「ふぁわ〜・・・」
「・・・大河?」
「え?・・・ああ、ごめんね・・・何の話だっけ?」
「文化祭の話だった・・・おまえ、ちゃんと寝てるのかよ?」
やや非難のニュアンスを含んだ竜児の声を聞きながら、大河はやっちゃった感ををありありと味わっていた。

いつもの竜児との定時連絡。
一日の中でいちばん楽しい時間になるはずなのに、大河は少しボーっとしてしまったのだ。
10秒か20秒・・・一瞬だったけど大河は竜児との電話で居眠りをしてしまった。
おかげで、直前までの竜児のとの会話が噛み合わなくなり、あまつさえあくびまで聞かれてしまい、言い訳の余地が見つからない。

大河が寝不足だったのはこのところの睡眠時間がずっと6時間を切っていたことによる。
体は激しく睡眠を求めているのにも係わらず、大河は自分の意思でそれを抑えつけているのだ。
そんな思いをしてまで大河が毎日、夜更かししているのには訳がある。
それは来るべきクリスマスに向けてセーターを編んでいるとかいう甘い物でもなければ、オンラインゲームにはまってしまい、連夜パーティを組んでモンスターを狩っているからでもない。
目下、大河の愛読書は参考書やリーダーのテキストの束になっていると言えば、大河の置かれている環境が薄々、見えて来るだろう。

昨夜も、家の中が寝静まった静寂にひとり大河は机に向かい、英単語の羅列の眺めながらシャーペンを走らせていた。
やや猫背な姿勢の大河の耳には小ぶりなヘッドホンが覆い被さり、そのパッドの中では繰り返し流れ続ける英会話のセンテンス。



夏休みに大河はやや無謀とも言うべき約束を父親と交わしていた。
ふとした流れで通訳を目指す決意を固めた大河はその道への第一歩として外国語学部のある大学への進学を考えたのだ。
調べれば、苦労しなくても合格圏内にある大学はいくつか見つかった。
もちろん、それは地元の福岡の近くにもあるが、その多くは東京に集中していた。
・・・東京の大学。
大河にとってそれは非常に魅惑的な響きだった。
言うまでも無く、竜児の近くへ行けるからだ。
大河の心は東京へ大きく傾く。
これならば竜児が迎えに来るのを待たなくても、竜児の側へ行ける切符を手に出来るのだ。
その一方で、そんな事を許して貰えるのかと言う不安が大河の心に湧き上がる。
大河がここへ来たのはやり直す意味もあったし、何より竜児とのことを祝福してもらいたいと言う思いがあったからだ。
一緒に暮らし始めてまだ半年・・・。
それなのに家を出たいって・・・そんなこと。
大河は気持ちが乱れるのを止められない。




10日あまりも悶々としたものを抱えながら大河は気持ちの整理をつけられないでいた。
そしてさんざん考え抜いて大河は答えを出した。

・・・少しでも竜児の近くへ行きたい。
・・・でも、そんなことを言い出すのは、私のわがまま。
・・・だけど、認めて欲しい。
・・・真剣なんだよ・・・って。

大河は学校名の入った受験パンフレットを父親の前にそっと置いた。
・・・ここへ、行きたいの。
パンフレットに記された東京の四谷にある名門私立大学の名前。
外国語学部難易度一覧と記された参考資料のトップに並ぶその校名。

クラスメートとの会話から通訳を目指す気持ちになったこと。
竜児だけじゃなくて自分も何かがんばりたくなったこと。
こんなお願いわがままだって十分、わかっていること。

顔をうつむけ、ひざの上で手をぎゅっと握りながら、大河は言葉を選び、自分の気持ちを余すことなく語った。
「どうしてここなんだい?」
大河の話を最後まで聞き終えた父親はそう聞き返した。
この問いに大河は明確に答える。
「いちばん、難しいから」
レベルが高い学校じゃないとがんばる意味が無いと大河は言い切る。
それにと大河は付け加える。
「私・・・お金なんて持ってないし」
私立大学の学費、東京での生活費・・・。
アルバイトで稼ぎ出せるほど甘い物じゃないって大河は理解していた。
いざとなったら母親に泣きつくという選択肢は大河の中に初めから入っていない。
父親に認めてもらえなければこれは意味がないのだ。

優しくしてくれる義理の父親。
一度は同居を拒んだ相手。
それでも目の前の人は自分を娘だと言ってくれた。
それなのに自分は東京へ行きたいと言う。
愛する人の下へ、近付きたいって言う下心はどんなに糊塗しても透けて見えてしまう。
だから、これは大河なりに出した交換条件。

トップレベルの学校に受かったら、東京への進学を認めて欲しい。
もし、ダメだったら・・・地元に残る。
それが大河が父親に出したお願いだった。

「わがまま言って学費まで出してもらうんだから・・・いちばん、じゃないと」

じっと父親を見上げ、答えを待つ思いつめた大河の表情。
許して欲しい・・・言葉にはしないものの大河は全身を使ってアピールしていた。
そんな大河を見つめながら父親は内心、嬉しさが混み上げて来るのを抑えかねた。
・・・まったく、この娘は・・・。
それでも年の功で、表情を崩すことなく、大河におもむろに告げた。
・・・そう言うことなら、反対はしない・・・と。




それから受験勉強を始めた大河だったが自分がどれだけ学力不足なのかを思い知らされることになった。
受けた模試の結果に記された「D判定」の文字。
考え直した方がいいんじゃないのとおせっかいなことを大河に伝えて来る。
思わず判定用紙を破り捨てたい衝動に駆られた大河。
その判定用紙は今、大河の勉強机の前に貼り付けられている。
大河なりに自分を鼓舞する糧として・・・。
国語や社会の選択は僅かな努力で何とかなりそうと見当が付いた大河だが、肝心の英語が難関だった。
・・・もっと、ちゃんと勉強しておくんだった。
後の後悔なんとやらだが、大河は残り少ない時間に全てを掛けてチャレンジを始めた。


そんな大河は竜児に「通訳」のつの字も言っていない。
黙ったままにしていた。
全て上手く行ってばら色の未来が開けていると思うほど大河は楽観していない。
どんなに甘く見ても7割近い確率で失敗する可能性の方が高かったからだ。
そんな実現が危ういことを竜児に告げ、変に期待させるのも嫌だったし、なによりもこれは大河自身の戦いでもあったのだ。
だから大河は竜児に進路はどうするんだと聞かれた時、こんな風に答えている。

「花嫁修業よ」
「花嫁?」
「うん。クッキングスクールとか行こうかなとか思って」
「なんで、また?」
「ほら私って料理とか駄目でしょ」
「・・・まあな」
「少しは否定しなさいよ」
「事実だろ」
「・・・ぐっ」
「わりい、怒ったか?」
「これくらいで・・・怒らないわよ」
台詞と裏腹に口調が刺々しい大河。

「・・・がんばれよ、出来るさ。大河にも」
一瞬の間を置いて竜児がつぶやくように言う。
竜児のその声に大河は胸を突かれる。
・・・ホント?竜児・・・私にも出来る?
「大丈夫、わからねえことがあったら、全部、俺が教えてやる」
電話口で竜児はあくまでも料理全般について言っているのだが、大河には違って聞こえた。
受験への応援・・・大河にはそう聞こえたのだ。
大河の勝手な解釈だけど、それ以来、勉強が苦しくなるたび、大河は竜児がその時言った台詞を脳内再生している。






「昨日、何時に寝たんだよ?」
竜児の追及に大河は当たり障りのない回答をでっち上げた。
「ちょ、ちょっとだけ夜更かし、しちゃっただけ・・・借りて来たDVDがつい面白くて」
全然、平気・・・大丈夫だからと大河はこの話を強引に打ち切る。
夏休みから始めた大河の受験勉強。
スタートダッシュで飛ばし過ぎた疲れのピークがちょうど来ている頃だった。
大河は注意しなきゃと自分を戒める。
・・・竜児に心配掛けたら何の意味も無い。
そっと目を閉じて、小さく大河は深呼吸する。
そして出来るだけ明るい声を出して、話を続けた。

「そう言う竜児こそ、寝てるの?」
「おう、完璧だ・・・忙しい文化祭もこの間、終わったしな」
「ああ、そのことで北村くんに文句、言っておいたからね」
「おい、あれは俺が勝手にやったことだ・・・北村は関係ねえ」
「はいはい、竜児はお人よしなんだから」
「そんなことねえだろ」
「あるわよ・・・生徒会の合宿まで付き合って、あれこれ手伝うなんて・・・今がいちばん大事な時期でしょ」
自分が辛いだけに大河の声に力が入る。
「そう言うなよ・・・去年以上の文化祭にしたいって言う北村の気持ち・・・無下には出来ねえだろ」
「もう、竜児は甘いんだから」
文句を言ってる大河とて本当に竜児を非難しているわけではない。
むしろ、大切な時期を投げ打ってでも文化祭の成功に助力した竜児を誇らしいとさえ、大河は感じている。
だから、文化祭打ち上げの日に電話で竜児には素直にこう言った。

ほとんど徹夜を3日近く続け、フラフラになりながらも大河が掛けて来た定時連絡に応答する竜児。
・・・上手く行ったの?
・・・ああ、大成功さ。
・・・良かった・・・あんた、頑張ったわ。
・・・さんざん、手伝いに反対してたくせに・・・
・・・あれは・・・竜児が・・・
・・・ま、いいさ、大河にそう言ってもらええば、満足だ。
・・・ばか。
・・・ん、照れてるのか?
・・・照れてなんて無い!
・・・大河。
・・・何?
・・・ありがとな。

そのひと言で、ホントに赤面してしまった大河。
竜児・・・と心の中で大河は呼び掛ける。
好きになってくれて、ありがとう。
大河は声に出さず、電話口でつぶやいた。

その竜児は文化祭の準備でずっと忙しくて、話もゆっくり出来なかったからなと言い、それを埋め合わせるため今日は何時まででも付き合うぞと宣言した。
そんな竜児に大河は「今日は駄目」とおどけた調子で伝え、寝てないんだから早寝しろと言い残して電話を切っている。



後日、「ヤッホー、大河!高須くん、かっこいいでしょ!!BYみのり」の本文と共に大河の携帯に送られて来た写真。
文化祭のひとコマ・・・写真の中に居る竜児。
体育館のステージの上で、戸惑った様な様子を見せながらも嬉しそうにしている竜児の姿がそこにはあった。
それにしても、竜児の格好・・・と大河は笑みがこぼれるのを抑えれらない。

ミス大橋だけじゃ男女差別だ、今年はミスター大橋もやるぞと言う北村の発案で付け加えられた企画。
女子と違い、自分がイケ面だと自惚れる男子は少なく、ミスター大橋の方は出場者が不足気味。
盛り上がりに欠けることが見込まれた。
何事も完璧にしたい北村は「高須、この通りだ」と両手を竜児の前で合わせた。
何のことだよと訝る竜児に北村はミスター大橋への出場を依頼する。

ずっと断り続けた竜児だったが、生徒会特別推薦枠と言うわけの分からない資格で、文化祭当日いきなり自分がエントリーされていること知る。
・・・盛り上げるためだ、悪く思うな、高須。
悪代官の様に笑う北村の顔がちらつくのを竜児は打ち消せない。
とうとう断れなくなって、どうなっても知らねえからなと半分自棄になってミスター大橋の審査ステージに立った竜児。
そのステージ会場である体育館はさっきまでの盛り上がりが嘘のように竜児の登場で急に静まった。
あちこちで聞こえるひそひそ話。
ブーイングならはっきり言ってくれと竜児は思うのだが、会場は静かなまま・・・。
それと言うのも会場の観客はステージの上に居るのが竜児だと気が付いていないのだ。
・・・誰?
・・・あんなやつうちの学校に居たか?
・・・ねえねえ、ちょっとカッコよくない?
・・・だよね。
小声で話される会話は好印象そのもの。

その竜児の外見はと言えば、スタイリスト志望だという生徒がコーディネートしただけあってちょっとした映画俳優並みだった。
ヘアスタイルをいじり、伊達メガネを掛けさせて目つきを隠せば、背丈のある竜児はなかなかカッコが良い。
和製ヨン様だなと竜児のコーデを担当した生徒が会心の出来映えだと自画自賛するだけのことはあった。
ただ、悲しいことに竜児だけが自分の変身振りに気が付いていないだけだったのだ。

そんな中、今年も司会に抜擢された川嶋亜美からステージ場の人物の名前が会場に披露されると、体育館が大きくどよめいた。
何なんだよと竜児は思わざるを得ない。
竜児は見世物にでもなった気分を味わう。
そんな中、自己アピールを、と川嶋亜美に言われた竜児は慌てた。
何も考えていなかったのだ。
仕方無しに、竜児は「あ〜高須竜児です。趣味は家事全般・・・得意なメニューは・・・」などと自己紹介を始めてしまった。
本人はいたって真面目なのだが、会場はそう取らなかった。
あのヤンキー高須が受け狙いでトンチンカンなこと言っていると思われ、会場の爆笑をさそったのだ。
あちゃあと言う顔で幕引きを図る川嶋亜美。
・・・高須くんてば台無しと川嶋亜美は天を仰いだ。

実はこの企画、日頃、誤解の多い高須竜児と言う存在を全校生徒に正しく認識して貰おうと言う意図があったのだ。
もちろん、それは川嶋&北村コンビのアイディアで、名付けて・・・竜児二枚目デビュー作戦。
売り出しは見事に失敗に終わった。




・・・かに見えた。
それから数十分後・・・。
ミス&ミスター大橋の表彰式で起きたちょっとしたハプニングが竜児の評価を大きく変えた。
出場者全員が並んだステージの上で結果が発表され、竜児は優勝こそ逃したものの、そこそこ上位に食い込んだのだ。

そして、そのステージの上で竜児は準ミス大橋からダンスを申し込まれた。
1学年下の女の子・・・としか相手を認識できない竜児。
何で、俺と言う顔をする竜児にその子はにっこり笑い、まだ分かりませんかという顔をする。
やや、あってから竜児はあっと言う顔になった。
相手の外見が変り過ぎて気が付くのが遅れたのだ竜児は・・・。
この数日、さんざん一緒に居たというのに。

その子は裁縫部の部長。
裁縫部では演劇部のステージ発表用の衣装を作っていたのだが、あるトラブルから期日に間に合わなくなりそうになったのをここ数日、竜児が深夜まで手助けしていたのだ。

「高須先輩には助けられました」
そう語られるエピソードに会場は静まり、やがて惜しみない大きな拍手で体育館は包まれた。

みのりんの写真はその時の物。
これがきっかけで恐いヤンキー高須と言うイメージは過去のものになり、下級生を中心に密かな竜児ファンが誕生することになる。
ちなみにダンスは大河がいるからと躊躇する竜児の背中を「女の子に恥、かかすんじゃないわよ」と川嶋亜美に蹴り飛ばされて、踊っている。


竜児は大河に準ミス大橋からダンスを申し込まれて、一緒に踊ったと正直に打ち明けたものの、大河は最初、まるで信じようとしなかった。
「竜児、もう少し、ましな嘘を考えなさいよ」
「嘘じゃねえ」
「はいはい、竜児の頭の中ではそうなってるのね」
「ホントなんだ」
「いいのよ。妄想するは自由だから」
その時は笑って取り合わなかった大河。

ある時それが事実だったと知る。
親友、みのりんとの電話で竜児が言っていることが事実だと告げられたのだ。
証拠として大河の携帯へ転送された写真がそれを証明した。

キャンプファイアの火を背景に踊るシルエットがふたつ・・・。

「大河、妬けちゃう?」
楽しそうに言う櫛枝実乃梨の口調に大河は静かに返した。
「全然・・・」
なんだつまないと笑う実乃梨に大河は苦笑を浮かべる。

実乃梨との電話を切って、大河は件の写真を見つめる。
大河は少しだけ心が騒ぐのを感じ取った。
でも、それはヤキモチとか言う性格のものではなくて、ちょっとした空白感だった。
自分が側に居られれば、竜児をダンスに誘えたのにと・・・。
大河は目を閉じる。

真っ暗なまぶた裏で大河が見たのはさっきの写真に自分を重ね合せた世界だった。
何処からともなく聞こえるフォークダンスの曲。
大河の目の前で踊る竜児・・・。

「・・・竜児」

大河は声に出して最愛の相手を呼んでみた。
幻の竜児は答えない。



さっきまで聞こえていたざわめきが小さくなっていた。
参列者が所定の場所に並び終えた気配が伝わって来る。
しんと静まった控え室で大河は竜児の胸から顔を上げた。
「・・・竜児」
「おう」
幸せになろうねと言ってさっき、竜児の腕に包まれていた大河。
やや不安そうな表情で竜児を下から見上げる。
「・・・どうした、大河?」
「幻・・・じゃないよね?」
「消えたりしねえよ・・・安心しろ」
「ちょっとだけ、思い出してた」
「何をだよ?」
「高3の文化祭のこと」
「文化祭って?」
「少し、竜児が遠く感じたんだ・・・あの頃」
気持ちが離れたとかそんなんじゃないよと大河は付け加え、フォークダンスの写真をめぐる想いを竜児に告げた。

「きっと、寂しかったんだと思う・・・会いたくて、会いたくて・・・竜児の名前を呼んだ」
でも、竜児は答えてくれなかったと大河は悪戯っぽく言う。

「足りねえよな、あの頃の俺」
竜児は淡い悔悟の念が胸を掠めるのを感じる。
遠く離れた地にある大河の深い心の機微にまで感じ取ってやれなかった。
そして、何より大河が密かにしていた頑張りに気づいてやれなかったこと。

「でも、もう過ぎたことだから」
そう言って微笑む大河に陰は無い。

「竜児」
「大河」

お互いに名前を呼び、見詰め合うふたり。
もう幾度となく、見つめた表情。
廊下でぶつかった時からここまで流れた時間が竜児と大河の間を風の様に通り抜ける。

・・・ここまで長かったね。
・・・ああ。
・・・これからもお願いね。
・・・任せとけ。

言葉にしない会話が交わされる。
ほぼ同時に緩むふたりの口許。

そして全ての想いを込めて大河は竜児に告げた。

「行こう、竜児」
「おう!」


式の開催を告げる鐘の音が響く中、大河と竜児は外へ続くドアのノブに手を添えた。



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