手を繋いでアパートの階段を登り、大河の部屋の扉を閉めた瞬間から、
2人はもう数えきれないぐらい、何度も何度もキスをしていた。

自分の唇が相手に触れている時間が、そうでない時よりも確実に長い程、
ただただキスを求め、唇を重ね、唇で触れあった。

玄関を閉めた瞬間、扉を背に座り込んだ竜児の上に大河が飛び乗って。
大河が「着ぐるみ、邪魔」と言って、竜児のクマを脱がせながら。
竜児が大河を抱き上げ、浴室へと運びながら。
電気を消したまま、2人一緒に熱いシャワーを浴びながら。
濡れた身体を1枚のバスタオルで拭いあいながら。
布団を引っ張り出す大河の後ろから、竜児が覆いかぶさるように。
そして、1つの布団にくるまりながら。
膝を折り、背を丸め、身をよじり、背伸びし、額をこすりつけ合い、あごに手をあて、頬に触れながら、
あらゆる形で唇を重ねあった。
2人が想いを通い合わせてから昨日までのキスの数は、今日の僅か10分あまりの時間で
塗り替えられただろう。

やがて、唇を押しあてる先は互いの全身へと広がっていく。
言葉はほとんど交わしていない。密着した肌の熱と身体の動きで、互いの存在を確かめ、
狂おしいまでの想いをぶつけるように、吸い、重ね、絡ませ、触れあった。

2人の顔が再び正面に向きあった時、ようやくそれは止まった。


* * * * *


ねぇ、竜児…
ん?
許して……くれる?
何を?
ずっと…離れていたこと。
離れてなんかいたか?
え? でも…
大河は離れてなんかいなかった。ずっと俺の傍にいたぞ。たぶん、俺も大河の傍にいただろ?
…………。
大河?
……う……ん、そだね…… いたよ… 竜児はいつも私の傍にいた。いつも竜児と話してた。
だろ… どんな時でも傍にいるんだよ、俺達は。


ねぇ、竜児…
おう。
怒らないで聞いて。本当に、みんなに助けてもらっていいの…かな?
…怒らねぇよ。俺も聞いてみた。半端な話じゃねぇって。でもみんな、当たり前って顔してたよ。
どうして…?
仲間だから… だってさ。
仲間って言っても、高校の時とは違うよ?
分かってるさ。もう、みんな立派な社会人だ。
みのりんは、私がいなかったら今の自分は無いって、みんな思ってるって言ってたけど…
ああ、その通りだ。
ほんと…に?
本当だ。
どうして…?
櫛枝と川嶋と北村は説明しなくてもいいよな。
う、う…ん
能登と木原は、仲間でのドタバタからお互いを理解していったそうだ。その中心にはお前がいた。
そ、そうだっけ…?
春田は高校ん時、お前にちょっかいかけてはブン殴られてたから、彼女ができたんだって言ってた。
なにそれ? 
わかんねぇ。でもあいつ、確かにそう言って笑うんだよ。
バレンタインの時にアホロンゲにチョコ買ってあげてた彼女?
ああ、今もうまくいってるみたいだ。今日も2人でこのクマを持ってきてくれたんだぜ。
ほんとに?
大橋からわざわざな…
じゃあ香椎… 奈々子は?
香椎は、ただ「フフッ」って、微笑むだけだった。でも何か思うところはあるんだろうな。
お色気ボクロは相変わらずね… でも狩野すみれは? 私、ブンなぐったんだよ?
唯一無二の人間なんだそうだ。
え?
狩野先輩に右フックを喰らわせた奴は後にも先にもお前だけ。それだけで助けるに値するらしい。
……らしいっちゃ、らしいんだけど……
そういえば、北村と狩野先輩、結婚するぞ。来年の夏には子供も生まれるらしい。
うそっ!? でも…… ありえないことじゃないわね。
ああ。北村、頑張ってきたもんな。
北村君と狩野すみれの子供か… 北村君、とうとう夢が叶ったんだね
ちょっと淋しいか?
バカ、そんな訳ないでしょ? 怒るよ
すまんすまん…


ねぇ、竜児…
どうした?
私達も赤ちゃんできちゃったら、どうしよう…?
そりゃ、とても素敵なことだな。大丈夫だ。心配すんな。
…ほんとに?
…ああ、あたりまえだろ。大河の子だ、きっと可愛いぞ。
アンタに似るかもよ。
いや、大河の遺伝子に勝てる気がしねぇ。
ふふっ…


ねぇ、竜児
なんだ?
覚えてる? 前の…
ああ、覚えてる。てか、忘れられねぇ…
…ヘンタイ
そう言うお前はどうなんだ?
えっ… 私は… 私も…覚えてたわよ。
じゃ、お前もヘンタイだな。
う、うるさいわねぇ…
フッ…
そこ、気持ち悪い笑い方しないの


ねぇ、竜児
うん?
いいよ……
わかった……


「んっ………」


* * * * *


深夜。竜児はまだ眠りの世界に入り込むことが出来ずにいた。
大河との再会の興奮が冷めないのか、うつらうつらとしては目覚めを繰り返している。
眠り込んでしまったら、また大河がどこかに行ってしまうのではないか、そんな緊張感も
僅かに残っていたのかもしれない。

周囲を見回すと、視界に入ってくるのは見慣れない部屋の光景。しかし、腕の中には見慣れた顔があった。
すっかり牙を抜かれた子虎は、姿を消すことなく、竜児の腕の中で丸くなり、柔らかな寝息を立てている。
目の前には小さな豆球の光に照らされ、白く浮かび上がった大河の小さな額。
竜児は思わずそこに軽くくちづけをする。

「ずっと傍にいた…」心の結び付きをそう表現してみたものの、こうして触れることのできる喜びと
安心感はなにものにも代え難い。愛おしいという気持ちが止めどもなく溢れ出してくる。

薄明かりの下、大河の顔がもっとよく見えるように腕をずらし、身体をよじる。
計り知れない痛みを伴ったはずの日々も、大河の容貌に毛ほどの傷もつけることができなかったらしい。
ふうわりと広がる髪の柔らかさも、整った長い睫毛のカールも、ガラス細工のように優美な曲線を描く
あごのラインも、磁器のようにきめの細かな頬のミルク色も何も一つ変わらない。
いや、頬の曲線は少しだけシャープになったように見えた。それは痩せたとかやつれたいうものではなく、
しっかりと強い意思を表しているようで、むしろ頼もしく見えた。

「そっか… 大河も大人になったんだな…」
離れていた間の痛みなんか、もうどうでもいい。今、こうして目の前に大河がいる。それ以外に何を
望むことがあるだろう。大河が選んだ道を共に歩む。大河が願うことを叶える。2人でならきっとどんな
ことも乗り越えられる。そう信じることを固く心に誓った。

「本当に… よく… 1人で頑張ってきたよな。たい…が…」
部屋の中、うず高く積まれた本の山を見ながら、竜児は大河が過ごしてきた不安と痛みの日々を思った。
どうしてこんなことに、と何度も思っただろう。何もかも捨てて、逃げ出したくなる時もあっただろう、
でも大河はそうしなかった。しっかり自分の足で立ち、やるべきことを考えて、実行してきた。
見えないこと、分からないことへの疑問と苛立ちを繰り返してきただけの自分とは、大きく異なる。

「どうして、そこまで頑張れるんだ? 大河」
そうつぶやきながら、大河を見る。その時、バーで聞いたマスターの言葉が竜児の脳裏に浮かんできた。
(きっと君達のような関わりのある人間に害が及ぶのを防ぎたい、という思いがあるんだろう…)
竜児の腕に包まれて、穏やかな表情を浮かべる大河の寝顔もそう告げているようだった。
「俺を、泰子を、みんなを守るため、か…」

起こさないように、大河の髪に優しく触れる。ゆっくりと指を通して、柔らかな髪を撫でていく。
指の間から伝わる、滑らかな感触に胸の奥から熱いものがこみあげてくる。
思わずその小さな身体を強く抱き締めそうになり、竜児は済んでのところで踏みとどまった。
こんなによく眠っているのに、起こしちゃいけない…

「りゅうじぃ…」
大河の口から竜児の名前がこぼれた。起こしてしまったかとヒヤッとしたが、すぐに規則正しい寝息を
立て始めるのを見て、竜児は安堵の息を漏らす。つらい夢を見てるのでは?と一瞬心配したが、
大河の口元に笑みが浮かぶのを見て安心する。きっと夢の中でも2人はすぐ傍にいるのだろう。

夢でも目が覚めてからも思いっきり甘えていいんだぞ、大河。もう1人じゃないんだから…

今、一体、何時だろう?  
少し冷静になった頭で、ケータイを確かめようと枕元を手で探りかけて、竜児はハッと気づいた。
「ケータイ、車の中だ… 櫛枝の… 着替えも財布も… またやっちまった… 着ぐるみしか、ねぇ…」
緊張感が脱力と共に抜けていくのと入れ替わりに、眠気の波が竜児にも押し寄せて来た。

「…まぁ、朝になれば、櫛枝が迎えにきてくれる、よな…」
暢気にそう考えると、竜児は大河のつむじあたりに顔を埋め、甘い香りを胸一杯吸い込みながら、
大河が待つ夢の世界に入っていった。


* * * * *


「竜児、起きて」
「…ん?」

「こらっ! 起きてって言ってるでしょ!」
「んあっ…?」

ぼーっとした頭で目をあけると、電灯の光を遮って、視界一杯に逆さまを向いた大河の顔。
深夜、竜児の腕の中にいた子虎は、本来の姿を取り戻したようで、影の中でもその大きな瞳に
強い力を宿している。

「な、なんだよ、いきなり。お、お早うぐらい言えよな…」
目をこすりながら身体を起こし、窓の方を見ると、眠りに入る前と同じ暗闇に覆われていた。

「まだ日も昇ってねえじゃねぇか…って、えっ?」
ちょっとなじるような口調で振り返ると、ふわっと広がる白のフリルスカートに、スタンドフリルの同じく
白のブラウス、オフホワイトのカーディガンを身にまとった大河が枕元でふんぞり返って立っていた。

「お、お前、その恰好…」
二十歳過ぎてて、そのフリフリはないだろう、というツッコミは毛ほども思いつかなかった。
やっぱり大河はこういう服が似合う。大河には怒られるだろうが、10代でも十分通用する。

「お早う。もう6時過ぎてんのよ。いい、私は毎日朝6時半にママの家に行く。朝ご飯を一緒に食べて、
8時までに弟を保育園に送るのが日課なのよ。今日は土曜日だから保育園はないけど、いつもの時間に
私がママのところに行かず、居所が分からなかったら、ママからマスターに連絡が行くことになってる」

竜児は枕元に転がった目覚まし時計に気付いた。針は6時10分を指そうとしている。
ギリギリまで寝かしておいてくれたということか。

「でも今日はママのところには行かない。アンタと一緒に行動するの。次どうするか考えるんでしょ?
どこへ行けばいい? 私は腹括ったわよ。まさか、何の考えも無しでここに来たんじゃないでしょうね!」

矢継ぎ早の言葉に竜児は降参の意志を両手をあげて見せた。
「ああ分かったよ。すぐ出よう。でもその前に、やっぱり大河はその恰好が似合うよな…」
「はぁ? ななな、なに言ってんのよ。私が昨日みたいな地味な服ばかり着てると思ってんじゃない
でしょうね? 我慢できるワケないでしょ、この私が。ほら寝言はいいから、早くアンタも着替えて」

竜児は、そこでようやく眠る前に気づいたショッキングな事実を思い出した。
「あ、あのさ、大河…」
「何アンタ? またグズ呼ばわりされたいの?」
「いや、無いんだ、着替えが。櫛枝の車の中なんだ。ケータイも財布も。クマの着ぐるみだけ…
で、今、櫛枝がどこにいるか分からない…」

「…………………」
微妙な沈黙がしばし流れたあと、大河がおもむろに口を開く。
「アンタ、ちゃんと成長してる? いつまでも高校生みたいに間抜けなことしてたらダメよ」
まさかこんな台詞を大河から言われる日が来ようとは、誰が想像しただろうか?
「う、うるせぇな。昨日はお前を取り戻すのに必死だったんだよ」

はぁーと大河は溜息をつきながら、スカートのポケットからケータイを取り出すと、
「分かってるわよ。ほら、さっさとみのりんに電話して。悠長な時間は無いわよ」
そう言いながら、ケータイのボタンを押して、竜児に差し出してきた。

「お、おう、ありがとな、ってお前、ケータイ持ってんじゃねぇか!!」
「はぁ? ケータイ持ってんのなんて当たり前でしょ! 番号はあの時変えたけどね」
大河はバツが悪いのを隠すように、つっけんどんな口調で、ぷいと横を向く。

…ったく、ケータイ持ってるんだったら、イタ電でも無言電話でモールス信号でもいいから、
元気でいるサインぐらい送ってこいよな… 
竜児はそんな無茶をぶつぶつ言いながら、2コール、3コールと鳴らすが、実乃梨は出ない。
留守電になってしまったら、お手上げだと焦り出したところで、ようやく繋がる気配。

「…ひ、ひゃい? もひもひ?」
相当寝ぼけているのだろうが、間違いなく実乃梨の声だ
「櫛枝! 今どこにいる?」
「た…たきゃすくんかい? 大河は元気かね? すまんがもうちーっとばかり爺を寝かせてくれんかのう? 
昨日の夜からあーみんと語り合って、寝たのがかなーり遅かったのだよ… ふ、ふわぁぁぁあわわわ……」
「わ、わかったから、話が済んだら寝てていいから、今どこにいるんだ?」

ケータイの向こう側、実乃梨の方から、ピーピーピーと甲高い嫌な音が聞こえてくる。
これはひょっとしてバッテリー切れの…警告音??
「あーみんが取ったホテルの部屋だよ。すっげーいいとこ。ちょっとそこから離れているけど」
「だから場所は? 名前は?」
警告音が一際高くなる。
「えと、なんだっけ? あー、電池切れちゃいそうだよ。すまんねぇ高須君、一眠りしたらまた連絡す…」

プー プー プー プー
大河のケータイが虚しく電子音を響かせる。
「き、切れた… また連絡するって、俺のケータイはお前の車ん中なんだよ!」
「どうしたの?」
「バッテリー切れだってよ。川嶋が取ったホテルにいるってとこまでは分かったんだが、
場所がどこか聞く前に切れちまった」

「もう… 仕方ないわね。ほら、ばかちーにも掛けな」
大河は亜美のケータイの番号を押すと、再び竜児に渡した。

プルルルルルル…
2コール、3コールと鳴らし、繋がったと思った瞬間、竜児が声を出す前にあっさり切れた。
「あ、あいつ出もしねぇで切りやがった!」
「知らない番号からの着信は無視する気ね。腹黒のばかちーらしいわ。ほら、ぐずぐずしないで
もう1回掛ける!」

竜児は慌ててリダイヤルの操作をする。が、もはや発信音すら鳴らず、
「お掛けになった番号は電波の届かないところに…」
というお決まりのアナウンスが繰り返されるのみたっだ。
「ダメだ… 電源切りやがった……」
「やるわね… じゃ、直接行くしかないか。 竜児、2人が泊まっているホテルは知ってるの?」
「いや、川嶋が来てるのも知らなかった。あいつ海外でロケのはずだったんだが。あ、さっき櫛枝が
ちょっと離れているけど、すっげーいいとこ、って言ってたけど…」

「ふん、ばかちーが安い所に泊まるはずはないわね。少し離れてて、ばかちー好みの所といえば…」
しばし大河は思案顔。やがて思い当たるホテルがあったのかニターっと笑顔を浮かべ、
「うん、きっとあそこだ。行くわよ、竜児」
「行くってどこに?」
「大河様に任せなさい。でもその格好じゃ目立ちすぎて電車には乗れないわね。ちょっと距離あるけど、
まぁ丁度いい、タクシー使うか… 竜児、すぐにクマを着て! いつまでパンツ一丁でいるつもり?」
「お、おうっ!」

再び着ぐるみを身につけるや否や、竜児は部屋の外に押し出されてしまった。でも振り返ると、
ブーツに足を突っ込み、竜児のマフラーを嬉しそうに首に巻いている大河がそこにいる。
今度は一緒だ。

竜児は、大河の背後に回ると、マフラーの端をそっと結んでやるのだった。


* * * * *


ゆっくりと白みだした空の下、部屋を出た2人は、昨夜、実乃梨が車を止めた大通りでタクシーを拾った。
大河は竜児が聞いたことも無い地名とホテルの名前らしきものを告げ、「急いで出して下さい」と
短く運転手に伝える。竜児の格好に最初ギョッとした中年の運転手も「そういえば、今日はクリスマス
だったっけ…」とつぶやいて、納得したように車を発進させた。

その時、車の時計が6時半ちょうどを示した。間髪をいれず、大河のケータイが鳴る。

「大河! あなた今どこにいるの? 何があったの?」
高校2年のバレンタインデー、ケーキ屋のバイトを終えた2人の前に、泰子と共に立ちはだかった
大河の母の迫力ある声が、ケータイの小さな受話部から漏れ聞こえてくる。

「ママ、ごめん。私、今、竜児と一緒にいるの。ううん… ウチにはいないよ。今、タクシーで移動中。
でね、ママ、今日は竜児と一緒にいる。これからの事を2人で考える。夜には必ず帰るから、行かせて欲しい」
「何言ってんの、すぐ帰ってくること。いいわね、大河」
思わず身をすくめてしまいそうな鋭利な声。しかし大河はひるむことなく、言い返す。
「お願い、ママ。今日だけは見逃して。ちゃんと帰るって約束するから…」

大河と母親は暫くの間、「帰ってきなさい」「帰らない」と押し問答を続けていたが、最後は
“イイ子にしてきた私を信じて”と哀願する大河の言葉と、走り出したタクシーを追い駆けるすべの無い現実に、
日が暮れるまでに帰ってくること、定期的に居場所を電話で知らせるという条件付きで、母親がしぶしぶ
折れたのだった。

大河がようやく電話を切って、一息つく間もなく、竜児の血が凍りそうな事態が起こった。
「お嬢ちゃん、あんまりママを心配させちゃだめだよ。まぁクリスマスだしね、彼氏とハメを外したいのも
分かるけど、ほどほどにしないといけないなぁ。おじさんにも高校生の娘がいるから、分かるんだよね」

人の良さそうな運転手が、元2-Cのクラスメートなら絶対しない、大河の逆鱗に触れる3ポイントシュートを
鮮やかに決めたのだ。
「大河、ちょっと待っ…」
竜児はマイナス273℃まで肝を冷やしながら、なんとしても大河の次のアクションを抑えるつもりだった。
時速60km以上で疾走中のタクシーの中では、ビンタ☆や掌底はもちろん、どんな罵声も運転手を驚かせて、
大惨事を招き兼ねない。せっかく会えたばかりなのに、2人揃って天国へいらっしゃい、は、勘弁願いたいと
心の中で手を合わせつつ、口を塞ぐか、身体を張る準備。

しかし、大河は思わぬ反応を見せた。
「やだ、運転手さん。私、子供っぽく見られちゃうけど、20才過ぎてるんですよ。もう立派な社会人なんです」
敬語!?
「え、そ、そ、そうなのかい?」
運転手が振り返って、大河の顔をまじまじと見そうになるのを、竜児は慌てて「前みて、前!」と制する。
「ほんと、ママの方が子離れできてなくて、困ってるんですよね」
「そ、そりゃ失礼しちゃったなー」
「あ、運転手さんも気をつけた方がいいですよ、娘さんにあんまり口うるさく言うと、嫌われちゃいますよー」
大河は怒りの素振りもみせず、どもりもせず、にこやかな笑顔で運転手と他愛も無い会話を続けている。
その横顔を呆然と見ながら、竜児はおもわずつぶやいた。

「大河、お前、変わっ…」
たよな…と言いかけて、竜児は言葉を呑む。その言葉を口にすると、離れていた長い時を客観的に認めて、
大河に伝えてしまうような気がして、イヤだったのだ。
「なによ!?」
「…いいよな…」
「へっ?」
「だから、お前、かわいいよな。やっぱり…」

振り返った大河の顔は、瞬時に首から額にかけて、真っ赤に染め上げられていく。
「へっ? んなななな、何言ってんのよ、朝っぱらから、アアアアンタは、この変態…」
「「犬!」だろ」
「なっ!」
「ハハハッ、若い人はいいねー。こっちまでドキドキとしちゃわーな…」


やがてタクシーはバイパスから高速道路のインターチェンジに入り、本線に合流するループに差し掛かる。
軽いGがかかった時、2人の手がそっと触れた。ドキッとして、2人同時に手を放す。
昇り始めた朝日の光の下で見つめ合い、互いにそっと頬を赤らめる。

大河は、着ぐるみの赤手袋を外した竜児の小指を、その小さな手で握った。
昨夜はあんなに想いをぶつけ合い、何度も愛し合ったのに、ずいぶんと控えめな接触だとも思うが、
明るいところで顔を見ると、気恥ずかしさが先に立つ気持ちが、竜児にも良く分かる。
まるで高校生に戻ったように、頬を赤らめながら、竜児はギュッと大河の手を握りなおすのだった。

「大河。お前、本当によく頑張ってきたよな… それから有難う」
目が覚めたら真っ先に言おうと思ってたことを、竜児はようやく大河に伝えることができた。

「あ、ありがとうって、なんで? 私、竜児につらい思いをさせたのに…」
今度は運転手に聞かれないよう、俯きながら、小さな声で大河がつぶやく。
「守ってくれてたんだろ。俺達を」
そう言いながら、竜児は握る手に力を込めた。

「……う…ん。ありがと。でも最近はね、このままじゃダメかなとも思っていたのよ。いくらママが稼げるって
いっても、自由に動けないと限界あるしね…」
「そもそも肩代わりにしようなんて、普通は思うわねぇけどな…」
「まぁね。ママもアタシも意地っ張りだし、なまじ稼げるもんだから、やったらぁ!って思うのよ」
「そこんとこの金銭感覚はやっぱりついていけねぇな」
「それに返すのは目的じゃなくて、手段だし。やっぱりさ、他人じゃないのよね、あいつ…」

大河に幸せなクリスマスの記憶を刻んだ、家族の原型。3人で過ごした当初はきっと楽しい時もあったに
違いない。その父親に酷い目に合わされて、大河はどんな思いでいるのだろう。

「ねぇ竜児、まさかみんなでお金出すなんて話、してるんじゃないでしょうね?」
「それは無い。社会人1年目でどうにかするって額じゃないしな。まぁ1人を除いては、な」
「ばかちー、ね。"亜美ちゃんのヌードは3憶円よ”なんて言ってるかと思ったけど」
「なんでお前分かっ…」
「言ったのね。冗談のつもりだったんだけど、あのバカ…」
口では悪態をつきながら、大河の目は慈しみに満ちていた。

「ねぇ竜児… 何かいい方法、あるかな?」
「北村が言ってた。相手のルールに合わせる必要はない、って。俺もそう思う。そもそもまともな話じゃ
ないんだから、普通に返すとかじゃなく、根っこから変えていく方がいいと思っている」
「根っこからって?」
「そこは俺もまだ思いついていない。でもみんなでいろんなピースを持ち寄って考えれば、今までと
違う方法が見つけられると思う」
「うん… そうなるといいね…… ねぇ、竜児、ちょっと肩借りていい? なんか眠くなってきちゃった」
大河は小さなあくびを1つ。「はわわわわ」と言いながら、小さな手のひらで口を押さえている。
その様子がまた、可愛い。

「眠れなかったのか?」
「4時ぐらいかな? 早くに目が覚めて、アンタの顔見てたら、眠れなくなっちゃった…」
「そ、そうだったのか? よくこんな顔眺めてて退屈しなかったな…」
「退屈なんかするわけない、だって久しぶ… いや、何でもない…」
「…ああ、いいぞ。まだしばらくかかるんだろ。ゆっくり眠れよ」
「う…ん… ありがと」

朝の穏やかな光に直接照らされても、眠気には勝てないらしい。色素の薄い、長い睫毛が金色に輝きながら、
ゆっくりと合わさると同時に、大河がゆっくりと竜児の方に傾いてくる。

「大河はさ、隠れてなんている必要はない。堂々と光の中を歩めばいい。きっとそうなるから…」
「りゅう…じ… そのセリフ… クサ過ぎ……」
そう呟くと、大河はすぅーっと柔らかな寝息を立て始めた。


* * * * *


「お二人さん、着いたよ」
タクシーの運転手が、2人に声を掛けてきた。
大河が眠ってしまった後、寝付きが悪かった竜児も眠気の波に飲み込まれ、2人は手を繋いだまま、
一緒に眠り込んでしまったのだ。窓の外を見ると、日はすっかり昇り切り、さわやかな朝の陽射しが
あたりに降り注いでいる。

「お金払っとくから、早く降りて」
大河に促されて外に出ると、竜児の正面には陽光きらめく海、右手には多数のヨットが浮かぶマリーナが
あり、奥に小さな遊園地らしきものも見える。反対側には南欧風のデザインと大きなガラスドームを持つ
瀟洒な建物が、澄みきった空の下に映えている。竜児は自分がひどく場違いな所に来ている気がしてきた。

「ここはどこだ…?」
「説明はあと、ほら、さっさとみのりんの車を探して」
タクシーから降りてきた大河が駐車場を指差しながら言った。
「え?」
「2人はみのりんの車で移動してるんでしょ? ここに泊まってたら、その車があるはず、そんなことも
分かんないの? 竜児」

竜児が慌てて駐車場を見渡すと、高そうな車が並ぶ中、ちょっと場違いな白いライトバンが1台、
遠慮がちに端の方に止まっていた。
「あれだ!」
クマの頭を掴んだまま小走りで車に駆け寄り、窓から覗き込むと竜児の衣類を入れた紙袋がポツンと
荷室に置かれている。

「ったく、櫛枝も不用心だな…」
「誰もあんたの服なんか盗まないわよ。無事だったんなら、細かいことは言わないの」
大河がケータイをコートのポケットに仕舞いながら、竜児のあとを追ってきた。
「財布もケータイも入ってるんだよ… しかし大河、川嶋と櫛枝がここにいるって、よくわかったな」
「大したことないわよ。ちょっとした知識と推理。セレブ気取りのばかちーがありきたりのホテルに
泊まるはずないからね。みのりんの”すっげーいいとこ”でピンと来たのよ」

腕を組んで、偉そうに胸を張る大河を見ながら、竜児はその成長っぷりを再び目の当たりにする。
勘も読みもずいぶん進化したようだ。おかげで助かったのだけど… 

「さて、竜児。作戦立てるわよ」
「作戦?」
「今、2人のケータイ鳴らしてみたけど、さっきと同じだった。こうなったら叩き起こすしかないと思う」
「2人が起きるのを待ってもいいんじゃないか? メッセージとか入れてもらって」
「そんな悠長なこと言ってていいの? 私はイヤよ。時間はできるだけ無駄にしたくないの」
「分かったよ。お前がそう言うなら…」
「いい、ここはただのホテルじゃない。エステとかサロンとか何とかテラピーとか、ちょっと金持ってる女が
身体を磨きに来るとこなのよ。男はカップルじゃないと入れない。ましてや凶悪ヅラのあんたなんか、本来、
一生縁のないところよ」
「2人で入れば、一応、俺達もカップルだろ」
「一応じゃないでしょ。とにかく、"友達に会いに来ましたー"って訪ねても、簡単に会わせてくれるわけ
ないから、私の言うことをよく聞いて…」
ごにょごにょと大河が耳打ちしてくる。さっきから散々な言われようだが、ここは大河に任せるしかない。
「じゃ、行くわよ、竜児。早くクマを被って」


* * * * *


「だーかーらー、友達だって言ってるでしょ! 早く部屋に案内しなさいよ」
朝の静かなホテルのフロントで、大河の声がひときわ高くなる。
朝食の時間にはまだ早く、フロントにはホテルのスタッフが1人だけ。宿泊客の姿は無い。

最初は、“昨日パーティで賭けに負けて、罰ゲームでこのクマを連れていかなくちゃいけないんです!” 
と変な理由を作って、バカ丁寧に頼んでいた大河だが、相手が返事を渋っているうちに、ガマン出来なく
なってきたらしい。といっても以前の暴虐さに比べると、25分の1ぐらいに希釈されているが。

「ケータイに掛けたけど繋がらないって言ってんでしょ?。内線掛けても受話器を外されたみたいだし」
「ですから、もしお客様がご友人で間違いないとしても、直接、確認できないとご案内は出来かねます…」
クリスマスの朝に厄介なことを…という表情丸出しのフロント係は、川嶋亜美が宿泊していることを
何度かのやりとりでしぶしぶ認めたが、部屋に案内することは何とか回避しようとしている。

ホテルとしてはもっともな対応だよなぁ… 竜児はクマの中で成り行きを見守りながら、思っていた。
ましてや、有名人相手にトラブルになったら、大問題になるかもしれない。だが、いつまでもクマの
恰好でいるのも困りものだ。

「だから間違いないって、何度言わせれば気が済むの?」
そう言うと大河はケータイを開いて、カウンターの上に置き、待受画面をフロント係に見せた。
亜美のケータイのものと同じ、高校の卒業式の夜、弁財天国での打ち上げの時に撮った画像だ。
「ほら、これが私、こっちがばか、いや川嶋亜美、私たちは友達。分かるでしょ!」
大河の居場所を見つけるきっかけとなった画像。離れていても、互いを結びつけ合う絆がここにもあった。

「大河、それ…」
竜児は声を掛けるが、なおも渋るフロント係に大河はだんだんヒートアップしていて、耳に届かない。
「朝、起きた時にこのクマが準備できてなかったら、罰金なのよ! どうしてくれんの?」
と、このままではフロント係を振りきって飛び出し、客室を片っぱしからノックして回りかねない。

竜児は一歩前に出て、大河の肩を掴むと自分の方に振り向かせた。
「なによ!」
「大河、作戦変更だ。次は俺に任せろ」
「竜児?」
駐車場では、”あんたが凶悪ヅラ見せたら、ややこしくなるから、クマ被って立ってるだけいい”と
言っていた大河だが、これ以上任せっぱなしという訳にはいかない。竜児はもう一歩前に出て、
クマの頭をゆっくり取ると、フロント係を軽くひと睨みした。
「ひっ…」
フロント係が小さな悲鳴をあげる。だが、竜児はもうこんなことではいちいち傷つかない。
相手の目をじっと見ながら、声を低くしてゆっくりと話しかける。

「あんたの言うことはもっともだ。が、川嶋亜美の評判を聞いたことがあるだろう? 俺は彼女を
よく知っているが、もし自分の友人が冷たくあしらわれた…と聞いたら、怒るだろうな… 凄く」
竜児は一旦、言葉を切って、相手が勝手に想像力を働かせるのを待つ。今まで話したことの無い口調。
元ボクサーに自分が脅された時をイメージしていた。

「忠告しとくが、女優やモデル仲間の噂を甘く見ない方がいい… さて、どうするのがいいと思う?」
亜美の評判を竜児は知らないが、芸能人の悪い噂って、こんな風に広がるんだろうな… 川嶋すまん…
と心の中で亜美に詫びながら、竜児はフロント係に向かって、一層、目を眇めた。
「ち、ちょっとお待ちください… 今、支配人と確認して参りますので」
フロント係は急に額に汗を浮かべると、カウンターの奥の部屋に引っ込んで行った。

振り返ると、大河が目を丸くして、ぽかんと口を開けていた。見たことの無い竜児の姿だったのだろう。
「駆け引きはこういう風にやるもんだ。大丈夫、きっとうまくいく」
「わ、私だって、次はそういう風に言おうと思ってたわよ…」
大河が拗ねたようにぷうっと頬を膨らませる。
「お前が先に色々情報をインプットして騒いだのが良かったんだ。いいコンビネーションだったよな」
「え? あ、う、うん…」
2人の連携がうまくいって嬉しいのか、大河の膨らんだ頬に笑みが広がってくる。
「ほら大河、どうやら支配人とやらが出てきたぜ…」
竜児が大河の前に拳を突き出すと、大河は嬉しそうに自分の拳をコツンと当てた。


* * * * *


結局、竜児と大河、支配人とフロント係、客室係の2名を加え、総勢6名の一行で、亜美と実乃梨の
泊まる部屋に向かうことになった。ホテルの人間が男ばかりなのは、万一何かあった時、力づくで
押さえつけるためだろう。4人がかりで大河を止められれば、だが。

「あの、くれぐれも騒ぎになりませんよう、あと、今回の対応はご内密に…」
揉み手をせんばかりに支配人が竜児に声を掛けてくる。ちょっと脅しが効きすぎたようだ。
友達を訪ねるだけなのに、さすがに竜児も引け目を感じる。

念のため、スタッフの1人が部屋のドアをノックしてみたが、予想どおりなんの反応も無い。
「鍵、開けて」
大河が短く言い放つ。今度は誰も反論せず、マスターキーのカードがドアノブの上の孔に差し込まれる。
カチッと乾いた音が解錠を知らせた。

「竜児、アンタはここでステイしてなさい。いくら親友だからって、年頃の乙女の寝姿をむやみに
見せるわけにはいかないからね。あ、あんたたちもね。何があっても、勝手に入ってきちゃダメよ」
大河はホテルのスタッフをジロリと見回すと、ドアを開け、すたすたと中に入っていった。

奥は結構広いのだろう。戸口から様子を伺うと、人が動いている気配を感じるが、声はよく聞こえない。
やはり2人ともぐっすり眠り込んでいて、大河が呼びかけても、目を覚まさないのだろうか…
と思った瞬間だった。

「うぉおおおおらぁあぁあ、起きろぉぉぉぉ!!!!!」
虎の雄叫びが部屋中に響き渡った。

「えっ、なに? なになになに? 痛っ! だ、だれだれだれだれ?!」
「うわーぉ、茶色のふわふわ妖怪だ! だー、よーしよしよしよし」
「ほらぁ、起きて! あんたたち、いい加減、目ぇ醒ませっつうの!」
「ちょ、ちょ、い、痛い痛い、って、タイガー? なにしやがんだこの野郎っ」
「おう、朝からいい気持ちのいい張り手だねぇ!」

支配人が部屋の奥を指差しながら、泣きそうな顔で(ほ、本当に大丈夫なんですよね…?)と目で訴えて
くるが、飛び込んでいって、寝間着姿で悲鳴を上げられても問題になるので動けない。
「いや、た、たぶん、だいじょうぶと思…う…」
竜児もちょっと自信なさげに答える。

雄叫びと叫び声はすぐに治まり、変わって静寂が部屋を支配した。
「?」
竜児は首を傾げる。静寂のあとに聞こえてきたのは、すすり泣く様な声、それも複数。
まさか大河の一撃がそれぞれの急所に入って、泣いてるわけ…じゃないよな?

ホテルのスタッフに目配せして、ここに待つように告げつつ、竜児は恐る恐る部屋の奥に入っていく。
クローゼットやパウダールームがゆったりと作られていて、ベッドルームへの通路は思いのほか長い。

「大河! 櫛枝! 川嶋!」
やっと空間が広がったところで、竜児は3人の名前を呼んだ。

2つ並んだクイーンサイズのベッド。その間に3人は立っていた。
大河を真ん中に実乃梨と亜美が肩を寄せ、抱き合ったまま、3人共泣いていたのだった。
大河が涙声で2人に告げている。
「みのりん、ばかちー、2人の活躍、ずっと見てたよ。凄く励みになった。おかげで頑張れた…」
「あんたは、頑張りすぎなのよ」
「あーみん、いいじゃん。こうして大河は帰って来たんだし。それに大河があーみんのこと素直に
褒めるのって、珍しいよ」
「まぁね。って、それ、いつも私がバカにされてるってこと?」
「大河はさ、私達の輝きをちゃんと見てくれてたんだ。それだけでもう何も言うことは無いよ」
「まーた、実乃梨ちゃんは恥ずかしいセリフを…」

竜児は戸口の方を振り返ると、腕で大きく◯印を作って、スタッフに無事を知らせるのだった。


* * * * *


「竜児、おかわり! もう1回取ってきて」
「おまえなぁ、朝からどんだけ食うんだよ。もう4回目だぞ」
「あら、ここの食事はちゃんとカロリーコントロールされているから、ちょっとくらい多めに食べても
太ったりしないわよ」

ホテルのレストランの個室で、4人は朝食のテーブルを囲んでいた。
感動の再会のあと、竜児はようやくクマの着ぐるみを脱ぐことができ(車の中で着替えさせられたが)、
身だしなみを整えた実乃梨と亜美、2人を待っていた大河とレストランで合流したのだった。
ホテルは、女優である亜美と地元ソフトボールチームの選手として名が知られている実乃梨に配慮して、
個室を用意してくれたのだが、朝食はビュッフェスタイルなので、誰かが取りに行かなければならない。

「そういう問題じゃねぇ。俺はお前らの食い物を取りに行ってばっかで、ちょっとしか食ってねぇんだよ。
たまには自分で取りに行けよな」
「あら、ばかちーやみのりんが出てったら、大騒ぎになるわよ。私もできるだけ人目を避けなきゃねぇ… 
ということで、この役目ができるのは竜児だけ。お願いね。そろそろデザートもいいかしら?」
「ったく。やれやれだ…」
最初から負けとわかっているが、一言いわずにはいられなかった竜児は、立ち上がって個室を出ると
朝食の品々が並べられたテーブルに向かっていった。

「相変わらずだねぇ、キミたちは…」
「ホント、その変わらなさに感心しちゃうわ。あんたたち、実はこっそり会ってたんじゃないの?」
テーブルの向こうでは、実乃梨と亜美が呆れたように、大河と竜児のやり取りを見守っていた。
「んなわけないでしょ。ばかちー、何言ってんの?」
「ったく、人が心地良く眠ってるのに、ぶん殴って起こしやがって」
「あら、優しく声を掛けてあげてる時に、起きないそっちが悪いんでしょ?」
「まぁまぁおふたりさん、そんな君たちの姿も相変わらず、だぞ!」
「実乃梨ちゃん、そんなことないでしょ? こんなチビトラと一緒にしないでよ!」
「へへーんだ。みのりんも変わらず、私の味方だね」
「おうよ! マイハニー」
「ちょ、ちょっと、私だけ悪者? なんで?」
「べーっ、だ」
大河が亜美に向かって、あっかんべーをして、2人が掴み合いになった時、皿いっぱいに4人分のデザートを
載せて、竜児が戻ってきた。
「こぉら、お前ら仲良くしろよな。ほら、豆乳ケーキに寒天を使ったゼリーとプリン、ヨーグルトにフルーツ
パンチ、飲み物は櫛枝は苦目のコーヒー、川嶋は紅茶でいいよな。大河にはミルクたっぷりのカフェオレだ」

「「「うわぁぁぁ、おいしそうぅぅぅぅ!!」」」
3人が目を輝かせながら、一斉に身を乗り出してくる。
「お前ら、高校の時とまるっきり変わんねぇじゃねぇか? ま、確かにカロリーは低そうだな。牛乳や
ヨーグルトはローファットのものを使っているらしいし、ありがちなダイエット食品と違って、見た目も
美味しそうだ。俺もちょっと挑戦したくなるな…」
「うっさい、ごちゃごちゃ能書き垂れてると、アンタの分も食べるわよ」
「おい待て、大河。デザートまでおあずけにするつもりかよ…」


* * *


食後のドリンクをすすりながら、ようやく大河が真剣な顔で切り出した。
「で、次はどう動く? 竜児はまだ具体的な方法を思いついてないって言ってたけど…」
「わりぃ、川嶋、櫛枝。それを話しあう為に大河は母親の制止を振りきって、今日ここにやってきたんだ」
「私は、ばかちーの貧相なヌードなんか見たくないんだからね」
「高須君、喋ったの?」
「あ、いや、あの、ちょっと誘導尋問に引っかかっちまって」
「…ったく、余計なんだから。ていうか誰のヌードが貧相だって? いい、タイガー。ちゃんと考えてるわよ。
昨日実乃梨ちゃんと話して、だいぶ固まってきたんだから。亜美ちゃんのアイディアに驚きなさい……」


亜美のアイディアを大河と竜児はじっと聞き入っていた。
実乃梨の相槌と補足を挟みつつ、10分足らずで話は終わった。
「どうよ? このプラン、完璧でしょ?」
「…川嶋、本当にそんなことできるのか? それにリスクが高過ぎねぇか?」
「何言ってんの? 亜美ちゃんが嘘つくわけねぇし…」
「それに高須君、これぐらいやんなきゃ! だよ」
「ねー、実乃梨ちゃん」「おうよ、あーみん」
亜美と実乃梨は、顔を見合わせてニッコリ。これで決まり、という勢いだ。

「た、大河はどうだ…?」
「ばかちーの言う通りに事が進むか、私には分からない… 願望もあるしね。でも腹ぁ括ったからには
なんだってやったるわよ… それに竜児、あんたの言ってたことにも合うんじゃない?」
「そ… そうか…」
「ほら、タイガーがいいって言ってんだから、これで進めようよ… 高須君が慎重なのは、性格的にも
立場的にも分かるけど、他の選択肢ってそう無いと思うよ」
亜美が竜児の目をまっすぐ見つめながら、声を低くして言った。こういう時の亜美が本気だということは、
竜児も長い付き合いで良く理解している。

「また、みんなで話そうよ。北村君や能登君たち、狩野先輩にも意見を聞いてみればいいよ」
実乃梨が出した助け舟で、ようやく竜児も頷くことができた。
「わかった。大河、一度皆で話し合ってもいいか? 年末にでもまた集まって、このアイディアにもっと
詰めてみたい。結果はまた伝える」
「私はいいよ。ただ、問題がある」
大河の目に一層の力がこもる。大河が誰かの為に動く時、誰かを守りたい時に見せる目だと竜児は感じた。
「なんだ?」
「ママよ。今回の件の全てを分かっているのはママだけ。ママの協力がなかったら、実現は不可能だし、
やるなら、きちんと話して分かってもらいたい。私はこうしてみんながいるし、じっとしてるより、
動く方が性に合ってるけど、ママは大人な分、さっきの竜児以上にリスクを避けたいと抵抗すると思う。
そこをクリアしない限り、先には進めない…」

大河のお母さんを説得? 無愛想と相手の心のえぐり方では、娘が見習いに見える程のあの母親を? 
それぞれ何らかの接触機会があった3人は同じことを考え、それがいかに難しいことかを瞬時に理解した。

「タイガーなんで? だって今の状況から抜け出せるんだよ?」
「その分、リスクはあるでしょ」
「最初の関門は身内、かぁ…」
実乃梨が気付かなかったとばかりに呟く。
「亜美ちゃんは遠慮しとくからね。身内の説得は身内、よね」
「もちろん、私もやるわよ。でもちょっと、自信ないかも…」
日常を共に過ごしている肉親だからこそ、異を唱えにくい…と大河の声が消え入るように小さくなる。

「大河、俺にやらせてくれないか?」
竜児がきっぱりとした声で言った。
「竜児が?」
「あらぁ? さっきは反対とか言ってたのに?」
「ちゃかすなよ、川嶋。いずれにしろ、俺達は行動を起こす。それを理解しておいて貰わなきゃいけない。
なぁ、大河、正月は家にいるか?」
「もちろん。仕事もお店も3日までお休みだし、どこかに出掛けることは無いから、ママの家に居るけど…」
「じゃあ、元旦は色々あるだろうから、2日はどうだ? 俺が大河のお母さんと話す」 
「ママの所に来るの?」
「ああ。お前はお母さんを説得しようとするな。川嶋の計画も話さなくていい。ただ、俺が一度会って
話をしたい、と言ってることを伝えてくれないか?」
「…分かった。帰ったらママに話してみる。でも…大丈夫?」
「心配すんな、考えていることはある。勝算なんて分からないけど、ぶつかってみるよ。細かいことは
みんなと話してから、な」
「う…ん…」
「おうおう、さすがは高須君! 漢だねぇ!」
張り詰めていた空気がほぐれて安心したのか、実乃梨がいつもの調子で明るく声を張り上げた。
亜美も余計なことは言わずに黙って頷いている。


「今日話せることはここまでよね!」
大河が急に明るい声を張り上げた。
「お、おうっ…」
「じゃ、ばかちー、案内して」
「案内するって、どこよ?」
「決まってるじゃない、エステよ、エステ。ただ朝ごはん食べて、喋るためだけにはるばるタクシー
飛ばして来る訳ないでしょ? 馬鹿じゃないの?」
「「「はぁ?」」」
竜児、実乃梨、亜美の声が綺麗なユニゾンで揃った。

「いやー、一度来てみたかったのよ、ここ。昔はママとよく行ったけど、ここんとこ、エステはご無沙汰
だったから、いい機会だわ。みのりんは今日練習ないよね?」
「我がチームの筋肉乙女達も、クリスマスに練習したら、さすがにブーイングだぜ…」
「じゃ、一緒にやろ。ばかちー、まさか泊まっただけで帰るなんて言わないわよね。ばかちーがいれば、
VIP待遇で人目にも付きにくいし…」
「ちょっと待った。大河、駐車場で時間を無駄にしたくないって言ったのは…」
「私達をぶん殴って起こしたのは…」
「だーかーらー、日が暮れるまでにママのところに帰らなきゃいけないんだから、それまでに頭のてっぺん
から足の先まで磨くわよ。ほら、ばかちー、さっさと案内しなさい!」

「「「たっ、たいがぁぁあぁぁあー!!!」」」


* * *


「竜児、アンタもやってもらったら? その凶悪ヅラがちょっとはマシになるかもよ?」
という大河の誘いを丁重に断わり、エステだかなんとかテラピーだかに楽しげに向かう3人を見送った後、
竜児は、朝食の時間が終わって、ひと気のないレストランの席に座った。

北村や能登、春田に奈々子と連絡を取り、大河の無事の報告と次の集まりについて相談する。
幸い、皆、大晦日の夜は空いている様で、また弁財天国に集合することが決まった。
能登が少し気になる報告をしてくれたが、詳しくは竜児が大橋に戻ってから聞くことにする。

「どうせ今頃、大騒ぎしてんだろうなぁ、あいつら…」
大河と亜美のどつきあいに実乃梨が引っかき回す様子を思い浮かべ、竜児は目を細め、口元を軽く歪ませる。
10m程先でホテルのスタッフが「ひっ」という短い悲鳴をあげたが、竜児の耳には届いていない。

ツヤツヤになった3人が戻ってきたのは、昼食を挟んで、たっぷり半日あとの午後半ばだった。
亜美は映画の宣伝のスチル撮影があるから、と仕事の顔に戻ると、さっさとタクシーに乗り込み、
「高須君に会えたからって、気ぃ抜くんじゃないよ」
と大河に言い残し、駅に向かって去って行った。

「じゃあ、我々も行きますかね… 家まで送るよ、大河」
実乃梨の声をきっかけに、3人はライトバンに乗り込んだ。


* * * * *


「大河、お母さんの家はこのあたりかい?」
地図を確認しながら、実乃梨がゆっくり車を路肩に寄せる。
「うん、この先は道が狭いから、ここでいい。すぐだから大丈夫。ママに見つかっても厄介だし…」
そう言いながら、助手席に座っていた大河は、後部座席の竜児の方を振り返り、少し寂しげな表情を見せる。

「よし、大河、高須君。必ずまた会えるけど、しばしのお別れだ。みのりんは、ちょっくらコンビニで
飲み物を買ってくるから、その間、ゆっくりと名残りを惜しみたまえ!」
「ちょっ、みのりん!」「おいっ、櫛枝!」
実乃梨はひらりと車を降りると、振り返る2人の呼び掛けも聞こえないかのように、車の後方にある
コンビニへと駆け出して行った。

「あいつは余計な気を回しやがって… なぁ、たい… おうっ!」
竜児が視線を前に戻すと、振り返ったまま、もじもじと俯いている大河がそこにいた。
顔が赤く見えるのは、車の中まで差し込む西日のせいだけではないだろう。

「…ったく、大河、ほら…」
竜児は背もたれに置かれた大河の指先に、そっと自分の手を重ねた。
「へっ…?」
慌てて顔をあげた大河は、竜児の顔が思いのほか近いのに驚き、さらに顔を赤く染める。
一瞬見つめ合った後、大河のまぶたがゆっくりと閉じ、同時にあごの先がわずかに持ち上がる。
竜児はその小さな唇に、自分の唇をほんの1、2秒だけそっと重ねた。
昨夜の、求め合う強いキスではなく、約束を確かめるような、優しい、穏やかなキス。

唇が離れた後、互いの視線を重ね合わせる。竜児の手が大河の指先を軽く包む。
「じゃ、また来週な」
「うん、待ってる!」
次に会う日を約束できる。その嬉しさで2人の胸ははち切れんばかりになっていた。

コンビニを出て、歩いてくる実乃梨の姿が視界に入ったのだろう、大河が視線を外し、実乃梨に向かって、
大きく手を振った。
「みのりん、戻ってきたよ。じゃあ行くね、竜児」
「気をつけて帰れよ。あと、くれぐれも無理はするな」
「分かってる。ママと話したら、また連絡するから」
「ああ」
大河は助手席から車をするりと降り、竜児も後に続いた。

「やあやあ、おふたりさん、儀式は済んだかね」
「みのりーん、そんな風に言われると恥ずかしいよ〜」
赤くなった顔を隠すためか、大河は実乃梨の胸にドーンと飛び込んでいく。
実乃梨は「よーしよしよし」と言いながら、大河の髪をわしわしとひとしきり撫でまわすのだった。


* * * 


「じゃあね。またね」
「うん、またね」 「またな」
短い言葉を交わした後、大河は歩き始めた。少し進んでは振り返り、また進んでは2人の方を振り返る。
まるで今日の出来事が夢でなかったことを確かめるように。

「あいつ、あんな歩き方してたら、また転ぶぞ、ドジの癖に」
「大丈夫だよ、大河なら。凄く… 大人になってた」
竜児と実乃梨は、少しずつ小さくなっていく大河の姿を見つめたまま、肩を並べていた。

「そうだな。 ところで櫛枝、気ぃ使わせて、済まなかったな…」
「こっちこそ、なんか焚き付けちゃってごめんね。大河の幸せそうな顔、見てみたかったんだ…」
「そうか…」
「良かった。本当に良かった。でも本番はこれからだね…」
「ああ」

路地の角に差し掛かった大河は、2人に向かって大きく手を振ると、母親の家に向かって駆けて行った。




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