夏休み初日の朝。

 誰も触るんじゃない、と泣きながら怒鳴ってしまった。
 大きくて優しくて人の気持ちに敏感で面倒見が良くて面倒を見る能力抜群のかっこいい竜児
が私に言ったんだから。
 俺は竜だ、竜は虎の傍らに立つんだ。って。
竜児がそんなことを言ったのは私にだけだ。その優しさが私以外の誰かにもたらされるなんて
あり得ない。絶対にない。ないったらない。
 だから言ったことに嘘はない。その結果がどうなろうと後悔もない。なにひとつとして偽り
もなく心から竜児は私だけのものと思ってる。

 昨夜から一睡もせず、ごろごろごろごろしながらここまで考えて何十回目かのループにまた
入り込んでいた。
 矛盾はなかった。けれどもそれを主張できるかとなると全然違う。当の高須竜児に対しては
無論のこと、言えそうな相手を誰ひとりとして思いつけない。
 こんなのまるで告白だ。と、逢坂大河は不機嫌になっている。

 新学期に自然に出会ってこうなったのならそれでもいい。
 それが出来ないのは結局、竜児がみのりんに恋していて、私は北村くんに恋していて、それ
を偶然知ってしまって、相身互いと協力し始めた関係だから。
 もっとも、偶然と言うのはうそで。私が勘違いから北村くんへのラブレターを竜児の鞄に入
れてしまったのがきっかけだけど。

 ベッドの上でひざを抱えて丸まってるとだんだん熱くなってきた。たぶん
相っ当暑いんでし
ょうよ、外は。設定温度を一杯に下げてみる。熱いのはきっと自分の体温がもわっと上がって
いるからだろう。ちびで痩せっぽちなのにどうなってるのか。私の体温はこうして急に上がる
事がよくある。エアコンをガンガンに効かせてるというのにこんなに熱いとか、それしか説明
のしようがない。
 やがて効いてきた涼気にふうと息をついて、大河は少し落ち着く。落ち着いて混乱した気持
ちの整理に戻る。


 「私のだぁ」と言葉にしてしまってからとんでもない変化が表れた。あのあと私は高須家で
前のようには過ごせなくなってしまったのだ。
 からかいはしないけど妙に竜児の機嫌がいい。文句をいう筋合いはないけど、だからこそそ
んなのを見るたび気になってイライラしてくる。そのうち言う事やる事いちいちそこを遠回し
に突っつかれるように思えてきて気が休まらない。ぜんぜん居心地よくない。
 夜遅くまでウダウダゴロゴロして、毎日のように口ゲンカして、たまぁ〜に竜児にじゃれつ
いて、作ってくれる美味しいご飯をいただいて、お腹いっぱいになったらナマコのようにぐに
ゃっと寝落ちする。
 そんな幸福で大切な文化的生活が「私のだぁ」いっぱつでどこかへ飛んでった。
 ほんとにもう遺憾だわ。なんてこと!

 これは、しばらく距離をとって頭冷やさなくちゃとご飯を断ったら、今度は竜児がお重を提
げてこっちへ通ってくるようになった。だぁ〜っ!私の気も知らないで周りをウロチョロすん
じゃないっ!というのもあるにはあったけど。さすがにそこまでは言えなかった。逆になんだ
か申し訳ないなと、こんな私でもちょっとは思ったのよ。態度は逆でも。

 そんな中で期末試験の準備も手伝ってくれた。
「どうせなにもやってないんだろ?」とまで言われるとは心外だったけど。その通りだけど。
厚意はありがたく受け取った。
 竜児がこっちに通って来てくれて、苦手かつ全く準備してなかった物理と数学のヤマを教え
てもらったから無事に試験をクリアできたのは事実。お礼に得意の英語と古文を世話してやる
わと提案したけど、こっちが教える事は少ししかなかった。
 竜児って家事の他にも満遍なくデキるんだよね。ていうか、プールびらきからこっち私はそ
れどころじゃなかったというのに、いつ勉強してたんだろう?

 試験が終わるまではなんとか集中できたけど、終わって夏休みを待つだけになったら前より
酷くなってた。おまけに竜児と一緒にいる時間は増えてく一方で、このまま夏休みに入ったら
さらに倍!そんなこと考えてると、いろいろすっ飛ばしてとんでもない事まで言い出しそうに
なって。……もう限界だった。
 だから私は、バカチワワの別荘に行く旅行の日程の打合せを犬の主人然として済ませた帰り
道で竜児に言った。夏休み初日の明日から三日間、親元に帰ってるから来なくていい、と。
 つまりは嘘をついて引きこもり暮らしに突入したのだった。


 パジャマのまま、大河は昼近くまでゴロ寝をした。
 ベッドの裏側には木刀が隠してある。春に竜児を襲撃した武器だけど、お前も女の子なんだ
からこんな物騒なものを使うなとうるさいので、ここに。掃除中に見つかって勝手に処分され
ないよう場所も時々変えている。独り暮らしでか弱い女なんだから護身用のエモノくらい持つ
のは当然でしょうよとか思っている。
 ともあれ、緊急避難みたいにして竜児が来るのを止める事はできた。
 そしてやっぱり大河は困っていた。……ご飯がないのであった。なにも面倒なだけじゃなく
もっと切実な理由で。

 帰省、と言ったからには買い物に出かけるわけにいかなかった。なにしろ留守ということに
なっている。留守宅から買い物に出かける人は普通いない。真夏でもエアコンをあんまり使わ
ない高須家は窓全開。コンビニ弁当なんか提げて出入りすると目撃される危険が高い。そもそ
も休みだと竜児が外出する頃合いが読めず、バッタリ会ってしまう可能性もそれなりにある。
 なんとか備蓄食料で三日間をやり過ごす他になかった。

 昼になって、いいかげんお腹がすいてしまい、大河はふらふらとリビングに移動。冷蔵庫を
開けてプリンと牛乳を出す。独り用のソファに腰掛けて1分で栄養補給を済ませた。プリンと
アイスと牛乳とジュースしか入っていない備蓄状況が恨めしかった。竜児に暮らしを頼ってい
るうちにこんな有様。うそ。以前も変わりない。この冷蔵庫に食材が仕舞われていたためしは
ない。
 あー白いごはんをお腹いっぱい食べたい。ブタミソとかショウガ焼きとか角煮などがおかず
ならなお良い。想像しただけでヨダレが湧いてくる。フンッ!無い物ねだりは女子供の言うこ
とよっ。女であり尚且つ子供のくせに図々しく断じて肉の幻を振り払った。
 目下の急務として、この引きこもる三日間のうちになんとか自分の心理状況を旧に復さない
と生命の危機だわ。とかなんとか思ってるうちにソファで居眠りを決め込んでしまう。血糖値
が上がって代謝のよさで体温がもわっと上がる。上がれば眠くなる。……理にかなっていた。


 目が覚めたらもう日暮れ時だった。あんまり惜しくはなかったが夏休み初日を無駄に消費し
たことになる。仕方がないから覚めきる前に二度寝してしまおうと寝室に行く。
 しかし、入ろうとして気が付いた。ここは竜児に対しては留守宅なのだから、寝室の明かり
を、いや、寝室を通してもれるリビングの明かりすら北側に漏らすわけにいかない。

 竜児は私をいつも気にかけてくれてる。不審なら確かめに訪れる可能性が高い。なにしろい
つでも来て良いと……ていうか世話しに来いと合鍵を渡してある。顔を合わせないで平静を取
り戻すためについた嘘なのに、つまらないドジで台無しにしては元も子もない。
 そう考えていくと、夜間に寝室に出入りするのはまず不可能だろうと思う。うっかり寝室の
灯りをつけるか、うっかりリビングが煌煌としたまま扉を開けてしまうかしそうだ。しかもそ
のまんま北側の窓開けて竜児を呼ぶかもしれない。習慣だから。お腹すいていればなおさら。
 寝室ってのは夜間にいるべき部屋なのになんて理不尽?

そうだ!昼間眠って、夜起きていればいいのよ!

 幸いにして今日一日たまたま昼夜逆転だったおかげでそのリズムに移行するのは簡単。今夜
はリビングでずっと起きていて、明るくなったら寝室に行って眠ればいい。そう決めて、夕食
がわりにジュースで糖分補給。空腹はおさまらないけど、ソファに埋まってぼんやり考える。

 そもそも……私は北村くんに恋して。憧れて。告白した。いい友だちになれると言われたし、
私もそんな気がしてもいる。ん?なんか全部済んでる?
 でも、恋しい気持ちは確かにある。北村くんを見かけるとどきどきする。声をかけられると
いっそうどきどきする。いろんな話をしてみたい、どんな食べものが好きか知りたい、いっし
ょに食べて感想を言ったり聞いたりしたい。海老とか蟹とか肉ならなおいい。お腹すいた。

 前はそんなふうには考えられなかった。すぐにどうせ一人でうじうじ考えているだけのこと
と思えてきて、知ってもらえないんだと思えてきて、泣けてくるばかりだった。
 でも今は違うんだ。私がそんなやつだって竜児が知っててくれるから。それだけのことで前
へ進める。少なくとも北村くんとどうしたい妄想をして涙が出ることはなくなった。
 あきらめたくない。

 じゃあ、竜児が私ので誰にも渡したくないというのはどうなの?
 これも本当の気持ち。
 それは、竜児が私に仕える犬だから。と、公表した理由はそうなっていて竜児も否定はして
いない。……でもこれは嘘。最初からわりと嘘。竜児もそんなの知ってる。私に気遣ってそう
いうバカみたいな言い訳に乗ってくれているだけ。
 なんて優しいんだろうあいつ。こんなに態度わるい私に。こうなったらずっといっしょにい
てほしい。ずっといっしょにいられたらいい……。
 えっ?なんだ今の。シレっとなに言った?!

 もしかして私、同時に、ふたりの、男の子を、好きに、なってる?……の?
 ……そんなのって遺憾ってやつだわ。酷いわ。ママじゃないんだから。

 眉がきゅっと釣り上がり奥歯をぎりと噛む。酷い顔をしているのが分かる。
 自分と父親を棄ててよそに男つくって出て行った母を思い出すといつもいつも不快になる。
パパと愛し合ったから私を産んだくせに、よそに好きな男を見つけるなんて。私とパパを棄て
るなんて。そんな汚らしい事は絶対に許せない。考えたくもない。なのに。
 なんだろう?あのママの仔だからそうなるの?嫌だ。いやだいやだいやだ、そんなの。

 でも、北村くんを思うと切なくなる。
 でも、りゅうじを思うと熱くなってくる。
 微妙に違うし、また同じようにも思える。ない事にだけは、絶対にできない。

 熱を冷まそうと、嫌悪を流そうとシャワーを浴びにいく。
 のぼせた頭から水を浴びる。大きな鏡に映った自分を見てまた気落ちする。かつて誰かから
哀れと評された。こんな姿ではふたりを同時に好きとか思う以前に、最初から女として見られ
ないのかも。竜児が自分ちでゴロゴロさせていたのも。水着を選ばせても、水着でふたりきり
になってさえそんなそぶりを見せなかったのも。
 ちくしょう。
 私はそんな竜児に偽乳パッドを作ってもらってすごく感謝した。今だって嬉しく思ってる。
モノがモノでなければみのりんにもすごいでしょ!と自慢したいくらいに。悔しがったり怒っ
たりなんかできない……でも。
 盛夏とはいえ、水道の温度で冷え切ってしまえば、あとから体温が上昇してくるのもまた理
だった。過剰にほかほかしてきた大河は、お腹にワンプッシュ仕込んだ甘い香りに包まれたの
にも手伝われ、リビングのソファでうたた寝を始めた。

 時折り眠りが浅くなって夢のようにぼんやりと思い出した。
 竜児のうちに入り浸り始めた頃には、お招ばれされているつもりだけは持っていたから、い
つも身綺麗にして通っていた。コロンも付けていた。態度が図々しくて台無しだっただけだ。
 いつだったかの夕食どき、あまりにお腹が減っていて台所に立つ竜児の周りをウロウロしな
がら催促していたらなんかニヤついてこう言われたのだ。

「お菓子の匂いがするなあ、お前」

 いま付けているのと同じお気に入りのコロン。きついと気分悪くなるし、鼻炎も出てしまう
から、ほんの僅かに立つくらいが好きで前からよく付けていたバニラの香り。少しだけ元気が
出るのも良かった。

「まあね。景気づけってやつ?」

 うまいこと言ったつもりか、と笑われて。でも、そのあと妙に気恥しくなってしまった。
 別に文句を言われたわけではなかったのに、なんとなくよそ行きの顔で入り浸るのは変なよ
うな気がしてきて。それで、食事しに訪れてるのに香りを付けてるのはマナー違反だったとい
うことにしてゴロゴロタイムには付けなくなっていった。
 もともと学校には付けて行かなかったから、竜児のうちで毎日転がっていると付ける機会が
ほとんどなくなってしまった。
 竜児にそういう目で見られるのは……恥ずかしかった。腐れ縁の慣れ合いの図々しい生き物
になって寝転がってるのが心地よかった。幸せだった。


 はっとヨダレを垂らして目を覚ましてみれば、もう二日目の夜明けが来ていた。
 しまった、起きているつもりの時間に眠ってしまった。どんだけ寝てるんだ私。充分睡眠が
とれたとみえて、ううーんっと思い切り伸びをすればもう眠れない。
 急にお腹が減って冷蔵庫を開けてみる。プリンもアイスも今日でなくなっちゃう。明日は水
か紅茶だけで耐えるのか。むー。砂糖も切らしていて栄養どころかカロリーも摂れやしない。
もちろん買い物には出られない。
 やる事もなく、敷いたラグの上でゴロゴロ寝返りをうつ。どうせループする考えなんかに沈
んでみるのもバカらしい。

 すると、突然に市民プールでのやりとりがフラッシュバックした。バカチワワとの水泳勝負
の練習が長梅雨で出来なくてくさっていた時に北村がくれたチケットで竜児と行ったプール。

 『まだその話をするの!?』

 『お前、いったい何が気に入らねえんだよっ!?』

 『……何がって?』
 『あたしはっ他人が私の心の中を、勝手に想像して分かったような顔をする!
  それが嫌なのっ!むかつくのっ!何で分かってくれないのっ!?』

 どん、と自分で胸を突いた衝撃を覚えていた。
 つかみ出して、目の前に見せてやりたかった。見せろ、と言ってほしかった。

 『……分かってほしいのかほしくないのか、どっちなんだよ?』

 『分かんないっ!』

 『はあ!?』

 『私がどう思ってるかなんて誰にも分かるはずないっ!だって……だって。
  ……自分だって知らないもん!』

 竜児はあんな企画に乗る気なんか本当はこれっぽっちもなかった。わかってる。あいつは私
がそんなのでイライラムカムカするって知ったらどこか喜んでいた。
 だから、私の気を引けたら嬉しいんだ。……なんて。そんなことを分かってしまったら、ど
んなに下らないと思っていることでも無視なんかできるわけない。

 それなのに。私を怒らせて他を全然見えなくさせたくせに。
 北村くんのためとか。世話するやつがいなくなるからとか。なんだこの期に及んで変な方向
に退きやがって。ちくしょうヘタレ。鈍感犬。どんなに感謝して、どんなにいてほしいと思っ
てるのか。なんで分からないのよ?
 思い出すとまだ涙出てくる……。
 ちくしょう。なんで私、竜児にどきどきしないんだろう……。

 後は思考にならなかった。二週間ずっとループしたまま抜け出せない。
 大河はまたふて寝を決め込む。

 昼過ぎに起きて、最後のアイスを食べて、ノンカロリーのジュースを飲んで。ほっとひと息
をつく。
 ふいに南向きの窓からバルコニー越しに見えた外に目を奪われて歩み寄った。真っ白く立ち
上がった入道雲と青い空の眩しいコントラストが少し気持ちを浮き立たせる。そのはるか下に
はあまりの陽射しに誰一人いない公園も見える。
 こどもが初めて見るような顔で、その夏景色を眺めた。見上げて、見下ろして。
 引きこもりなんかやめたくなった。着替えて、隣家へ行って、外階段を上って扉を開き、め
しを食わせろぃりゅうじぃ!と怒鳴ればすぐにもとどおり。できそうな気もした。

 けれど、そんな気になれたのは、一瞬。そのもとどおりが前とまったく同じように心地よい
のか分からない。前と寸分違わず同じでないならほしくないのか?それも、分からない。
 また眠くなる。眠る。ラグに転がって。猫のように。

 夕方に寒くなって起きた。眠りは浅く、悲しかったり嬉しかったり切なかったりな夢を見た。
ぼーーーーっっとして、無意識で食べ物を探すがすでに何もなかった。せめて温かいものをと
シュガー抜きの紅茶を飲んで暖を取る。すこしは胃が温まるが、カロリーがなければ代謝良し
でも体温は上がらない。寒くて寒くて。お腹すいた……。

 大河はぼーーーーっっとして冷えた寝室に入り、灯りをつけた。
 夏掛けに包まって、半ば気を失ってしまった。


 高須竜児は自室にいた。
 左側2m隣の高級マンション。大河の寝室。ぱっとついたカーテン越しの灯りを見逃すこと
はなかった。なんだよ、やっぱり居たんじゃねえか。

 「私のだぁ」が嬉しくてたまらなかった竜児は、このところ大河との距離をいっそう近く感
じていた。だから帰省と聞いていても気にかけて外出時にはちゃあんとチェックしていた。
 だって親と折り合いが良くないらしい大河がいきなり憮然として帰ってくるかもしれない。
そんなときは買い物とか忘れて手ぶらでなにもない部屋に帰って来て腹を減らして暴れるかも
しれない。暴れるならまだいい方で、再度出かける意欲を削り取られていて、空腹をかかえて
丸まっているかもしれない。
 そんな時はうちにも来れないかもしれない。
 そんな時にでも支えてやるために、自分は存在しているのだから、とまで思っていた。

 リビングに灯りが点きっぱなしだなと昨夜には既に気づいていた。
 消し忘れて出かけたと思ったし、もったいないから消しに行ってやることもできた。朝起こ
すための合鍵を預かっていたから。ただ、消し忘れの照明を消すためだけに留守宅に侵入する
のもなにか変じゃないかと思い留まっていただけだ。帰宅が夜になる予定で寂しいからわざと
点けて行ったかも知れない。

 でも寝室の灯りがいま点いたとなれば話は別だ。虚偽申告をしてずっと引きこもっていた事
になる。それは心配するに値する。
 大河はその態度のデカさとは裏腹に、世間的にはつまらない事でもクヨクヨ悩むような繊細
な女だと思い知った。とはいえメシも食わずにまる2日も引きこもるというのは相当な事があ
ったのだろう。
 また繊細なくせにタフなやつでもある。とりあえず血糖値を上げてやればなんとかなること
も知っている。腹を満たしてやってから、ゆっくり話を聞いてやって、ポジティブな面を引き
出してやればいい。そして明日からまたうちに来てゴロゴロすればいい。
 竜児は大河が嬉しくて笑える時間をできるだけ多くしてやりたいと、いつも思っている。

 そんなわけで夕食を持って行ってやろうと決めた。
 珍しくかのう屋まで行って牛ハラミを仕入れていた。手に入るなら安い。安いうえに旨い。
適度な歯ごたえがたまらない。あした大河が帰ってきたら肉祭りを開催してやろうと買い込ん
だものだから収まるべき胃袋に収まるわけだ。
 この艶めかしい肉を特製ガーリックステーキにして食わしてやる。まるまる2日間、大河の
世話ができずにストレスをため込んでいた凶眼がギラつく。


 竜児がため込んだストレスを夕食のしたくにぶつけていると知らない大河は、そのころ寝室
のベッドでまた眠りも浅く夢を見ている。

 失敗作のクッキーを全部食べてしまった。私がどうしようもなく落ち込んでるのを救うため
に、嘘までついて。めちゃくちゃな私の傍らに?
 非常階段の脇で
北村に告白していた。好きだと。恋人になってくれと。勇気を奮った。
 でも自分がこの勇気を持てたのはりゅうじのおかげと、支えて元気づけてくれたからと伝え
ずにもいられなかった。これを言わないでいたらもしかして北村が受け入れてくれたんじゃな
いかとは、夢の中でさえ思ったことはない。
 プールで竜児をかかえて懸命に顔を水面に引き揚げた。沈めたら死んじゃう。私のりゅうじ
が。大切なやつなんだ。ちくしょう、誰も分かってくれないの?こんなに大切に思ってるって
知ってほしいのに。
 りゅうじ。りゅうじりゅうじりゅうじ。
 手が触れる。あ!や、やだ!つまんないって思われたくない!見んな!喋んな!……なにも
持ってないんだ。さ、触んなああ!

「……が、たいが。おい」

 目を開けると、りゅうじ。
 ……りゅうじ?
 ひっ!!
 なななな!!

「なっ!どこから!!ふ、不法侵入っ」

 にっと笑ってりゅうじは……この顔は笑ってんの?よね。……メシにすっか?


 パジャマのままふらふらリビングに出て、ローテーブル脇のラグに崩れるように座りこむ。
頭ははっきりしないし、相変わらず寒い。
 ただ思うのは、りゅうじだ。
 りゅうじが目の前にいる。夢のようだけど夢じゃない。煮詰まってたらちょうど現れてくれ
た。手を貸してくれる。それなのにどうにも嬉しい顔ができてない。意地張ってるんじゃなく
身体の自由が本当に効いてない。ガス欠で仏頂面。

 おう……夏バテか?食欲あるか?と心配そうに訊くのでこくんと頷く。さっきからうっすら
とにんにくの匂いがしてる。唾が湧いてお腹が歌いだす。俺も今日はこっちでメシ食っていく
ぞ、いいだろ?というのでまたこくっと頷く。嬉しい。ずっといて。でも返事をするのもいま
はけだるい……。

 向かいに座ったりゅうじがタッパに漬け込んだなにか肉を見せて楽しそう。これを焼いてや
るからなー。待ってろよ。にんにくと香辛料の匂いが意識を覚ましていく。
 にく……。にく……!

 大河は、今さらながらに思い当った。竜児が間違いなく寝ている深夜にコンビニへ買い出し
に行けば見つからずに済んだ事だ。何年もそんな暮らしをするわけじゃなし、たかが三日間。
 気づかなかった?気づかないふりをしていた?どんなに考えてもこのループからは抜け出せ
てない。わずか三日くらい引きこもってどうにか整理がつくなんて本気で考えていた?
 つまりはこう思っていた?来てくれるだろう、来てくれればいい、とっとと来い私を助けに。
 なんだそれ?何て甘ったれなんだ。自分の中だけのことなのに。りゅうじ関係ないのに。
 ……恥ずかしい。

 ふらぁっと「んじゃお茶いれてやるぅ」とか言って立つ。紅茶しかないし食前だし、後から
考えればなに間抜けなこと言ってんだろと思う。けど、この時はりゅうじの厚意にお茶ぐらい
入れてあげないと、とただそれだけ思ってた。
 一歩、二歩、三歩めに私は足許をしくじって。

 竜児の向かいで立ちあがった大河はテーブルを回り込んで三歩目に膝から崩れた。
 ぺたん!と女の子座りに垂直に落ちて、そのまま前にぶっ倒れる。
 危ねえ!!と膝立ちで迎えに行った竜児はスローモーションで倒れる肩を抱きとめ、テーブ
ルへの激突はかろうじて回避させた。おい大丈夫か?と言いかけて竜児は固まってしまう。抱
きとめた大河がのろのろと……竜児の胴に腕を回してきたから。

 大河は鳩尾のあたりに頭を預けている。……微妙な位置に胸が当たりそうなこの体勢は拙い
と思い、膝立ちをやめて竜児も座る。それでうっかり、肩だけ抱きとめていた手をパジャマの
背中に回してしまった。
 抱き合ってしまった。


 なんて小さくできているのだろう!?
 座りこんで、床まで届く柔らかい髪に両の手を差し込んで抱けば、そのまま自らの肘をつか
めそうなくらいの輪に大河の薄い身体はすっぽりはまり込んでいる。
 水着騒動のときに見た事はあっても、触れるのはこれがほぼ初めてだった。
 背中のかたちが腕に記憶されていくのを感じている。倒れようとするのを抱きとめただけな
のだから、ゆっくりと寝かせてやればいいものを。竜児はなぜかできなくて抱いた腕に力が込
もりかけてしまう。

 なにも声をかけられず、それでも欲望のままきつく抱きしめる事はできなくて。行き場のな
くなった思いでつい、目の前のつむじに顔を埋めてしまう。
 なんてことを。
 うっすら立っているいつものシャンプーと混じって、微かに甘い匂いものぼってきた。まる
で大河がお菓子にでもなったかのような感覚が心地よく、竜児を半ば狂わせる。
 それでも介抱の姿勢から崩れないで踏みとどまったのは、大河からいつもの熱を感じられず
冷んやりとしていたからだった。
 ……所在なさげに背中を撫でているうちに気づく。ふつうなら手に触るであろうパジャマの
下に当然あるべき帯状の布地の感触。が……なかった。必然として自分の腹にはふたっつ。妙
に「ほわん」と当たるもの。
 誰だよ哀れとか言った嘘つきは!?こんな、ちゃんと……じゃ……ねえか。
 思わず息を飲んで、思いっきり吸い込んでしまった日向の匂い。付けたものではない、大河
の……匂い。

 一方。
 倒れ込むときに一瞬だけ飛ばした意識は、抱きとめられたときには大河に戻っていた。払い
のけようと、押し離そうと思えばできた。できたけれどもしなかった。触れてみたかった。そ
うしたらどんな思いがするのか知りたかったから。
 それでいきなりだと、変だと知りながら竜児に抱きついてみた。偶然とはいえ状況を利用し
て答えを覗き見ようとしていることくらい分かっていた。

 背を撫でてくれる大きな手の感触。それは伝わってきて、頬をつけて体重を預けた胸から大
きく速く鼓動が聞こえてきて、まさかそんなことがと思った。
 髪に突っ込まれている鼻先の感触が確信を引き出した。これは介抱じゃない。欲望を向けら
れてる。りゅうじがわたしをどうにかしたい……と思ってる。

 経験などなかったからそれで何かが自分に湧き起こったとしても、感じ取れるセンサーなど
持ち合わせてはいない。それでも、少なくとも、いやではなかった。
 安心とくつろぎを感じた。ここに居てくれと乞われている気がした。隣家の2DKの居心地
によく似てもいた。
 竜児の手の感触ばかりではない。自分が触っている広い背中もそうだった。ここは私がいて
良いところだと、しばらく感じられなかったものがあった。こんなところに。

 ぐるぐる回っていたループが解けて、たったこれだけのことが新しい場所へと運んでくれた。
それがどこなのか分かりはしなかったけど、もう立ち止まって座りこんでいなくていい。やっ
ぱり竜児は助けてくれた。支えてくれた。
 燃料がなくそんなに長時間は無理だろうけど、心臓がしっかりと鼓動を打ち始め、この身の
温度が回復していくめぐりを感じ始めた。

 ――どきどきしていた。


 竜児は、抱え込んだ小さな身体に温みが戻ってきたのを感じてほっとした。同時に、大河の
顔立ちを好ましいと思っていた自分にも気がついた。こんな状況で目にしたら抑えきれずにと
んでもない事をしてしまいそうだった。触覚と嗅覚が陥落させられたいま、視覚だけは撃破さ
れるわけにいかない。文字通り最後の砦。
 あとでエロ犬と罵倒されようがそれよりはましだ。背中に回していた右手で大河の後頭部を
抱え込む。そして自分の中の罪悪感を探し出して停戦の仲裁を願い出る。
 こんなことをしてはいけない。こんな気持ちを大河に向けるのは絶対にいけない。少なくと
も体調がおかしくて倒れた女にそれは許されはしまい。

懐から途切れがちに小さく声が聞こえた。

「やっぱり……怖い……けど」
「……ん?」

 大河は要らぬ火つけをしてしまって悪かったと思い始めていた。
 竜児がこの身に対してエロ心を見せた事なんか一度たりともない。だからといって無いのだ
ろうと片付けるほどめでたく出来ているつもりもない。いけないと禁忌を課しているか、この
身に興味が湧かないかだ。
 なんだ普通じゃないりゅうじも。わたしも。
 そう思えたからこそ、呟いた。

「いやじゃ……ない」

 許可の言葉に聞こえてしまうかも知れなかった。大河にそこまでのつもりはない。けどそう
なるのなら、竜児がそうしたいのなら、拒否はしない。いやではないのは本当だったし、竜児
に負担をかけたのは自分だから。償いだから。仕方ないと思った。
 思った……のだけど。
 もう寒くはなくなっていたのに、どうしようもなく起きた震えは……止まらない。

「お前は……」

 竜児としては良かったのか、悪かったのか。許可とは受け取らなかった。体調が悪くて倒れ
たのだからそもそものリアリティがまったくなかった。みろ、はっきり伝わってくるこの震え
を。あの夜と同じように煮詰まってメシも食えず、低血糖で倒れたんじゃねえか。
 同時に、どこか頭から振り払い難く感じていた、求められた答えを返せずに逃走する自分を
見なくて済んでいた。
 どこか不安定なのだ。いつものように。腹が減りすぎておかしくなっているだけなんだ。


 それなのに、すぐに行動は伴わない。

 竜児の手は相変わらず大河の重さを快く受けとめたまま背中を撫で続ける。いつも助けて支
えてやってる行為の何倍も、守ってやってる充実感を受け取れた。そればかりではない。しょ
うがねえだろ?だってこんなに可愛いんだからよと。誰に対してか言い訳も浮かんでくる。
 普段から酷い暴言を吐かれて無理難題を押し付けられて理不尽に怒られたり泣かれたりして
いても、本当のところでは好きだから傍らにいるし、いさせているのだと思う。それが免罪符
になると思っている。いろいろなことを一時棚上げにしてでも、今だけは心のまま抱きしめて
いたかった。
 もう少しだけ。

 大河は、答えがないのを聞こえてないのかと思っていた。
 顔を上げて、もう一度訊こうか迷っていたら、無言のまま頬を合わされてうしろ頭を撫でら
れた。撫でおろされているうち竜児がだんだん落ち着いていくのが分かった。そうしたら自分
の震えも少しずつおさまっていった。
 しないならそれでいい。そんなこと訊けない。竜児も言いたくないだろう。でもそんな理屈
を軽々と跳び越えて、ただ撫でられているのがこのうえなく心地よかった。今だけ、微かにだ
けど猫のような声も抑えようなくもれてしまっている。
 もう少しだけ。


「少し落ち着いたか?」
「……うん」

 上から目線が偉そう。あんただって同じようにどきどきしたくせに。
 まったく、メシも食わずに全室エアコンをフル稼働ってどんだけアホなんだお前は。冷え切
って当たり前だろと、おざなりな、照れ隠しな説教を繰り返す竜児を見て、大河は思った。
 でも、優しいあんたが、どうしようもない私を仕方なしに傍らに置いてやってるという事に
しても構わない。もう分かったから。
 もう少し、もう少しだけと。30分近く抱きあってた。それでキスのひとつもしなかったな
んて、おたがいに嫌いじゃない高二の男女としてどうなの?とはすこし思うけど。
 でも気持ちと行動はぴったり合っていたと思う。こんなこと誰にも言えはしないけど、恥ず
べき事はなにもない。

「メシ、食えるか?特製のガーリックステーキ」
「おぉ……」

 肉だぁ。マイ箸をつかんで猫足模様のマイ茶碗をチン!と叩く。お腹が空きすぎて声を上げ
てはしゃぐ事までできやしない。その代わりに喜びをあらわす表現だ。
 でも行儀悪!とまた竜児の説教。それも不思議なほど嬉しい。

 焼きたての肉をおかずに、向かい合っての夕食。ハラミの焼肉旨い!!
 二日ぶりの竜児のご飯は最高だった。


 夏休み三日目。
 竜児は朝食のしたくをしていた。昨夜あんなことをしたから、もう来なくなっちゃうのかも
しれねえと不安に思いながらも、大河の分も作った。切り身は焼くばかり。味噌汁は味噌を溶
くばかりで止めてある。いつもより丁寧かもしれない。直前に熱々で出してやろう。今日も暑
くなりそうだから熱い食べ物が身を養う。

 突然にガンガンガンガン!と若い力が真っ赤に燃えてるようで、外階段をかけ上がってくる
足音が響きわたる。カチャカチャと陶器の音も連れて。バァンと高須家の扉を力一杯開く。

「竜児ーっ!おはよーっ!!……うぁお腹すいたーっ」

 朝っぱらからジリジリ照りつける日射しに対抗したのか、つばの広いキャペリンをかぶって
ノースリーブの白ワンピ姿。まさに夏まっ盛りの装いだ。見るなりこどもっぽいなと竜児は思
い、可愛じゃねえかとまた思った。

 はいこれ昨日の食器ね。さあ盛れ。見ると洗って水気も切ってある。珍しい事をする。
 おう。じゃあ魚焼くから座って待ってろよ。
 今日はなにぃ?
 鱈の西京漬け。具だくさん味噌汁。なめこおろし。きゅうりの糠漬け。えーーっもう肉ない
の肉!お前が昨日全部食っちまっただろうが!あんなにあったのに!

「そう言えば……あんたちょっとにんにくくさいね?」
「お前もだろ。くさくないのは泰子だけ」
「やっちゃんは?ステーキ作らなかったの?」
「あれで客商売だからな。にんにく抜きで置いていった」
「そうなんだ?あーー、にんにくおいしいけどやだやだ」

 でもさ、それはやっちゃんだけ被害者ってことだよね?くっくく〜♪早く起きてこないかな。
 ……お前って意外と、案外と酷い性格なんだな?
 うっさいっ!もう家族みたいな……もももんなんだからっ。このぐらいはいいのっ!

「家族ねえ……ああ、そうかな?」
 そうか。家族みたいなもんなら何があったってメシの時間には帰ってくるもんだよな。どん
だけ好きになってもいっしょにいても別におかしくねえ。やっぱお年頃なら妙な気持ちになっ
てもなんの不思議もねえし。うん。好きなものは好きでいいんだ。

 大河に大根をおろさせて、家宝のぬか床からきゅうりを出し、焼き上がった切り身に熱々味
噌汁で朝ご飯。肉がないと文句タラタラのくせしてもちろん大河は三杯飯。三杯目でもなんら
臆せずにビッと真っすぐ茶碗を突き出した。

「ぅおかわりっ!」
「おうっ!」

 メシが済んだらゴロっと横に。夏休みはこれが毎日続くだろう。
 これで、全くもとどおり?


 食後の休みが終わったのか、ゴロ寝大河が牛にもならずにむくっと起き上がり、ベランダで
洗濯物を干している竜児にアイスを要求する。
 ねえ、アイス食べたい。アイスないの?アイス。言いながら勝手に冷蔵庫を開けたりしてい
る。そんだけ自由に振る舞うんならなにも呼ぶこたねえだろと思いながら、買い置きがないよ
うなら干し終わったら買ってきてやるから、となだめた。

「よし買ってくるのよ。待ってるから……ううんいっしょに行く。行こう」

 ほら、日射しすごいんだから。とかなんとか。竜児を白っぽいTシャツに着替えさせ、キャ
ップをかぶせていっしょに出かけた。一番近いコンビニなんだから別にいいじゃねえかと竜児
は思ったがまあ言いなりになる。

 コンビニに着いて、大河はケースの底から固めに冷えているのを選んでいる。わたしは基本
バニラ一本やり、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令に基づくラクトアイスやアイスミル
ク区分の商品には興味なし。乳固形分15%以上(うち乳脂肪分 8%以上)のアイスクリームだけ
と決めてる。
 のよね。という得意げな話に竜児は相槌を打ちながら同じものを2コ買った。

 行くときにショートカットで通った南側の児童公園に差しかかったとき、大河はここで食べ
てこうと誘う。なるほど、帽子をかぶらせたのは最初からこれが狙いだったのかと竜児は納得
した。
 日陰は、公園の外周で一段高くなったテラスにパーゴラふうの場所がある。木製のベンチも
テーブルもあったはず。そこがいいんじゃなかろうか。
 既に昼近くになっていて日は高く、遮るものもなく照りつけている。
 この時期は朝夕しか公園で過ごす者はいないから俺たちふたりだけ。ていうか、こんな暑す
ぎる時間に出歩くやつがそもそもいない。かといって静まり返っているかというとそんな事も
ない。時おり通りすぎるクルマの音と蝉の声でわりと賑やかだ。

「やっぱアイスはこういう日に外で食べるのがいちばん!」
「こだわりってやつか?」

 そうそう、犬にはもったいないかもだけどあんたにもこの楽しみを教えてやるわ。
 ぱっかんとカップの蓋を外すと周縁が早くも溶け始めていて中心はまだ固い。まわりにたっ
ぷりと付いていた水滴が弾けて、ワンピにも飛沫となって飛んだ。ただ水だからほっといても
シミは残らない。

「これよこれ。エアコンの効いた部屋で食べるアイスにはない雰囲気よ」
「うん。そうだな。悪くねえな」

 おせじ抜きでなかなか良かった。暑いけど日陰ならなんとか過ごせて、蝉の声がして、誰も
いない場所で。アイスクリームの冷たさが喉を滑り降りていくのが強く感じられる。せいぜい
10分くらいで暑さに負けて逃げ帰るのだろうけど、涼をとっている気分は贅沢だ。

 でも、いいと思えるのは傍らにこいつがいるからだ。ついさっきニコッとかあんまり見られ
ない顔で笑った。それを見たらジワッと嬉しさが伝わってきた。こんなの独りでやったってつ
まらないだろう。アイスクリームマニアは別として。
 溶けた周縁をすくっては口に運び、カップの中にドームを作ってる大河。他に誰もいない公
園を眺めては何やらもの思いをしてるらしい。おおかた昼飯は何にしようとか考えてるのかも
しれないが。うん。可愛いよな。とくに竹やぶが、じゃなくて笑顔がいい。本当はこういうや
つなんだ。もっと見せてやればいいのに。


 そんなことを竜児が思っているとは知らない大河は、自分の脳内画像フォルダを開けて眺め
ていた。もの思いに沈んでいた。
 1年以上も前に告白してくれた北村くんの顔がやっぱり思い出せない。たくさんの画像を集
めたつもりでいたのに。あの時がもう一度ほしいと思うようになって恋をした。
 そう思えるようになれたのは、みのりんが友だちになってくれたから。誰かを思うのは素敵
なことと教えてもらえた、去年の夏。
 北村くんをりゅうじのように緊張しないで思えるようになれたらいい。

 続けて竜児と名付けたフォルダを開けて中をみる。画像の量が比べようもなく多い。いつも
一緒にいるから当たり前といえば当たり前だが、開けてみるたびに目に見えて増えていく。
 これも分類しないとね。学校、スーパー、河原、ファミレス、商店街、駅ビル、キッチン…
…はあっちとこっちのふたつ。八畳間、あっちのリビング、寝室、そしてこの公園も。ああ学
校も細かく分けとかないと。いったいいくつサブフォルダ作ったら整理つくのかな?

 考えているうちに、ふ……と可笑しくなった。家族の写真と同じよね?まとめて放り込んで
おけばいいだけなのになんで整理しようなんて思ったのかな。

 竜児は私より大きい。竜児は優しい。竜児は人の気持ちに敏感で面倒見が良い。竜児は面倒
を見る能力が抜群。だから竜児は、かっこいい。だから思うとどきどきもするのは当たり前だ。
すごいんだよって自慢したくなる。
北村くんと違って思っても苦しくない。
 だってそんな竜児と私はもう家族みたいなものだから。ただの友だちより近くて大切にして
くれるから。これってすごい。
 私も大切に思ってる。ずっといっしょにいたい。


 キャペリンのつばに隠れて時々しか見えなかったが、こういう穏やかな大河の笑顔はなんだ
か久しぶりに見る、と竜児は思いながら見下ろしている。ワンピにしみた飛沫もわずかな間に
すっかり乾いていた。
 ん?と視線に気づいた大河が顔を上げる。互いに考えていたことが顔に現れていて、妙に和
んで見つめあってしまい、急に気恥しくなった。
 やっと整理がついたのに、こんなの知られて一方的に意識されてはたまらない。

「はあ?なに見てんのよ?」

 ゆうべの事?やっぱり惜しかったとか?さいってー。そんなに眺めてなにやら人に言えない
ような妄想を……。
 穏やかそうに見えてこんな台詞が出るところがやはり大河というやつ。でも言葉には調子と
いうものがある。聞いた竜児はやっぱり妙に心が浮き立つ。

「なんでそうなるんだあ。家族みたいなもんなんだろ?俺たち」
 家族にそんな事は思わねえだろう。

「へー。あ、あったりまえでしょ」
 あんただって結構ハァハァ……あ、まぁそれはいいや。

 あんたが思わないって言うんならそれでいい。私だけの問題だからあんたを巻き込まない。
昨日はふたつの気持ちを持っているのが汚らしく思えてすごく嫌だったけど、今日になったら
持っていてもいいって思った。違うものだもの。
 それに、持っていてどうにかなっていくのかは……見てみたい。

 そんな大河の思いには気づかず。まあ……あれは……済まねえな。具合悪かったのにな。と
かなんとか。ばつ悪そうな竜児の言い訳も続けて聞こえる。
 なによ?いま思わないって言ったばっかりじゃんよ。私に混乱があるように、あんたにもあ
るの?もしかして?とか考えると……うわっやばいじゃんよそれっ!
 ただでさえ一杯一杯なのに!うまいこと丸めたのにっ!そ、そんな想定外のことまで持つの
はむりよ無理!むりむりむりむりかたつむりっ!

 ふーーーっ、ちょっと暑くなってきちゃった。
 アイスクリームを食べ終わって片づけて、大河は帽子でぱたぱたと額を扇ぎだした。
 ん?ねえあれ?と指差して竜児に訊く。どうしてあそこだけ?
 土の地面より舗装の上の方が熱いからだろうな、と竜児が答える。温度の差で屈折率の違い
がよーと、解説する。公園から見たうちの方向は揺らめいていて。ふたりはそこに陽炎が立っ
ているのを見た。

 ふーん。解説分かり易かった。と淡い色の髪の生えぎわに少し汗を光らせた大河。それを竜
児が飽きもせず眺めている。あんたまた見てる?どうせ行儀悪よ。ほっときなさいよ。相変わ
らず扇ぎながら大河はしかめっ面になる。
 見たっていいじゃねえか、と竜児は思いながらも、いやあそんなことを突っ込むつもりはね
えと応える。別に好きで見てたっていいんだ。それも少しぐらい伝えようと思いつく。

「そのカッコ可愛いなって思ってさ。見てた」
「へえ?ほんとに?」
 おう。ほんと。そのキャペリン似合ってるし。北村も惚れ直すんじゃねえか?
 そうかな?と大河は疑いのまなざしを向ける。こどもっぽくない?

「こどもっぽく可愛いのもお前のいいとこじゃねえの?そう思うよ。旅行にもかぶっていけよ」

 ふうん。
 別になだめようとしているわけじゃなさそう。そっか。こういうふうに言われるとこどもっ
ぽく見られるのもそんなには悪くないかも。りゅうじが可愛いって思うのならちょっとぐらい
そうしてみるのも。

「じゃそうしてみる」

 おう。それがいい。
 そろそろ暑くなってきたし戻ろうぜ。こんどホームメイドでアイスクリーム作ってやるよ。
ほんと?それいい!ああ、乳成分濃い目なやつがたっぷり安く作れるぞ。クッキーの欠片なん
かも入れてさ。ココアかけたりもしてさ。

「おお〜!やったぁーっ!!よし竜児、さっそく牛乳とクリーム買いに行くのよ!」
「午後なっ、午後。まずは昼メシだろ。ハウス!」
 それはわたしのせりふだぁーーっ!
 大河はちょっと満たされた感に包まれて笑う。それを見た竜児も愉しくなる。

 竜児に続いてベンチから立って、この夏休みはきっと楽しいだろうと考える。竜児の後をつ
いてほんの僅かの家路につく。
 高校生に時間はたっぷりとあるし、旅行もなんだか楽しみに思えてきた。そうだ。可愛い水
着買いにいこう。子供用でも構わない。駄犬に選ばせてやる。

 帽子をかぶり直して、街路にゆらゆらと立つ陽炎へとふたりは足を踏み入れていった。




――continues to 『逢坂大河のLyrics・冬』



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