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 ここで下山ダッシュについて簡単に説明しておこう。
 彼らが向かう信州いいじま温泉は飯田線飯島駅が最寄りとなる。
 飯田線は愛知県豊橋から長野県辰野を結ぶローカル線。
 この中間よりもやや辰野寄りに飯田市があり飯田駅があって、この辺りの路線の形状は地形
の関係でカーブを西側に寝かせたΩ状の形で描いている。オメガの字の南側入り口と北側出口
にはそれぞれ『下山村(しもやまむら)』『伊那上郷(いなかみさと)』の駅があり、その間の直
線距離は約2キロメートル。
 一方、電車はこの2駅の間を13分から30分で走破する。バラツキが大きいのはこの辺り
の中心、飯田駅での停車時間が編成によって異なるためだ。

 挑戦者は入り口駅で降り、ショートカットで町なかを走る。そして出口駅で同じ電車にまた
乗れるか否かを競う行為が下山ダッシュと呼ばれるエクストリームスポーツなのである。

 なぜスタートが下山村駅なのかと言えば、伊那上郷駅に向かっては高低差70mほどの登り
坂となっており、逆方向に下るよりも条件が過酷で、ゆえにスポーツ性が高いからだ。
 また、伊那上郷駅を最寄りとする地元の高校生が、南側から通学する際にそのまま乗ってい
ては遅刻してしまうので、下山村駅で降りて走った故事に由来するとも伝えられている。
 いずれにせよ南側の下山村駅を降り、証拠となる電車の写真を撮り、発車する警笛を合図に
ひたすらダラダラ坂を駈け上がって北側の伊那上郷駅で同じ電車に乗れれば勝ち、というのが
一般的なルールとして定着しており、女子や高齢者や肥満者など体力的に厳しいと思われる場
合には逆方向もアリ。体力のある男子がこれをやった場合には『デヴ』等と割とストレートな
罵倒を浴びるのが通例とされている。
 但し、順方向で最短ダイヤの13分をクリアするのはかなり難しいらしい。

 ついでに、大河に言わせると、下山ダッシュは、飯田線の旅を作中で描いた漫画を原作とす
るOVAによって知られるようになり、実際に挑戦してみる企画がTVバラエティでも放映さ
れた。もとより飯田線がその筋の鉄な方々に人気の高いローカル線だったこともあって、旅行
ついでのチャレンジャーが増えていったという。現在で言う聖地巡礼に似ていて、攻略のヒン
トをまとめたサイトもあるそうだ。
 素人の竜児と亜美はこの日、そんな説明を漫画喫茶で受けながら『究極超人あ〜る』を読ま
された。OVAと、実際のチャレンジ動画も見せられた。

 続いてネットで現在の情報を集めて彼らが作成した行程は、東京から新幹線で豊橋まで行き、
乗り換えた飯田線でひたすら北上、途中で走ってから、さらに北のいいじま温泉で一泊。翌日
は現地で軽く遊んでからから中央本線で帰京する、実に体力勝負な旅行と決まった。

 肝心の下山ダッシュ難度は中間の18分でもちろん順方向。亜美ちゃん幹事だしー、ばかく
せーしー、汗くさいのやだしー、荷物番してるねーと先に言われてしまって、終始腰が引けて
いた竜児は金魚のように口をぱくぱくさせるばかりだった。


 二日後。

「はっ、はっ、はっ、はぁーーっ、はぁーーっ、あーーーーーっっ!」

 カチっと。このために大河がわざわざホームセンターで買った安物のストップウォッチを押
してヘナヘナ座り込んだ竜児は、大きく肩を上下させて息を継いでいる。先にゴールに着いた
彼女はもう息も整って、憐れまれるような視線を送られるのはあまり心地が良くない。

「大河……お前……何分?」
「15分半ば。楽走しても気合い入れても15分台は変わんない。あんたは……19分切れてないね」
「お前が……速すぎんのと……あとルールが厳しいからなっ……」


 心配そうな顔で屈み込んだ大河の手に頭をぐりんぐりん弄ばれながら竜児は考えた。同じよ
うに運動をしていないにしては、パフォーマンスが違い過ぎる。小柄な大河の方が重量に比し
てエンジン出力、つまり筋肉の割合が高いからだろう。

「『交通法規を守る』っていうのがね、当たり前だけどこれがロス原因になってるのは事実だね」

 それにしても竜児あんた体力落ち過ぎと、背筋を伸ばして緑濃い桜並木を見上げる大河がボ
ヤく夏休みの大橋高校正門前。
 高低差を考慮してゴールを坂の上のここに定め、住宅街を抜けて国道も渡る2040mの練習コ
ースを設定し特訓を開始したのが昨日のことで、攻略サイトを参考にぐぐるマップで正確な距
離を測って出したから練習にはなっているはずだった。

 横断歩道以外での道路の横断禁止、信号無視厳禁、他の歩行者や自転車の邪魔になる危険走
行も禁止等々、エクストリームスポーツならではの過酷なルールは竜児には厳しい。お年寄り
とすれちがったりする際にはどうしても驚かさないようゆっくり歩いてしまう性格と人相がど
うにも枷となっていた。
 対して子どもは元気がいちばん!と見られがちな小柄な大河は遠慮なくトップスピードです
り抜けができて、この差は大きいと、決して体力落ちじゃねえと竜児は言いたかったが、決ま
った行程では、18分を切らなければ再乗車は難しそうだから、抗弁しても意味がない。
 5人の中で自分がビリ、と言うのが恥だとはもちろん思っているが、それよりも荷物を乗せ
たまま乗り遅れるなんてドジを踏むのが竜児にはことのほか耐えられない。

「はーーっ、とにかくこれじゃラチが開かねえ。どこで道路渡っておくとか綿密なプラン練ってみる」
「そう?じゃ、三本目行く?」
「おう」

 お揃いのストップウォッチのひもを指にひっかけクルクル回しながら、短パントレシャツ姿
の大河が差し伸べ手を取って竜児は立ちあがった。もうなんか無造作にくるんと腕と腕を絡め
て手をつなぎ、肩をぶつけ、息を整えながらスタート地点へと歩き出した。

 特訓と称していても何のことはない。早朝のらぶらぶ散歩も兼ねているのだから深刻な雰囲
気のようでも実態はこんなもの。

「なあ、北村は楽勝として櫛枝や川嶋は特訓してるのかな?」
「みのりんは自主練でじゅーぶん!って胸張ってたよ。ばかちーは……あ、あれ?」
「ん?」

 坂下を曲がったところでばったり。噂をすれば影ってやつ。早朝とはいえ夏真っ盛りにサウ
ナスーツに身を包んだ川嶋亜美が向こうから走って来た。

「ほっほっほっほっほっほっ、お?」

 カチリと、自前のストップウォッチを止めて、プラス1分10秒くらいだからあ、うーんク
ッリアー♪などと機嫌よく独り言。道を横切ってふたりに近寄ってくると大河の頭に片肘をず
んと乗っけて休憩のポーズ。

「よ。おふたりさん。仲良く手ぇーつないで特訓?」
「重いよばかちー」
「あーら、逢坂さん、居たのお?ごめんごめん。ちっちゃすぎて見えなかったわー」
「おうっ、なんか昔懐かしい毒づきだな川嶋。お前こそ特訓なのか?」
「まっあねー」

 『ばっかくせー』とか言ってやがったくせにとぶつくさ言う大河に今度はやけに気易く、後
ろから両肩に肘を置き、うー重いってばーと暴れる大河をガン無視でおぶさるみたいな体勢に
なり、手を振り振り答えた。


「いやーねえ高須くん。よく考えたらちょうどいいダイエットになるじゃん?」
「ふーん。それでこのクソ暑いのにボクサーみたいなカッコして?」
「うん。ちゃんと朝ご飯食べてから休憩とって、それから数本ね。もう終わったら汗だく」
「前向きだな。なんかコツに気付いたんなら教えてくれねえか?」
「はあ?なに言ってくれちゃってんの?ずうずうしくない?これって勝負だよね?」
「そんなシビアな……」
「あれ?タイガー、まだ伝えてないの?」
「う、うん。なんとなく」
「なんだ?」

 ニマァ、と。
 それはもう意地悪そう〜な笑みを竜児に向けて亜美は語り始めた。

「ばっかくせーそんな汗っくさいイベント亜美ちゃん関わらなーいって言い続けたんだけどさ」
「おう、幹事だから荷物番してずっと乗ってるってことだったよな?」
「タイガーが一緒に走ろ走ろってうっさいのよ。食い付くと離さないのよ。虎じゃなくてスッポンよ」
「お、おう。……なんかわかる」

 手乗りスッポン……てのりっぽん……てのりん。あ、なんか愛称っぽい。
「なんですって?竜児」「いや……(てのりん……みのりんとコンビか)」

「だから振ってやったの。じゃ、あんた自分自身賭ける?ってね」
「は?」
「察し悪いなあ。高二のとき水泳勝負したじゃん?あれの裏バージョンよ」
「げっ!?」

 つまりあれか。これは俺と川嶋のサシ勝負?で、裏、ってことは俺が負けると大河を取られ
ると?なんだそれ?いい齢こいてばかくさくねえか?つか大河持ってって何すんだよ。意味わ
かんねえよ。
 と思いつつ大河の顔を見てみれば、なんだ冗談ぽくねえ。何でそんなに不安そうな顔する?

「りゅ、竜児が負けたらね?私ばかちーに、その……」
「お、おい?」
「えっちなことされるらしい」
「うっそくせぇーっ!!」
「うそじゃないよ?こどもじゃないんだからアレやコレやいろぉ〜んなことをタイガーに。ぐふ」

 どう考えてもうそだが。
 ただ、なんか一瞬でもそういう方向に意識が及んだら、あら不思議、いまいち乗り切れてな
かったこの体育会系イベントにマジで取り組もうという意欲が竜児にはふつふつと湧いてくる
のだ。そういえば10代最後の夏なのだし、学生らしいバカにどっぷり浸かってやろうじゃね
えかと。本気で。

「うそくせえが、それは聞き捨てならねえなあ?」

 ニヤァ、と。
 それはもう恐ろしい表情を亜美に向けて、受けてやる、と言い放つ。

「そう来なくっちゃ。ああ〜ばかちーがアダルトショップでディルドウとか買ってたらどうする?」
「いい笑顔で濃ゆい妄想すんじゃねえ。貞操帯でも買っとけ。カギ預かっておくから」
「お、おかずになる?」
「あほか」
「ギャグボールのケチャップ煮!……なに言ってんだ私、ナイスセルフツッコミ」


「ん?そのテのグッズなら知り合いから卸値で買えるよ?紹介しようか?」
「……いや。現実にリンクさせなくていい。それより川嶋はタイムどのくらいなんだ?」
「あたし?17分を切るのが現在の目標。あと1キロ落とせばたぶんクリア」
「うーん。やべえ……」

 ネタと妄想と現実とがごっちゃになりかけて一層おどろおどろしい顔になる竜児に、ほらナ
イーブになってんじゃないよと、大河の軽〜いミドルキックが尻にパシンと。

(……てのりんキック)

 ネジが自分の頭から跳んで路上に落ち、澄んだ金属音を立てるのを確かに聞く。

「じゃ、高須くん。正々堂々と陥れあって勝負しようね!」
「おう!どっちだよ?知力体力時の運だ」
「万が一あたしが負けたら賞品あげる」
「お、そういやそうか。一方的に不利な賭けに乗るとこだった。で、何くれるんだ?」

 亜美はモジモジしている大河を見下ろしておもむろに。

「うちの叔父さんがお歳暮にもらって凍り続けている特選松坂牛5キロ」
「おうっ!?と俺は思わず呆れて同時に大河を見下ろした……いけねえ、動転してト書き喋っちまった」
「ま、あとは二人で揉めてね。じゃーねぇん♪」

 ほっほっほっほっほっほっ。トレーニングの続きに戻って坂を駈け上がる亜美をあっけに取
られながら見送った竜児の視線が今度は本当に落ちる。頬を紅潮させて胸前で手を合わせ、上
目づかいでうるうると見上げる大河は美しく、ポニーテールを揺らせながらつややかな唇をわ
ずかに開いてもれる言葉。

 ――す……すき……なの。……すてき。竜児。

 ――おう……分かってるさ、大河。慈愛に満ちた凶眼の光り。

「すき焼きに、釣られたんだな……?ステーキも、だな?」
「うん……夏バテ予防に……まつざかさん……どーんん……」

 ぐきゅるるるるるるぅ〜〜っと、るるぅの部分がやけに長い音が聞こえて、そういや朝めし
まだだったなと竜児は思い出し、爽やかに明晰な意識の中に、献立を考えるべく肉など入って
ない自宅の冷蔵庫マップを広げにかかる。


――つづくっ!

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