける癖があるんじゃねぇか?」

「えっ……? な、なんで、わ、わかるの……」
思いもよらない言葉で意表を突かれた大河は、つい素の顔を見せ、その声は消え入るように
小さくなっていった。

「そうか、奇遇だな。実は俺もそうなんだ。夜空を見上げて、星に向かって、いやお前に向かって
話しかけてる。大河がお母さんの所に行ってから、ずっと癖になってるんだ」

「…竜児も…… なんだ……」

「あのさ、大河。こんな風に、互いに伝えあってなくても俺たちは同じことをしている。
どんなに離れていたって、環境が違ったって、きっと同じことを考え、同じように感じているんだ。
資格とか、立場とか、そんなこと言わなくても、もう俺たちは同じことをしてる。それは変わらない。
永遠に。分かるよな、大河」

「………………」

そして、竜児は夜空に向かって、大きく広げた右手をまっすぐ伸ばしながら、言った。
「前に会った時、言わなかったけど、俺、大学から今もずっと、ロケットを作る勉強をしてるんだ。
まだおもちゃみたいなものしかできないけど、でもいつか必ず宇宙に届くものを作る。
絶対あきらめずにずっと手を伸ばし続ける。そこに届けば、大河に会える。そんな気がしたんだ。
大河も今、頑張って手を伸ばしてるんだよな」

「……っ!!」
大河が息を飲む音が聞こえる。

「だから大河、どんな時でもやっぱり俺たちは一緒なんだ。離れていても近くにいても、同じなんだ。
大河なら分かるだろ。それは誰にも変えられない、変わらないことなんだ。
だって俺たちはそういう風にできている。それを忘れないでいてくれ、大河。 
言いたかったのはそれだけだ。じゃあ、元気でいろよな。またいつか機会があったら話そうぜ。
気が向いたらいつでも連絡くれよな」


竜児はクマの頭を拾い上げると、外廊下を進み、階段をゆっくりと降りていった。


* * * * *


大河は玄関のドアをあけたまま、凍り付いたように動かなくなっていた。


思い通りに竜児は帰った。
思い通り? 私は竜児に帰って欲しかったの?

『資格とか立場とか関係ねぇ』
『同じことをしている』 
『変わらないことなんだ』 
何それ? 私、こんなに頑張ってるのに、気安く変わらないなんて言わないでよ。

『俺、ロケット作ってるんだ… 宇宙に届いたら、大河に会えるから…』
全然聞いてない。いつの間にそんな凄いことやってたの? 
いつも肝心なこと、言ってくれないんだから…

『大河も手を伸ばしてるんだよな』
当たり前でしょ? このクソ馬鹿鈍犬。
言わなくても分かるでしょ? 何のためだと思ってるの? 
アンタに、竜児に会いたいからに決まってるじゃない!

「離れていても、一緒… 近くにいても、いっしょ… 」
気がつくと、私は竜児の言葉を声に出して繰り返していた。

「本当? 竜児、ホントなの? 同じなの?」


……………。


だったら… だったら… 傍にいたい 近くで、すぐ近くで… いつも竜児を感じていたい。
だって、私と竜児は2人で1つなんだから……


……ああ、やっぱ駄目だ、私…… 

また同じ過ちを繰り返そうとしている。
クマの着ぐるみを見て思い出した。あのクリスマスイブの日もそうだった。
手を離しちゃいけなかったのに、何が一番大切なのか気づかず、竜児をみのりんの元に行かせてしまった。
あの後、自分の行為をどれだけ悔んだことか。

そして今、また、竜児を行かせてしまった…

このまま、竜児と離れるなんて…… 


イヤ… だ。




「りゅーーーじぃぃぃぃーーーっっっ!!!」

ありったけの声で叫ぶと、裸足のまま、外廊下を駆け出した。転げるように鉄の階段を駆け下り、
アパートの敷地から道路に飛び出した。

右を見る。
左を見る。
竜児の姿は無い。

思わず、己の馬鹿さ加減を呪った。
なんて私は愚かなんだろう。ちっとも成長していない。
離れている時は耐えられた。バーで見つかった時も何も感じないフリで気持ちを押さえ込んだ。

だけど、たった今、竜児は心を見せてくれた。
互いの結びつきの強さ、存在の大きさ。 たった今、心の中深く、新たに刻みこまれた。

…このまま竜児がいなくなったら、私はきっと駄目になる。

竜児と心が通じ合ってから、ずっと考えていたことがある。
もし、心に、魂に、生まれてくる場所があるのなら、きっと私と竜児は同じ胚から分かれたんだ。
それぞれ異なる部分を持って、2つの肉体に分かれたけど、元は1つだったんだ。
だから出会った時、お互いをすんなり受け入れることができた。
距離が近すぎて、しっくりし過ぎて、見失なったこともあったけれど、やがてぴったりと重なった。
そして気づくことができた。私達は2人で1つだと。

竜児が初めて「大河」と名前を読んでくれた時、震える程、嬉しかった。
一緒に電柱を蹴り合った時は、その行為に懐かしさすら感じていた。
いや、この間の夢。ベッドに寝かされて、竜児の匂いに包まれた時、心の奥底で気付いていた。
だから出会ったばかりの人に甘えられた。安心できた。何でも話せた。いきなり呼び捨てにできた。

『俺たちはそういう風にできている』
そう、分かっている。竜児に言われなくても知ってる。

竜児のことが大切だから、離れる道を選んだ。竜児や、やっちゃんに迷惑が掛かることを
脅かされることを何よりも避けたかった。
竜児に会うまで、周りのせいにしてきた自分を変えようと思った。
逃げないで、自分で始末を付けようと思ってきた。それは誤りじゃない。
でも前提が違うんだ。スタート地点が間違っていたんだ。やり方が違っていたんだ。

1つの心を2つに引き裂いて、まともに生きていられるはずなんかない。
1人じゃダメ。竜児が、竜児がいないとだめなんだ。
だから、ここで泣いてたりなんかしない、今度は竜児を見つけるの。

そして、竜児… 私の傍にいて… 竜児の… 傍に… いさせてよ…


「りゅーじぃーーーーっっ!!!」

ボフッ。
路地の角を曲がった瞬間、柔らかな茶色の壁にぶつかって、尻もちをついた。

「えっ!! なに?」
見上げると、クマの着ぐるみを来た竜児が立っていた。

「来てくれたな、大河。信じてた。ありがとう」

竜児はしゃがみながら、両手で私の肩を掴み、そっと優しく抱き寄せてくれた。
竜児の匂いがする。マフラーじゃない、ほんものの竜児の匂い…



「竜児、りゅうじ、りゅうじぃ…」
「ああ、分かってる。分かってるぞ、大河。ほらケガは無いか?、お前、裸足で大丈夫か?
どこか切ったりしてないか?」
「あ、アンタこそ、ヤクザに襲われたって」
「襲われたってほどじゃないが、ちょっとヤバかった。でも何ともないぞ。泰子も安全だ」
「弱いくせに、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿、この大馬鹿野郎! 本当に、死ぬほど心配だったんだからね」
そういうと大河は小さな拳を握りしめ、竜児の胸をポカポカと叩き始めた。

「し、死なれちゃ困るな…」
「うるさい、うるさい、うるさい。私はもうアンタの傍から絶対離れない、そしてアンタを誰にも
傷付けさせないから、だから竜児、ヤクザのところに乗り込むなんて、絶対、絶対しないでー!!」
そう叫ぶと、大河は堰が切れたように泣き声をあげ、竜児の胸をいつまでも叩き続けるのだった…


* * * * *


「あーあ、あいつら、ホント手間掛かるよね」
「おっ、あーみん、間に合ったんだ。すぐわかった? ここ」
「空港から直行。ねぇ100m四方に聞こえてんじゃないの? さっきの“りゅーじー”って。
ヤクザに気づかれたりしてないよね?」
「大丈夫だと思う。さっき一回りしたけど、不審な車、人物は見当たらなかったよ」
「あんたスパイもできんの?」
「おうよ。日本代表女子ソフトボールの切り込み隊長といえば、このみのりん様のことだいっ」
「イヤ、話が噛み合ってねぇし」

2人の視線の先では、竜児に手を引かれた大河がゆっくりと立ち上がり、手をつないだまま、
アパートへの角を曲がっていった。やがて階段を上っていく音、玄関のドアを閉じる音が聞こえてきた。

「さて、あーみん、我々は退散しますか!」
「そうね。あんだけ大声出せるんなら、元気なんでしょ、タイガーも。ところでねぇ、私達ってさ、
日本じゃ結構、有名人だよね」
「まぁ、私はともかく、あーみんはすごい有名人だよね」
「あんただって取材受けまくってんじゃん。なんだよ“女イチロー”って。
でさ、なんでそんな2人がイブの夜に震えながら、人の恋路を覗き見してなきゃいけないんだっつうのっ、
クッシュン! あー、日本は寒いったらありゃしない!」
「お、あーみん風邪引くぜ。 よーし、じゃあ2人で飲みにいこう! どうだい熱燗でキューッと!」
「オヤジくさいんだよ、あんたは! あ、そだ、実乃梨ちゃん、飲みながらでいいからさ、
ちょっと聞いて欲しい考えがあるんだけど、ホテルの私の部屋に来ない? ちょっと離れてるけど、
いいホテル取ってあるんだ!」
「おう! なんだい、あーみん? 聞くぜー、超聞くぜー」

2人はライトバンに乗り込むと、聖夜に賑わう街を抜けて、亜美の宿泊先へと向かっていった。


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